2月にはいってから光岡英俊先生と鹿間裕行先生の講習会に、それぞれつづけて参加することができた。
おふたりとも、東京での講習会は土日や金曜夜になることが多く、そのタイミングだと私自身もイベントがはいっていたりして、なかなか参加できずにしばらくくやしい思いをしていたのだ。
どちらもたくさんの気づきやあたらしい体験をして、どれも書きとめておきたいことばかりだが、まずはひとつだけ書いておきたい。
それは表題の「物理的身体」「経験的身体」という話だ。
現代人にはそのような傾向があるということだが、私にもたしかにそんな傾向がある。
というのは、自分の身体(body)をあたかも「もの」「物質」のように見たり、とらえたりする癖がある。
私には後天的に学習し、おぼえた、人の身体についてのたくさんの知識がある。
身体のそれぞれの部位をこまかくいえるし、骨格や循環器系、神経系などについての知識もある。
それらがどういう役割を持ち、どのような働きをしているかについても、たくさん学んでいる。
それらがぎゃくに災いして、身体を部品、もの、物質として見てしまう傾向が強くなってしまっている。
よくかんがえれば、身体にはもちろん物質的側面もあるけれど、生きて動いている私の身体は、物体というより生命体であり、生命といううまく説明のつかない現象を表現している「場」ともいえる。
たしかに身体はたえず変化しているし、流動的ですらある。
動いたり、歩いたりするとき、ロボットのように部品を動かしているという感じはなく、それはただそういう現象として現れたり、持続したり、消えたりしている。
私たちは身体という現象の経験をしているのだ、と光岡先生はいうし、私もまったくそのとおりだと思う。
武術(韓氏意拳)の稽古においても、身体を操るのではなく、そこに現れる現象と付き合い、観察し、経験することが重要だ。
ひょっとして自分が「こうだ」と思っているようには身体は現れてこないかもしれない。
また、動かしたいようには動いてくれないし、思いがけない動きやパワーが表出してくる経験をするかもしれない。
稽古においては、未知の経験=身体と向き合う謙虚さと勇気が必要なのだろう。
それが知識ではなく経験としてわかってくると、毎日の稽古が楽しくスリリングになってくるのだ。
◎2月20日:国立・韓氏意拳初級講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級講習会の2018年2月は、20日(火)午後にJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。