ライブイベントがふたつ終わり、私にとっては大きな区切りを感じている。
11月29日には渋谷総合文化センター大和田で「ラストステージ/事象の地平線」という公演をおこない、たくさんの人にお越しいただいた。
ダンスの矢澤実穂と朗読の野々宮卯妙の3人でおこなったステージで、私が食道ガンをわずらったことを知って実穂さんから、年内にぜひいっしょにやりたい、という提案をもらって企画された。
実穂さんはオーストラリア在住で、わざわざ帰国スケジュールを調整して来てくれた。
「ラストステージ」という名称も彼女がかんがえてくれた。
私も文字どおり、ライブステージとしては最後になるつもりで臨んだし、朗読テキストもこのために書きおろしたものだった。
ただ、名古屋でもおなじものを、という要望があり、実穂さんは参加できないが古くから朗読パフォーマンスを共にしてきた榊原忠美を迎えて、昼夜2回公演をやることになっている。
これがほんとのラスト。
11月30日には、その前から参加が決まっていたDV撲滅キャンペーンのための企画「パープルリボン・コンサート」に参加してきた。
参加が決まったのは夏前で、食道ガンがわかったときにこれに参加できるのかどうか不安だったが、主催側には「健康状況に応じて可能なかぎり」という条件をこころよく呑んでくれて、参加できた。
結果的には健康状態は良好で、元気に支障なくパフォーマンスをおこなうことができた。
大塚の音楽堂anoanoでの開催だったのだが、その前にボリュームたっぷりでしかも安価な天丼をしっかり楽しんだ。
ものを食べることにはなんの支障もなく、痛み止めを飲んでいるがそれは食道ではなく腰の痛みを抑えるためだ。
腰の痛みはおそらく、腰の大動脈脇のリンパ節に転移した腫瘍が増大しているためかと思われる。
全身への転移がどのように進んでいるのか、それはわからない。
■出版社から連絡が来た
話をちょっとはしょって、忘れてしまっていた投稿原稿がどうなったのか、そこまで時間を飛ばそう。
生徒数がけっこういる田舎町のピアノ教師としてやっていた私は、子どもだけでなく大人にも教えていた。
それに加えて、近所のちいさな本屋が子ども向けの塾をやっていて、そこの先生としても週に何日か頼まれていた。
そうこうするうちに、福井に民営のFMラジオ局が開局した。
それまではFM局というとNHK-FMしかなかったのだが、放送法の改正で全国の主要都市につぎつぎと民放FMが開局した時期で、FM福井もそんな局のひとつだった。
東京FMや愛知FMなどとおなじ系列の、JFNというラジオネットのひとつとして開局した。
私はピアノや塾の先生をしながら、福井でも演奏活動をたまにやるようになっていて、とくにフリージャズや前衛美術パフォーマンスの人たちとつながりが生まれていた。
あるとき、その活動のひとつとして商店街のイベント企画でドラマーと演奏することになり、そのイベントが開局したばかりのFM福井の情報番組で紹介されることになった。
私はのこのことラジオ局に出かけ、その情報番組に出演して、イベントの紹介やら、自分自身のことを話した。
どうやらそれをおもしろがってもらえたようだ。
たしか「週末情報パック」という番組で、ディレクターは杪谷直仁、アナウンサーは黒原真理、パーソナリティとして名古屋のタレント事務所から俳優の榊原忠美が派遣されてきていた。
この人たちとはいまだにつながりがあるばかりか、この人たちとの出会いからはじまったことがいま現在の私の活動の核となっているといってもいい。
その番組が終わったあとも、私はちょくちょくFM福井に呼ばれて、番組製作の手伝いをするようになった。
いわゆる構成作家だが、それほどおおげさな意識はなく、膨大な量の新譜CDを好きなだけ聴けるのが、私にはうれしかった。
それが1985年のことだったと思う。
その秋口、近所の本屋の塾で子どもたちを教えていたとき、家から電話がかかってきた。
なにやら東京の出版社から本のことについて連絡があるので至急かけなおしてほしい、という内容だった。
要領をえなかったが、そのころの田舎住まいでは東京の出版社から直接本を取り寄せることもあったので、私には心あたりはなかったが、まあそんなことの連絡なんだろうなと思って、塾が終わってから家に帰ってメモにあった番号に電話してみた。
担当者は文芸書籍編集部・今井とあった。
電話をつないでもらうと、こちらの名前を確認したあとで、こんなことをいわれた。
「原稿を拝見しました。大変おもしろいので、ぜひとも弊社から出版したいんですが、いかがでしょう?」
たぶん私はぽかんとしてしまったと思う。
なんのことをいっているのか、とっさに見当がつかなかったのだ。
しばらくやりとりをしてようやく、原稿というのは何年か前、京都を引きはらう前に徳間書店に送りつけた小説原稿のことだと思いあたった。