という質問にたいして、これまで多くの人に、言下に、
「できません」
と、にべもない返事をしつづけてきた。
たしかにそういう側面もあるし、いまもコミュニケーションは対面でなければ重要な情報の多くが抜け落ちてしまうというかんがえは変わりない。
しかし、文章=テキストで「まったく」共感しあうことができないか、というと、そうでもないような気が最近はしてきている。
私が「できない」といいきってきたのは、言語および身体コミュニケーションを前提とした共感のプロセスが念頭にあったからだ。
たしかにだれかがだれかに共感する、あるいは共感しあうという交流においては、ことばに含まれるテキスト情報だけでなく、それがどのように発しられているのか、どんな調子なのか、どんなリズムなのか、そこにはどのような感情が読めるのか、引いてはそのことばはどのような身体から発しられているのか、といった複雑でリッチな情報の受け取り合いが重要になってくる。
しかし、それは対面または直接の音声交流がリアルタイムにおこなわれることを前提とした共感のプロセスにおいて重要だ、という意味だ。
最初からリッチ情報を交換できない、という限定された条件で共感を試みるとしたら、どんなアプローチがありうるのだろうか。
たとえばテキスト情報しか交換できないという限定条件において。
その観点から、共感のプロセスを一から見直してみたとき、あらたな可能性が浮かびあがってくる。
テキストで共感的な交流がまったくできない、ということは、ないのではないか。
このところ私がみなさんと試みて、大きな成果をあげている、「なにかを書くことによって自己共感を深める」というワークで、上記の可能性が私のなかでふくらんできた。
自己共感だけでなく、他者共感も試みることができるし、相互共感もありうるかもしれない。
その際、リアルタイムでリッチな交流とはかなり異なるアプローチが必要だろうと思う。
とはいえ、共感的コミュニケーションの核心的な原理をはずすわけでは、もちろんない。
こんなことをかんがえはじめて、ひさしぶりにかなりわくわくしている。
共感的コミュニケーションという体系のなかで、まだあまり手をつけられていないテキストコミュニケーションの原野に、ざっくりと冒険の舵を向けてみようと思っている。