私自身は朗読しないくせに、ずっと前から「朗読はいいよ」「朗読にはまだだれも知らない可能性があるんだよ」といいつづけてきたのは、ちゃんとわけがある。
私が朗読というものに真正面から出会ったのはまだ20代なかばのころで、ピアノの教師をしたり、地元のラジオ番組の制作にかかわったりしていた。
そのとき、ラジオ番組で知り合ったナレーターと意気投合して、朗読とピアノでライブセッションをやることになった。
榊原忠美というその人はプロのナレーターではあったけれど、自分の本職は役者だと思っていて、朗読も本の内容を伝える伝達的なことよりも、くっきりとステージ表現の延長線上にとらえていた。
というようなことはいまから思えばわかることだが、朗読を自分を表現するための行為ととらえている人はあまり多くない。
その証拠に、私とセッションしても、まるでこちらの音を聴いていなかったり、ひどいときには「声が負けるので音を小さくしてもらえませんか」と、伴奏者に徹するように要求されることがある。
つまり、本の内容を「伝達」することに主眼が置かれているし、あえていえば本の内容を正しく美しく伝達している自分自身を見てもらいたいという一種の「イメージ」があるのだ。
まあそれだって、聴く人には伝わってしまうわけだが。
私たちは生まれたときからずっと「ことば」を使う練習をしつづけてきた。
事情がある人は別として、たいていは本があればそれを声に出して読みあげ、人に伝えることができる。
つまり、ほとんどの人が朗読者としてすでに十分に訓練を積んでいるといっていい。
しかし、表現行為として自覚的にそれを行なっている人はどのくらいいるだろうか。
いざ朗読を表現行為ととらえてそこに向かってみたとき、多くの人は愕然とするだろう。
実際にそういう姿を私はたくさん見てきた。
自分はいったいこれをどう読めばいいのか。
どう読みたがっているのか。
これを読むことでなにが伝わるのか。
自分自身を朗読で表現するときどういうことなのか。
朗読する自分になにが起こっているのか。
どうすれば魅力的な朗読ができるのか。
どうすれば朗読で自分自身を伝えることができるのか。
これらの問いをあくことなく立てつづけてきたのが、現代朗読である。
ごく普通のサラリーマンや主婦や、現役を引退された高齢の方や、若い学生や、役者や音楽家や絵描きや詩人が、朗読という表現行為試みてみたとき、表現者としてのむきだしの自分自身に向き合うことになる。
なにしろ普段なにげなくだれもがおこなっていることを、あらためて表現行為ととらえて立ち向かってみたとき、自分自身の多くの問題や可能性がめらめらと洗いだされてくるのだ。
だれもがいますぐ始められて、しかし困難にぶつかり、自分自身の問題解決を迫られ、表現と自分の世界の深遠さを垣間見て震えあがる、それが朗読という表現行為の持つ仕掛けなのだ。
ここを一度通過してみることで、表現者はもとより、表現を日常的におこなっていない人も、まだ見たこともない自分自身を知ることになるだろう。
だから私は、だれにでも、朗読をやってみることをしつこくすすめているのだ。
◎6月開催:現代朗読ゼミ(6.8)
約1年間のお休みをいただいていた現代朗読ゼミが、内容と方向性をあらたにリニューアルオープンしました。6月の開催は8(木)/17(土)/22(木)/25(日)/29(木)、いずれも10時半から約2時間。