2018年12月9日日曜日

韓氏意拳中級講習会で古(いにしえ)の體(からだ)に遭う

先日はタイミングが合ったので、新大久保まで行って、日本の韓氏意拳の総帥である光岡英稔導師の中級講習会に参加してきた。
中級とはいえ、韓氏意拳中級の教程にそって講習をおこなうわけではなく、中級の資格取得者向けにより踏みこんだ内容の稽古をする、という内容のものだ。

私はそもそも、中級教程そのものもまだ十分に稽古できているとはいいがたく、有資格者向けの講習会に参加するのはためらいがあったのだが、光岡先生の会はユーモアもまじえて参加しやすく楽しいものであった。
もちろん、光岡先生ならではの深い武術体系の知見を体験させてもらって、自分の身体のことではあるが、発見の連続だった。

とくに今回は武具(槍に見立てた長竿)をもちいた、韓氏意拳以前の武術体系にある式をやってみることで、身体がなにをいっているのか、なぜそうなっているのかを身体で実経験するという、日ごろのひとり稽古にも生かすことができるものをたくさん教示していただいた。

私が6年前に入門して以来、韓氏意拳では現代人が見失いがちになっている自分本来の身体そのものや、それが持つ能力を丁寧に整え、武術という行為に生かすことを稽古している。
たしかにいまの私たちは自分の身体があまりにも見えていない。
(なので、わざわざマインドフルネスの練習などというものが必要になってくる)
自分の身体が見えはじめると、その身体にそなわっている本来的な能力が発揮されてくる。

単純な「相手を押す」という動きでも、自分の身体が見えてくるだけで、まるで体重が一気に増えたかのような作用が自分と相手に生じたりする。
不思議なのだが、べつにオカルティックな話ではなく、たんなる物理作用の話だ。
これがおもしろくてたまらない。

習えば習うほど、稽古すればするほど、明治維新以降の近代教育のなかで私たちが失ってきたあまりの多くの貴重な身体のことを、あらためて知ることになる。
いまの、そしてこれからの私たちに必要なのは、まさにここにあるんじゃないかとすら思う。

韓氏意拳はあくまで武術体系だが、そこから得られたり気づいたりするのは、たんに武術にとどまらない。
私たちが生活し、働き、交流し、生きていくことそのものにかかわる、とても大切なことのひとつを教えてくれる。