2020年2月17日月曜日

自分の痛みは人にはわからないし人の痛みも私にはわからない

食道ガンの転移による腰痛と腹痛がひどくなって、だんだんできることが限られてきた。
まず運動ができない。
これは困る。

かるい運動もやりにくい。
たとえばウォーキング。
みじかい距離でも、歩くのが大変だ。
痛み止めがあるていど効いていると、しばらくは歩きはじめられるのだが、やがて腰痛と腹痛におそわれ、立ちどまらざるをえなくなる。
身体をまげて、痛みをしばらくやりすごす。

身体をのばした状態でいることができないのだ。
なので簡単なストレッチのようなものや、武術の稽古もできない。
私がやっている韓氏意拳という武術は、稽古の中心が「站椿(たんとう)」というほとんど動かない型稽古なのだが、それでも身体を起こしていられないとできない。

身体を曲げた体勢なら活動にはあまり支障ない。
座った状態なら、執筆作業もピアノ演奏も運転も、これまでと変わりなくできる。
ただ、痛みが強くなると集中力ははっきりと減退する。

ようするに痛みさえなければいろいろなことがうまくいくのだ。
ところが、なぜか痛みはがまんすべき、多少の痛みは無視できるだろう、薬はなるべく飲まないほうがいい、という価値観に心底支配されていることに気づく。
医者で薬を処方されても、痛みががまんできなくなるまで飲むことをためらう。
薬は悪だ、痛みががまんできないのは自分が弱いからだ、という心理が無意識に強く働いているらしい(なんらかの教育のたまものだろう)。

人からすすめられた民間療法もいくつかためしてみたけれど、痛みをともなうもの、あるいは痛みがあるとできないものは、できないし、無理にやるとダメージが大きい。

「痛みは身体の声」という意見があって、それはそれである程度の健康状態では正しいし、きちんとそれを見なければ、付き合わなければという思いも強くあるのだが、進行性の悪性腫瘍に侵されている身としてはべつの対応も必要になると割り切ることが、いまの自分を大切にすることになる。
私のこの痛みは、人からどのようにいわれたところで、その人にはけっしてわからないものなのだ。

ついでにいえば、肉体的・物理的な痛みのほかに、心理的痛みにもあてはめられることが多い。
こころの痛みは無視したり無理することなく、それときちんと向きあう必要があるが、その対処法は一筋縄ではいかない。
きちんと見れば原因=ニーズがクリアになる痛みは対処できるし、また対処をだれかに手伝ってもらうこともできる。
しかし、深い痛み、原因がよくわからない強い痛み(トラウマなど)は、うかつに手を出すとダメージが大きくなることがある。

悪性腫瘍のようにうかつに治療しようとすると、かえって全体のバランスをくずしたり、いちじるしくそこなってしまう。
治癒がむずかしい病巣は、乱暴にそれ本体を取りのぞいたり引っかきまわしたりするのではなく、そこから生まれる痛みそのものに対処することがまずは必要だろう。
そのための方策はさまざまにある。