1986年に徳間書店から『疾れ風、哮えろ嵐』というSF冒険長編小説で商業作家「水城雄」としてデビューしたばかりの私は、しかし地方(福井)に在住していたこともあって商業的世界にすっかり全身をひたすことに抵抗していて、前衛的なライブパフォーマンスをあいかわらずおこないつづけていた。
そんななかで、クセックの俳優・榊原忠美と知り合い、朗読と即興演奏によるライブイベントを何度か重ねるうちに、彼の所属する劇団に脚本を提供しないかという話がわいてきた。
榊原とのライブでは、ラテンアメリカの前衛的な文学作品を用いたり、自作の先鋭的な文学作品を用いることが多く、脚本も文学的な冒険に挑戦してみたいという気持ちもありながら、同時にSF作家としての持ち味も盛りこんでみたいという意欲もあった。
そして生まれたのが、『エロイヒムの声』というテキストだった。
テキスト、と書いたのは、いわゆるシナリオ形式の脚本ではなく、ただの一行も改行のない、一連の文章のつらなりというかかたまりのようなものを、クセックの演出家の神宮寺啓にほいっと渡したからだ。
それが1987年のことだった。
『エロイヒムの声』は、名古屋の七ツ寺共同スタジオ、岐阜の御浪町ホール、金沢のアートシアター石川、福井大学の学園祭特設テントで上演された。
私のテキストを神宮寺はみごとにクセック色に消化/昇華し、私は自分の作品が思いもよらない変化をとげる原作者としての快楽を、思う存分味わわせてもらった。
それ以来、私はシナリオを提供することはなかったが、クセックの芝居はほとんどすべて目撃している。
クセックは日本人の作品をただ一回上演したのみで、あとはスペインなど海外の作家によるテキストを用いている。
スペイン公演も何度かおこなっている。
今回はアラバール。
ステージ上には長テーブルと長椅子が階段状に客席に向けてセットされている。
それ以外のセットはなにもない。
そのセットに火田詮子が終始すわりつづけていた。
榊原忠美もセットにすわっていることが多かったが、彼はもうすこし動いた。
そしてコロス(群読隊)がそのまわりを動きまわり、またセットによじのぼり、はいまわり、からみつく。
クセックは動く絵画と評されることがあるが、まさにそのとおりだろう。
おそらく演出家・神宮寺の頭には、一連の動きがあるなかで一瞬切りとられた「絵」のことしかないはずだ。
その「絵」が美しいかどうか、きわめて個人的な嗜好による判断が、演出指示の根拠となっている。
それがクセックという劇団の本質といってもいいのだろう。
今回、榊原忠美と火田詮子というベテランと、若手俳優たちとの身体性の乖離や、翻訳・脚色・構成をになった田尻陽一という学識のことば・影響について、あれこれいう人がいたり、私も確かにそれは感じた面もあるが、それはこの劇団にかぎって本質ではない。
絵、だ。
私たちは、いや、私は、神宮寺の描く絵を観たいがゆえに、毎年東京からはるばる名古屋くんだりまで足を運ぶ。
脚本も役者も音響も照明も衣装も、すべて神宮寺の絵のために身を捧げているといっていい。
そして今回、その絵は、固定され、劇的などんでん返しも、カタルシスも、大仰な装置も、なにもなかった。
ただ舞台中央に階段状の装置が作られていただけだった。
それゆえにこそ、その制約のなかで描かれていく「絵」はストイックなものだった。
役者たちのリアルな、生きている身体を用いた絵画。
たまらなくいとおしく、魅力的なライブ。
もう28年も前のことになるけれど、自分のテキストが「絵」として実体化してもらえたことが、私にとってはとても幸せなことのように思える。
いまは現代朗読に関わってくれている人たちの身体/声を、世界にとどくマテリアルとしてどのように「実体化」していけるのか、それをより鋭くかんがえてみたいと思っている。
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