2018年2月28日水曜日

だらだらっと楽しい共感編み物カフェ

1月末日にひらいてみて、じゃあってんで2月も月末にひらいてみた「共感編み物カフェ」、今回も楽しくやらせていただきました。

ここではなにかを「してはいけない」とか「こうしなければならない」というものは一切ないけれど、私は個人的に心がけていることがあって、それは共感の場ではあるけれど「AMO(編も)」を実践したいということ。
つまり「(ニーズを)当てにいかない」「向かい合わない」「追い詰めない」。

自分自身につながり、その場に「いる」状態で、自分事をおこなったり、ゆるりと相手の話を聞いたりする、いわば「縁側モード」の共感的コミュニケーション。
そんなとき、なにか手仕事をしていることが役に立つ。
私の場合、編み物をしているときが、そんな縁側共感モードになりやすい。
そして、編み物は不思議と、マインドフルネスをもたらし、自分がそこにいてさまざまなことに気づきつづけている状態をもたらしやすい。

今回も何人かの参加者が入れ替わり立ち替わり、直接国立春野亭に来てくれたり、オンラインでつながったりしてくれたのだが、ことさら共感的コミュニケーション(NVC)を学ぼうという集中モードでもなく、それぞれが編み物したりカメラの手入れをしたり料理をしたり事務仕事をしたりと自分のことをおこないながら、お互いの話をゆるゆると聞きあう時間になった。
これがとても安心できる、楽しい、豊かな時間なのだ。

これいいなー。
毎日これでもいいよな。
でも、とりあえず、毎月やるよ。
3月も末日の31日にやります。

編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。



人気出てきた、ボイスセラピー(喜)

国立春野亭で開催している私主催の「共感カフェ」を、今年にはいってから名称を「共感音読カフェ」と変えておこなっている。
名称は変わったけれど、私としては共感的コミュニケーションを勉強したいとか、日頃の人間関係や気がかりについて共感的に聞いてもらいたいというニーズが相変わらずあるだろうと予測していて、無理に音読はやらなくてもいいかなと思っていた。
しかし、音読は共感的身体に気づくのに効果的だし、音読療法(ボイスセラピー)についてももっと知ってもらう機会があるとうれしいと思っていたので、共感音読カフェという名称と方向性を示したのだった。

うれしいことに、今年になって参加してくれている人たちの多くが、音読療法に興味を持って来てくれる。
音読療法ってどんなことをするの?
音読療法と共感的コミュニケーションはどんな関係があるの?
どんな効果があるの?

ボイスセラピー講座に参加した方は理解してくれていると思うが、音読療法には3本の柱がある。

 1. 呼吸法
 2. 音読エチュード
 3. 共感的コミュニケーション

これらを身につけることで、心身を調整し、心身の健康を維持・向上させ、いきいきとした人間関係のなかで生きがいをもってはつらつと生きていくことに役立てられるのが、音読療法だ。
音読療法のワークを実践し、みなさんの役に立てるための音読トレーナーという人材育成もおこなっている。

音読トレーナーは音読カフェを開催できる。
音読カフェでは音読療法のワークによって心身の健康法や介護予防を実践するのだが、それをファシリテートするトレーナーは共感的コミュニケーションを心がけて進行する。
場合によっては健康や人間関係の不安がある人の話を共感的に聞くこともおこなう。

私が国立春野亭でおこなっている「共感音読カフェ」は、たんなる音読カフェより共感的コミュニケーションの勉強や聞き合いの場としての比重が大きいのだが、私の予想より音読療法に関心を持ってくれる人が多いので、喜んでいる。
実際、音読療法は実際の生活や仕事のなかで役に立つ。

3月3日:共感音読カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)

3月4日:ボイスセラピー講座@国立

『HiYoMeKi』第6号の「はじめに」より

身体文章塾の機関誌『HiYoMeKi』の第6号がひさしぶりに配信されたがそのまえがきとして書いたものを紹介させていただく。
『HiYoMeKi』は「ひよめき」と読み、どなたも無料で自由にお読みいただくことができる。
こちらのBCCKSのサイトからも読めるが、スマホやタブレット用の専用アプリでも読むことができる。

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(まえがきより)
 ずいぶん間《ま》があいてしまったが、身体文章塾の機関誌をひさしぶりにお届けする。

 身体文章塾はその前身を次世代作家養成塾と称していた。その前は現代朗読ゼミの一環としてテキスト表現ゼミと称していたこともあるかもしれない。
 もうかれこれ十年くらいつづいているテキスト表現の研究・発表の場である。
 その間《かん》に参加者が入れ替わり、またつづけて参加しつづけている者の表現クオリティやスタイルも変化し、そして私・水城ゆう自身も大きく変化した。自分自身は成長したのか退化したのかよくわからないが、変化したことだけはたしかだ。つづけて参加している、たとえば奥田浩二などは、あきらかに著しい成長をとげていて、それは私たちのお祝いでもある(彼がお祝いしたいかどうかは別としても)。
 テキスト表現にかぎらず、表現行為において私たちは自分自身という「現象」をあつかっている。これは最近の私の気づきだ。
 人はだれもが、肉体という物質的存在でありながら、じつは身体という現象として存在している。現象なのでそれはたえず変化し、移りかわりつづけている。昨日の自分と今日の自分はちがう。一瞬前の自分ですら、もう過去の現象として流れさっていて、いまここにいる私はまさにいまこの瞬間の現象でしかない。
 そのような謙虚さに立ったとき、現象としての身体は私になにを書かせてくれるだろう。そこからはどのようなことばが発生してくるだろう。

 この六号に収録した作品群は、すこしばかり時間をさかのぼっている。次世代作家養成塾と称していた時期の作品がほとんどだ。
 まずはこれらをみなさんにお届けしたあと、可能なら七号、八号と、現在にちかづいていき、リアルタイムに身体文章塾で起こっていることをお届けできるようにしていきたいとかんがえている。
 お付き合いいただければ幸いだ。
 また、身体文章塾はどなたも、テキストで自分自身を伝えたい、テキストを書くことで自分を知りたい、という人ならどなたも歓迎だ。門戸はつねにひらかれている。

2018年2月27日火曜日

編み物:かぎ針、棒針、輪針、共感針

かぎ針はだいぶ手慣れた感じに編めるようになってきたけれど、棒針はうまくいってなかった。
ちょっとだけ挑戦してみたことはあって、道具も人からもらったり自分で買いそろえたりしていたが、なぜかうまくいかず、ほったらかしにしてあった。
それがふと、再挑戦してみるつもりになって、やりかけてみたら、今回は案外するすると上達しそうな感じだったので、なにか作ってみることにした。

私が子どもの頃から、母が編み物に打ちこんでいた。
文字通り、打ちこんでいた。
その姿が、私の母像のデフォルトに近い。
かぎ針、棒針はもちろん、最終的には編み機を何台もならべて使いこなしている姿をおぼえている。

よく毛糸玉をほどいて、編み機にかけるための細長い輪にする作業を、縁側で手伝った。

そんな記憶があって、けっこうな年齢なってからふと編み物をやってみようと思いたったときも、とくに抵抗感はなかった。
私のような年配の男が編み物をやっていると驚かれることがあるのだが、私はとくに違和感なく楽しんでいる。

なぜか棒針がうまくいかず、しばらくほうってあったのだが、数日前にやりかけてみたらなんとなくうまくいく。
ひょっとして無意識でイメージトレーニングしていて、それがうまくいったのかもしれない。
YouTube映像を見たりしたことも役に立っているかもしれない。

輪針のセットを買い置きしてあったのを引っ張りだして、輪針を使った編み物に挑戦している。
ゴム編みのウォーマーだが、完成するかどうかはわからない。
いい練習にはなっている。

明日・2月28日は国立春野亭で「共感編み物カフェ」を開催する。
オンラインでも参加できるので、お好きな時間に参加してみてほしい。
出入り自由。
手仕事なら編み物でなくてもよくて、なにかしながら共感的に話を聞いたり、コミュニケーションについて学びあったり、という場である。

2月28日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

外側からはじまる運動

駒井雅和先生による韓氏意拳養生功講習会@国立春野亭が終了した。
毎回、さまざまな工夫で、ともすればわかりにくいところのある韓氏意拳という武術の稽古を楽しく、それぞれにヒントをつかみやすくしてくれている駒井先生の講習会だが、今回も養生功の体系をすこし離れて、オリジナルの稽古法からはじまった。

ふたりひと組になって、距離を置いて動いたり、近づいたりしながら、自分の運動が自分の内側からや意識的に「動かそう」という意図からはじまるのではなく、外側にある対象物をとらえることで「運動が外側からはじまる」という経験を味わった。

たしかに、自分から「こう動こう」という運動のはじまりと、「そっち」という「意」が発生して自分の外からはじまる運動とでは、まったくおもむきが異なる。
外から発生する運動はかるく、身体と外界とのずれがなく、気持ちがいい。
この気持ちよさは独特で、「あー気持ちいい!」という実感のつよいものではなく、ただ自分があるべきところにすっと収まっていくような気持ちのよさだ。

こののびやかな運動の延長線上に、さらに緊密な、注意深い、武術の技撃として通用する強度が発生するのだと思う。
それこそ自分の全身があまねく行き渡り、外界ともぴたっと一致した運動だ。

私たち現代人は、あまりに自分の「意思」や「意図」「感覚」と癒着してしまっていて、漏れのない、その瞬間にもっともふさわしい強度のある、自然に身につけているはずの運動から、遠ざかっていることが多い。
いや、いつもは自然になにげなくやっていることなのだが、いざ運動しようというとそこにはゴリゴリしたものが侵入してきて、のびやかさや自然さを失ってしまう。
そこに気づき、本来の能力や運動の順調さを再発見していく、そういう稽古のなかに韓氏意拳という武術体系のおもしろさがあると、私は感じている。

3月19日:国立・韓氏意拳初級講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級講習会の2018年3月は、19日(月)午後にJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

3月25日:世田谷・韓氏意拳初級講習会
内田秀樹教練による世田谷での韓氏意拳初級講習会の2018年3月は、25日(日)に烏山区民センターにて開催します。

3月27日:韓氏意拳養生功講習会@国立
JR国立駅徒歩5分の会場にて駒井雅和中級教練による韓氏意拳養生功講習会を3月27日(火)14時から約2時間の開催です。

2018年2月26日月曜日

現代朗読のゼミ生が力をつけていくということ

このところ、土曜の午前中に現代朗読ゼミを開催している。
今回はゼミ生がふたり、単発参加がふたり、私もいれて五人での開催となった。

ゼミ生の進化・成長というのは、ずっと付き合っていると私もなかなか気づきにくいものだが、たまにゼミ生以外の新規参加者が来て感想をもらうと、あらためて気付いたりする。

現代朗読では「うまい/へた」とか「正しい/正しくない」という評価基準を廃して、身体表現者としてどれだけ自分自身につながり、そのいきいきさを把握したり発揮できたりするかという点を重視しているのだが、結果として表現の力が目に見える形であらわれてくることがある。
そんなとき、現代朗読の言語を使いなれてない人からは、「うまい、上手」という評価言語が聞かれることがある。
ゼミ生はそこはめざしていないが、結果的にそのようなことが起こる。

去年の夏ごろからゼミ生になったゆきこさんは、まったく朗読などやったことのない人だったが、いまやとても力のある表現者になりつつあって、今後も楽しみなのだ。
ただし「力のある」というのは、テクニックがついているということではなく、ただただいまこの瞬間の自分自身につながる集中力がついてきている、ということだ。

彼女はいま、中国の作家、林志明氏の短編集『天使在人間』(鄧晶音・訳/河出書房)の連続朗読をおこなっていて、その朗読のようすはYouTubeで配信されている。
すでに「わずかな思いやりに、心を打たれて涙する」という短編の朗読が公開されている。
つづけて次作の収録を予定していて、彼女の成長のようすもたぶんうかがい知ることができるだろう、そんな楽しみもあったりする。
もちろん、音声のみを切りだしてオーディオブックとしてコンテンツ化することもできる。
いろいろと楽しみなのだ。

『HiYoMeKi Vol.6』発刊しました!

身体文章塾の機関誌『HiYoMeKi』の第6号がひさしぶりに配信されました。
「ひよめき」と読んでください。
無料です。どなたも自由にお読みいただけます。

こちらのBCCKSのサイトからも読めますが、スマホやタブレット用の専用アプリでも読めます。
「backs reader」でアプリ検索してください。

また、サイトからはePubファイル(電子書籍データ)をダウンロードして好きなように読んだり、人に送ることもできます。
こちらからどうぞ。

以下、目次より紹介します。

 星砂 佐藤ほく
 金魚 荒川あい子
 巣立ち 植森ケイ
 虚数 三木義一
 ミスターCDラジカセ 山口世津子
 水のたわむれ 野々宮卯妙
 指先の恐怖 知念満二
 栄ちゃん 奥田浩二
 待つ 水城ゆう

共感集中週間ですよ〜

共感的コミュニケーションを実生活のなかでリアルに使える形で学びたい、日本語や日本人的社会習慣や風習のなかで使えるようになりたい、メールやSNSなどテキストコミュニケーションでも共感を試みてみたい、などのニーズがある人向けに、水城が長年つちかってきた経験や知見をシェアする機会が、集中的につづきますので、ご利用ください。


編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあいながら、共感的コミュニケーション(NVC)について学ぶ場です。
まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。
編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。
午後3時から8時まで、出入り自由。


東松原在住で自宅をイベントに開いている星寿美さんが、共感カフェを主催しています。
おたがいに深く聴きあうことのできる場で自分自身の価値とニーズにつながるためのサポートをおこなうおはなし会です。
午後2時から約2時間。


心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会です。
14時から約3時間です。


川崎市・武蔵小杉在住の高橋喜宣さんが主催している共感的コミュニケーションの勉強会です。
「こすぎの大学」のおしゃべり部のみなさんが中心になって開催されています。


名古屋でも開催することになりました。
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあいながら、共感的コミュニケーション(NVC)について学びます。
まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。
編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。
午前11時から午後4時まで、出入り自由。

2018年2月25日日曜日

初開催のおとなの音読カフェ@池尻大橋〈アカシデカフェ〉

池尻大橋(駒場)の〈アカシデカフェ〉での「おとなの音読カフェ」を初めて開催しました。

2018年1月いっぱいで閉店し、瀬戸内の大三島に移転した三軒茶屋の〈オハナ〉で、5年ほど隔月で共感的コミュニケーション(ミニライブ付き)を開催していましたが、それを惜しんでうちでなにかやりたいと申し出てくれたのが、〈アカシデカフェ〉の有紀さんでした。
NVC仲間を通じて紹介してもらい、打ち合わせに行き、この「おとなの音読カフェ」の開催が決まったのです。

〈アカシデカフェ〉は都立駒場高校のグラウンドの脇にある、「ここにあるよ」ということを知らなければ通りすぎてしまうような、ちょっとした隠れ家的カフェです。
2017年6月にオープンしたばかりということです。
こじんまりした店のなか、白基調の清潔で、それでいて居心地のいい空間で、いつまでもいたくなるような雰囲気です。
メニューもオーガニックなものをそろえています。

最初は朗読のイベントを検討していたんですが、有紀さんが音読療法に関心を持ってくれて、また彼女もNPO法人を組織していることがあったりして、より社会貢献の色合いが強い音読療法のワークをやることになったのです。
とはいえカフェですから、まずは気楽な音読カフェをやってみましょうということになり、初開催となったわけです。

参加者は有紀さんもいれて2名だけでしたが、その分じっくりと話を聞き合い、マインドフルに自分(の身体)を観察し、お互いに響きあう練習ができました。

音読療法では呼吸法や音読エチュードを使って、イメージではなく実際に起こっていることを緻密に観察する練習をします。
最初はなかなかうまくいかなくても、どこに注目すればいいのかそのベクトルがわかってくると、しだいにいまこの瞬間のリアルな自分が見えてくるようになります。

途中で有紀さんがおもしろいことに気づきました。
自分自身に集中していくと、あるレベルからにわかにほかの人やまわりの情報が自分のなかに流れこんできて、それに気づきはじめる、というのです。
まさに「フロー」という状態で、そのクオリティをどんどんあげていくことが目的のひとつです。
表現の世界では、フローがさらに密度が高まって「ゾーン」と呼ばれる状態になります。
自分自身の能力が最大限に解放される状態です。

皆がそこをめざす必要はありませんが、音読療法のさらに先にはそのような地平も見えている、ということです。
興味がある方は参加してみてください。

3月22日:おとなの音読カフェ@池尻大橋アカシデカフェ
駒場の住宅街の一角の、隠れ家のようなステキ空間「アカシデカフェ」にて、月1回の音読カフェを開催します。声をだす楽しさ、よろこびを味わいつつ、コアマッスルを鍛え、免疫力をあげていくレッスンです。毎月第4木曜日の19〜21時。

2018年2月24日土曜日

映画:エクソシストの映画&テレビドラマシリーズ

ウイリアム・フリードキンの映画「エクソシスト」は高校生のときにリアルタイムで観た。
高校生なのに、それに特別ホラー映画好きでもないのに(むしろ苦手だったと思う)、なんでわざわざ映画館まで行って観たんだろう。

たぶん、映画館ではなくテレビ放映でフリードキンの監督作品「フレンチ・コネクション」を観て、しびれたんだろうと思う。
ちょうどそのころ、中学生から夢中になっていたSF小説から、すこしずつスリラーやサスペンス小説をたくさん読むようになっていた時期だった。

余談だが、「フレンチ・コネクション」ではジーン・ハックマンとロイ・シャイダーがかっこよかった。
「エクソシスト」では少女役のリンダ・ブレアが印象的だった。

「エクソシスト」は衝撃的な映画だったが、映画本編に加えて音楽が強烈に印象が残った。
マイク・オールドフィールドというイギリス人ロックミュージションの、多重録音を駆使した「チューブラー・ベルズ」という曲が使われていた。
さっそくそのアルバムを購入し、すり減るほど聴きこんだ。
変拍子の複雑な、しかしミニマルな曲で、コピーしようとしても難しかった。

先日、アマゾンのプライムビデオを見ていたら、「エクソシスト」のテレビシリーズが2016年に作られ、シーズン2まであることを知った。
さっそく最初のエピソードを見てみたら、映画の「エクソシスト」を原案としてはいるが、あらたなストーリーとなって、しかし雰囲気はかなり踏襲した感じで作られている。
いま喜んで順番に観ているところだ。

エピソード1の最後のところに、おなじみの「チューブラー・ベルズ」の冒頭のフレーズがすこし出てきて、一瞬で50年近いタイムスリップの感覚を味わった。
そうか、音楽というのは、タイムトラベルのための装置でもあったんだな。


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YouTube:ピアノ演奏「雪」@福井県立病院

2018年2月14日。
数か月おきにおこなっている福井県立病院のエントランスホールでの「冬のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像ですが、抜粋してお送りします。

この「雪」は明治44年に発表された文部省小学校唱歌で、作詞・作曲ともに不明。
元のメロディからインスパイアされた水城による即興演奏です。

映像はこちら

2018年2月23日金曜日

上手・下手ではない表現の世界

先日、歌のレッスンをしていて、ふと思った。
どんな人でも歌のレッスンを受けるとき、そこにはどんな目的があるのだろうか、と。

私は歌はうたわないが(もっぱらピアノ伴奏)、ボーカルの指導をすることがある。
指導というよりコーチングで、本人も気づいていない歌い手の本来的な能力を引きだしたり、無意識にやってしまっている癖に気づいてもらったりする。
そんなとき、歌い手はたいてい、「よりよい歌い手になりたい」と思っている。

このよりよい歌い手の「内容」が問題なのだ。

ほとんどの場合、「よりよい」は「上手な」とか「瑕疵《かし》のない」を意味する。
たとえば、
「音程をはずさないようにうたいたい」
「もっと響きのある発声をしたい」
「いろんなジャンルの歌を自在にうたいたい」
といったことだ。
いずれもそこには「テクニック」が存在し、それを身につけたいと思っている。
自分が不足しているある種のテクニックを身につけることで、歌をより上手にうたえるようになりたい、と思っている。

そっちではない方向性や目的があってもいいのではないか。
そっちではない、というのはどっちなのか。

私は多くの歌い手が、
「人を楽しませたい」
「喝采されたい」
「ほめられたい」
あるいは、
「けなされたくない」
「批判されたくない」
というマインドを手放せていないと感じている。
それゆえに、うまくなりたい、テクニックを身につけたい、という、なにか自分に「付け加える」ことばかりに執着してしまうのだ。

これは歌い手だけでなく、あらゆる表現をする多くの者にもあてはまることだ。

多くの表現において、もう私たちはなにかを「付け加える」必要はない、と私は感じている。
なにかを付け加えるのではなく、逆になにかをやめたり削ぎ落とすことによって、よりシンプルで力強いオリジナリティのある自分の表現世界があらわれてくるのではないか。

これについて私には実績がある。
現代朗読だ。

野々宮卯妙という朗読者がいて、好みはあるにせよ、その表現力にはだれもが納得するだろう(第一回ポエトリースラム・ジャパンでだれも彼女を知らないアウェイのなか、ファイナリストになったことを見てもわかる)。
まったくのど素人だった彼女をコーチするにあたって、私がおこなったのはなにかを付け加えることではなく、本来の彼女が持っている力を邪魔している余分なものを削ぎ落とし、オリジナリティを研磨することだった。
おなじことが、音楽のボーカルにも適用できる。

うまい歌い手をめざすのではなく、オリジナルな歌い手をめざす。
そのためにはなんとしても、さまざまな怖れを手放し、無防備にのびのびと自分を表現できる無邪気な世界に自分を置いておける、一種の強さが必要だ。
むずかしいことかもしれないが、そのためのツールとして共感的コミュニケーションがある。

上手い・下手という基準ではなく、どれだけのびやかさがあるかという基準で稽古を積んでいったとき、そこにはどんな表現があらわれるだろう。
それを想像するとき、私はわくわくする。
もちろんそれを聴く人々のなかには、上手い・下手という基準があってそれを適用されてしまうかもしれないが、彼らには共感すればいいし、そうではないものも必ず伝わるだろう。


3月9日:沈黙[朗読×音楽]瞑想コンサート@渋谷
東京ではひさしぶりとなる水城ゆう&野々宮卯妙の沈黙[朗読×音楽]瞑想コンサートが、いよいよ2018年3月、渋谷区総合文化センター大和田の大スタジオでおこなわれます。3月9日(金)19時開演。要予約。

2018年2月22日木曜日

疲れない車の運転法

「ちょっとなにいってるかわかんない」
というサンドイッチマンのギャグがあるけれど、以下の文章のなかにはそういう部分があるかもしれない。
「よくわかんないけど、なにをいってるのか知りたい」
という方は、私がおこなっているワークや勉強会のどれかに参加してみてください。
直接ご説明いたします。

昔から車(にかぎらないけど)の運転は好きで、苦ではなかった。
昨年、母が施設に入所したので(その後他界)、実家の乗用車が使われなくなり、せっかくなのでと私が使うことにした。
北陸の実家と東京との往復に、それまでは電車と飛行機を乗りついでいたのだが、ドアツードアで車で移動することにした。

片道500キロくらいある。
高速道路を使って5時間、休憩をはさんでゆっくり行けば6時間、渋滞があったり回り道をすると8時間くらいかかることもある。

疲れないかと訊かれることが多いのだが、これがあまり疲れないのだ。
もちろん疲れない運転にはコツがある。
長年かかって獲得してきた疲れない運転法を、ちょっとだけ紹介したい。

ベースになっているのはアレクサンダーテクニークという身体操法と、韓氏意拳という武術。
それらを自分なりに工夫して、いまの疲れない運転法になっている。

(1)頭が自由になっていること

頭(頭蓋骨)が頚椎の上で微妙なバランスを保ち、身体に押しつけられず自由になっていると、身体全体の働きが楽になる。

(2)身体全体、とくに下半身が活きていること

シートに座っている姿勢ではあるが、固定されてかたまっているのではなく、どこか部分的に力んでいるところもなく、全体が行き渡っていること。

(3)肘が下を向いていること

ハンドルを持った腕の肘の先端が、下を向いている感じがあるかどうか。
それがあると下半身が見えやすく、活きやすくなる。

(4)すこしでも疲れを感じたら、無理せず休憩や仮眠を取ること

こういったことを心がけることで、8時間にわたるような長時間の運転でも楽に乗りきることができるばかりか、運転後にも疲れを残すことはほとんどない。

YouTube:ピアノ演奏「春が来た」@福井県立病院

2018年2月14日。
数か月おきにおこなっている福井県立病院のエントランスホールでの「冬のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像ですが、抜粋してお送りします。

この「春が来た」は明治43年に発表された唱歌で、作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一という黄金コンビによる曲です。
このふたりによる曲では、ほかに、「ふるさと」「もみじ」など、多数の有名曲があります。
元のメロディからインスパイアされた水城による即興演奏です。

映像はこちら

2018年2月21日水曜日

音読カフェの場が広がっている

共感カフェではなくて、「音読」カフェの話。

音読カフェとは、音読療法(ボイスセラピー)の手法をもちいて心身の健康向上や予防法を体験し、持ちかえってもらうための集まりだ。
カフェと称しているように、飲食しながらの気楽な場となっている。
ときには音読療法の三本の柱のひとつである共感的コミュニケーションを心がけながら、日頃の悩みや人間関係の問題についてお互いに聞きあうこともある。

音読療法はさまざまな場面、場所で個人的に、あるいはグループセッションとして用いることができる。
自分自身の心身の調整や健康法、活力アップに役立つほか、音読ケアワークとして老若男女を問わず多くの人の健康に貢献できる。
高齢者介護施設や介護予防教室での活用は、音読療法の得意とするところで、そのファシリテートをする人材として音読トレーナーを養成している。

音読トレーナーはそのようないわば「公共」的な場での音読ケアをリードするばかりでなく、ごく個人的にセラピーの場を開くことができて、そのひとつが音読カフェだ。
とても気楽に開くことができて、たとえば自宅のリビングなどを使って少人数でやることなどもおすすめする。

というのは、私がそんなことをここ何年かつづけてきているからだ(じつは私は音読トレーナーではなくて、音読療法士でもなくて、たんなるオーガナイザーなのだが)。

私は実家が北陸の山間部のちいさな街のなかにあるのだが、自分が育った家のリビングに近所のみなさんに声をかけて、月に一度くらいのペースで音読カフェを開催している。
先日も豪雪のさなかにもかかわらず、おこなってきた。
常連のみなさんが5人、参加してくれた。

この実家音読カフェは、もう1年以上、毎月つづいている。
顔ぶれもだいたい決まっていて、そのことが一種のコミュニティ感を作っている。
安心してなんでも、どんなことでも話ができるつながりがある(音読セラピーを核として)。
たまに新規参加者もくわわって、そのときにはあらためて音読療法の効果やねらい、やりかたを一から説明するので、常連のみなさんもリフレッシュされたように感じるらしい。

このバランスがなかなかいい感じだと、私は思っている。
このような場が全国あちこちに生まれればいい、と思う。
だれもが簡単にできる心身の調整法、健康法、予防法を身につけ、介護不要の老後をめざし、そしてコミュニティにつながっている安心感のなかでいきいきと自分を表現できること。
これが音読療法の、そして音読カフェのめざしているところだ。

気になる方は、まずは音読療法の全貌を知り体験できるボイスセラピー講座に参加してみてほしい。

3月4日:ボイスセラピー講座@国立
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。3月4日(日)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。

2018年2月20日火曜日

YouTube:ピアノ演奏「仰げば尊し」@福井県立病院

2018年2月14日。
数か月おきにおこなっている福井県立病院のエントランスホールでの「冬のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像ですが、抜粋してお送りします。

この「仰げば尊し」は明治17年に文部省から発表された小学校唱歌で、作詞・作曲者不明とされていましたが、1871年にアメリカで出版された歌集のなかに「Song for the Close of School」というタイトルで収録されていることが、近年確認されています。
元のメロディからインスパイアされた水城による即興演奏です。

映像はこちら

2018年2月19日月曜日

この心身の安定調子はいずこから?

先日、ちょっとびっくりしたことがある。
私の頭髪は父親ゆずりの白髪体質で、40歳すぎくらいから早ばやと白くなりはじめた。
どんどん進んで、とくに前のほうはかなり白くなったし、髭にも白髪が増えていった。

すでに他界している父は、たしか50代後半にはほとんど真っ白になっていて、定年退職をするころ――つまりいまの私の年齢――には司馬遼太郎みたいな完全な白髪になっていた。
私も白髪が進むペースをかんがえて、たぶん父のように真っ白になるだろうと思っていたのだが、どうやらいまのところそうはならないようなのだ。

いつごろか、白髪進行のペースが遅くなって、よく見ればいまだに半白髪くらいなのだ。
そして先日、びっくりしたのは、頭のてっぺんのあたりには黒い髪が増えているではないか。

白髪の進行が止まって、黒髪が生えてきている。
これはなにを意味するのか。

ちょくちょく自慢することだが、たしか2011年に音読療法協会をオーガナイズして以来、一度も風邪やインフルやその他病気で寝こんでいない。
それ以前の私を知っている人はびっくりするだろう。
というのも、その前はかならず、年に二、三度は律儀に風邪をひいて寝こんでいたからだ。
インフルエンザともとても律儀に付き合っていた。

それがまったくなくなった。

先日もちょっと喉が痛くなり、風邪の兆候をキャッチしたのだが、無理せずに静かにすごし、早めに寝て、翌日にはすっかり回復していた。

調子がいいのは身体ばかりではない。
これは共感的コミュニケーションを身につけたことによるところが大きいと思うし、さらに武術(韓氏意拳)による深いマインドフルネスの稽古を毎日やっていることも効いている。

つまり、私がいろいろやっていることは、全部心身の調子を保ち、予防し、向上させることにつながることばかりなのだ。
以前は音楽にせよ、小説執筆にせよ、調子が悪くなる方向にばかり励んでいたのだが、いまではそれが真逆になっている。

とても簡単でシンプルな方法なので、ひとり占めせずに、たくさんの人におすそわけしたいものだ。
みなさん、私のどのイベントでもいいので、興味がわいたらいらしてくださいね。


2月25日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)
2月25日(日)午前11時から約6時間、共感文章講座を開催します。水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

2018年2月18日日曜日

YouTube:ピアノ演奏「どこかで春が」@福井県立病院

2018年2月14日。
数か月おきにおこなっている福井県立病院のエントランスホールでの「冬のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像ですが、抜粋してお送りします。

大正12年に発表された百田宗治作詞、草川信作曲の唱歌「どこかで春は」の即興アレンジ演奏です。
よく聞かれるんですが、楽譜はありません。
元のメロディのみからインスパイアされた即興演奏です。

映像はこちら

2018年2月16日金曜日

落ちこんでいます(笑)

2月14日は3か月に1回くらいのペースでおこなっている福井県立病院のエントランスホールでのピアノコンサートだった。

今回は――いいわけするわけではないけれど――豪雪のなかなんとか福井の実家に帰省し、雪かきし、翌日にはまた名古屋まで車で行ってイベントをおこない、夜に実家にとんぼ返り、また雪かき、その翌日にピアノコンサートという、かなりの強行軍だった。
スケジュール的にハードなだけでなく、肉体的にもハードだった。

そういうわけ、とはいいたくないけれど、今回の演奏は絶不調。
世界でただひとりの雪かきピアニストですよ、なんて、開始前は軽口を叩いていたのだが、完全に雪かきピアニスト失格。

原因はハードスケジュールのせいではなくて、このところの練習不足のせいであることはたしか。
練習不足がたたって、演奏に全然集注できなかった。
できないところばかり気になるのでますますできない、という悪循環のなかで、悪戦苦闘。

後半はなんとかペースをつかんだけれど、そのときにはもう演奏時間も終わり。
日ごろの稽古は大切だなあ、と実感している。
あたりまえだな。

ひさしぶりに落ちこんだ。
しかし、聴いてくれたみなさんには励まされた。
病院の事務局の方たちにも、取材に来てくれた新聞社の方にも、わざわざネットで私のことに興味を持って駆けつけてきてくれた人にも、楽しかった、すばらしかった、といってもらえた。
自分の調子が悪いときほど、オーディエンスにはウケがいいという……しばしば起こることだが、いまだによくわからない、解明不能の現象だ。

東京にもどったら、少なくとも、時間はともかく(できれば1時間くらいは)、毎日練習したいなあ。
しなければ、ではなく、「したい」という猛烈な意欲が湧いてきているのは、よしとしようかな。

2018年2月15日木曜日

名古屋天白で現代朗読ワークと共感カフェの連続開催

2018年2月12日、建国記念の日の振替休日の月曜日。
毎月なにかしら開催させてもらっている名古屋天白の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で、今回は現代朗読のワークショップと共感的コミュニケーションの勉強会を連続で開催させてもらう機会をいただいた。

こちらではこれまでにも音読療法や、朗読ワークショップを開催させてもらっていたが、なぜか朗読に興味を持ってくれる人が多くて、今回もわざわざ朗読をやってみたいといってお越しの方も何人かいらしたくらいだ。

個人的な感触として、私がおこなっているイベントのなかでは、共感的コミュニケーションがもっともみなさんの関心が高く、さまざまな人が勉強会にやってくる。
一方、朗読――とくに現代朗読というある種特別な表現ワークは、だれにでも理解してもらえるというものではなく、興味も限られた人たちしか集まってくれない。
そんな印象があったので、朗読と共感のイベントをならべたとき、どうしても共感のほうに人が集まり、朗読は集客に苦労するだろうという思いこみがあった。
ところがそうでもないようなのだ。

午前中に現代朗読のワークショップを3時間おこない、午後に共感カフェを3時間、という構成でおこなった。
どちらも定員オーバーで、インフルエンザや都合で直前キャンセルが数名あったにもかかわらず、満員御礼となった。
共感カフェはともかく、朗読ワークが定員に達したのはうれしかった。

そして実際のワークショップも楽しくやらせていただき、終了後も「楽しかった」「またやってほしい」「定期的にやってほしい」などの声をいただいた。
それを聞いて、私もひそかに狙っていた「定期的に開催して最後にささやかなライブ発表会をやりたい」という目標を持ってもいいかなと思った。

共感カフェでは岐阜・各務原で世話人をやってくれている白狼澪ちゃんや、名古屋星ヶ丘で西東万里の勉強会の世話人をやっている竹中吾郎さん、そして何度参加してくれているリピーターの方や、今回が初めてのリアル共感的コミュニケーションという方もいらして、多様な雰囲気となった。
吾郎さんのパートナーの恭子さんもいらして、午前中の朗読から参加していただけたのはうれしかった。

私にとってはほとんどぶっつづけ7時間の濃密な時間だったが、あまりに楽しく充実していたので疲労感を覚える暇もなく、集中してやらせていただいた。
書きだしきれないほどのたくさんのニーズを満たすことができて、幸せな1日であった。
ご参加いただいたみなさんと世話人の生惠さんには心から感謝したい。

こちらでの来月3月は、15日に共感編み物カフェを開催する予定となっている。
大変気楽に参加できる会になるはずなので、みなさんどうぞ気軽においでください。


3月15日:共感編み物カフェ@名古屋天白〈アロマファン〉
名古屋でも開催することになりました。
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午前11時から午後4時まで、出入り自由。

YouTube:現代朗読の表現は共感の四つのモードのひとつ

現代朗読は伝達ではなく表現を追求していますが、表現の場面ではかならずコミュニケーションが発生します。
それは自分自身とのコミュニケーションを含みます。
そのとき、現代朗読では共感的コミュニケーションの考え方を用いて、いきいきと自分らしく表現することをめざしますが、この表現の共感モードは、共感的コミュニケーションにおける四つの共感モードのひとつとしてとらえています。

映像はこちら

2018年2月14日水曜日

ほとんど災害救助の気分で福井の実家に帰省

土曜日に国立での共感音読カフェを終えてから、中央道と北陸道経由で実家にもどってきた。
福井の雪は報道その他で聞いていたとおりだったが、道路はとどこおりなく開けられていた。
到着が夜中の2時になってしまったのは、国立インターに乗るまでの街なか渋滞と、中央道の除雪車渋滞に引っかかったせいで、福井にはいってからは順調だった。
ただ、ガソリンなどの物資がまだとどこおっている。

帰省前にあらかじめ聞いていたので、ガソリンを東京で買って帰ることにした。
ガソリンはポリタンクで買うことはできず、専用の携行缶が必要だ。
それはなぜかガソリンスタンドでは売っていなくて、ホームセンターで買わなければならない。
それを車に積んで帰省。

道路はほぼ完全に除雪されていたが、家まわりは雪に埋もれていた。
裏の離れの庭は、母屋の屋根からずり落ちてきた雪で完全にふさがり、縁側のガラス戸を突きやぶりかねない勢い。
その光景は、しかし、私には子どものころから見慣れたものだ。
このところの暖冬が異常だったのだ。

暖冬がつづいたせいで完全に油断していたのだが、かつては庭の池に暖かい井戸水をくみ上げて流していて、そこに雪をどんどん投入して融かしていた。
だから、母屋から大量の屋根雪が落ちてきても平気だったのだ。
しかし、今回は井戸水はくみあがっているものの、池にはどうやら通じていないらしい。
どこかで詰まっているか、経路が変わってしまっているらしい。
雪が降る前に点検しておけばよかった。
やむをえないので、裏の車庫のまわりの雪を片付けて、お茶を濁した。

2018年2月13日火曜日

YouTube:朗読表現における伝達と共感の違い

国立春野亭で定期的に開催している現代朗読ゼミの模様から、主宰の水城がレクチャーしている一部分を抜粋して紹介します。

表現は「純粋表現衝動」から生まれ、結果として「コミュニケーション」にたどりつきます。
一方で「朗読」と呼ばれる行為には、「伝達」と「表現」の側面があります。
現代朗読では、自分自身を伝えるための「表現」としての朗読行為をもっぱら扱っています。

映像はこちら

2018年2月11日日曜日

共感的コミュニケーションにおける三つの心がけ「AMO(編も)」

私が提唱する4つの共感モード「積極的共感モード」「表現共感モード」「テキスト共感モード」「縁側共感モード」のうち、最後の縁側共感モードの実践の場として共感編み物カフェを開催している。
(4つの共感モードについてはこちらの記事をご参照ください)

共感編み物カフェを開催するにあたって、三つの心がけを提案している。
相手の話を聞き、共感するときの心がけだ。

 当てにいかない(A)
 向かい合わない(M)
 追い詰めない(O)

共感的コミュニケーションでは自分と相手のニーズを知り、理解することで、つながりを作り、お互いを尊重しあえる関係性をめざす。
しかし、ときに相手のニーズを知りたいと思うあまり、当てっこのようになってしまうことがある。
相手のペースにおかまいなしに、どんどんニーズを推測し、当てようとする。
そうすると、相手は自分につながる余裕がなくなってしまう。

また、だれかに共感するとき、その相手に「向かい合う」ことが必要だと思いこんでいる人もいる。
パートナーや親子関係、大事な友人や仕事での人間関係でも、向かい合うことが必要だ、向かい合うことから逃げることはよくない、と思いこんでいる。
その強要がどこから来たものかはわからないが、私は西洋文化として輸入されたものではないかと思っている。

すべての人がとはいわないが、すくなくとも私はだれかと向かい合うことが苦手だと感じるときがある。
面と向かって話をするとき、どことなく気まずさを感じる。
また「相手の目を見なさい」などといわれると、どうしていいかわからなくなってしまう。
相手の目をまともに見るのは、喧嘩を売っているときか、セックスしているときくらいだろう、と私は思っている。

私をふくめて大抵の人は、なんとなく相手の全体を感じながら、しかし向かい合うことなく、こちらとあちらという相対的な関係のなかで受け取りあっているのではないか。
向かい合わなくても共感はできると思うし、むしろ向かい合わない共感こそ自然で、居心地のいいものではないか。

そうすると、必然的に相手を追い詰める、とか、問い詰めるということをしなくなる。
自分と相手のペースやスペースを尊重しながら、自然に共感しあっている。
ただ共感的身体でそこにいるだけでも安心できる。

というような心がけを提案しているのだが、どうだろうか。


2月28日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

物理的身体と経験的身体(韓氏意拳参加記録)

2月にはいってから光岡英俊先生と鹿間裕行先生の講習会に、それぞれつづけて参加することができた。
おふたりとも、東京での講習会は土日や金曜夜になることが多く、そのタイミングだと私自身もイベントがはいっていたりして、なかなか参加できずにしばらくくやしい思いをしていたのだ。

どちらもたくさんの気づきやあたらしい体験をして、どれも書きとめておきたいことばかりだが、まずはひとつだけ書いておきたい。
それは表題の「物理的身体」「経験的身体」という話だ。

現代人にはそのような傾向があるということだが、私にもたしかにそんな傾向がある。
というのは、自分の身体(body)をあたかも「もの」「物質」のように見たり、とらえたりする癖がある。

私には後天的に学習し、おぼえた、人の身体についてのたくさんの知識がある。
身体のそれぞれの部位をこまかくいえるし、骨格や循環器系、神経系などについての知識もある。
それらがどういう役割を持ち、どのような働きをしているかについても、たくさん学んでいる。
それらがぎゃくに災いして、身体を部品、もの、物質として見てしまう傾向が強くなってしまっている。

よくかんがえれば、身体にはもちろん物質的側面もあるけれど、生きて動いている私の身体は、物体というより生命体であり、生命といううまく説明のつかない現象を表現している「場」ともいえる。
たしかに身体はたえず変化しているし、流動的ですらある。
動いたり、歩いたりするとき、ロボットのように部品を動かしているという感じはなく、それはただそういう現象として現れたり、持続したり、消えたりしている。

私たちは身体という現象の経験をしているのだ、と光岡先生はいうし、私もまったくそのとおりだと思う。
武術(韓氏意拳)の稽古においても、身体を操るのではなく、そこに現れる現象と付き合い、観察し、経験することが重要だ。

ひょっとして自分が「こうだ」と思っているようには身体は現れてこないかもしれない。
また、動かしたいようには動いてくれないし、思いがけない動きやパワーが表出してくる経験をするかもしれない。
稽古においては、未知の経験=身体と向き合う謙虚さと勇気が必要なのだろう。

それが知識ではなく経験としてわかってくると、毎日の稽古が楽しくスリリングになってくるのだ。


2月20日:国立・韓氏意拳初級講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級講習会の2018年2月は、20日(火)午後にJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

2018年2月9日金曜日

YAMAHAボーカロイドキーボードのBluetooth接続に苦労する

自分用のメモも兼ねて。

YAMAHAのボーカロイドキーボードのボーカロイドの機能にはなんの興味もなく、MIDIキーボードとして重宝だと思っている。
とくにiPadをBluetooth経由でワイヤレスでコントロールできるのがすばらしい。

ただ、Bluetooth接続に何度も苦労したので、その手順を確認しておきたい。
本当はスイッチオン、アプリ立ち上げで、そのまま使えるといいのだが。

(1)VKB-100の電源オン

(2) YAMAHAのアプリ「V Keyboard」を(iPadもしくはiPhoneで)立ちあげる
 メニューボタンを押し、プルダウンメニューから「キーボードとの接続」を選ぶ。
 「VKB-100」を選択 ⇒ 「Connected」となればOK

(3)メニューボタンから「全体設定」を選ぶ
 「MIDIキーボード」をONにする。

(4) GarageBandなど好きな演奏アプリを立ちあげて、演奏する

ワイヤレスでMacBookなどとつなぐこともできる。
USBケーブル経由でつなげば、Logic Pro や MainStage などを演奏できる。
外部MIDIコントロールの設定を有効にしておく必要がある。

2018年2月8日木曜日

個人セッションと公開個人セッション

個人セッションとしてボイスコーチングや共感セッション、調停を受ける機会が、最近目立って多くなってきている。

個人セッションの内容はさまざまで、夫婦やパートナーとの関係、職場でのコミュニケーションといった、人間関係の気がかりから、転職、気力の喪失など、多岐にわたる。
今日も、子どもの国語力が気がかりで、読解や表現力をつけるために音読することの効果はないだろうか、という問い合わせがあった。
私が思ったのは、子どもをどうこうする前に、まずお母さんへの共感が必要なのではないか、ということだった。

親は子どもの順調な成長や、社会への適応、心配なく暮らしていけるための能力の獲得を願い、そのために役に立ちたいと懸命になっている。
それが懸命になるあまり、手段に固執し、子どもにプレッシャーを与えすぎて結局成長を阻害してしまうことがある。
また自分自身もあせりやゆとりのなさから、いつもいらいらしたり、不安を抱えてしまい、子どもやパートナーとの関係にも支障をきたしてしまう。
このようなお母さんは、じっくりと共感的に話を聞いてもらい、自分のニーズ――大切にしていることに気づき、自分自身を取りもどし、子どもやパートナーにもゆとりや尊重をもって接することができるようになる必要がある。

そんなとき、個人セッションが役に立つことがある。
子どもになにかする前に、まずは共感、自分自身につながり、落ち着くことが必要なのだ。
これは子どもとのことに限らず、あらゆる人間関係においてもいえることだ。

共感が必要、自分自身とのつながりが必要、という人が世の中にはたくさんいる。
自分自身でそれができる人はいいが、あまりに切羽詰まってしまったり、厳しい状況に追いこまれた人は、手助けが必要になることが多い。
私がおこなっている個人セッションも、そういう人のお役に立てればうれしいと思っている。

来月の名古屋天白〈アロマファン〉での共感カフェでは、公開個人セッションができないかとかんがえている。


◎ギフト制によるレッスン/個人セッション
対面でもオンラインでも、レッスンや個人セッション(ボイスコーチング)をおこなっています。メールでもメッセージでも気軽にどうぞ。お待ちしてます。興味のある方はこちらの詳細ページをご覧ください。

YouTube:暴力と非暴力について(暴力はどこから来るか)

小川町〈わなしカフェ〉でおこなわれた共感カフェの記録映像から、一部を抜粋して紹介します。

コミュニケーションにおける暴力と非暴力の定義について話をしています。
暴力が生まれるのは「怖れ」からだと、ガンディーもいっていますが、水城もそれに同感です。
では、暴力的にふるまっている人にはどのように接すればいいのでしょうか。

映像はこちら

2018年2月6日火曜日

YouTube:すでに持っている普通の共感モード

小川町〈わなしカフェ〉でおこなわれた共感カフェの記録映像から、一部を抜粋して紹介します。

共感的コミュニケーション(NVC)というのは、なにか特別なスキルを身につけることではなく、現代社会の仕組みのなかで否応無く身につけてきたふるまいに気づきそれを手放していくことで、本来人間が持っていた共感的な身体・関係性を取りもどしていくことだと、水城はかんがえています。
ごく自然でありふれた共感的世界をめざします。

映像はこちら

『共感的コミュニケーション2018』の紙本が入荷しました。
税・送料込みで1,500円です。こちらからお買い求めいただくか、水城に直接お申し付けください。
また、電子書籍のアマゾンKindle版(500円)もこちらから購入できます。

2018年2月5日月曜日

小川町〈わなしカフェ〉で共感カフェをおこなってきた

「わなし」は「罠師」と書くらしい。
罠を使ったイノシシ猟などをされている方が開いたカフェスペースらしいが、残念ながらそのご当人には会うことができなかった。

何年か前から朗読や共感的コミュニケーションに関心を持って私とつながってくれている小川町在住のあやこさんが、共感カフェを主催してくれた、その会場が〈わなしカフェ〉だ。
小川町ではこの前にも一度開催したことがあって、そのときに参加してくれた方が今回も参加してくれた。
そのほかにも、新たに参加してくれた方もいれて、約3時間の勉強会をおこなった。

自家焙煎のおいしいコーヒーや手作りのクッキーをいただいたり、参加の方が作られたスープをいただいたりしながら、じっくりと話を聞き合う時間になった。

小川町は近年、有機農業で注目を浴びている街で、移住者も多い。
そういう土地に共感的コミュニケーションの場が根付くのはありがたいし、また有効だと思っている。
なにかあたらしいことがはじまる場所、あたらしいことをはじめようという人々がいるとき、そこに必要なのは人々のつながりと活力であり、お互いに尊重しあいながら創造的にものごとが進んでいくことが望ましい。
そんなとき、共感的コミュニケーションが力を発揮する。

また、あたらしい土地に移り住んだ人や、その人を受け入れる人々とのつながりを作ったり、ひとりひとりの落ち着きと活力をもたらすことにも、力を発揮する。
そういう学びとつながりの場作りに貢献できることが、私にはとてもうれしいし、今回のように声をかけてもらえることがありがたい。
あやこさん、ありがとう。

それぞれ学びや練習を各自でつづけていただきたいが、また助言や共感が必要になったら、いつでも呼んでほしい。
私もみなさんとのつながりを大切に思っている。


2月10日:共感音読カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会、2月の開催は10(土)/19(月)/24(土)、いずれも14時から約3時間です。

2018年2月3日土曜日

楽しかった共感編み物カフェ

先日来、気づいたり、思いついたりしたさまざまなことを実行に移すべく、1月31日に共感編み物カフェを開催した。
さまざまなこと、についてはこちらの記事をご参照いただきたい。

「縁側における身体性が日本人の共感的身体」
「共感的コミュニケーションにおける四つの共感モード」

共感編み物カフェのねらいは、参加者それぞれが編み物という手仕事をおこなっている状態で、自分事にもつながりながら、そこにいっしょにいる人たちの話を聞いたり、様子をなんとなく受け取っている、という「ゆるやかな共感の場・関係性」を試してみたい、ということだ。
それは、上記事にも書いた「縁側」の感じを、再獲得してみたいという意図から来ている。

実際におこなったこと。
まず、時間帯をゆるやかに設定すること。
私が午後3時から夜8時まで場をひらくので、参加したい人は好きな時間に来て、好きな時間に帰ってもらていい、という設定。
また、会場に直接来てもらってもいいし、ネット経由オンラインで参加してもいい、という設定。
そのための会場とネットの機材設定をおこなった。

また、いっしょに編み物をする、という目的をかかげてあるが、編み物をしてもしなくてもよく、編み物以外に絵を描いたり、自分の仕事をしたり、横でミーティングをしていてもいい。
実際に設計図面を引いたり料理をしたり、事務局ミーティングが横でおこなわれたりもしていた。

本当にゆるやかな場だが、そこにはたしかにつながりがあり、またこれが重要だと思うけれど、参加者それぞれが「自分がここにいる」というプレゼンスの感覚を持って居つづけることができたと思う。

非常に基本的なことだが、プレゼンスがなければ共感は生まれない。
「いまここ」の感覚は、最近、さまざまに表現されていて、「マインドフルネス」とか「フロー/ゾーン」とか、あるいはいろいろな種類の瞑想や呼吸法でも試みられているが、そのなかでも編み物などの手仕事は日常的なゆるやかさで、しかしとても自然な「いまここ」をもたらすことができると私は思っている。
それは私自身が編み物をやることで経験していることだ。

共感カフェで編み物をしながら人の話を聞いたり、共感を向けたりするのが、私にとってはとても自然で心地いいし、また相手も居心地がいいといってくれることが多い。
もっとも、自分の話を聞いてもらうとき、相手がなにかをしながら、という状態に怒りやいらだちをおぼえる人もいることも確かで、そのことには配慮しなければならないだろう。
私がいっているのは、あくまで日常的で、自然な共感的身体の話だ。

共感編み物カフェでは、かつての縁側のような日常的で自然な共感の場や身体性が失われた現代社会において、意図的にそういうつながりの場を再試行してみようという意図がある。
先日の共感編み物カフェでは、それが思ったよりうまくいったし、このような場を継続的に、そして拡大的につづけてほしいという意見も聞かれた。
私も楽しかったし、このような機会をつづけてみようと思っている。
興味をひかれた方は、一度参加してみてほしい。

2月28日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

2018年2月2日金曜日

いいぞ、YAMAHA ボーカロイドキーボード YKB-100

先日、立川をぶらぶらしていたとき、ビルの上の階のほうに「イシバシ楽器」の看板を見つけて、こんなところに楽器屋があったんだと立ち寄ってみることにした。
まあ、立川にはなんだってあるので楽器屋だってあるのは当然なんだけど、なんとなく気が引かれたのだった。

気が引かれたのには理由もあって、このところ、MacBookにつなぐMIDIコントローラー――つまり鍵盤(キーボード)――を探していたのだった。

私はピアノ弾きで、よく朗読と共演することがあるのだが、ピアノがない場所だといろいろ苦肉の策を講じることになる。
三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で共感的コミュニケーションを隔月のペースでおこなっていたが、そのときにはかならず最後に朗読と音楽のミニライブもやっていた。
オハナにはピアノがないので、なにかしらの楽器を持ちこむことになる。

あるいは数年前まで明大前のブックカフェ〈槐多〉でやっていた「槐多朗読」も、楽器を持ちこんでいた。

持ちこむとしたらデジタルピアノがもっとも理想的なのだが、いかんせん重い。
ひとりで運ぶのは無理。
車が使えるときはそれで運んだりしたこともあるが、重いし、そして場所を取る。

軽量のシンセサイザーを使っていたこともある。
それ自体、音も出るし、MacBookにつなげば多彩な音源や効果音も使える。
ただ、問題がいくつかある。

鍵盤がピアノタッチではなく――ハンマーアクションではなく――軽いオルガンタッチだ。
ようするにスイッチだ。
いくらかタッチレスポンスはあるが、せいぜい音量を変えるくらいだ。

また、軽量にこだわると、鍵盤数も少なくなる。
通常のピアノは88個の鍵盤があるのだが、小型のシンセは60個とか50個とかになる。
カバーできる音域は4オクターブ前後で、それより低い音や高い音が必要なときは、スイッチで音域をスライドさせて使うことになる。
ほかにもパワードスピーカーも必要で、それなりの荷物になる。

リュックサックひとつで運べるようにするとなると、最近ではおもちゃのような鍵盤(MIDIコントローラー)をMacBookやiPadにつないで使うようになっていた。
あるいはごく最近、MacBookで使っているオーディオアプリ「Logic Pro」をiPadからコントロールできる「Logic Remote」というアプリが出て、iPadに表示させたバーチャル鍵盤を演奏に使うこともやっていた。

いずれにしても、非常に不自由で、ピアノのように自由に演奏できるというわけではない。


上記の機材のほかに、私はピアニカ(鍵盤ハーモニカ)を使うこともあった。
ピアニカは自由に動きまわれて、電源も不要、演奏者の身体性を音に乗せることもできて、場所によっては非常に効果的に使うこともできた。
ただ、意外に音がでかいのと、私自身がピアニカという楽器に慣れていないということがあった。
ピアニカ奏者じゃないからね。

立川のイシバシ楽器のキーボード売り場をひととおり冷やかし、なかに一台、これは使えるかもというキーボードがあったのでメモを撮ったりして、帰ろうとしたとき、ふと変な楽器が目にとまった。
それがYAMAHAのボーカロイドキーボードだった。

名前はともかく、ショルダー型というところが気になった。
ショルダー型キーボードは前から使ってみたいと思っていて、実際にローランド製のものを触ってみたこともある。
が、キーボードというよりシンセサイザーで、音作りもできるタイプで高価だったし、重かった。

実際にプロのミュージシャンが何人も使っているのを見たこともある。
おもにフュージョン系の音楽で、ハービー・ハンコックやチック・コリア、ジョージ・デュークが多用していた時期がある。
しかし、現在は生産中止となっている。

ショルダー型はピアニカのようにステージ上を動きまわれる点が最大の利点だ。
鍵盤奏者は通常、楽器の前にどでんと座っていて、動くことができない。
動けないから、その欲望が「楽器をまわりにたくさん並べる」という方向ににじみ出したりもする。
ショルダー型だと、ギタリストやベーシスト、リード奏者のように、ステージ上を自由に動きまわることができる。

実際に私も、ピアニカを持ったときの自由さには味をしめている。
朗読者とからんで、しばしば嫌がられたりもする(汗)。

ヤマハのボーカロイドキーボード(以下「ボカロキー」と略すことにする)の展示品を持ってみたら、驚くほど軽い。
スピーカーにつながっていたので、音を鳴らしてみた。

なるほど「ボーカロイド」という名称がついているだけあって、鍵盤を押すとあの「初音ミク」みたいな女の子の合成音声で発音する。
ちゃんと歌詞を発音するようになっていて、手元の液晶パネルに表示されている歌詞を、キーを押すごとに順番に発音していく。
当然単音だが、メロディを弾くとそのとおりに「歌って」くれる。
ここが「売り」らしい。
しかし、その点にかんしては、

「私にはなんの興味もない」

ボーカロイドのほかにも音源がいくつかはいっているようで、たとえばエレピの音も鳴らせる。


鳴らしてみた。
普通にキーボードとして演奏できる。
ピッチベンドもあって、ギターのチョーキングのような音程変化もスムースにつけられる。
楽器をショルダーベルトで肩からさげて、右手で鍵盤を、左手でピッチベンドやモジュラーホイールなどのコントローラーを、という演奏スタイルは、ギター奏者のようで軽快だ。
ただし、このスタイルだと右手演奏しかできない。

ピアノのように両手で演奏したければ、弁当箱スタイルで下げるか、素直にテーブルなどの上に平たく置くことになる。

問題は、MIDIコントローラーとして使えるのかどうか、ということだ。
家に帰ってからいろいろ調べてみたら、どうやら使えるらしいことがわかった。

それにしても、ネットでいろいろ調べてみる過程で、出てくる試奏映像はほとんどすべてがボーカロイドに焦点があてられていて、演奏するメロディどおりにボカロが歌ってくれるとか、歌詞を自分で入力できるとか、そこをはしゃいでいるものばかりだ。
そんなものに、

「私にはなんの興味もない」

しばらくして手元に実機が届いたとき、真っ先にトライしたのは、MIDIコントローラーとしてiPadやMacBookに接続し、音源を鳴らせるかどうか、だった。

結論からいえば、できる。
設定にちょっと手こずったけれど、大変軽快なMIDIコントローラーとして使えることがわかった。
とくにiPadに接続するときは、ブルートゥース経由でワイヤレス演奏ができる。
そして、電池駆動も可能だ(単三乾電池6本)。

MacBookに接続するときはUSB経由になる。
有線だが、Macにセットされている豊富な音源やソフトを、このボカロキーから演奏できるのは、快適そのものだ。

ひとつだけ問題があって、それはキーボードがフルサイズではなくミニサイズで、音域も4オクターブしかないということだ。
しかしそれはピアニカとおなじなので、受け入れて、それで自由に演奏する練習をするしかない。

詳細なレポートは後日あらためて書くが、現時点でベストな使用スタイルは次のものと思われる。

・iPadにブルートゥースで無線接続
・iPadではGarageBandを立ち上げる
・ブルートゥースでモバイルスピーカーをiPadに接続(あるいはiPadの内蔵スピーカーをそのまま使う)
・電池駆動

自由になったキーボーディストを満喫できる。
そしてデスクトップでは電源とMacBookにつないで、そのまま音楽製作ができる。


◎アマゾンKindleストアで買える水城ゆうの著書
『仕事をやめたいと思ったときに――共感ハンドブック Vol.1』『祈る人』シリーズ1〜4『共感的コミュニケーション2017』『秘密』『桟橋』『ストリーム』『ジャズの聴き方』ほかにも続々とリリース予定です。一度ご覧ください。
⇒ http://amzn.to/2l2rrfP