まずは呼吸法から。
音読療法にもほぼおなじプロセスのものが流用されているが、ここでは健康法というより自分自身の流動的な身体変化を観察するためにおこなわれている。
現代朗読協会の立ちあげ時からともに学びつづけている野々宮がリードして、参加者たちと呼吸法をやってくれている。
皆が春野亭のリビングのフロアに輪になって立ち、大きく息を吐いたり吸ったりしているのを見ながら、私はわきのテーブルにすわって気がついたことがあれば口をはさんだり、ラップトップに向かってテキストを入力したりしている。
身体の変化を観察するのは、表現するための自分の身体に繊細な感受性を向け、注意深くありつづけるための練習としてだ。
このかんがえかたと方法にたどりつくのに、何年かかかった。
多くの参加者の協力をもらいながらここにたどりついた。
今日も都区内や都外の遠方から、あるいは近隣から、何人かの参加者が国立の私の現在の活動拠点である春野亭まで来てくれている。
みんなが表現のための練習や実践をしているかたわらで、私は自分のペースでこれを書いている。
自分のいる場所があり、受け入れてくれる人たちがいて、やりたいことがある。
なんて幸せなことなんだろうと思う。
私が書くものはブログやコメントや雑文ばかりではない。
小説家なので——20代後半から職業的にやってきた——小説や詩などのまとまったテキストも書く。
長いものもあれば短いものもある。
かつては長いストーリーを書いて商業出版社から出版し、書籍流通ルートに乗せてメシの種にしていたこともある。
いまはそれはしない。
いつのころからか、だれかに朗読してもらうためのテキストを書くことが多くなってきた。
またそれが楽しみにもなった。
私が書いたものをだれかが朗読する。
テキストという静的な記号群が、音声という空間と時間に関わる表現に変化する。
音声は生身の肉体から発せられ、そこには朗読者という生命存在がある。
私は朗読者のかたわらに行き、おなじ空間/時間軸のなかで表現行為にかかわる。
ときに演出で、ときに音楽演奏で。
私たち生きている存在は、モノではなく、たえず変化し移り変わりゆくいわば現象である。
私はいまこの瞬間、自分自身という現象を見、その現象に付きあう。
あなたという現象を見、その現象と交流する。
現象はいずれ消えゆくものであるけれど、いまこの瞬間、たしかにそれはここにあらわれている。
人の生きる目的はいろいろとはいえ——人によってはそれが明確だったり希薄だったりする——生きる過程そのものを味わうこともできる。
そのときが来るまで自分という現象を味わい、表現しつづけたい。
(おわり)