2010年12月28日火曜日

芸術は分類されたものを再融合させる

レヴィ・ストロースの『野生の思考』に、
「分類は、つねにその極限にまで進みうるものである。その極限をきめるものは、あらゆる分類は対比を二つずつ組み合わせて行われるとする暗黙の公理である」
とある。
人間は放っておけばものごとを分類したがる生き物であるらしい。
その極致が博物学や科学であり、また学問だろう。
表現行為も「評論」や「商業システム」によって極限まで分類されていく。たとえば音楽。クラシック、ポップス、民族音楽、などという分類がさらに細分化され、ロックのなかのハードロックのなかのなんとかロックのなんとか系……
CDショップに行けば(もう長らく行ってないけれど)ジャンルごとに細かく分けられた棚が並んでいて、ミュージシャンはそこに押しこめられている。もちろんこのほうが売るのに都合がいいからだし、買う者もそれを目安にして買いたい音楽を選んでいる。
消費者も表現コンテンツがそのように細かくジャンル分けされていることに、便利でこそあれ違和感を覚えることはない。世の中全体がそのような「システム」化されていて、ほうっておけばそれはどんどん進んでいく。そのことが長く続く社会システムの「閉塞感」を強めていく。

ほうっておくと、と書いたが、ではだれがほうっておかずにこれに抵抗するのだろう。分類され、細分化されて風通しの悪くなった社会に、ふたたび風穴をあけ、さまざまなことを融合させ、あらたな視界を開いていく者はだれなのか。
それが芸術家であり表現者なのだろうと思う。

芸術や表現行為の重要な役割のひとつに、まったく異なるものをひとつに融合させてみせる、ということがある。
わかりやすい例では、シュルレアリズムという芸術運動がある。ぐにゃりとゆがんだ時計や、か細く長い脚の象を描いたダリの絵は、だれもが知っている。
あるいは美術館に展示された男性用便器でもいい。これらはそれまでの風景とはまったく別の視界を人々に提示し、与えてくれた。その作品を見る前と見た後とでは、私たちは世界の見え方が少しだけ変化するのだ。見えていなかったものが見えてきたりすることもある。

分類という行為は、ものごとのディテールに踏みこんでいく作業だが、融合はその逆だ。異質なものをわしづかみにし、異質なものであふれている世界の見え方を再構成する行為。
世界は日々更新されており、閉塞などしていない。分類によって閉塞「感」だけが蔓延していく。
芸術や表現行為は分類され、分節化された世界を、再融合してあらたな世界観を提示していく。そのことによってしか時代時代の閉塞感は打ち破ることはできないのだ。