2018年1月30日火曜日

共感的コミュニケーションにおける四つの共感モード

共感的コミュニケーションにおける三つの心がけ「AMO」について、イベント告知やYouTube映像などですでに紹介しているが、くわしくはあらためて書くとして、今回は「四つの共感モード」について書いてみたい。

共感的コミュニケーション(NVC)を学びはじめて間がなかったり、練習がかなり進んできたような人でも、ともすればおちいりやすい罠に、
「いつでも共感的であらねばならない」
という、一種の強迫観念に似た「自分教育」が生まれることがある。
相手に対しても自分に対しても、いついかなるときでも、つねに共感的であり、自分と相手を尊重し、思いやりをもってつながることをめざすことを「自分に強要」してしまう。
しかし、そんなことはなかなかむずかしいし、つらい。

もちろん、それは共感的コミュニケーションがめざす世界であり、姿勢であり、理想ではあるが、共感にもさまざまな「濃さ」や「姿勢」や「ベクトル」があるということを、ここでは説明しておきたい。
以下は私の経験から得られた分類であって、マーシャル・ローゼンバーグがそのようにいっているわけではないことをお断りしておく。

共感的世界にもいくつかの「モード」があって、私はそれを四つに分けている(現時点で)。

 1. 積極共感
 2. 表現共感
 3. 文字共感
 4. 縁側共感

「積極共感」は自分と相手のニーズにつながり、お互いにそれを大切にしあうことに意識を向けるモードだ。
みなさんがNVCのワークショップや講座、リトリートなどで普通に学ぶ姿勢だ。
共感的コミュニケーション(NVC)を学んだりトレーニングするというのは、ふつうにこのモードをさすだろう。

「表現共感」は、自分がなにかを表現することを通じて自分自身と深くつながり、またその結果としてコミュニケーションが生まれ、お互いに評価を離れてつながりあうモードをさす。
音楽でも美術でも演劇でも、なんでもそうなのだが、いざ自分を表現しようとするとき、そこにはさまざまな恐れや痛みがあったり、ニーズが見え隠れしていることに気づく。
それに向かい合うことで、自分につながり、自分の本来的ないきいきさを取りもどしたり、のびやかに能力を発揮することをめざす練習をする。
私が現代朗読ゼミや身体文章塾でみなさんといっしょにトライしていることだ。


「文字共感」は、文字通り文字で――テキストで共感的コミュニケーションを試みることだ。
メールやSNSでのメッセージのやりとりでは、しばしば誤解、行き違い、対立が生まれることを経験している人が多いだろう。
書いたことの意図が伝わらない、「そんなつもりで書いたんじゃない」と憤慨してしまうような受け取り方をされてしまう、あるいは相手がなにを伝えようとしているのかさっぱりわからない、そういうことが起こる。
テキストという非常に限定された情報交換において共感的に相手とつながり、理解しあう試みをするモードが、この文字共感だ。
これはいままでしばしば「難しい」といわれてきたし、私もそう思っていたけれど、トライしてみる価値はあると最近感じはじめている。
これについては本を一冊書きたいと思っているくらいだが、とりあえずは共感文章講座でのワークでみなさんと確かな体験を共有しているところだ。

最後の「縁側共感」は、ごく最近気付いた共感的身体のモードだ。
縁側で日向ぼっこしながら、編み物したり料理の下ごしらえをしたり、あるいは子どもが自分の宿題をしたりと、お互いが自分のことをしながらもなんとなくお互いに耳を傾けている。
けっして向かい合うわけではないが、受け入れあっていて、それぞれが「そこにいる」という自然な安心がある状態。
積極的な共感ではないが、自然でありのままで、とても心地よいあたりまえの共感的な関係。
特別なことではなく、ごくありふれて日常のなかでそのようなモードでいられればいいと思う。

これら四つのモードを使い分ける、というより、時と場合に応じて自分が必要な共感のモードにスッとはいっていくことができれば、共感にあふれた世界を創造していくことができるのではないだろうか。

四つのモードにはそれぞれの練習方法がある。
根幹には共感的コミュニケーション(NVC)という原理がいずれも働いているのだが、その働きの方向や強さが異なっている。
そのことをうまくつかまえて、効果的な練習をおこない、共感力を身につけていくことができれば、人生はずいぶんいきいきとするのではないかと私は思っている。

1月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。