だれしも「美」をもとめる気持ちがある、ときにはそれは強い必要性となってその人の行動や、人生すら決定することもある。
これまであまり深く美のニーズについてかんがえたことはなかったかもしれない。
かんがえたとしても、せいぜい、
「最近太ってしまった。すこし痩せなきゃ。これは美のニーズがあるからだな」
とか、
「バッハが好きなのは、整然と構築された音の世界に美を見るからだな、きっと」
という程度のものだった。
しかし最近気づいたのは、自分の生き方というか人生そのものにも、美のニーズがあるということだ。
すっきりした部屋に住みたい、とか、贅肉を落としたい、とか、持ち物を少なくしたい、とか、姿勢をよくしたい、とか、規則正しい生活をしたい、とか、ミスタッチなくピアノを弾きたい、とか、嘘いつわりなく毎日をすごしたい、とか、人間関係を大切にしたい、とか、きりがないけれど、かなり多くの願望が美のニーズに接続しているような気がする。
というより、美のニーズからは多くの枝分かれがあって、その先にもそれぞれ細かな美のニーズがたくさん葉を広げているような感じ。
とくにこの歳になり、残り時間を気にするようになってくると、それらのニーズがいちいち立ちあがってくる。
しかし、自分がこれまですごしてきた人生の時間は後戻りできないし、すでにやらかしてしまったことは消去することはできない。
いや、本当に消せないのだろうか。
記憶を消すことはできないというけれど、そもそもそれは記憶にすぎず、脳内イメージといっていい。
つまりそれは、いまこの瞬間には存在していないもので、私の脳内にイメージとしてこびりついているものにすぎない。
捏造されてすらいるかもしれない。
自分が過去にしでかしたことをくよくよして前に進めないでいるより、いまこの瞬間の美のニーズにつながって、いまどうありたいのか、どうしたいのかをクリアにして進んでいきたい。
たしかに過去はそんな私の背中にずるずるとしがみついて私を引きもどそうとするだろう。
それはそれで向かいあう必要がある。
それらと縁を切るためには、いまなにができるのか、ということだ。
それだって美のニーズから生まれている。
そうかんがえたとき、さて私はこれから、なにをするのだろう。
どんなものを作るのだろう。
なにをいったり、演奏したり、表現したりするのだろう。
あるいはなにを「しない」のだろう。
◎自分とつながるテキストライティングWS(6.10)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを6月10日(土)に国立で6時間にわたって、じっくりとおこないます。