2010年12月17日金曜日

人の命の鮮度と向上

ひとりの少女が生まれてから10歳になるまでの写真を連続的につなぎ合わせて、動画のようにしたのをネットで見た。それを見て感じたのは、10歳といえど生まれた瞬間から人はすでに劣化に向かって進んでいくのだな、ということだった。
プルプルのはちきれそうな赤ちゃんが、成長するにしたがって彫りが深くなり、骨張り、表情も静まり、だんだん大人の顔に近づいていく。10歳なんてまだまだ子どものように思うが、あらためて見ると生まれた瞬間からはずいぶん遠いところまで来ているのだ。
車だって10年も休みなく毎日使っていれば、相当ポンコツになる。
人に限らずすべての生命は、生まれた瞬間から劣化しはじめている。種によって、あるいは個体によってその寿命に差があるにせよ、生まれ落ちてからゆるやかに死に向かって生命の劣化の旅をしている。

そのように日々鮮度が失われていく命を私たちは生きているわけだが、人間はただみずからの劣化に身を任せて無為に死に向かっていくようにはできていない。人間は社会的動物であり、想像力を持っているため、自分以外の事物にたいしても思いをはせることができるからだ。
自分が死んだあとの子どもや愛する人のことを思い、少しでもよかれと思うことをする。自分を含む多くの人たちが生きていく社会が少しでもよくなることを願い、自分ができることで貢献しようとする。それをおこなうために、学習と鍛錬を自分に課すことをする。
それは命の鮮度の劣化との絶えまない闘いといっていい。
衰える筋肉を鍛える。衰える思考能力や記憶をふるいたたせる。衰える感受性をみずみずしく磨きつづける。涙ぐましい努力であり、時間に対する抵抗でもある。
もちろんそんな面倒なことはしないという人はたくさんいる。それはそれでいいし、否定するものではない。
自分を表現し、社会と関わり、相手や社会の変化に関わろうとする人は、日々劣化との闘いをおこなっている。なぜなら、昨日より今日、今日より明日の自分が、ほんの一歩でもいいから前に進んでいたいからだ。

私はピアノを弾くが、毎日、必ず一度は鍵盤の前に座り、音階練習をやる。なぜなら、やらなければ指は確実に動かなくなるからだ。
1日さぼると、その劣化を取りもどすのに三日はかかる。毎日やれば、劣化は食いとめられる。
さらにいえば、劣化を上回っていきたいのだ。
そのためには「これでいい」という、さらに上のレベルで毎日トレーニングしていきたい。そうやって続けていくことで、劣化を上回って向上していくことも可能になる。げんに私は、ピアノ弾きで食い扶持を稼いでいた20代のころよりいまのほうが演奏技術は上だろう(当社比)。
毎日の努力は苦痛でもあるが、それ以上に喜びでもある。昨日より今日のほうがより向上している自分を確認できることが、表現する者の自信となる。その努力が喜びに結びつかない者は、表現者としては不向きだろうと思う。