ことあるごとに、あちこちで話してきたことだが、あらためて書いておきたい。
以下に書くことは、どうやら、一部の人にとってはとても理解しづらい、受けいれがたい、頭でわかった気になっても本当には消化できないことらしいのだけれど。
話をわかりやすくするために、具体的な例をあげてみることにする。
例えば、いま私は、ピアノのコンサートを開催しようとしている、とする。
会場を押さえる、宣伝チラシを作る、告知をする、予約の受付などの事務仕事をする、もちろん演奏曲目の準備をして練習をする。
当日は会場スタッフと打ち合わせをして、音響や照明など会場の準備をしたり、受付や客席整理をだれかに頼んだり、場内アナウンスをお願いしたり、といったことも必要だ。
そういったこともろもろを勘案して、入場料を設定する。
つまり、私がピアノを演奏するという表現の場を成立するための経費を、ご来場いただく方に分担してご負担いただくわけだ。
しかし、そうはかんがえない人がたくさんいる。
入場料は自分が享受すべき「演奏を楽しむ」という行為にたいする等価交換としての対価だとかんがえる人が、まだまだいる、ということだ。
「この程度の演奏だったら500円でいいよね」
「こんなすばらしい演奏なら1万円払っても惜しくはない」
そのように、演奏クオリティについて評価・ジャッジをくだし、それにたいして設定された入場料が高いとか、安いとか判断する人がまだまだいる、ということを実感している。
資本主義社会に暮らしている以上、それはある程度、やむをえないことかもしれない。
資本主義社会においてはすべてのモノやサービスや表現に値段がついている。
値段の決め方はさまざまで、マーケット(受益者)がそれを決める場合もあれば、提供者が決める場合もある。
いずれにしても、なんらかの評価方法にもとづいて値段が決まる。
私のピアノ演奏についても、それがもし「売り場」に提供されるなら
、なんらかの方法で値段が決まる。
買う人が何人いるのか、どのくらいの元手がかかっているのか、利益はどのくらい設定するのか、そもそも売れるのか、売れないのか。
売れない、となれば、それは「商品」としての価値がゼロになる。
つまり「売り場」から退場させられる。
資本主義社会では「売り場」にそれが出ているかどうかが重要であり、その値段が高ければ高いほど、多くの人に買われれば買われるほど、値打ちがあるのだ。
私は自分の演奏に値段をつけられるのは嫌だ。
自分の演奏は自分の生命活動のあらわれとして表現されたもので、それに値段をつけるというのは、私の命の値段をつけられるのとおなじことだ。
しかも他人によって。
同時に、私も人の命に値段などつけたくない。
だれかの表現を金銭価値に換算して評価などしたくない。
しかし、げんに我々は資本主義社会に生きているではないか。
いや、本当にそうなのだろうか。
私たちの社会は資本主義という構造しか持っていないのだろうか。
山の道ばたに咲いている花は資本主義社会とは関係なく、値段も定まっていないけれど、それは価値がないものなのだろうか。
道ばたの花がなくなると寂しく思う人は、道ばたの花が絶えないようになんらかの労力を使ったり、運動したりするかもしれない。
そんな構造も社会のなかにはある。
猫を飼っていて、毎月餌代やらなにやら、お金がかかる。
あなたはその対価に見合うだけの見返りを猫から受け取っているから、猫を飼っているのだろうか。
そんなはずはないだろう。
等価交換ではありえないものを受け取っているはずだし、必要とあれば可能なかぎり、あるいは可能な以上にお金を使うことだってあるはずだ(病気になったとか)。
人と人が出会うには「場」というものが必要で、そこではコミュニケーションや表現がおこなわれる。
その「場」の維持のためには経費がかかるし、場を作る人にも生活がある。
また場を作るスキルを育てるための費用や労力も必要だ。
それらをその場に参加するみんなで負担してもらおう、という考えかたを私はしたいと思うのだ。
演奏者対観客ということではなく、演奏者も観客もその場に参加する者であり、等価交換の場でもない、ということだ。
しかし、場の維持存続には当然経費もかかるし、それにたずさわる人の生活の持続や安心もある。
それらを理解した上で、提示された参加費を参加者が気持ちよく出せるかどうか。
時に金額が定められていないような場もあるけれど、そういう時も場の維持に尽力している人や場そのものに理解と尊重を払い、気持ちよく金銭的貢献ができるかどうか。
そういう考えかたの人が増え、そういう人たちが場を作ったり、参加したりして、等価交換ではない共感的なつながりの場が継続して維持できるようになったら、私はとてもうれしいだろう。
実際にやってみると、それはとても大変なことなのだということがよくわかると思うけれど。
◎朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。
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2016年4月2日土曜日
2016年4月1日金曜日
映画:ゴーストライター
2010年公開のロマン・ポランスキー監督作品。
ロバート・ハリスの小説『ゴーストライター』が原作。
元英国首相の自伝をゴーストで書くことになったライターの、ちょっとした苦悩を扱った映画でしょ、という先入観を持って、出だしだけ観てみようと思って観始めたのだが、途中でやめられなくなった。
これはもうけものの映画だった。
そりゃそうか、なにしろポランスキーだもんね。
巨匠と称されることの多いロマン・ポランスキー監督の作品といえば、有名どころでは「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」「テス」「戦場のピアニスト」などがある。
妻が惨殺されたり、少女への淫行容疑で逮捕されたり、国外逃亡したりと、私生活でも話題が多い。
しかし、なんといっても、映画作りの腕はすばらしい。
この「ゴーストライター(原作は「ゴースト」)」も、出だしからただの1カットも意味のないシーンはなく、配置されている小道具や風景もすべて意味がある。
ひょっとしてポランスキーが大がかりなセットを使うのは、作品に関係のないものがひとつでも写りこむのを避けるためかもしれない。
俳優の演技も計算しつくされていて、さぞかし何度もリハーサルして、また何度もカット撮りをして、ねらいすました演技を採用するのだろう。
主人公のゴーストライター役はユアン・マクレガー。
いま気づいたのだが、この配役には名前がないのではないか?
一度も名前を呼ばれていないし、本人もいわない。
元首相役のピアース・ブロスナンからはずっと「私のゴースト」と呼ばれている。
ユアン・マクレガーのなんとなくゆるい、パッとしない、しかし神経質なところもある飄々としたゴーストライター役の演技が、なかなかすばらしい。
ファンになってしまった。
そして、かつては「007」を演じたこともあるピアース・ブロスナンの元イギリス首相役も、なかなか食えない。
押しだしの強い、いかにもやり手の政治家的な感じなのだが、ところどころほころびを見せる性格破綻的な部分や、人格的弱さをうまくちらつかせ、最後に明かされる意外な秘密を効果的にしている。
単純明快な、ある意味「ばか」っぽい007に比べると、ずいぶん複雑な演技になっていて、人は成長するものだなあと感慨をおぼえる。
女優陣も悪くない。
元首相の妻役はオリヴィア・ウイリアムス、秘書役のキム・キャトラル、いずれも魅力的なキャラクターを演じていて、楽しめる。
ショッキングなエンディングが用意されているが、もちろんここには書かない。
人によってはかなりショックを受けるかもしれない。
このあたりの作りも、さすがポランスキーというところだろう。
あ、そうそう、音楽もすばらしい。
アレクサンドラ・デスプラ。
「真夜中のピアニスト」「クィーン」「英国王のスピーチ」「グランド・プダペスト・ホテル」「真珠の耳飾りの少女」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ハリー・ポッター」、そりゃすばらしいわな。
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ロバート・ハリスの小説『ゴーストライター』が原作。
元英国首相の自伝をゴーストで書くことになったライターの、ちょっとした苦悩を扱った映画でしょ、という先入観を持って、出だしだけ観てみようと思って観始めたのだが、途中でやめられなくなった。
これはもうけものの映画だった。
そりゃそうか、なにしろポランスキーだもんね。
巨匠と称されることの多いロマン・ポランスキー監督の作品といえば、有名どころでは「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」「テス」「戦場のピアニスト」などがある。
妻が惨殺されたり、少女への淫行容疑で逮捕されたり、国外逃亡したりと、私生活でも話題が多い。
しかし、なんといっても、映画作りの腕はすばらしい。
この「ゴーストライター(原作は「ゴースト」)」も、出だしからただの1カットも意味のないシーンはなく、配置されている小道具や風景もすべて意味がある。
ひょっとしてポランスキーが大がかりなセットを使うのは、作品に関係のないものがひとつでも写りこむのを避けるためかもしれない。
俳優の演技も計算しつくされていて、さぞかし何度もリハーサルして、また何度もカット撮りをして、ねらいすました演技を採用するのだろう。
主人公のゴーストライター役はユアン・マクレガー。
いま気づいたのだが、この配役には名前がないのではないか?
一度も名前を呼ばれていないし、本人もいわない。
元首相役のピアース・ブロスナンからはずっと「私のゴースト」と呼ばれている。
ユアン・マクレガーのなんとなくゆるい、パッとしない、しかし神経質なところもある飄々としたゴーストライター役の演技が、なかなかすばらしい。
ファンになってしまった。
そして、かつては「007」を演じたこともあるピアース・ブロスナンの元イギリス首相役も、なかなか食えない。
押しだしの強い、いかにもやり手の政治家的な感じなのだが、ところどころほころびを見せる性格破綻的な部分や、人格的弱さをうまくちらつかせ、最後に明かされる意外な秘密を効果的にしている。
単純明快な、ある意味「ばか」っぽい007に比べると、ずいぶん複雑な演技になっていて、人は成長するものだなあと感慨をおぼえる。
女優陣も悪くない。
元首相の妻役はオリヴィア・ウイリアムス、秘書役のキム・キャトラル、いずれも魅力的なキャラクターを演じていて、楽しめる。
ショッキングなエンディングが用意されているが、もちろんここには書かない。
人によってはかなりショックを受けるかもしれない。
このあたりの作りも、さすがポランスキーというところだろう。
あ、そうそう、音楽もすばらしい。
アレクサンドラ・デスプラ。
「真夜中のピアニスト」「クィーン」「英国王のスピーチ」「グランド・プダペスト・ホテル」「真珠の耳飾りの少女」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ハリー・ポッター」、そりゃすばらしいわな。
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2016年3月31日木曜日
サーモンとほうれん草のミルクソース・パスタ
春スパゲティシリーズ、ふたたび。
【材料】二人分
・スパゲティ……180グラム
・サーモン……ひと切れ
・ほうれん草……軽く1束
・ミルク……100cc
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ、粉チーズ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、5mm強くらいの厚みでスライスしたしゃけ(サーモン)の切り身を入れます。
切り身は生でも火が通ったものでもかまいません。
表面の色が変わってきたら、3~4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入して、いっしょに炒めます。
火が通った切り身を使う場合は、切り身とほうれん草をいっしょにいれても大丈夫です。
炒めながら、塩とコショウを加えます。
サーモンに塩気が効いている場合は、塩はやや控えめにしておきます。
ミルクを加えます。
粉チーズを加えます。
好みに応じて、控えめにしたり、なしにしたり、あるいはたっぷり加えるなどしてください。
そこへゆであげたスパゲティをお湯を切って投入し、フライパンをゆすって全体を混ぜあわせます。
好みの皿に盛りつけて、いただきます。
色あいと香り付けで、あさつきの小口切りにしたものなどをトッピングしてもいいでしょう。
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・スパゲティ……180グラム
・サーモン……ひと切れ
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・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ、粉チーズ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、5mm強くらいの厚みでスライスしたしゃけ(サーモン)の切り身を入れます。
切り身は生でも火が通ったものでもかまいません。
表面の色が変わってきたら、3~4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入して、いっしょに炒めます。
火が通った切り身を使う場合は、切り身とほうれん草をいっしょにいれても大丈夫です。
炒めながら、塩とコショウを加えます。
サーモンに塩気が効いている場合は、塩はやや控えめにしておきます。
ミルクを加えます。
粉チーズを加えます。
好みに応じて、控えめにしたり、なしにしたり、あるいはたっぷり加えるなどしてください。
そこへゆであげたスパゲティをお湯を切って投入し、フライパンをゆすって全体を混ぜあわせます。
好みの皿に盛りつけて、いただきます。
色あいと香り付けで、あさつきの小口切りにしたものなどをトッピングしてもいいでしょう。
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2016年3月30日水曜日
本:長編小説『桟橋』(Kindle)発刊しました
かつてのケータイ公式サイト(いまもあるのかな?)「どこでも読書」で連載し、ご好評をいただいた長編小説『桟橋』を、このたびあらためて発刊しました。
自伝小説というわけでもありませんが、水城個人の青春時代の経験の多くが反映されている小説です。
時代背景も1977年前後、舞台は琵琶湖畔や京都です。
もちろん、インターネットもなければ携帯電話もない時代の話です。
Kindle版のみの発売となります。
価格339円です。
こちらからどうぞ(画像をクリックしてもジャンプします)。
自伝小説というわけでもありませんが、水城個人の青春時代の経験の多くが反映されている小説です。
時代背景も1977年前後、舞台は琵琶湖畔や京都です。
もちろん、インターネットもなければ携帯電話もない時代の話です。
Kindle版のみの発売となります。
価格339円です。
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アーティスト(表現者)とコミュニティ
長年、小説家とピアニストをやっているが、自分がそういう仕事をしていると伝えるとしばしば確認されるのが、
「プロなんですか?」
「それで食えてるんですか?」
ということだ。
多くの人にとっては、私が小説を書くことで生活が成りたっていたり、ピアノを弾くことで収入があることが、とても重要なことらしい。
前提として、小説家が小説を書くことで食えたり、ピアニストがピアノを弾くことで生活できるようになったのは、本当にごく最近のことであり、それもごくわずかな一握りの人であり、また現在をふくむ近い将来にはそのようなことはほとんど成りたたなくなっていくだろう、ということを踏まえておきたい。
多くの人に、本来自分にはなりたかったあこがれの職業があり、しかしどこかでそれをあきらめて現在の仕事につかざるをえなかったという無念さがある。
子どものころにはさまざまな夢を持っていて、プロ野球の選手になりたかった、Jリーガーになりたかった、小説家になりたかった、ミュージシャンになりたかった、漫画家になりたかった、パイロットになりたかった、そういったものをどこかであきらめた経験をほとんどの人が持っている。
なかには希望の職業につけた人がわずかながらいるかもしれないが、それとて思いえがいていたような生活とは違った苦難の連続だったりする。
私に「それで食えてるの?」と確認したがる人には、仕事にたいするなんらかの痛みがあるように感じられる。
彼らは私が本当にプロの小説家なのか、名前も聞いたことないじゃないか、ということで、その正当性を疑うのかもしれないし、また私が本当に小説家だとしたらあこがれの職業につけなかった自分とのあいだに不平等を感じるのかもしれない。
たぶん、正当性や平等などのニーズがあるのだろう。
私がピアニストとして生活をはじめた一番最初は、20代になったばかりのことだった。
また、職業小説家としてメジャーな出版社からデビューしたのは20代最後のときだった。
しかし、いまそれだけで「食えて」いるかというと、そうはいえないというのが正直なところだ。
文筆と演奏の仕事だけで生活が成りたっているわけではない。
前置きがずいぶん長くなってしまったが、ここからが本題だ。
近代になって、芸術家がアート表現の行為や作品を金銭価値と交換して生きていけるようになってから、ピアニストは演奏だけで、小説家は執筆だけで生活できることがなんとなく「正当」であるような雰囲気が広まっている。
たしかにそういう時代もあっただろう。
すでに前時代的な価値観だと私は思うけれど。
現代において、あるいは将来において、芸術家の役割が大きく変わりつつあると私は思っている。
たとえばピアニストは演奏だけでなく、自分自身の音楽というもののとらえかたや接し方を発信したり、場合によっては教育にたずさわったりすることも、あるいは芸術の立場から街づくりや行政や経済活動に関わったりすることも求められるようになっている。
そもそもピアニストが演奏によって対価を得ていた時代も、その対価を支払うのはそのピアニストのファンという、いわば一種のコミュニティを成すレイヤーであった。
小説家もそうで、彼の作品(大量に複製された本)を買ってくれるのは、小説家あるいは作品のファン層というレイヤーであった。
アーティストにつながるレイヤーがよりコミュニティの色合いを強め、同時に多様性を持ってきているのが現代なのだと思う。
アーティストは演奏や作品だけでなく、さまざまな情報や関わり方を求められるし、逆に積極的に提案しながら社会に貢献することもできる。
あるアーティストを核とするコミュニティは、さまざまな立場の人たちという多様性を持ちながらも、そのアーティストの演奏や作品、思想、ひいてはありようそのものに共感する人たちのコミュニティを形成し、そこからの支援、あるいはコミュニティそのものにたいする(場合によっては行政や企業からの)補助や支援によって、持続的に活動していくことになる。
いまやアーティストは、自分の表現活動というものを核にしつつも、それが発信される相手、人々、コミュニティ、世界へと視野を広げ、そのなかで自分の表現がどのような役割を持っているのか、あるいはどのような変革や影響の可能性を持ちたいのかを見極め、計画していくこともできる。
すくなくとも私は、自分の活動期の成熟期から晩年にむけて、そのようにコミュニティと関わりながら伝えきっていければ、と思っている。
自分という孤島にこもって、製作やトレーニングをおこたらないことも必要だが、ときには孤島から陸にあがって人々と関わることも大事にしたい。
そういうとき、あくまで自分らしく、いきいきと無防備でいられるための方法として、共感的コミュニケーションを身につけていることは、とてもありがたく思うのだ。
◎4月開催の次世代作家養成ゼミ(4.3/4.10/4.17/4.24)
身体性にアプローチするという斬新な手法でテキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための講座。オンライン(zoomシステム使用)のみのクラスで、単発参加も可。
2016年3月29日火曜日
映画:裏切りのサーカス
2011年公開のこの映画は、フランス、イギリス、ドイツの合作とのこと。
原作は私も大ファンのジョン・ル・カレの小説『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』で、映画とはまた別物の味わいがある。
ともあれ、小説はおもしろいんだけど、難解。
小説とはちがって、ストーリー性とビジュアルが打ち出される映画は、きっといくらかわかりやすくなっているだろうと思っていたけれど、裏切られた。
監督はトーマス・アルフレッドソンという知らない人。
私はつねづね「潜水艦映画に駄作はなし」という主張をしている者だが、スパイ映画についても半分くらいはそういってもいいかなと思っている。
この「裏切りのサーカス」もじつに切れのいい、見ごたえのある「絵」の連続する、複雑な、緊張感のある、引きしまった映画だ。
監督のことはよく知らないが、とにかく「絵」を作るのがうまい。
どのシーンをとってみても、「緩」は緩なりに、「急」は急なりに、ぴたりと決まる絵を作って、たたみこんでくる。
気持ちがいい。
しかし、ストーリーやカットバックが複雑に入れこんでいて、難解でもある。
この難解さは、小説の難解さを映画でも表現しようと試みているということだろうか。
俳優陣もなかなかすばらしい。
ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、トム・ハーディ、ベネディクト・カンバーバッチ、などなど。
いずれも渋い演技を見せてくれている。
そういえば、女優がほとんど出てこないな。
一度観たくらいではストーリーも理解できないし、見逃しているシーンやおいしい「絵」もたくさんあるはずなので、二度、三度と観たい映画だ。
複雑さ、わからなさを楽しめる人におすすめ。
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原作は私も大ファンのジョン・ル・カレの小説『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』で、映画とはまた別物の味わいがある。
ともあれ、小説はおもしろいんだけど、難解。
小説とはちがって、ストーリー性とビジュアルが打ち出される映画は、きっといくらかわかりやすくなっているだろうと思っていたけれど、裏切られた。
監督はトーマス・アルフレッドソンという知らない人。
私はつねづね「潜水艦映画に駄作はなし」という主張をしている者だが、スパイ映画についても半分くらいはそういってもいいかなと思っている。
この「裏切りのサーカス」もじつに切れのいい、見ごたえのある「絵」の連続する、複雑な、緊張感のある、引きしまった映画だ。
監督のことはよく知らないが、とにかく「絵」を作るのがうまい。
どのシーンをとってみても、「緩」は緩なりに、「急」は急なりに、ぴたりと決まる絵を作って、たたみこんでくる。
気持ちがいい。
しかし、ストーリーやカットバックが複雑に入れこんでいて、難解でもある。
この難解さは、小説の難解さを映画でも表現しようと試みているということだろうか。
俳優陣もなかなかすばらしい。
ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、トム・ハーディ、ベネディクト・カンバーバッチ、などなど。
いずれも渋い演技を見せてくれている。
そういえば、女優がほとんど出てこないな。
一度観たくらいではストーリーも理解できないし、見逃しているシーンやおいしい「絵」もたくさんあるはずなので、二度、三度と観たい映画だ。
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2016年3月28日月曜日
喫茶 茶会記イベント「5years」におけるパフォーマンス「繭世界」
豚バラ丼
「ひらぼくさんげんとん」とかいうよい豚バラ肉を入手したので、料理してみた。
ところで「ひらぼく」というのは「平田牧場」のことで、「さんげんとん」というのは「三元豚」すなわち3種類の品種の豚を掛け合わせた食用豚のことらしい。
いずれもありがたいものらしいが、よくわからない。
たしかにおいしい気はする。
というようなことをぼんやり書いていると、どこかから叱られるような気がするので、豚肉事情について詳しい人がいたら、ぜひ教えてください。
今日はあまり時間がなかったので、非常に簡単に手早く作れるレシピに挑戦してみた。
【材料】二人分
・豚バラ肉……160グラムくらい
・ご飯……2杯
・白ネギ……10センチくらい
・京水菜……5、6本
・しょうが……ひとかけ
・サラダ油、塩、コショウ、みりん、醤油、ごま油
フライパンにサラダ油(大さじ1)と、みじん切りまたは薄切りにしたしょうがをいれ、弱火にかける。
しょうががジュワジュワいって香りが出てきたら、火を中火にして、斜め薄切りにした白ネギをいれる。
白ネギがしんなりしてきたら、薄切りにした豚バラ肉をいれる。
最初から薄切りになっているバラ肉でもいいが、薄すぎるきらいがあるので、かたまりのバラ肉を自分で薄く切ったほうがいい。
厚みも好みで調節する。
全体に塩、こしょうをして炒める。
つづいて醤油(大さじ1)、みりん(大さじ1)をくわえて、炒めあわせる。
最後にごま油(小さじ1)をくわえて香りをつける。
仕上がりの味つけがちょっと濃いめになるようにするのがコツ。
器にご飯を盛り、その上に具を乗せる。
生のまま2センチくらいの長さに切った京水菜を盛りつければ、完成。
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ところで「ひらぼく」というのは「平田牧場」のことで、「さんげんとん」というのは「三元豚」すなわち3種類の品種の豚を掛け合わせた食用豚のことらしい。
いずれもありがたいものらしいが、よくわからない。
たしかにおいしい気はする。
というようなことをぼんやり書いていると、どこかから叱られるような気がするので、豚肉事情について詳しい人がいたら、ぜひ教えてください。
今日はあまり時間がなかったので、非常に簡単に手早く作れるレシピに挑戦してみた。
【材料】二人分
・豚バラ肉……160グラムくらい
・ご飯……2杯
・白ネギ……10センチくらい
・京水菜……5、6本
・しょうが……ひとかけ
・サラダ油、塩、コショウ、みりん、醤油、ごま油
フライパンにサラダ油(大さじ1)と、みじん切りまたは薄切りにしたしょうがをいれ、弱火にかける。
しょうががジュワジュワいって香りが出てきたら、火を中火にして、斜め薄切りにした白ネギをいれる。
白ネギがしんなりしてきたら、薄切りにした豚バラ肉をいれる。
最初から薄切りになっているバラ肉でもいいが、薄すぎるきらいがあるので、かたまりのバラ肉を自分で薄く切ったほうがいい。
厚みも好みで調節する。
全体に塩、こしょうをして炒める。
つづいて醤油(大さじ1)、みりん(大さじ1)をくわえて、炒めあわせる。
最後にごま油(小さじ1)をくわえて香りをつける。
仕上がりの味つけがちょっと濃いめになるようにするのがコツ。
器にご飯を盛り、その上に具を乗せる。
生のまま2センチくらいの長さに切った京水菜を盛りつければ、完成。
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2016年3月27日日曜日
水城ゆう初春のピアノコンサート@福井県立病院
北陸帰省、みつばち、ピアノコンサート
月曜日から北陸の実家に帰省していた。
日曜日が春分の日で、月曜日はその振替休日だったのだが、朝の山手線も京急線もかなり混んでいた。
羽田=小松便も満席だった。
私をふくめ大勢の人が行ったり来たりしている。
去年の夏、河川敷の近くの畑のかぼちゃの花に日本みつばちが来ているのを目撃していて、このあたりに日本みつばちがいるのはわかっていた。
羽根木の家の日本みつばちが全滅してしまったので、今年は野生の日本みつばちの分封群の捕獲を試みてみようと思いたった。
そこで、捕獲用の待ち箱をどこかに置けないか、調べてみた。
山に近いほうのうちの畑のわきに梅の木がある。
白梅で、いまちょうど満開をすぎようとしている。
なにげなくその花を見たら、なんと日本みつばちが十数匹たかっているではないか。
花に頭を突っ込んで、盛んに蜜を吸っている。
後ろ足には花粉団子もくっつけている。
このあたりで日本みつばちを飼育している人はいないはずなので、野生のみつばちだ。
つまり、うまくすれば、分封群を捕獲できるかもしれない。
試してみる価値はありそうだ。
この畑の脇と、もっと山のほうの山林に囲まれた知人の畑の脇にも置いて試してみよう。
山林は杉の植林が多いが、手付かずの雑木林もたくさん残っている。
そこのちいさな梅の木にも日本みつばちが来ているのが確認できた。
水曜日は福井県立病院のエントランスホールにあるグランドピアノを弾きに行った。
3か月に1回のペースでボランティアコンサートを開いているのだ。
病院に問い合わせてわざわざ聴きに来てくれる人も何人かいて、まずは知った顔にご挨拶する。
午後1時半、スタート。
まずは即興演奏、なにもかんがえずに、音が出てくるままに。
このホールは響きがよく、弾いていて気持ちいい。
聴衆も職員の方々もあたたかく迎え入れてくれる。
2曲め以降は日本の唱歌のメロディをモチーフにした即興演奏を、トークを交えながらおこなう。
みなさん、熱心に聴いてくれている。
なかには点滴のスタンドを脇に置いて聴いている入院患者の方も、何人かいて、付き添いの看護師さんもいっしょに聴いてくれていた。
1時間の演奏を終えると、さすがに集中していたものがほどけ、疲れを感じたが、聴いてくれていた何人かの人から声をかけられてうれしくなる。
この日はとくに、ピアノの先生で、子どもたちといっしょに音楽をやっているという女性が、「あまりにすばらしくてまだ帰りたくないです」といって、いろいろな話を聞かせてくれた。
越前市の高野さんという方だったが、またお会いできるといいなあ。
疲れたが、帰宅してから手打ちそばを作って食べる。
つなぎのない十割そばで、大根のおろし汁に醤油を割りいれたものと刻みネギだけでいただく。
絶品。
木曜日は朝からふたたび飛行機で、小松=羽田と飛び、東京にもどる。
今回、行きも帰りも、空からの景色がすばらしく、堪能した。
◎朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。
日曜日が春分の日で、月曜日はその振替休日だったのだが、朝の山手線も京急線もかなり混んでいた。
羽田=小松便も満席だった。
私をふくめ大勢の人が行ったり来たりしている。
去年の夏、河川敷の近くの畑のかぼちゃの花に日本みつばちが来ているのを目撃していて、このあたりに日本みつばちがいるのはわかっていた。
羽根木の家の日本みつばちが全滅してしまったので、今年は野生の日本みつばちの分封群の捕獲を試みてみようと思いたった。
そこで、捕獲用の待ち箱をどこかに置けないか、調べてみた。
山に近いほうのうちの畑のわきに梅の木がある。
白梅で、いまちょうど満開をすぎようとしている。
なにげなくその花を見たら、なんと日本みつばちが十数匹たかっているではないか。
花に頭を突っ込んで、盛んに蜜を吸っている。
後ろ足には花粉団子もくっつけている。
このあたりで日本みつばちを飼育している人はいないはずなので、野生のみつばちだ。
つまり、うまくすれば、分封群を捕獲できるかもしれない。
試してみる価値はありそうだ。
この畑の脇と、もっと山のほうの山林に囲まれた知人の畑の脇にも置いて試してみよう。
山林は杉の植林が多いが、手付かずの雑木林もたくさん残っている。
そこのちいさな梅の木にも日本みつばちが来ているのが確認できた。
水曜日は福井県立病院のエントランスホールにあるグランドピアノを弾きに行った。
3か月に1回のペースでボランティアコンサートを開いているのだ。
病院に問い合わせてわざわざ聴きに来てくれる人も何人かいて、まずは知った顔にご挨拶する。
午後1時半、スタート。
まずは即興演奏、なにもかんがえずに、音が出てくるままに。
このホールは響きがよく、弾いていて気持ちいい。
聴衆も職員の方々もあたたかく迎え入れてくれる。
2曲め以降は日本の唱歌のメロディをモチーフにした即興演奏を、トークを交えながらおこなう。
みなさん、熱心に聴いてくれている。
なかには点滴のスタンドを脇に置いて聴いている入院患者の方も、何人かいて、付き添いの看護師さんもいっしょに聴いてくれていた。
1時間の演奏を終えると、さすがに集中していたものがほどけ、疲れを感じたが、聴いてくれていた何人かの人から声をかけられてうれしくなる。
この日はとくに、ピアノの先生で、子どもたちといっしょに音楽をやっているという女性が、「あまりにすばらしくてまだ帰りたくないです」といって、いろいろな話を聞かせてくれた。
越前市の高野さんという方だったが、またお会いできるといいなあ。
疲れたが、帰宅してから手打ちそばを作って食べる。
つなぎのない十割そばで、大根のおろし汁に醤油を割りいれたものと刻みネギだけでいただく。
絶品。
木曜日は朝からふたたび飛行機で、小松=羽田と飛び、東京にもどる。
今回、行きも帰りも、空からの景色がすばらしく、堪能した。
◎朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。
2016年3月26日土曜日
安心して暴力的表現ができる関係
「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会でいつもくりかえし確認することだが、親密な間柄であればあるほど、お互いに満たしたい/満たしあっているニーズは多い。
リストアップしてみればわかるが、おどろくほど多い。
親密な人ともっとも親密な関係の行動をとっているとき以外で、これほど多くのニーズを満たすことのできる行為を、私は知らない。
しかし、だからこそ、ちょっとしたすれ違いがあったり、ニーズを満たしあえなかったりすると、関係にヒビがはいってしまう機会も多いといえる。
お互いにとても大切にしている間柄だからこそ、ちょっとしたことでギクシャクしてしまいがちなのだが、それをたえず修復したり、メンテナンスしておくことが大事だ。
もしあなたがとても気にいった家に住んでいるとしよう。
その家にいることが大好きで、快適だし安心だとする。
きっとあなたはその家を大事にして、せっせと掃除したり、どこか壊れたところがあればすぐに修理したり、より快適にすごせるようにいろいろと工夫しようとするだろう。
親密な相手との関係も、それと似ているかもしれない。
いつも掃除して、修復して、より快適で安心なつながりを持てるように工夫する。
その掃除道具として、修理のツールとして、共感的コミュニケーションはとても役に立つ。
「こんなことをいったら彼は怒るんじゃないだろうか」
「こうしておかないと彼女の機嫌をそこなうかもしれない」
などと、お互いの顔色をうかがってすごすより、まずは自分のニーズや感情にもとずいてのびのびと表現したり行動できること。
その結果、相手のなんらかのニーズがそこなわれて、感情的に衝突したり、対立が生まれるかもしれない。
しかし、共感的コミュニケーションで修復をこころみればいい。
壊れた関係や失われたつながりは、かならず修復することができる。
そこに共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)は信頼をおいている。
安心して表現しあえる関係であること。
好きなように怒ったり、嘆いたり、ぶつかりあったり、ジャッジしあえること。
そしてそうしたあとは、共感でふたたびつながりあえること。
共感的にお互いのニーズでつながりなおしたとき、その関係性は以前のものにもどるだけでなく、よりよいクオリティを生みだしているかもしれない。
◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。
リストアップしてみればわかるが、おどろくほど多い。
親密な人ともっとも親密な関係の行動をとっているとき以外で、これほど多くのニーズを満たすことのできる行為を、私は知らない。
しかし、だからこそ、ちょっとしたすれ違いがあったり、ニーズを満たしあえなかったりすると、関係にヒビがはいってしまう機会も多いといえる。
お互いにとても大切にしている間柄だからこそ、ちょっとしたことでギクシャクしてしまいがちなのだが、それをたえず修復したり、メンテナンスしておくことが大事だ。
もしあなたがとても気にいった家に住んでいるとしよう。
その家にいることが大好きで、快適だし安心だとする。
きっとあなたはその家を大事にして、せっせと掃除したり、どこか壊れたところがあればすぐに修理したり、より快適にすごせるようにいろいろと工夫しようとするだろう。
親密な相手との関係も、それと似ているかもしれない。
いつも掃除して、修復して、より快適で安心なつながりを持てるように工夫する。
その掃除道具として、修理のツールとして、共感的コミュニケーションはとても役に立つ。
「こんなことをいったら彼は怒るんじゃないだろうか」
「こうしておかないと彼女の機嫌をそこなうかもしれない」
などと、お互いの顔色をうかがってすごすより、まずは自分のニーズや感情にもとずいてのびのびと表現したり行動できること。
その結果、相手のなんらかのニーズがそこなわれて、感情的に衝突したり、対立が生まれるかもしれない。
しかし、共感的コミュニケーションで修復をこころみればいい。
壊れた関係や失われたつながりは、かならず修復することができる。
そこに共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)は信頼をおいている。
安心して表現しあえる関係であること。
好きなように怒ったり、嘆いたり、ぶつかりあったり、ジャッジしあえること。
そしてそうしたあとは、共感でふたたびつながりあえること。
共感的にお互いのニーズでつながりなおしたとき、その関係性は以前のものにもどるだけでなく、よりよいクオリティを生みだしているかもしれない。
◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。
2016年3月25日金曜日
水マガ 2016.3.24 映画:インフィニ
2015年のオーストラリア映画。
監督はシェーン・アベス。
私はこの人のことを聞いたことがなかった。
ストーリーは「エイリアン」「イベント・ホライゾン」「28日後」「バイオハザード」といったSFホラー映画の系統に属するもので、真似、もしくはパクリ、ということもできるだろう。
もっとも、ひとつのジャンルとしてこの手のものが確立しているような気もする。
生活困窮のために主人公は身重の妻をおいて、地球から遠く離れた惑星に出稼ぎに行くことを決意する。
スリップストリームという技術で遠い天体まで瞬間移動する術が確立されていたが、それにはリスクも伴うため、低所得者しかその労働には応じていない。
転送というとスタートレックを連想するが、映像的にはオリジナルな工夫がされている。
主人公がいざ転送されようとしたとき、予想外の事態が起きて、大惨事となる。
主人公は大惨事の原因となった基地へと、ただひとり、転送されてしまう。
ただちに救出チームが編成され、有能な兵士たちが主人公の後を追うが、そこには予想もしなかった事態が待ちかまえている。
ゾンビ的な感染ホラー、密室ホラー、宇宙空間、未知の生命体、人間の狂気と暴力、不安、家族愛、そういった定番の要素が詰めこまれたストーリーだが、オリジナリティがあちこちに散りばめられているところが拾いものかもしれない。
エンディングは「え、これで終わりなの?」という、ハッピーエンドなのかアンハッピーエンドなのか、解釈をオーディエンスに丸投げするような意外なものだ。
私はアンハッピーエンドと受け取ったのだが、ハッピーエンドと思う人もいるだろう。
そこのところは実際観てもらうしかない。
設定に甘さがあるとか、使い古されたアイディアであるとか、回収されていない伏線があるじゃないの、とか、いろいろいいたいことはあるが、まあこの手の映画は好きで、つい見ちゃうんだよなあ。
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水城ゆうの現在の活動にかかわるすべてのものについて、テキストコンテンツとして毎日配信するメールマガジンの登録はこちら。
監督はシェーン・アベス。
私はこの人のことを聞いたことがなかった。
ストーリーは「エイリアン」「イベント・ホライゾン」「28日後」「バイオハザード」といったSFホラー映画の系統に属するもので、真似、もしくはパクリ、ということもできるだろう。
もっとも、ひとつのジャンルとしてこの手のものが確立しているような気もする。
生活困窮のために主人公は身重の妻をおいて、地球から遠く離れた惑星に出稼ぎに行くことを決意する。
スリップストリームという技術で遠い天体まで瞬間移動する術が確立されていたが、それにはリスクも伴うため、低所得者しかその労働には応じていない。
転送というとスタートレックを連想するが、映像的にはオリジナルな工夫がされている。
主人公がいざ転送されようとしたとき、予想外の事態が起きて、大惨事となる。
主人公は大惨事の原因となった基地へと、ただひとり、転送されてしまう。
ただちに救出チームが編成され、有能な兵士たちが主人公の後を追うが、そこには予想もしなかった事態が待ちかまえている。
ゾンビ的な感染ホラー、密室ホラー、宇宙空間、未知の生命体、人間の狂気と暴力、不安、家族愛、そういった定番の要素が詰めこまれたストーリーだが、オリジナリティがあちこちに散りばめられているところが拾いものかもしれない。
エンディングは「え、これで終わりなの?」という、ハッピーエンドなのかアンハッピーエンドなのか、解釈をオーディエンスに丸投げするような意外なものだ。
私はアンハッピーエンドと受け取ったのだが、ハッピーエンドと思う人もいるだろう。
そこのところは実際観てもらうしかない。
設定に甘さがあるとか、使い古されたアイディアであるとか、回収されていない伏線があるじゃないの、とか、いろいろいいたいことはあるが、まあこの手の映画は好きで、つい見ちゃうんだよなあ。
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2016年3月24日木曜日
6月21日:水城ゆうピアノコンサート@福井県立病院
ご好評をいただいている福井県立病院でのソロピアノ・ミニコンサートのお知らせです。
どなたもよくご存知の日本の初夏の唱歌や童謡など、懐かしいメロディーを中心に、水城のオリジナル曲もまじえ、自由なアレンジでお送りする予定です。
どなたも自由にお聴きいただけます。
◎日時 2016年6月21日(火)13:30〜14:30
◎場所 福井県立病院受付ロビー(エントランスホール)
福井市四ツ井2-8-1
◎料金 無料
福井は私のふるさとですが、活動拠点を東京に移して以来、福井で演奏する機会はあまりありません。
今回も貴重な機会を大切にしつつ、みなさんとのトークを交えた気軽で楽しいコンサートにしたいと思っています。
ちなみに水城ゆう最新CDはこちらから聴けます。
ダウンロードしなくても全曲試聴できます。
純粋に相手に共感するために役立つ練習
最近、しばしば、共感カフェの参加者から、私がだれかに共感し話を聞いているその様子やありようそのものが学びになる、といわれる。
とてもうれしいことだが、どうすればそんなふうに純粋に相手に共感しつづけることができるんですか、練習法はありますか、と訊かれることがあったので、ちょっとかんがえてみた。
「練習法」と意識してやってはいなかったが、たしかに純粋な共感に役に立つことがあって、これは練習だったのかもしれないと思いあたるものがいくつかあったので、ふたつだけシェアしたい。
どちらも「マインドフルネス」という身体と意識の状態が関係している。
1. 自分の経験を相手の経験に重ねない
だれかの話を聞くとき、私たちはほとんど無意識に、その話とおなじようなことを自分も経験したことがないかどうか、記憶をさぐりにいく。
似たような経験を引き合いに出して、ついて相手もおなじような気持ちにちがいないと決めつけてしまうのだが、そうではなく、自分はこうだったけれど、いま相手のなかにはどんな気持ちやニーズが息づいているのだろうと、新鮮な目を向けてみる必要がある。
そのための練習として、自分の好みではないこと、苦手だと思っていることにあらためて挑戦してみる、というのがある。
たとえば好きではない食べ物があったとする。
この食べ物は苦手だ、という体験記憶があなたのなかにあって、実際に食べてみるときもその体験記憶を重ねているので、苦手意識から逃れることができない。
記憶から自分を切りはなし、マインドフルにいまこの瞬間自分がなにを受け取っているのか、どんな感じがするのかに注目して食べてみる、味わってみる。
それでも苦手かもしれないが、ひょっとしていまこの瞬間のあらたな発見があるかもしれない。
2. いまこの瞬間のニーズにつながって手放さない
共感を相手に向け、感情とニーズを聞きつづけていくとき、自分自身のニーズをついおろそかにしがちだ。
自分の側にもニーズがあり、そのために相手の話を聞きたくなっているわけだ。
こちら側のニーズは、たとえば相手の役に立ちたいとか、相手のなかにどんなニーズがあるのか知りたい、好奇心がある、といったものだ。
そこにつながってニーズを手放さず、ただ相手に純粋に共感しつづける。
それが相手にもニーズにつながる手助けになる。
いったんつながったニーズにつながりつづけて手放さないために、自分の身体に気づくという練習がある。
いつでもどこでもいいのだが、いまこの瞬間の自分自身に共感してニーズにつながったとき、そのときの自分の身体に目を向ける。
そのとき、身体はどんな感じになっているだろうか。
どこか緊張しているだろうか、それともなにかみなぎったような感じがあるだろうか、うずうずと動きたい感じがあるだろうか、それともどこかに痛みやこわばりを感じるだろうか。
繊細に自分の身体をとらえ、その感覚をできるだけながくホールドしてみる。
よけいな思考やジャッジを捨て、ただ自分の身体のようすや感覚に注目しつづけてみる。
この身体感覚のホールドの練習は、だれかに共感するときに自分のニーズを手放さないことの役に立つ。
自分がホールドしているのは身体感覚であるが、そこにはニーズが息づいており、その場所から相手に興味を向けて共感しつづけるのだ。
◎共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。
2016年3月22日火曜日
「次世代作家養成ゼミ」が参加しやすくなりました
かつて、パソコン通信のニフティサーブの時代にもの書き養成の虎の穴「小説工房」を率い、多くの作家、ライターを輩出した実績を持つ水城ゆうが、さらに経験と研究を積んでさらなる高みをめざしているのが、このテキスト表現研究の場である次世代作家養成ゼミです。
扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論、ブログ記事、メール、ツイッター、フェイスブックメッセージなど、ジャンルを問いません。
しかしめざすは、真のオリジナリティを持つテキスト表現。
キーワードは身体性。
書き手の身体性と感覚、即興性と、文体、ストーリー表現というテーマに毎回するどく切りこみます。
月3回のオンライン講座(60〜90分)は、自宅にいながらにして、あるいは遠隔地からも参加しやすくなっています。
月に1回のスクーリング(リアルゼミ)も世田谷「羽根木の家」で開催。
魅力的な作品が集まりしだい、機関誌『HiYoMeKi』が随時発刊されます。
◎受講料 2,000円/オンラインゼミ費月額5,000円(カード決済可)
オンラインゼミ生はテキストゼミを含むすべてのゼミに
オンラインで好きなだけ参加できます。
◎使用システム zoomというオンライン会議システムを使います。
ご用意いただくもの:
カメラとマイクがインストールされたパソコン
またはタブレットかスマートフォン
(iOSでもアンドロイドでも可)
※機関誌『HiYoMeKi』はこちらを参照。
◎時間 ほぼ日曜日18:00〜(約60〜90分)
直近の開催スケジュールはカレンダーを御覧ください。
※その他の詳細とお申し込みはこちらから(クレジットカード使用可)。
扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論、ブログ記事、メール、ツイッター、フェイスブックメッセージなど、ジャンルを問いません。
しかしめざすは、真のオリジナリティを持つテキスト表現。
キーワードは身体性。
書き手の身体性と感覚、即興性と、文体、ストーリー表現というテーマに毎回するどく切りこみます。
月3回のオンライン講座(60〜90分)は、自宅にいながらにして、あるいは遠隔地からも参加しやすくなっています。
月に1回のスクーリング(リアルゼミ)も世田谷「羽根木の家」で開催。
魅力的な作品が集まりしだい、機関誌『HiYoMeKi』が随時発刊されます。
◎受講料 2,000円/オンラインゼミ費月額5,000円(カード決済可)
オンラインゼミ生はテキストゼミを含むすべてのゼミに
オンラインで好きなだけ参加できます。
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ご用意いただくもの:
カメラとマイクがインストールされたパソコン
またはタブレットかスマートフォン
(iOSでもアンドロイドでも可)
※機関誌『HiYoMeKi』はこちらを参照。
◎時間 ほぼ日曜日18:00〜(約60〜90分)
直近の開催スケジュールはカレンダーを御覧ください。
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料理:しらすとほうれん草のスパゲティ
春っぽいスパゲティシリーズ。
先日は菜の花とエビを使ったけれど、今日はしらすとほうれん草。
ほかにもこのシリーズでは、あさりとブロッコリ、なんてのもいけるかな。
春らしい食材といえば、ほかにも青のりとか、ふきのとうとか、たらの芽とか、ホタルイカとか、いろいろ応用がきくよね。
【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・しらす……小1パック
・ほうれん草……軽く1束
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、3〜4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入、炒めます。
炒めながら、塩とコショウを加えます。
あとで塩気の効いたしらすを加えるので、塩はやや控えめにしておきます。
ほうれん草がしんなりしてきたら、しらすを加えて、混ぜあわせます。
そこへ、固めにゆであげたスパゲティを、お湯を切って加えます。
よく揺すりながら、全体を混ぜあわせたら、完成。
お好みの皿に盛りつけて、いただきます。
大変簡単かつおいしい、春のパスタです。
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【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・しらす……小1パック
・ほうれん草……軽く1束
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、3〜4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入、炒めます。
炒めながら、塩とコショウを加えます。
あとで塩気の効いたしらすを加えるので、塩はやや控えめにしておきます。
ほうれん草がしんなりしてきたら、しらすを加えて、混ぜあわせます。
そこへ、固めにゆであげたスパゲティを、お湯を切って加えます。
よく揺すりながら、全体を混ぜあわせたら、完成。
お好みの皿に盛りつけて、いただきます。
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2016年3月21日月曜日
社会的に悪とされることを行なっている人に向きあう
もしあなたが、だれかから、社会的に「悪」であるとされている行為をその人がやっていると告白されたら、どうするだろうか。
たとえば、覚せい剤を常用していてやめることができない、とか。
たとえば、妻や子どもに暴力をふるってしまう、とか。
たとえば、不倫をつづけている、とか。
そういう話を聞くと、通常、私たちは「やめなさい」といいたくなる。
そんなことをしている相手が自分とつながっていることにたいして不安になったり、危険を覚えたりするからだ(こちらには安心・安全のニーズがある)。
そのために相手にその行為をやめてほしい、「やめなさい」という要求・命令が出てくる。
しかし、そんなふうに相手に命令したとして、それは効果があるだろうか。
共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の根底にある考え方として、すべての人はなんらかのニーズにもとづいて行動している、というものがある。
その人の行為がたとえ反社会的なものであっても、またこちらにとって都合の悪いものであったとしても、相手はかならずなんらかの切実なニーズに突き動かされてそういうことをしている、という理解が必要だ。
覚せい剤を常用している、と聞かされたら、その相手には「すぐにやめたほうがいい」といいたくなるだろうが、そこで踏みとどまって相手のニーズに興味を向けることができるかどうかが重要だ。
相手がそんなことをしているのは「なんの必要にせまられているからか」に目を向けてみる。
覚せい剤をやめられないのは、なにかから逃げたいからだろうか。
だとしたら、安心できる場所や心のゆとりが必要なのだろうか。
だれかに受け入れてもらったり、安心して表現できるつながりを必要としているのだろうか。
ジャッジされたり、攻撃されたりしない、信頼関係が必要なのだろうか。
ただ深い休息を必要としているのだろうか。
彼のニーズに目を向け、それに純粋な興味を持って聞きつづけ、彼に自分のニーズの目を向けるためのサポートをし、最後には自分のニーズに気づいてもらう。
ニーズにつながったとき、そのニーズを満たす方法として覚せい剤を用いるということがふさわしいかどうか、あるいはなにか別のよりよい方法を見つけることができるかどうか。
だれかがおこなっているなにかを「悪だ」と断じることは簡単だが、それがどんな切羽詰まった必要性から生まれているおこないなのか、そこに目を向けられるかどうか。
相手のなかにあるニーズには善も悪もない。
ただそれを見て、尊重できるかどうか。
こちらの人間性が問われている、といってもいいかもしれない。
◎共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。
たとえば、覚せい剤を常用していてやめることができない、とか。
たとえば、妻や子どもに暴力をふるってしまう、とか。
たとえば、不倫をつづけている、とか。
そういう話を聞くと、通常、私たちは「やめなさい」といいたくなる。
そんなことをしている相手が自分とつながっていることにたいして不安になったり、危険を覚えたりするからだ(こちらには安心・安全のニーズがある)。
そのために相手にその行為をやめてほしい、「やめなさい」という要求・命令が出てくる。
しかし、そんなふうに相手に命令したとして、それは効果があるだろうか。
共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の根底にある考え方として、すべての人はなんらかのニーズにもとづいて行動している、というものがある。
その人の行為がたとえ反社会的なものであっても、またこちらにとって都合の悪いものであったとしても、相手はかならずなんらかの切実なニーズに突き動かされてそういうことをしている、という理解が必要だ。
覚せい剤を常用している、と聞かされたら、その相手には「すぐにやめたほうがいい」といいたくなるだろうが、そこで踏みとどまって相手のニーズに興味を向けることができるかどうかが重要だ。
相手がそんなことをしているのは「なんの必要にせまられているからか」に目を向けてみる。
覚せい剤をやめられないのは、なにかから逃げたいからだろうか。
だとしたら、安心できる場所や心のゆとりが必要なのだろうか。
だれかに受け入れてもらったり、安心して表現できるつながりを必要としているのだろうか。
ジャッジされたり、攻撃されたりしない、信頼関係が必要なのだろうか。
ただ深い休息を必要としているのだろうか。
彼のニーズに目を向け、それに純粋な興味を持って聞きつづけ、彼に自分のニーズの目を向けるためのサポートをし、最後には自分のニーズに気づいてもらう。
ニーズにつながったとき、そのニーズを満たす方法として覚せい剤を用いるということがふさわしいかどうか、あるいはなにか別のよりよい方法を見つけることができるかどうか。
だれかがおこなっているなにかを「悪だ」と断じることは簡単だが、それがどんな切羽詰まった必要性から生まれているおこないなのか、そこに目を向けられるかどうか。
相手のなかにあるニーズには善も悪もない。
ただそれを見て、尊重できるかどうか。
こちらの人間性が問われている、といってもいいかもしれない。
◎共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。
2016年3月20日日曜日
映画:イベント・ホライゾン
1997年公開のアメリカ映画。
お、けっこう前の映画なんだな。
極私的映画ベストテンのなかに「エイリアン」と「エイリアン2」がはいっていて(念のために別の監督です。それぞれリドリー・スコットとジェームズ・キャメロン)、ホラー宇宙SF映画もしくはサスペンスSF映画が大好きなのだ。
この「イベント・ホライゾン」は、宇宙もの、未来もの、ホラー・サスペンスもの、ということで、わくわくしながら見はじめた。
7年前に消息をたったイベント・ホライゾン号が、ふたたび姿を現したことで、その調査に救助船が向かうところから話がはじまる。
イベント・ホライゾン号の設計者であるウェア博士役を、サム・ニールが演じている。
これがちょっと微妙。
サム・ニールという俳優の顔を見ると、つい反射的にジュラシック・パークを思いだしてしまう。
この役と、イベント・ホライゾンでの狂気がかなりはいったシリアスな科学者役とにずれがあって、なんとなく違和感を覚えてしまう。
そんな違和感をかかえながら観ていくと、イベント・ホライゾンという映画はエイリアンのようなかなりの危機的状況を演出しつつ、人間の知恵を超えた何者かに遭遇するホラーなインパクトを持っていることがわかってくる。
そりゃーもう怖い。
気の弱い人は観ないほうがいい。
そしてかなり、スプラッタなシーンが出てくる。
そこがちょっと残念。
スプラッタがスプラッタすぎて、度を超しているのだ。
怖さも度を超すと、かえって鮮度が落ちる。
その点、エイリアンの怖さとスプラッタの度合いは、じつによく計算されていて、度を超していない。
ぎりぎりの、もっとも怖さとサスペンスの緊張が高まる一線をねらって、絵が作られているのだ。
もちろん美術のすばらしさもあったけれど。
というところで、監督をチェックしてみたら、監督はポール・W・S・アンダーソン。
そうか、バイオハザードの監督なんだ。
あと、エイリアンVSプレデターとか。
なるほどね。
しかし、ストーリーはなかなか練られている。
いきなり、自分たちが乗っていった救助船が失われる。
大ピンチだ。
しかも、イベント・ホライゾン号のほうにもなにやらホラーチックで危機的な状況が迫ってくる。
お約束の爆破タイマーもある。
これははっきりいって、エイリアンのぱくりだな。
危機に次ぐ危機で、ホラーなシーンもたっぷりあり、最後まではらはらドキドキと緊張しっぱなしで観ることができるので、この手の映画でストレス発散したい人にはおすすめだが、ちょっとばかり「雑」で「度を超した」感じのところが、いかにも昨今のやりすぎハリウッド的な感じがする。
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一方的に話し続ける人をさえぎる
共感的コミュニケーションでは、人の話を聞くとき、基本的にそれを「さえぎらない」ことを心がけるが、それは「さえぎってはならない」を意味するものではない。
人の話をさえぎらないのは、自分が「さえぎりたくない」と思っているからで、そこにはいきいきしたニーズがある。
この人の話を聞きたい、この人のなかにはどんなニーズがあるんだろう、どういう命のいきいきさがあるんだろう、という興味をもっているから、さえぎりことなく最後まで話を「聞きたい」となるわけだ。
世の中にはさまざまな「人の話を聞く方法」があるが、「相手の話をさえぎってはならない」ということをいわず、「さえぎりたくない」という自分のニーズにつながりつづけながら聞く、というところが、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の特徴的な積極性といえる。
とはいえ、一方的に長々と自分の話ばかりする相手を聞きつづけていると、疲れたり飽きてしまって、もう聞きたくなくなることがある。
あるいは予定の時間が押してしまっているとか。
そういうとき、どうしても相手の話をさえぎり、中断してもらう必要が出てくる。
そんなとき、
「もう聞き疲れたんでやめて」
とか、
「用事があるんで、これ以上聞けない」
というふうに話を無理に中断すると、相手は「まだ全部話しおわっていない」とか「聞いてもらえなかった」という不満や怒りを覚えることがある。
お互いの関係の質が低下する。
場合によっては壊れる。
共感的コミュニケーションでは「お互いの」ニーズを「おなじくらい」大切にする。
疲れたので休息が必要だという自分のニーズを大切にして相手をさえぎるのでもなく、話を聞いてもらいたいという相手のニーズが大切なので自分のニーズを棚にあげて無理に聞きつづけるのでもなく、どちらのニーズもおなじように大切にする方法を取りたい。
そんな方法があるのだろうか。
こちらには相手に話を中断してもらって、休みたい、というニーズがある。
それを相手に伝える必要がある。
しかし、相手にはまだそれを聞く準備ができていない。
相手にこちらのニーズを聞く準備をしてもらうためには、まず相手のニーズを先に聞いてあげる必要がある。
「ちょっと待ってね。いったん聞いてみたいんだけど、きみは私が話を聞くことで落ち着いたり、安心したり、理解してもらうことを大切にしているのかな?」
というふうに、相手のニーズに目をむけながら問いかけてみる。
すると相手は、自分のニーズがどのようなものなのかに目を向け、答えてくれるだろう。
もし相手のニーズが確認できたとしたら、相手にはそのとき、こちらのニーズを聞く準備ができる。
人は、自分のことを聞いてくれた相手のことしか聞くことができない動物だ。
相手が自分のニーズにつながり、こちらがそれを受け取ったとき、こちらはそのニーズを尊重しながら、はじめて自分のニーズも伝えることができる。
相手にも、こちらに休息にニーズがあることを理解し、尊重する「余地」が生まれる。
こちらは、相手の話を聞きつづけたいというニーズもあるけれど中断することを残念に思っていることを伝え、なにか提案(リクエスト)をする。
たとえば、この続きをまた日時をあらためて聞かせてもらってもいいかな、というふうに。
お互いにニーズレベルでつながっているいま、相手がそれを受け入れてくれる可能性は高まっているだろう。
そして実際に、日時をあらためて話のつづきを聞き、一時タイムアウトをとっていたお互いのニーズを、今度は完全に満たす機会をふたたび作ればいい。
◎共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。
人の話をさえぎらないのは、自分が「さえぎりたくない」と思っているからで、そこにはいきいきしたニーズがある。
この人の話を聞きたい、この人のなかにはどんなニーズがあるんだろう、どういう命のいきいきさがあるんだろう、という興味をもっているから、さえぎりことなく最後まで話を「聞きたい」となるわけだ。
世の中にはさまざまな「人の話を聞く方法」があるが、「相手の話をさえぎってはならない」ということをいわず、「さえぎりたくない」という自分のニーズにつながりつづけながら聞く、というところが、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の特徴的な積極性といえる。
とはいえ、一方的に長々と自分の話ばかりする相手を聞きつづけていると、疲れたり飽きてしまって、もう聞きたくなくなることがある。
あるいは予定の時間が押してしまっているとか。
そういうとき、どうしても相手の話をさえぎり、中断してもらう必要が出てくる。
そんなとき、
「もう聞き疲れたんでやめて」
とか、
「用事があるんで、これ以上聞けない」
というふうに話を無理に中断すると、相手は「まだ全部話しおわっていない」とか「聞いてもらえなかった」という不満や怒りを覚えることがある。
お互いの関係の質が低下する。
場合によっては壊れる。
共感的コミュニケーションでは「お互いの」ニーズを「おなじくらい」大切にする。
疲れたので休息が必要だという自分のニーズを大切にして相手をさえぎるのでもなく、話を聞いてもらいたいという相手のニーズが大切なので自分のニーズを棚にあげて無理に聞きつづけるのでもなく、どちらのニーズもおなじように大切にする方法を取りたい。
そんな方法があるのだろうか。
こちらには相手に話を中断してもらって、休みたい、というニーズがある。
それを相手に伝える必要がある。
しかし、相手にはまだそれを聞く準備ができていない。
相手にこちらのニーズを聞く準備をしてもらうためには、まず相手のニーズを先に聞いてあげる必要がある。
「ちょっと待ってね。いったん聞いてみたいんだけど、きみは私が話を聞くことで落ち着いたり、安心したり、理解してもらうことを大切にしているのかな?」
というふうに、相手のニーズに目をむけながら問いかけてみる。
すると相手は、自分のニーズがどのようなものなのかに目を向け、答えてくれるだろう。
もし相手のニーズが確認できたとしたら、相手にはそのとき、こちらのニーズを聞く準備ができる。
人は、自分のことを聞いてくれた相手のことしか聞くことができない動物だ。
相手が自分のニーズにつながり、こちらがそれを受け取ったとき、こちらはそのニーズを尊重しながら、はじめて自分のニーズも伝えることができる。
相手にも、こちらに休息にニーズがあることを理解し、尊重する「余地」が生まれる。
こちらは、相手の話を聞きつづけたいというニーズもあるけれど中断することを残念に思っていることを伝え、なにか提案(リクエスト)をする。
たとえば、この続きをまた日時をあらためて聞かせてもらってもいいかな、というふうに。
お互いにニーズレベルでつながっているいま、相手がそれを受け入れてくれる可能性は高まっているだろう。
そして実際に、日時をあらためて話のつづきを聞き、一時タイムアウトをとっていたお互いのニーズを、今度は完全に満たす機会をふたたび作ればいい。
◎共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。
2016年3月18日金曜日
料理:菜花とぷりぷりエビのスパゲティ
春になると、花粉症はおいとくとして、急に春のレシピで料理をしたくなります。
今日は井の頭線の脇に菜の花がたくさん咲いていたので、それを摘んで使ってみました……というのは嘘で、菜の花を見て食べたくなったので、近所の八百屋で買ってきました。
エビは井の頭線の脇で獲れないので、これも近所のスーパーで買ってきました。
【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・菜の花……小1パック
・むきエビ……100グラムくらい
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・マヨネーズ、オリーブ油、塩、コショウ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、いったん火を止めておきます。
スパゲティをゆでている鍋に菜の花を食べやすい大きさに切ったものを投入し、2分くらいゆでたら、ざるに取ります。
ふたたびフライパンに火をいれ、お湯を切った菜の花を投入。
塩、コショウで味を整えます。
スパゲティがゆであがる直前(表示時間の1分強が目安)に水を切り、むきエビといっしょにフライパンに投入。
マヨネーズをひとまわしかけ入れ、フライパンを揺すりながら全体を混ぜあわせたら、完成。
ポイントは、エビに火が通りすぎないことと、麺をゆですぎないこと、塩気はゆで汁で調整することです。
菜の花はブロッコリや水菜、ほうれん草、小松菜に変化させることもできるでしょう。
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今日は井の頭線の脇に菜の花がたくさん咲いていたので、それを摘んで使ってみました……というのは嘘で、菜の花を見て食べたくなったので、近所の八百屋で買ってきました。
エビは井の頭線の脇で獲れないので、これも近所のスーパーで買ってきました。
【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・菜の花……小1パック
・むきエビ……100グラムくらい
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・マヨネーズ、オリーブ油、塩、コショウ
大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、いったん火を止めておきます。
スパゲティをゆでている鍋に菜の花を食べやすい大きさに切ったものを投入し、2分くらいゆでたら、ざるに取ります。
ふたたびフライパンに火をいれ、お湯を切った菜の花を投入。
塩、コショウで味を整えます。
スパゲティがゆであがる直前(表示時間の1分強が目安)に水を切り、むきエビといっしょにフライパンに投入。
マヨネーズをひとまわしかけ入れ、フライパンを揺すりながら全体を混ぜあわせたら、完成。
ポイントは、エビに火が通りすぎないことと、麺をゆですぎないこと、塩気はゆで汁で調整することです。
菜の花はブロッコリや水菜、ほうれん草、小松菜に変化させることもできるでしょう。
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