最初のころは元気に歩いたり、食事もしていたのだが、しだいに弱ってきて、寝たきりになり、話もしにくくなってきた。
脳機能障害と、2回の切除を経て再発・転移したガンの進行が思ったより早かったのだ。
ここ数か月はかなり弱ってきて、食事がまったくできなくなって点滴でしのいでいた。
11月末には呼吸が不安定になることがあって、「そろそろ」という声が医師や介護職員から出ていたので、私もそれなりに覚悟していた。
12月1日の早朝に連絡があり、こちらに連絡する間もなく息を引きとったという。
そのまま車に乗って実家にもどった。
すでに遺体は葬儀屋によって自宅に運ばれ、座敷に安置されていた。
身内と隣近所だけに知らせ、ごく簡素に通夜と葬儀をおこなった。
それでも思ったより多くの人が来てくれて、いずれも母と親しかった人たちばかりで、心からのお別れをしにきた人ばかりだった。
僧侶が何人も来て頼みもしないお経をあげるようなことはなく、静かに親しい者だけでお別れした。
お通夜の夜、おいでいただいたみなさんにはそこそこにお引き取りいただいて、私は母とふたりだけで座敷で寝た。
ものいわぬ母とゆっくりすごせたのはありがたかった。
母とはここ数年、私にとっては「和解」とも感じられる共感的な対話を積みかさねることができていて、私もうれしかったが、母も喜んでくれていたとしたらいいなあと思っている。
別に仲が悪かったわけではないけれど、ふつうの親子にありがちな表面的でパターン化された会話やつながりしかなかったのだが、母が車の運転で事故を起こしたことをきっかけに、共感的な対話を試みたのが、私にとってはつながりのチャレンジだったし、それがよかった。
母を見送ったいま、私は寂しさを感じるけれど、安らかさもあって、母もそうであったらいいなと願っている。
東京にいったんもどってきて、今週は共感週間ともいうような共感カフェや文章講座のイベントがつづいているが、母とのつながりを取りもどした私の経験をだれかとシェアする機会があるといいなと思う。
もちろん母のこと、母とのことについては、あらためて書きのこしてみたいとはかんがえている。
それが私の供養だから。