私たち現代文明人は成長するにつれ、親から、親族から、教師から、学校から、社会から、職場から、あらゆる機会をつかまえては、非共感的な反応を身につけるように教育される。
子どもにそのような教育をほどこす親の、教師の、あるいは社会のニーズは、ひとえにこの競争・評価・効率を求められる現代文明社会のなかで自立し、うまく立ちまわり、生きのびていけるような人になってもらいたいがためであり、またそのことによって自分が安心できるからだ。
しかし、現代文明社会も急速に変質しつつあり、そのような戦略がかならずしも人を生きのびさせることに効果的だとはいえなくなっている。
いや、そもそも、非共感的なふるまいを身につける戦略は正しかったといえるのだろうか。
人が生きのびるためには、競争に打ち勝ち、人を打ち負かし、社会システムの中枢に食いこみも、富を囲いこむことが必要なのだろうか。
これはまるで、他国に侵略されないために恐怖におののいて武装を強化する戦略に似ているように思える。
武装を解き、無防備になり、心を開いて他国と交流しつながりを深めることこそが、最高の安全保障だというかんがえかたは、いまや非現実的であると打ち捨てることができなくなっている。
なぜなら、世界はそれほどお互いに接近し、また関係性も複雑になっているからだ。
人間も本来、それぞれが個性を持った複雑な存在であり、単一基準でだれかを評価したりラベリングすることはできない。
柔軟なコミュニケーションによってお互いを尊重しあい、それぞれが自立して生きる道を模索することはできるはずだ。
その方法を具体的にしめしているのが共感的コミュニケーションだ。
共感的コミュニケーションではお互いに共感しあい、お互いのニーズを尊重しあうコミュニケーションの方法を学び、練習するが、ときにそれがむずかしいと感じたり、あまりに現実的ではないと思えて挫折してしまったりする人も多い。
とくに家族や友人、恋人、パートナーといった身近な関係だと、コミュニケーションの方法がパターン化していて、共感的なコミュニケーションへと移行するのがむずかしく感じることがある。
また、そのパターン化したコミュニケーションの方法そのものに安心をおぼえるという心理も働いてしまう。
そこから抜けだし、関係の質をシフトさせていくには、自分がまず、身につけてしまっている非共感の鎧を脱ぎ、正直で無防備な素の身体になる必要がある。
それは本来、私たちがもともと持っているものだ。
「非共感の鎧」とは、人を決めつけ、評価し、判断し、分析し、避難し、アドバイスし、同情し、つまりこちらの思考で相手のことをあれこれかんがえてやってしまう反応のことだ。
「非共感の鎧を脱ぐ」というのは、ただそれらの思考・判断を捨て、「いまここ」の飾らない自分自身そのものに立ちもどり(マインドフル)、相手をただ受けとる、それだけのことだ。
おさない子どもはみんなそれができている。
おさない子どもをよく見ることで、彼らから学ぶこともできるだろう。
そうやって見えてくるのは、共感のキーワードは「マインドフルネス」だろうということだ。
◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(9.16)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を9月16日(水)夜におこないます。