治療方針についてはすでにかんがえてあったので、返事は、
「とくに治療はしません」
と伝えるだけだった。
標準的な治療としては抗ガン剤をおすすめするが、なにもしないとなればこのあとの「最後をどうすごすか」について周囲ともよく話し、決めておく必要がある、と担当医からいわれる。
食道周辺のガン部位は放射線治療でかなり効果をあげることができたが、放射線がとどかない腹部の大動脈脇の転移リンパ腺腫については増大しているので、部分的な照射治療もありうる。
ただ、転移は全身のどこにおよんでいるかわからないので、その部位を治療したからといって根治するわけではない。
抗ガン剤治療ももちろん根治するわけではない。
そのような説明をうけた。
私が行っている多摩総合医療センターは大きな病院だが、緩和ケア病棟はないらしい。
もちろん緩和ケア治療はおこなえるが、ホスピスはない。
ホスピスは手続きにしても入院するにしても「待ち」が長くなることが多いので、早めに手を打っておいたほうがいい、ということで、年明けにケアマネージャー(だっけな?)と相談してアドバイスをもらうことになった。
腰痛がつづいているので、腰椎への転移がないかどうか、骨シンチグラムという検査を来週受けることになった。
治療しないといっても、いろいろと展開ややることが出てくるものだ。
■職業作家になる
私の長編デビュー作は1986年に徳間ノベルスから刊行された。
刊行される前に驚くようなことが起きた。
担当編集者が机の上に置いてあった私のデビュー小説のゲラ刷りを、たまたま用事で編集部に来られていた筒井康隆先生が見つけて、「読ませろ」といって持っていったというのだ。
そればかりか、頼まれてもいないのに、400字詰め原稿用紙に2枚の推薦文を書いて、送ってきてくれた。
その推薦文はそのまま、新刊の帯に掲載された。
直筆原稿はいまでも私の手元にある。
長編小説が刊行される前に、『SFアドベンチャー』に数本、短編SFを書いた。
雑誌掲載用の短編を書いたり、デビュー長編を書きなおす過程で、編集者からずいぶんたくさんの注文や書き直しを命ぜられ、私はかなり鍛えられた。
ちょっとめげそうになるくらい厳しく指導された。
しかし無事にデビュー長編が刊行されることになった。
それは夏のことで、徳間書店の旧社屋には、入口をはいると宮崎駿監督の新作アニメ映画「天空の城ラピュタ」のポスターがベタベタ貼ってあったのをよく覚えている。
そのとき私は29歳になったばかりだった。
ピアノ教師は、一部の大人の生徒をのぞいてやめてしまった。
子どもたち相手にピアノを教えるのは、音大など正規のクラシック教育を受けなかった私にとって、ちょっとうしろめたいところがあったからだ。
子ども相手の塾の先生もやめた。
そうして私は商業職業作家としてのおよそ10年を、その後歩むことになった。