ちょっとした行き違いがあったり、対立が起こったりしたとき、共感的コミュニケーションを学んだ自分としては、相手を責めるのではなく、共感したいとかんがえる。
暴力的な世界から、共感と思いやりの世界に移行したいと思っている。
なので、相手がなにを大切にしているのか、いまこの瞬間の相手のニーズはなんなのか、共感を向けて知ろうとする。
また同時に、自分のニーズは相手とつながりたい、相手に共感したい、相手のニーズを知りたいことだと思っている。
自分のニーズを理解し、そこにつながり、相手に共感していく。
これは共感的コミュニケーション(NVC)のセオリー通りであり、どこもまちがっていないように見える。
だから、相手に、
「あなたのニーズは○○なのかな? 私はあなたのニーズを知りたいというニーズがある」
と迫ってしまう。
しかし、ちょっと待ってほしい。
そのときあなたは、対立が起こったその時点から時間が経過しているいまこの瞬間にいたって、相手のニーズがすでに変化しているかもしれないことに気づいているだろうか。
あなたが共感しようと相手に迫ったとき、すでに相手は、だれかから共感を受けたり自分のニーズを伝えたりする余裕や気持ちがなかったりするかもしれない。
相手はただ、自分をそっとしといてもらいたい、自分のスペースと自分なりのペースを必要としているだけかもしれない。
そういう相手に「ニーズを教えてほしい」と迫るのは、これは共感ではなくすでに「強要」となっていることに、あなたは気づいていない。
「強要」とか「要求」「命令」というのは、相手に選択肢をあたえないという意味でまさに「暴力」といっていい。
銃を突きつけて、こうしろ、さもないと撃つぞ、といっているようなものだ。
共感とはつねに、相手の側にも選択肢があるものだ。
あなたは相手のニーズを知りたい、教えてもらいたい、しかし相手はそれを教えたくないかもしれないし、すでに話をする余裕すらないのかもしれない。
こちらに答えてもいいし、答えなくてもいい、また、なにか別のことをしてもいい、と相手が選択することをこちらが尊重している必要がある。
あなたのニーズはそのとき満たされないかもしれないけれど、ニーズが消えるわけではない。
自分のニーズを相手に伝えた上で、相手が自分のニーズにしたがって選択することを尊重したい。
それが、お互いのニーズをともに尊重する共感的コミュニケーションの原理である。
◎自分とつながるテキストライティングWS(7.1)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを7月1日(土)に国立およびオンラインで6時間にわたって、じっくりとおこないます。