私の大好きな旅行エッセイストで故ブルース・チャトウィンの著書に『どうして僕はこんなところに』という本がありますが、いまは「どうして私はこんなことを」という感じでしょうか。
多くの人から「なんでそんなことしてるの?」「お金にもならないことを毎日やってバカじゃないの」「一日も欠かさずなにかをつづけるコツを教えて」など、いろいろなことをいわれます。
そのつど、思いついたことを答えていますし、それは嘘ではないんですが、自分の奥底には「なんでこんなことを」という自分でもはっきりわからない部分がたしかにあります。
人は自分のことをある程度わかったつもりでいますが、最近私が気づいたことに、自分のなかには自分でも踏みいることができないブラックボックスのような場所がある、ということがあります。
よくよく目をこらし、注意深く観察すれば、そこからときおりチラッと気配のような、きざしのようなものがひらめいて見えることがあります。
そいつが湧きあがってくるブラックボックスのなかは、自分の生命活動そのものであることがかいま見えます。
自分の生命活動そのものは自然におこなわれているものですが、そこでおこっていることを私たちはコントロールすることができません。
そこには本能や衝動、ニーズといったものがうごめいていて、たしかにそこにあるんですが、自分で制御することはできません。
それはただ「そこにある」のであって、私はかすかにその声を聞くことができるだけです。
そしてそれは、生命というものの働きがそうであるように、常にダイナミックに変化しています。
その声にさからって無理になにかをしようとしたり、無視して関係ないことを強行しようとすると、かならずよくないことが起こります。
私はそのようなことばかりして50年以上の人生を苦しくすごしてきたのだと、いまはよくわかります。
私がなにかを好んでやりたくなったり、やりつづけたいと思ったり、思いがけない表現をしてしまったとき、それが我想からはなれ身体の奥深くにあるニーズの声にしたがったものであるなら、それは私にとって「良」とするものです。
「こういう理由で私はこれをやる」といった思考からはなれない予定強行的な行動は、じつは自分のニーズから乖離していることがあります。
私がここにこうやって生きていて、いまこの瞬間も熱くたぎっている生命活動のブラックボックスから立ちのぼるきざしが聞こえているかぎり、私はきっと毎日、一見意味のない音楽配信をつづけることでしょう。
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