朝から雨。昼前にはかなり強い雨となり、雷も鳴りはじめた。
午後は弱まり、雨はあがった。
今日は一日、プラムハウスで原稿書き。
世田谷区の広報を見た、といって11月7日の「Kenji」公演を予約してきたおじさんがいる。これはライブワークショップの一環の公演で、最終発表ライブという位置づけだが、世田谷芸術百華というイベントにも参加している。11月7日、下北沢〈音倉〉にて、昼夜2回の公演。
ずっとしつこくやっていた名古屋ウェルバ・アクトゥス公演「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」のシナリオ全編が、ようやく完成した。全550行。原稿用紙にして40枚くらいか。
かなり壮大な仕掛けがある。とても「朗読」公演の規模ではないな。そもそも朗読だけの公演ではないけれど。
この公演用のオリジナル音楽と歌曲を何曲か書く必要が出てきた。
シナリオをさっそくPDF化して名古屋に送ったら、すぐにナオスケさんからねぎらいの電話が。ほっとした。
水城ゆうブログ
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2010年9月28日火曜日
新作オーディオブック・宮沢賢治「めくらぶどうと虹」
2010年9月27日月曜日
共感と感心
演劇、朗読、音楽や絵画など、なにか人の表現を観に行ったとき、心を動かされることがあります。「感動した」などといいます。
そのときの心の動き方には二種類あるように思います。私はそれを「共感」と「感心」に分けています。
自分にできないすぐれた技術や技能を見せられたとき、人は「感心」します。その心の動きを「感動」といっていえないことはないかもしれません。サーカスを観に行ったとき、空中ブランコの妙技を見て、自分にはとてもできないと感心し、演技者に拍手を送ります。
スポーツ選手に惜しみない拍手を送るのも、おなじ心の動きです。自分にはできないが、彼はおそらく大変な努力をしてあそこまで到達したのだろう、すばらしい。
囲碁や将棋や、あるいは落語、歌舞伎といった芸能に対してもそういう敬意の表し方があります。
芸術表現の分野でも、音楽、演劇、舞踊、美術などのすばらしい表現技術に対して拍手を送ります。自分ができないことをできる人に敬意を表す、あるいはその行為に対価を支払う、というのは、人間の自然な行為のように思えます。
しかしそれが高じると、金銭的評価や人気だけがその表現行為の価値基準にようになってしまうことがあります。現代社会では「技能」を追求するあまり、ほとんど「びっくり人間大賞」のようになってしまった表現ジャンルすらあります。
また「感心」させることを目的に技能を磨かれた表現は、どうしても表現者とオーディエンスの間に上下関係を作ってしまいます。つまり、表現する側は「優れている/えらい」わけで、オーディエンスはそれをお金を払ってありがたく拝見する、という関係です。
上下関係を作らないのが「共感」をめざす表現です。
表現者は、自分が相手よりすぐれたことを提示するのではなく、ただありのまま誠実に、正直に、自分の行為、思考、イメージ、そして身体的状況を「表現の場」に投入します。オーディエンスもその場に立ちます。
表現者とオーディエンスの間には上下関係はなく、そのおなじ場に立ちます。おなじ空間と時間のなかにあります。その場のなかで、表現がおこなわれます。表現は表現者とオーディエンスが共有します。
最初は表現者からオーディエンスに向かってベクトルが向かいます。オーディエンスが表現者からのベクトルを受け取ったとき、オーディエンスにはなんらかの反応が起こります。ロボットでないかぎり、かならずなにかが動きます。それは目に見えないものかもしれませんし、ましてや声にしてはっきりと返ってくるものではありません。しかし、優れた表現者はオーディエンスのその微細な変化を、受容体としての自分の身体で受け止めます。
この二者のあいだで情報の交流と共有が進んでいきます。このときどんなことが起こるのかは、多くの人がすでに経験していることでしょう。
友だちが自分のつらい体験を正直に話してくれたとき、あなたもまた涙を流したことがありませんか? 何人かでひとつの目的に向かって心を合わせてがんばったとき、言葉にはできない充実感や満足を感じたことはありませんか?
人は共感を求める動物です。
私が推奨している「現代朗読」では、オーディエンスに「感心」してもらうためにではなく、「共感の場」を作るために朗読をおこないます。自分がよりすぐれていることをけっして誇示はしないのです。それより、その場を共有していることに焦点をあてます。
ここに朗読するためのテキストがある。私はこれをどう読んだのか。いま、どう読みたいのか。私のいまの気持ちはどういうものなのか。私のいまのコンディションはどうなのか。それらを全部正直に聴き手に提示します。あらかじめたくらまれたものはありません。
自分を開き、その場に提示します。相手を感じ、受け入れ、コミュニケートします。
私は何度も、朗読を始めてほんの数ヶ月の朗読者が、聴衆を思いがけず感動させたり涙させてしまう場面を見てきました。共感にはなにも特別な技術はいらないのです。なぜならそれは、いつも私たちが普通にやっていることなんですから。その「普通にやっていること」を表現の場でできるようになることがどんなに難しいことか。
私たちがいつも普通の私たちであるための方法を、私と現代朗読協会は研究しています。
そのときの心の動き方には二種類あるように思います。私はそれを「共感」と「感心」に分けています。
自分にできないすぐれた技術や技能を見せられたとき、人は「感心」します。その心の動きを「感動」といっていえないことはないかもしれません。サーカスを観に行ったとき、空中ブランコの妙技を見て、自分にはとてもできないと感心し、演技者に拍手を送ります。
スポーツ選手に惜しみない拍手を送るのも、おなじ心の動きです。自分にはできないが、彼はおそらく大変な努力をしてあそこまで到達したのだろう、すばらしい。
囲碁や将棋や、あるいは落語、歌舞伎といった芸能に対してもそういう敬意の表し方があります。
芸術表現の分野でも、音楽、演劇、舞踊、美術などのすばらしい表現技術に対して拍手を送ります。自分ができないことをできる人に敬意を表す、あるいはその行為に対価を支払う、というのは、人間の自然な行為のように思えます。
しかしそれが高じると、金銭的評価や人気だけがその表現行為の価値基準にようになってしまうことがあります。現代社会では「技能」を追求するあまり、ほとんど「びっくり人間大賞」のようになってしまった表現ジャンルすらあります。
また「感心」させることを目的に技能を磨かれた表現は、どうしても表現者とオーディエンスの間に上下関係を作ってしまいます。つまり、表現する側は「優れている/えらい」わけで、オーディエンスはそれをお金を払ってありがたく拝見する、という関係です。
上下関係を作らないのが「共感」をめざす表現です。
表現者は、自分が相手よりすぐれたことを提示するのではなく、ただありのまま誠実に、正直に、自分の行為、思考、イメージ、そして身体的状況を「表現の場」に投入します。オーディエンスもその場に立ちます。
表現者とオーディエンスの間には上下関係はなく、そのおなじ場に立ちます。おなじ空間と時間のなかにあります。その場のなかで、表現がおこなわれます。表現は表現者とオーディエンスが共有します。
最初は表現者からオーディエンスに向かってベクトルが向かいます。オーディエンスが表現者からのベクトルを受け取ったとき、オーディエンスにはなんらかの反応が起こります。ロボットでないかぎり、かならずなにかが動きます。それは目に見えないものかもしれませんし、ましてや声にしてはっきりと返ってくるものではありません。しかし、優れた表現者はオーディエンスのその微細な変化を、受容体としての自分の身体で受け止めます。
この二者のあいだで情報の交流と共有が進んでいきます。このときどんなことが起こるのかは、多くの人がすでに経験していることでしょう。
友だちが自分のつらい体験を正直に話してくれたとき、あなたもまた涙を流したことがありませんか? 何人かでひとつの目的に向かって心を合わせてがんばったとき、言葉にはできない充実感や満足を感じたことはありませんか?
人は共感を求める動物です。
私が推奨している「現代朗読」では、オーディエンスに「感心」してもらうためにではなく、「共感の場」を作るために朗読をおこないます。自分がよりすぐれていることをけっして誇示はしないのです。それより、その場を共有していることに焦点をあてます。
ここに朗読するためのテキストがある。私はこれをどう読んだのか。いま、どう読みたいのか。私のいまの気持ちはどういうものなのか。私のいまのコンディションはどうなのか。それらを全部正直に聴き手に提示します。あらかじめたくらまれたものはありません。
自分を開き、その場に提示します。相手を感じ、受け入れ、コミュニケートします。
私は何度も、朗読を始めてほんの数ヶ月の朗読者が、聴衆を思いがけず感動させたり涙させてしまう場面を見てきました。共感にはなにも特別な技術はいらないのです。なぜならそれは、いつも私たちが普通にやっていることなんですから。その「普通にやっていること」を表現の場でできるようになることがどんなに難しいことか。
私たちがいつも普通の私たちであるための方法を、私と現代朗読協会は研究しています。
2010年9月26日日曜日
国境なきアーティスト in ハイチ チャリティーコンサートのお知らせ
私の友人でNGO「国境なきアーティスト」を主宰しているエクトル・シエラさんから案内をいただいたので、ご紹介します。
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10年間以上、ハイチへの援助を続けてきたハイチの会・セスラは私がハイチの子どもたちと会えるようにコンサートを企画してくれました。
時間がありましたら、是非お越しください。
国境なきアーティスト in ハイチ チャリティーコンサート
テノール & PIANO 詩の朗読
エクトル・シエラの日本語の詩
さわやかな美声テノールのカンツォーネ
コロンビアの作曲家L.A.カルボのピアノ曲など
日時 2010年9月28日 (火)
18:30 開場
19:00 開演
会場 横浜イギリス館
横浜市中区山手町115-3
Tel: 045-623-7812
みなとみらい線「元町・中華街」駅5番出口より徒歩約8分(約500m)
入場料 2,500円(お茶&お菓子付き)
出演(順不同)
滝沢健作(テノール)
齊木佳奈(ピアノ)
エクトル・シエラ(詩と朗読)
ご予約およびお問合せ先 090-3451-7464(高岡)
主催 国境なきアーティスト & オペラ喫茶よこはま
協力 ハイチの会セスラ & 国際協力ゆめプロジェクト
国境なきアーティストをハイチへ!
今年1月大地震が起こったハイチ、いまだ難民さながらのテント生活を送る子どもたちに、お金やモノではないはげましを届けたい!その思いをエクトル・シエラに託し、私たちは国境なきアーティストinハイチを応援します。
ハイチの会セスラ代表 高岡美智子
「国境なきアーティストたち」http://www.artwit.orgは、アーティストたちによる人道支援組織で、これまでに、コソヴォ、東ティモール、グルジア、アブハジア、チェチェン、ニューヨーク、アフガニスタン等で難民の子どもたちや戦争の被害を受けた子どもたちなどへ芸術を通じた心のケア活動を行ってきました。
出演者紹介
滝沢健作:
東京芸術大学卒業。G・Giacomini声楽マスタークラスに合格し受講。今までに中部日本管弦楽団等のオーケストラで「外套」「ジャンニ・スキッキ」「ボエーム」に主役主演。ドイツのRostock歌劇場共同制作あらかわバイロイト音楽祭「パルシファル」にソリストで出演(C.Hammar指揮)。川崎市主催にて「滝沢健作ソロコンサート」が好評をえてFM放送にて演奏が放送される。
齊木佳奈:
武蔵野音楽大学卒業。桐朋学園大学アンサンブル・ディプロマコース、英国ギルドホール音楽院アンサンブル科を修了。ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院マスタークラス、ローマ国際ピアノコンクールにてディプロマ受賞。ロンドンDaiwa Foundation主催によるソロ・リサイタルに於いて日本人現代作曲家の英国初演を行う。蓼科音楽祭・女神湖ミュージックキャンプ、イタリア・ピエディルーコ音楽祭のアシスタントピアニストを歴任。現在、国内各地および海外に於いて、様々な形での演奏活動を行っている。
エクトル・シエラ:
コロンビア出身旧ソ連キエフ大学映画監督学科卒。94年に来日し、日本大学芸術学部修士・博士課程に学ぶ。映像作家、絵本作家。コソヴォへのNATOの空爆をきっかけに、NGO「国境なきアーティストたち」を設立し、戦争被災地でのボランティア活動を開始。著作に「あの日のことを、かきました」(講談社)、「だっこして」(校成出版)、「国境なきアーティスト」(子供の未来社)などがある。
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10年間以上、ハイチへの援助を続けてきたハイチの会・セスラは私がハイチの子どもたちと会えるようにコンサートを企画してくれました。
時間がありましたら、是非お越しください。
国境なきアーティスト in ハイチ チャリティーコンサート
テノール & PIANO 詩の朗読
エクトル・シエラの日本語の詩
さわやかな美声テノールのカンツォーネ
コロンビアの作曲家L.A.カルボのピアノ曲など
日時 2010年9月28日 (火)
18:30 開場
19:00 開演
会場 横浜イギリス館
横浜市中区山手町115-3
Tel: 045-623-7812
みなとみらい線「元町・中華街」駅5番出口より徒歩約8分(約500m)
入場料 2,500円(お茶&お菓子付き)
出演(順不同)
滝沢健作(テノール)
齊木佳奈(ピアノ)
エクトル・シエラ(詩と朗読)
ご予約およびお問合せ先 090-3451-7464(高岡)
主催 国境なきアーティスト & オペラ喫茶よこはま
協力 ハイチの会セスラ & 国際協力ゆめプロジェクト
国境なきアーティストをハイチへ!
今年1月大地震が起こったハイチ、いまだ難民さながらのテント生活を送る子どもたちに、お金やモノではないはげましを届けたい!その思いをエクトル・シエラに託し、私たちは国境なきアーティストinハイチを応援します。
ハイチの会セスラ代表 高岡美智子
「国境なきアーティストたち」http://www.artwit.orgは、アーティストたちによる人道支援組織で、これまでに、コソヴォ、東ティモール、グルジア、アブハジア、チェチェン、ニューヨーク、アフガニスタン等で難民の子どもたちや戦争の被害を受けた子どもたちなどへ芸術を通じた心のケア活動を行ってきました。
出演者紹介
滝沢健作:
東京芸術大学卒業。G・Giacomini声楽マスタークラスに合格し受講。今までに中部日本管弦楽団等のオーケストラで「外套」「ジャンニ・スキッキ」「ボエーム」に主役主演。ドイツのRostock歌劇場共同制作あらかわバイロイト音楽祭「パルシファル」にソリストで出演(C.Hammar指揮)。川崎市主催にて「滝沢健作ソロコンサート」が好評をえてFM放送にて演奏が放送される。
齊木佳奈:
武蔵野音楽大学卒業。桐朋学園大学アンサンブル・ディプロマコース、英国ギルドホール音楽院アンサンブル科を修了。ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院マスタークラス、ローマ国際ピアノコンクールにてディプロマ受賞。ロンドンDaiwa Foundation主催によるソロ・リサイタルに於いて日本人現代作曲家の英国初演を行う。蓼科音楽祭・女神湖ミュージックキャンプ、イタリア・ピエディルーコ音楽祭のアシスタントピアニストを歴任。現在、国内各地および海外に於いて、様々な形での演奏活動を行っている。
エクトル・シエラ:
コロンビア出身旧ソ連キエフ大学映画監督学科卒。94年に来日し、日本大学芸術学部修士・博士課程に学ぶ。映像作家、絵本作家。コソヴォへのNATOの空爆をきっかけに、NGO「国境なきアーティストたち」を設立し、戦争被災地でのボランティア活動を開始。著作に「あの日のことを、かきました」(講談社)、「だっこして」(校成出版)、「国境なきアーティスト」(子供の未来社)などがある。
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2010年9月24日金曜日
NVC教育ワークショップ「平和の文化を教室に」
子ども中心でも大人中心でもない、規範優先でも自由放任でもない、第3の教育理念-パートナーシップ教育。
親・教師・生徒が対話によって互いを尊重するスキルを身につけ、非暴力な問題解決の方法を学び、日々の学習の中で実践して行く。
施設・カリキュラム・運営方針・・・全ての真ん中に平和の文化をおいて造られたテンバ・スクールの創立者キャサリン・キャデン氏から直接実践報告を聞き、教育における平和の文化を経験するワークショップ型セミナーです。
明日からの教育実践に活かせるスキルを身につけることを目的にしています。あらゆる立場で教育に関わる方たちの参加をお待ちしています。
■NVC教育ワークショップ概要■
日時:12月4日(土)9:30〜17:30&12月5日(日)10:00〜17:30
会場:神奈川あーすぷらざ(JR根岸線「本郷台」駅改札出て左へ徒歩2分)
講師:CNVC公認トレーナー キャサリン・キャデン&ジェシー・ヴィーンス
Catherine Cadden & Jesse Wiens(日本語逐次訳付き)
対象:教育に関心のある全ての方
*保育室&授乳室があります。利用方法については、個別にご相談ください。
参加費:15,000円(2日間)
初日のみの参加も可能。参加費:10,000円。 2日目のみは不可。
主催:NVCワークショップ委員会(担当:中川春野、レジーナ・スプリース)
お申し込みはこちら
■ワークショップ内容■
〇テンバ・スクール実践報告
〇パートナーシップ教育のスタイルを、「サークル」など様々なアクティビティを通して体験的に身につける。
〇「正しいか、間違いか」「良いか、悪いか」「自由か、規範か」の2項対立を「ニーズ」に照らして、より創造的で建設的な考え方に転換するスキルを学ぶ。
〇深いつながりと命を豊かにする関係をつくる「非暴力コミュニケーション」を学び、教育への活かし方を練習する。
■講師紹介■
キャサリン・カデン(CNVC公認トレーナー)
世界を変革するものは何か。それは、共感による繋がりを私達の行動の基盤にする意志である、と彼女は言う。1987年以来、彼女は米国の公立学校、モンテッソーリ、及びシュタイナー学校で働き、主流と「傍流」の両方において、人種差別、物質主義、無関心、疎外、及び暴力といった、教育システムの圧倒的な影響をじかに目撃してきた。
1997年、キャサリンは既存の教育システムから離れた。マハトマ・ガンジーとマーティン・ルサー・キングJr.博士に触発され、彼女は、共感、責任ある自主性、及び非暴力の理念に基づいて、幼稚園から中学までの学校を創設し、TEMBAスクールの扉を開いた。日々の課題に対処するために、彼女は机上の教育理論家よりも平和的仲裁の熟練者に、直接、アドバイスを求めた。ダライ・ラマ、ジャック・コーンフィールド、及びマーシャル・ローゼンバーグである。
11年間、年齢、人種、階級の垣根を本当の意味で取り払った学校運営を続けるうちに、TEMBAは地域の希望の導き手となった。親、生徒、そして及び教師が自らの可能性を花開かせる場所となったのだ。
TEMBAの卒業生は、高校や大学のリーダーとなり、野外教育プログラムを企画し、若者と警察の協力関係を作り上げ、仲間内の争いを解決した。いずれも、既存のシステム内で4.0の評定平均を取りながらである。
現在、キャサリンは、ジェシー・ワインスと共に、講演、ワークショップ、及び彼女の本”Peaceable Revolution Through Education” 「教育からの平和革命・未邦訳」を通して、より安全で喜びに溢れる平和な社会を作るための着想と実際的な知識を世界の人々の手にもたらそうとしている。詳しくはhttp://www.zenvc.org (英語)。
今回はキャサリンのパートナー、ジェシー・ヴィーンス氏も来日し、二人でワークショップをリードします。
■もっと知りたいあなたへ。本とサイトの紹介■
TEMBA Schoolについて:
”Peaceable Revolution Through Education” Catherine Cadden著 ア
マゾンで買えます!
NVCについて:
http://www.cnvc.org/(英語)
http://www.nvc-japan.com/modules/pico/(日本語)
お問い合わせは、こちらまで。
親・教師・生徒が対話によって互いを尊重するスキルを身につけ、非暴力な問題解決の方法を学び、日々の学習の中で実践して行く。
施設・カリキュラム・運営方針・・・全ての真ん中に平和の文化をおいて造られたテンバ・スクールの創立者キャサリン・キャデン氏から直接実践報告を聞き、教育における平和の文化を経験するワークショップ型セミナーです。
明日からの教育実践に活かせるスキルを身につけることを目的にしています。あらゆる立場で教育に関わる方たちの参加をお待ちしています。
■NVC教育ワークショップ概要■
日時:12月4日(土)9:30〜17:30&12月5日(日)10:00〜17:30
会場:神奈川あーすぷらざ(JR根岸線「本郷台」駅改札出て左へ徒歩2分)
講師:CNVC公認トレーナー キャサリン・キャデン&ジェシー・ヴィーンス
Catherine Cadden & Jesse Wiens(日本語逐次訳付き)
対象:教育に関心のある全ての方
*保育室&授乳室があります。利用方法については、個別にご相談ください。
参加費:15,000円(2日間)
初日のみの参加も可能。参加費:10,000円。 2日目のみは不可。
主催:NVCワークショップ委員会(担当:中川春野、レジーナ・スプリース)
お申し込みはこちら
■ワークショップ内容■
〇テンバ・スクール実践報告
〇パートナーシップ教育のスタイルを、「サークル」など様々なアクティビティを通して体験的に身につける。
〇「正しいか、間違いか」「良いか、悪いか」「自由か、規範か」の2項対立を「ニーズ」に照らして、より創造的で建設的な考え方に転換するスキルを学ぶ。
〇深いつながりと命を豊かにする関係をつくる「非暴力コミュニケーション」を学び、教育への活かし方を練習する。
■講師紹介■
キャサリン・カデン(CNVC公認トレーナー)
世界を変革するものは何か。それは、共感による繋がりを私達の行動の基盤にする意志である、と彼女は言う。1987年以来、彼女は米国の公立学校、モンテッソーリ、及びシュタイナー学校で働き、主流と「傍流」の両方において、人種差別、物質主義、無関心、疎外、及び暴力といった、教育システムの圧倒的な影響をじかに目撃してきた。
1997年、キャサリンは既存の教育システムから離れた。マハトマ・ガンジーとマーティン・ルサー・キングJr.博士に触発され、彼女は、共感、責任ある自主性、及び非暴力の理念に基づいて、幼稚園から中学までの学校を創設し、TEMBAスクールの扉を開いた。日々の課題に対処するために、彼女は机上の教育理論家よりも平和的仲裁の熟練者に、直接、アドバイスを求めた。ダライ・ラマ、ジャック・コーンフィールド、及びマーシャル・ローゼンバーグである。
11年間、年齢、人種、階級の垣根を本当の意味で取り払った学校運営を続けるうちに、TEMBAは地域の希望の導き手となった。親、生徒、そして及び教師が自らの可能性を花開かせる場所となったのだ。
TEMBAの卒業生は、高校や大学のリーダーとなり、野外教育プログラムを企画し、若者と警察の協力関係を作り上げ、仲間内の争いを解決した。いずれも、既存のシステム内で4.0の評定平均を取りながらである。
現在、キャサリンは、ジェシー・ワインスと共に、講演、ワークショップ、及び彼女の本”Peaceable Revolution Through Education” 「教育からの平和革命・未邦訳」を通して、より安全で喜びに溢れる平和な社会を作るための着想と実際的な知識を世界の人々の手にもたらそうとしている。詳しくはhttp://www.zenvc.org (英語)。
今回はキャサリンのパートナー、ジェシー・ヴィーンス氏も来日し、二人でワークショップをリードします。
■もっと知りたいあなたへ。本とサイトの紹介■
TEMBA Schoolについて:
”Peaceable Revolution Through Education” Catherine Cadden著 ア
マゾンで買えます!
NVCについて:
http://www.cnvc.org/(英語)
http://www.nvc-japan.com/modules/pico/(日本語)
お問い合わせは、こちらまで。
タイヨガと非暴力コミュニケーションワークショップ
いっしょに非暴力コミュニケーション(NVC)の勉強をしているレジーナさんからお知らせをいただいたので、ご紹介します。
私はまだ参加できるかどうかわからないんですが。
◎場所:神奈川地球市民プラザ
◎詳しい情報はこちら
「その時」いろいろな可能性がある。
その可能性を見つけるためのワークショップ。
自意識への結合、そして、共感を与える、または貴方の中で活動するものを表現しているかどうかを認識することについて、気楽に楽しんでいますか?
非暴力コミュニケーション(NVC)の命の木--Inbal Kashtan (BAY NVC)が創設した
命の木とマーシャル・ローゼンバーグの業績を基にしています。
NVCの命の木は、目に見える、運動的なツールであり、サポートとコーチを行うことにより、人々がNVC意識または注意に「踏み込む」ことを可能にします。
以下について、ロール・プレイ、小グループでの実践、コーチ及び仲間同士のサポートを利用します:
A) 私達の判断を「開放」する。
B) 判断に対して大きな声を与える
C) 他人の必要性(ニーズ)と意図を自分のものと結合する。そして、
D) ‘お願い’・‘要望’をする実験をする。
私はまだ参加できるかどうかわからないんですが。
◎場所:神奈川地球市民プラザ
◎詳しい情報はこちら
「その時」いろいろな可能性がある。
その可能性を見つけるためのワークショップ。
自意識への結合、そして、共感を与える、または貴方の中で活動するものを表現しているかどうかを認識することについて、気楽に楽しんでいますか?
非暴力コミュニケーション(NVC)の命の木--Inbal Kashtan (BAY NVC)が創設した
命の木とマーシャル・ローゼンバーグの業績を基にしています。
NVCの命の木は、目に見える、運動的なツールであり、サポートとコーチを行うことにより、人々がNVC意識または注意に「踏み込む」ことを可能にします。
以下について、ロール・プレイ、小グループでの実践、コーチ及び仲間同士のサポートを利用します:
A) 私達の判断を「開放」する。
B) 判断に対して大きな声を与える
C) 他人の必要性(ニーズ)と意図を自分のものと結合する。そして、
D) ‘お願い’・‘要望’をする実験をする。
次世代オーディオブック・リーダー育成講座の一日
昨日。
朝からどしゃ降りの中、雨の合間を縫って歩いて羽根木の家へ。昨日は一日、次世代オーディオブック・リーダー育成講座でした。
朝方は蒸し暑くて、羽根木の家に着いたときには汗ばんでいたほどだったのに、急に冷えこんできて寒いほどに。最初は涼しくていい、なんてのんきなことを思っていたんだけど、涼しいどころではなくなってしまいました。
10時から始まった講座には、大阪からおふたりのの参加があったり、岩崎さとことふなっちが遊びに来てくれました。
いつものようにガンガン飛ばして、たぶん初めての方には受け取れないほどの内容を伝えていきます。げろきょのゼミとは違って、こちらは遠慮なし。おそらく、このような内容で濃くやっている講座は、ここだけのはず。
1時間の昼休みをはさんで、午後もアイ文庫独自のオリジナルな内容で、すぐれた朗読者を養成するためのプログラムを進めていきました。
長時間の講座にも関わらず、皆さん、最後までしっかりと食いついて熱心に参加してくれました。
最後は、参加者のリクエストで、岩崎さとこと私の朗読セッションを。さとこは夏目漱石の『夢十夜』の「第一夜」を読み、私はピアノ。
今回も全力疾走で終了。あとは、実力評価を兼ねた収録オーディションの日程を決め、解散。オーディオブックだけでなく、現代朗読にも興味を示してくれた人がいて、今後に期待がつながりました。
養成講座が終わって、雨の中、歩いて帰宅。
昨日はなぜか、講座中にたくさん足がつりました。歩いたからか、雨だからか、気温が急に下がったからか、それともその全部が原因なのか。
今日はさらに気温が下がるそうです。
朝からどしゃ降りの中、雨の合間を縫って歩いて羽根木の家へ。昨日は一日、次世代オーディオブック・リーダー育成講座でした。
朝方は蒸し暑くて、羽根木の家に着いたときには汗ばんでいたほどだったのに、急に冷えこんできて寒いほどに。最初は涼しくていい、なんてのんきなことを思っていたんだけど、涼しいどころではなくなってしまいました。
10時から始まった講座には、大阪からおふたりのの参加があったり、岩崎さとことふなっちが遊びに来てくれました。
いつものようにガンガン飛ばして、たぶん初めての方には受け取れないほどの内容を伝えていきます。げろきょのゼミとは違って、こちらは遠慮なし。おそらく、このような内容で濃くやっている講座は、ここだけのはず。
1時間の昼休みをはさんで、午後もアイ文庫独自のオリジナルな内容で、すぐれた朗読者を養成するためのプログラムを進めていきました。
長時間の講座にも関わらず、皆さん、最後までしっかりと食いついて熱心に参加してくれました。
最後は、参加者のリクエストで、岩崎さとこと私の朗読セッションを。さとこは夏目漱石の『夢十夜』の「第一夜」を読み、私はピアノ。
今回も全力疾走で終了。あとは、実力評価を兼ねた収録オーディションの日程を決め、解散。オーディオブックだけでなく、現代朗読にも興味を示してくれた人がいて、今後に期待がつながりました。
養成講座が終わって、雨の中、歩いて帰宅。
昨日はなぜか、講座中にたくさん足がつりました。歩いたからか、雨だからか、気温が急に下がったからか、それともその全部が原因なのか。
今日はさらに気温が下がるそうです。
2010年9月23日木曜日
朗読者の育成講座、平日の銀座が驚くほどにぎわっていたこと
曇。これから一日、雨になるとのこと。
今日は丸一日、次世代オーディオブック・リーダー育成講座を羽根木の家で開催します。
この講座も今回で第四期となります。講座を受けた方全員が読み手になっていくわけではありませんが、何人かは継続的に育ってくれていて、今後が楽しみです。
次回、第五期の育成講座は10月17日(日)の開催予定です。
昨日はそのオーディオブックがらみのミーティングで銀座まで出かけてきました。
クリアすべき難しい問題がまだまだ積まれていますが、なんとかよい方向に話が動きそうです。今後、よい報告ができるといいんですが。
銀座に出たついでに、リニューアルしたデパートにちょっと寄ってみました。
ものすごい人。不況というのは嘘ですね。マスコミや統計が作り出した嘘で、そうやって不況をあおることで得をするだれかがいるということでしょう。もちろん給与所得者ではない自営業者(含む私)は非常に苦しいのは相変わらずですが、これは不況のせいではなく、日本の経済的社会構造のせいです。
日本の給与所得者、とくに大企業と役人の所得レベルは世界最高水準です。この人たちがデパートで散財するだけでなく、なんらかの社会的責任を請け負うような行動をはじめたとき、日本は変わるかもしれませんね。
そうなるといいなあ、と思います。Twitterなどあたらしい情報ツールで人々の意識レベルが急速に変わりつつあるのを感じています。すでに動きはじめている人はいるかもしれませんね。
ただ、被虐待児童たちへのボランティア活動に参加しているのは、まだまだ生活が苦しい自営業者ばかりだという現状は、少なくとも私たちのところではあります。経済的に豊かな人たちがもっと積極的に参加してくれるといいですね。
今日は丸一日、次世代オーディオブック・リーダー育成講座を羽根木の家で開催します。
この講座も今回で第四期となります。講座を受けた方全員が読み手になっていくわけではありませんが、何人かは継続的に育ってくれていて、今後が楽しみです。
次回、第五期の育成講座は10月17日(日)の開催予定です。
昨日はそのオーディオブックがらみのミーティングで銀座まで出かけてきました。
クリアすべき難しい問題がまだまだ積まれていますが、なんとかよい方向に話が動きそうです。今後、よい報告ができるといいんですが。
銀座に出たついでに、リニューアルしたデパートにちょっと寄ってみました。
ものすごい人。不況というのは嘘ですね。マスコミや統計が作り出した嘘で、そうやって不況をあおることで得をするだれかがいるということでしょう。もちろん給与所得者ではない自営業者(含む私)は非常に苦しいのは相変わらずですが、これは不況のせいではなく、日本の経済的社会構造のせいです。
日本の給与所得者、とくに大企業と役人の所得レベルは世界最高水準です。この人たちがデパートで散財するだけでなく、なんらかの社会的責任を請け負うような行動をはじめたとき、日本は変わるかもしれませんね。
そうなるといいなあ、と思います。Twitterなどあたらしい情報ツールで人々の意識レベルが急速に変わりつつあるのを感じています。すでに動きはじめている人はいるかもしれませんね。
ただ、被虐待児童たちへのボランティア活動に参加しているのは、まだまだ生活が苦しい自営業者ばかりだという現状は、少なくとも私たちのところではあります。経済的に豊かな人たちがもっと積極的に参加してくれるといいですね。
2010年9月20日月曜日
明日の中野ピグノーズ「げろきょでないと」ですが……
明日は9月の第三火曜日なので、通常ならば恒例の中野ピグノーズ「げろきょでないと」ライブなんですが、店側のブッキングミスで別の方のライブが入ってしまったそうです。
本来ならば、
「なにぃ?」
と気色ばんでみせるところですが、そこはそれ、温厚なげろきょの私たちですし、ピグノーズのmizuhoさんにはいつもお世話になっていることですし、いつも好き勝手をやらせていただいていることに寛容なピグノーズに譲ることにして、明日の「げろきょでないと」は急遽お休みとなりました。
その代わり、といってはなんですが、私は普通に客で行って、隙あらば飛び入り参加しようと思ってます。野々宮もつきあってくれるそうです。ひょっとして照井くんも?
明日のライブホストは、ギタリストの加藤崇之さんだそうです。
本来ならば、
「なにぃ?」
と気色ばんでみせるところですが、そこはそれ、温厚なげろきょの私たちですし、ピグノーズのmizuhoさんにはいつもお世話になっていることですし、いつも好き勝手をやらせていただいていることに寛容なピグノーズに譲ることにして、明日の「げろきょでないと」は急遽お休みとなりました。
その代わり、といってはなんですが、私は普通に客で行って、隙あらば飛び入り参加しようと思ってます。野々宮もつきあってくれるそうです。ひょっとして照井くんも?
明日のライブホストは、ギタリストの加藤崇之さんだそうです。
名古屋のイベント「KIP」のお知らせ
名古屋ウェルバ・アクトゥスのミニライブを観に来てくれた方が、私のテキスト作品をイベントのなかで使いたいと連絡くれました。
ダンサーの伎芸さんという方が企画しています。
そのイベントを、彼女のブログから紹介します。いずれ東京でもやる予定だそうです。
詳細は直接伎芸さんのブログをご覧ください。
------------
公演名 KIP
(子供達に夢へのきっぷを。皆にもそういった子供達を身近に感じてもらい触れ合いを持てるようになる電車へのきっぷを)
日時 11月21日(日)
場所 南山学園講堂
14:00〜15:30 公演 第一部
(児童擁護学校の子供達も多く招待されて来てくれますので子供受けするもの中心で)
15:30〜
一個下の階にて 子供達と出演者との触れ合いタイム。 ミニゲームや ミニバザーなどを予定
実際に珍しい楽器や 道具など 子供達に触ってもらったり簡単なレッスンしたり を予定しています。 自由な感じで
(ある意味ここが一番重要だと考えております 直接に 大人も子供も出演者協力者が一つになって
こころをつなげる 直接触れ合い 身近なものと感じて頂く時間。)
19:00〜21:00? 公演 第二部
バンド・ダンス・パフォーマンス 一部より長めにしてより多くの方に楽しんで頂く内容に
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
出演者 協力
フラメンコダンス 加藤おりは
カタックダンス プロダンサー
アフリカンダンス&バンド
和太鼓 祭り一家
尾張デラSTARS バスケットパフォーマンス
KIRARA メジャーデビュー決定。東京から来て下さいます。
柴田 達司 神戸から来て下さいます。プロギタリスト
ベリーダンス プロダンサー
コンテンポラリーダンス
ミチコロンブス バンド 名古屋を中心に全国で活躍中
車椅子社交ダンス
歌 バンド名思案中だそうです
剣詩舞 全国 優勝・4位 の方によるパフォーマンス
サルサ ドミニカ共和国のプロダンサー
(その他調整中・確認中数組)
協力
作曲家・演出家 水城 ゆう
DREAM CUBE ライブハウス
愛笑む (KIPイメージ音楽)
YOU-G (作曲家)
協賛
色々な会社(来週から飛び込みで協賛とってくるゾ!!)
後援
名古屋市教育委員会(申請済 認可待ち)
(その他いろいろ調整中)
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ダンサーの伎芸さんという方が企画しています。
そのイベントを、彼女のブログから紹介します。いずれ東京でもやる予定だそうです。
詳細は直接伎芸さんのブログをご覧ください。
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公演名 KIP
(子供達に夢へのきっぷを。皆にもそういった子供達を身近に感じてもらい触れ合いを持てるようになる電車へのきっぷを)
日時 11月21日(日)
場所 南山学園講堂
14:00〜15:30 公演 第一部
(児童擁護学校の子供達も多く招待されて来てくれますので子供受けするもの中心で)
15:30〜
一個下の階にて 子供達と出演者との触れ合いタイム。 ミニゲームや ミニバザーなどを予定
実際に珍しい楽器や 道具など 子供達に触ってもらったり簡単なレッスンしたり を予定しています。 自由な感じで
(ある意味ここが一番重要だと考えております 直接に 大人も子供も出演者協力者が一つになって
こころをつなげる 直接触れ合い 身近なものと感じて頂く時間。)
19:00〜21:00? 公演 第二部
バンド・ダンス・パフォーマンス 一部より長めにしてより多くの方に楽しんで頂く内容に
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
出演者 協力
フラメンコダンス 加藤おりは
カタックダンス プロダンサー
アフリカンダンス&バンド
和太鼓 祭り一家
尾張デラSTARS バスケットパフォーマンス
KIRARA メジャーデビュー決定。東京から来て下さいます。
柴田 達司 神戸から来て下さいます。プロギタリスト
ベリーダンス プロダンサー
コンテンポラリーダンス
ミチコロンブス バンド 名古屋を中心に全国で活躍中
車椅子社交ダンス
歌 バンド名思案中だそうです
剣詩舞 全国 優勝・4位 の方によるパフォーマンス
サルサ ドミニカ共和国のプロダンサー
(その他調整中・確認中数組)
協力
作曲家・演出家 水城 ゆう
DREAM CUBE ライブハウス
愛笑む (KIPイメージ音楽)
YOU-G (作曲家)
協賛
色々な会社(来週から飛び込みで協賛とってくるゾ!!)
後援
名古屋市教育委員会(申請済 認可待ち)
(その他いろいろ調整中)
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2010年9月19日日曜日
仮想敵
なにかをがんばっておこなったり、だれかになにごとかを説明するとき、「仮想敵」を作ることがよくある。
スポーツのトレーニングをするとき、自分より強い敵を想定して、それを超える/やっつけようとイメージしてがんばる、という方法だ。たしかにそれは勝ち負けの世界では有効だ。
また「数字が出る」世界でも有効だ。
たとえば学校の試験、売り上げ、観客動員といった世界。これらは現在の自分の状況について数値化できるので、より上の数値を設定した仮想敵を作ることで、より大きな数字をあげる努力のためのモチベーションを持てる。が、数値化できない世界では?
表現の世界は数値化できない。観客動員や知名度や売り上げや収入を尺度にして表現者を評価しようとする向きがあるが、それは尺度をすり替えただけのことで、表現という行為を数値化することは、本質的にはできない。
表現の評価基準は世間や自分の外側にはない。自己の内部にある。
しかし私たちはなにかを数値化して評価し、自分の評価基準を世間や自分の外側に求めることをずっと教育されつづけてきたので、その考え方から抜けだすことはとても難しい。もちろん私もそのとおりで、自覚はしていた。が、文章の書き方にまでそれが現れているとは考えていなかった。
このところブログやツイッターで書く自分の文章に違和感を覚えることが多かった。また、私の文章に反発したり、嫌悪を表明する人がいた。そのことがずっと気になっていた。
原因が「仮想敵」であることに思いいたったのは、つい最近のことだ。そのことについて考えつづけている。
私は「現代朗読」というものを提唱し、従来の放送技術偏重型の朗読を変えようと努力している。朗読が「表現行為」であるという認識から、コンテンポラリーアートやコミュニケーション、身体運用、現代思想などを取りいれ、できるかぎり自由でなにものにもとらわれない朗読を考えてきた。それはまだ始まったばかりで、研究の余地はまだまだあるが、出発点としてはおもしろく、いまのところうまくいっているように見える。
この方法を多くの人に知ってもらいたくて、私はたくさんの記述をおこなってきた。そのとき、つい「仮想敵」を想定した書き方をしてしまっていたのだ。
私が無意識に想定していた仮想敵は「従来朗読」とでもいうべきものだった。つまり、これまでアナウンサー、ナレーター、声優、役者といった人たちが「放送技術」を中心におこなったり教えたりしてきた、そしていまもおこなったり教えたりしている朗読行為。これを無意識に想定していた。そのせいで、まじめに朗読の勉強をやっている多くの人を、文章のなかで暗に攻撃し、けなし、その価値を下げようとするかのように書いてしまっていたと思う。多くの人に不快な思いをさせてしまった。あらためておわびしたい。と同時に、私のこれまでの書き方は誤っていたと思う。
現代朗読は他のどの表現分野とも比較できるものではない。これまで日本ではまったくといっていいほどおこなわれてこなかった「言語音声表現」の、自由でコンテンポラリーな、すぐれた方法、それが現代朗読だ。それを従来の朗読と比較して論じること自体、まちがっていた。無意識に比較対象とすることで、従来からある朗読を「仮想敵」にしていた自分がいることに気づいた。今後、私は、仮想敵を想定することなく、ただ純粋に論じてみたい。これまで朗読について書いたものについても、すべて見直し、あらたに書きなおしてみようと思っている。
おそらく表現の世界に限らず、自分のなかで仮想敵を設定することほどつまらないことはない。それはものごとの見方を狭くし、自分自身を狭小で貧相な世界に閉じこめてしまうことになる。そのことを常に自戒しながら進んでいきたい。
スポーツのトレーニングをするとき、自分より強い敵を想定して、それを超える/やっつけようとイメージしてがんばる、という方法だ。たしかにそれは勝ち負けの世界では有効だ。
また「数字が出る」世界でも有効だ。
たとえば学校の試験、売り上げ、観客動員といった世界。これらは現在の自分の状況について数値化できるので、より上の数値を設定した仮想敵を作ることで、より大きな数字をあげる努力のためのモチベーションを持てる。が、数値化できない世界では?
表現の世界は数値化できない。観客動員や知名度や売り上げや収入を尺度にして表現者を評価しようとする向きがあるが、それは尺度をすり替えただけのことで、表現という行為を数値化することは、本質的にはできない。
表現の評価基準は世間や自分の外側にはない。自己の内部にある。
しかし私たちはなにかを数値化して評価し、自分の評価基準を世間や自分の外側に求めることをずっと教育されつづけてきたので、その考え方から抜けだすことはとても難しい。もちろん私もそのとおりで、自覚はしていた。が、文章の書き方にまでそれが現れているとは考えていなかった。
このところブログやツイッターで書く自分の文章に違和感を覚えることが多かった。また、私の文章に反発したり、嫌悪を表明する人がいた。そのことがずっと気になっていた。
原因が「仮想敵」であることに思いいたったのは、つい最近のことだ。そのことについて考えつづけている。
私は「現代朗読」というものを提唱し、従来の放送技術偏重型の朗読を変えようと努力している。朗読が「表現行為」であるという認識から、コンテンポラリーアートやコミュニケーション、身体運用、現代思想などを取りいれ、できるかぎり自由でなにものにもとらわれない朗読を考えてきた。それはまだ始まったばかりで、研究の余地はまだまだあるが、出発点としてはおもしろく、いまのところうまくいっているように見える。
この方法を多くの人に知ってもらいたくて、私はたくさんの記述をおこなってきた。そのとき、つい「仮想敵」を想定した書き方をしてしまっていたのだ。
私が無意識に想定していた仮想敵は「従来朗読」とでもいうべきものだった。つまり、これまでアナウンサー、ナレーター、声優、役者といった人たちが「放送技術」を中心におこなったり教えたりしてきた、そしていまもおこなったり教えたりしている朗読行為。これを無意識に想定していた。そのせいで、まじめに朗読の勉強をやっている多くの人を、文章のなかで暗に攻撃し、けなし、その価値を下げようとするかのように書いてしまっていたと思う。多くの人に不快な思いをさせてしまった。あらためておわびしたい。と同時に、私のこれまでの書き方は誤っていたと思う。
現代朗読は他のどの表現分野とも比較できるものではない。これまで日本ではまったくといっていいほどおこなわれてこなかった「言語音声表現」の、自由でコンテンポラリーな、すぐれた方法、それが現代朗読だ。それを従来の朗読と比較して論じること自体、まちがっていた。無意識に比較対象とすることで、従来からある朗読を「仮想敵」にしていた自分がいることに気づいた。今後、私は、仮想敵を想定することなく、ただ純粋に論じてみたい。これまで朗読について書いたものについても、すべて見直し、あらたに書きなおしてみようと思っている。
おそらく表現の世界に限らず、自分のなかで仮想敵を設定することほどつまらないことはない。それはものごとの見方を狭くし、自分自身を狭小で貧相な世界に閉じこめてしまうことになる。そのことを常に自戒しながら進んでいきたい。
2010年9月18日土曜日
「読み聞かせ」についての考察(朗読も同じだけど)
現代朗読のゼミ生に「子どもたちに読み聞かせをしている」という人がいて、実際に絵本を持ってきてみんなに聞かせてくれた。大変楽しい絵本で(干支と早口言葉を組み合わせた絵本)、大人が聞いても楽しいものだった。その人もとても楽しそうに読んでくれた。
さて、そこから検証が始まるのが現代朗読のゼミである。
まず、子どもたちに絵本を読み聞かせるとき、なにが一番大切なのかをみんなにかんがえてもらった。
「抑揚をつける」「リズムを大切にする」「はきはきと話す」いろいろな意見が出た。どれも的を射ているように思える。
「まず読み手である自分が楽しんでいることが大事」という意見も出た。これはゼミでいつも確認している「読み手の心や身体の状態はそのまま聴き手にも伝わる」という原理を踏まえたものだろう。
さて、それだけでいいのだろうか。
ここで私はいつも意地悪な提案をする。
「子ども相手ではなく、いまここで、私たち相手にその本を朗読するとしたら、どんなふうに読む?」
彼女は少し考えてから、ふたたび読みはじめる。それは、大げさな抑揚やリズムの強調のない、彼女のふつうの大人相手の朗読である。が、彼女が楽しんでいることには変わりない。
あとで確認したのだが、彼女はその本がとても好きで、彼女自身、その本を朗読するのがとても楽しいのだという。
私はつづけた。
「なぜいま我々に読んだくれたように、子どもたちには読まないの?」
彼女はそこでハタとかんがえる。かんがえあぐねる。いろいろとかんがえをめぐらせる。
この「かんがえる」ということが表現する者にとってはもっとも大切なことなのだ。
なにかを表現しようとしたとき、けっして思考停止に陥らないこと。これが大事だ。
しばらくかんがえてから、彼女は答える。
「たぶん、子どもにもわかるように読まなければと思ったんでしょうね」
この「子どもにもわかるように読む」ということについて、我々は(誰からなのかはわからないが)ある一定のルールというかやり方を刷りこまれている。抑揚やリズムを大きく、いかにも楽しく、言葉ははっきりと明瞭に、声は明るく大きく。
子どもは誰もそんなことを頼んでいない。
そう思いこんでいることで、一種の「思考停止」に陥っているといってもいいだろう。「こういうふうに読む」という型を(無意識にせよ)持っていることで、表現はとても楽になる。なにもかんがえずにその「型」に表現を流しこめばいいのだから。
しかし、ここで原点に戻ってみたい。
一切の型をはずし、いま、ここで、自分が自分らしく読むこと。
この場合、「いまここで、私たち相手にその本を朗読してみて」と頼まれたときの彼女の朗読がそれにあたる。
それに気づいた彼女に、私はもう一度お願いしてみた。
「もう一度いまの読み方で、子どもたち相手に読んでみて」
当然のことながら彼女の読み方はガラッと変わる。
私は問う。
「その読み方ではだめなの? その読み方だと子どもたちは聞いてくれないと思う?」
そんなことはない、と彼女は答えるし、私たちもそんなことはないだろうともうわかっている。子どもたちは裸の、鋭い感性を持っている。
子どもたちには大人の私たちがなにをどうしようとしているのか、理屈ではなく感触ですべて伝わってしまっている。楽しんでいるかいないか、子どものための型にはめこんで楽をしているかいないか、子どもだと思ってレベルを落とした表現をしているかいないか。
子どもたち相手だろうが、大人相手だろうが、お年寄り相手だろうが、ひとりだろうが千人だろうが、私はたちはただ誠実に「型」を取りはらい、自分のあるがままの表現を真剣に手探りしながら読んでいきたい。
さて、そこから検証が始まるのが現代朗読のゼミである。
まず、子どもたちに絵本を読み聞かせるとき、なにが一番大切なのかをみんなにかんがえてもらった。
「抑揚をつける」「リズムを大切にする」「はきはきと話す」いろいろな意見が出た。どれも的を射ているように思える。
「まず読み手である自分が楽しんでいることが大事」という意見も出た。これはゼミでいつも確認している「読み手の心や身体の状態はそのまま聴き手にも伝わる」という原理を踏まえたものだろう。
さて、それだけでいいのだろうか。
ここで私はいつも意地悪な提案をする。
「子ども相手ではなく、いまここで、私たち相手にその本を朗読するとしたら、どんなふうに読む?」
彼女は少し考えてから、ふたたび読みはじめる。それは、大げさな抑揚やリズムの強調のない、彼女のふつうの大人相手の朗読である。が、彼女が楽しんでいることには変わりない。
あとで確認したのだが、彼女はその本がとても好きで、彼女自身、その本を朗読するのがとても楽しいのだという。
私はつづけた。
「なぜいま我々に読んだくれたように、子どもたちには読まないの?」
彼女はそこでハタとかんがえる。かんがえあぐねる。いろいろとかんがえをめぐらせる。
この「かんがえる」ということが表現する者にとってはもっとも大切なことなのだ。
なにかを表現しようとしたとき、けっして思考停止に陥らないこと。これが大事だ。
しばらくかんがえてから、彼女は答える。
「たぶん、子どもにもわかるように読まなければと思ったんでしょうね」
この「子どもにもわかるように読む」ということについて、我々は(誰からなのかはわからないが)ある一定のルールというかやり方を刷りこまれている。抑揚やリズムを大きく、いかにも楽しく、言葉ははっきりと明瞭に、声は明るく大きく。
子どもは誰もそんなことを頼んでいない。
そう思いこんでいることで、一種の「思考停止」に陥っているといってもいいだろう。「こういうふうに読む」という型を(無意識にせよ)持っていることで、表現はとても楽になる。なにもかんがえずにその「型」に表現を流しこめばいいのだから。
しかし、ここで原点に戻ってみたい。
一切の型をはずし、いま、ここで、自分が自分らしく読むこと。
この場合、「いまここで、私たち相手にその本を朗読してみて」と頼まれたときの彼女の朗読がそれにあたる。
それに気づいた彼女に、私はもう一度お願いしてみた。
「もう一度いまの読み方で、子どもたち相手に読んでみて」
当然のことながら彼女の読み方はガラッと変わる。
私は問う。
「その読み方ではだめなの? その読み方だと子どもたちは聞いてくれないと思う?」
そんなことはない、と彼女は答えるし、私たちもそんなことはないだろうともうわかっている。子どもたちは裸の、鋭い感性を持っている。
子どもたちには大人の私たちがなにをどうしようとしているのか、理屈ではなく感触ですべて伝わってしまっている。楽しんでいるかいないか、子どものための型にはめこんで楽をしているかいないか、子どもだと思ってレベルを落とした表現をしているかいないか。
子どもたち相手だろうが、大人相手だろうが、お年寄り相手だろうが、ひとりだろうが千人だろうが、私はたちはただ誠実に「型」を取りはらい、自分のあるがままの表現を真剣に手探りしながら読んでいきたい。
2010年9月16日木曜日
2010年9月14日火曜日
NPOの運営の難しさ(現代朗読協会の実例)
NPOは「特定非営利活動法人」のことだが、「非営利」と冠されていることで「お金を稼いではいけない/儲けてはいけない」と誤解される方が多い。
決してそんなことはない。法的にも保障されている。ただ「主目的」が「営利」であってはならない、ということである。
営利を主目的としない活動をする団体をNPOという。運営してみるとわかるが、団体の活動と運営には実際的な経費や設備が必要となる。だから、可能ならば活動のなかからそれらの経費をまかなうだけの「利益」をあげられることが理想である。
しかし、もともと営利を目的としていない活動のなかから必要なだけの利益をあげていくのはなかなか難しい。だから「会費」の形で徴収する団体が多い。現代朗読協会も正会員には「年会費」をお願いしているが、何百人、何千人も会員を集められるような活動内容ではない。
現代朗読協会は朗読の実演者やそれをめざす人の団体なので、多くの会員を集めるような性格のものではない。会費のみでは運営は難しい。
運営にかかる経費はさまざまなものがあるが、もっともウェイトを占めるものが活動拠点の維持経費である。運営事務、稽古、ワークショップ。
現在、世田谷区羽根木にある築75年の庭付き古民家を格安で借りているが、それでも家賃、光熱費、さまざまな維持経費をいれて、(非常にざっくりした数字だが)毎月20万程度は必要だ。都内で活動している実演団体はたいていおなじような事情ではないかと思われる。
その他、パンフレットやチラシを作ったり、経理など諸事務をおこなうにも経費はかかるが、この人件費の部分は現在、捻出できていない。団体によってはきちんと収益をあげ、専任の事務員や有給理事を置いているところもあるようだが、現代朗読協会はまだそこまで至っていない。
現代朗読協会の収益の大部分は、ワークショップやゼミ、講座などの参加費で構成されている。ライブや公演をよくやっているので、その収益がかなり大きいと思われているようだが、まったくそんなことはない。ライブはほとんどが赤字に近いギリギリのラインでやっている。
赤字にならないといっても、もちろん手伝ってくれた人の人件費や交通費(たまにほんの一部出ることもあるが)や、もちろん出演料、演出料、脚本料などはまったく算入していない。それらの犠牲の上に立っての「非赤字」である。
大きな公演も同様だが、人件費については少しだけ違う。
ホールを借りるような大きな公演になると、我々だけではできないさまざまなことが発生する。とくに照明、音響、舞台監督などは専門家に頼むことが多く、その経費は割愛できない。また客演の役者や音楽家も、非常に安くはあるがギャランティーをあらかじめ設定し、了解してもらう。
したがって、大きな公演で多くの人が入場したとしても、出費も同様に大きく、ほんの数回のステージでは収益をあげるのは難しい。実際、昨年9月の名古屋市芸術創造センターでの「Kenji」2回公演では、数十万の赤字となり、それは主催者が最終的にかぶることとなった。
だからといって、公演自体が失敗したわけではもちろんない。公演は多くの方に観ていただけたし、大きな感動を共有することができた。大成功であった。
このように、商業的な仕組みのなかでやっていない以上、ライブや公演で大きな収益をあげることは難しいし、めざしてもいない。
話をもどす。ワークショップやゼミ、講座などが収益の大半だと述べたが、この実情について正直に明かす。
ワークショップは現在、かつておこなっていた体験WSや一日講座を含め、開催していない。理由は手伝ってくれるメンバーも不足、無償講師の負担があまりに大きいこと。
体験WSは参加費が1,000円、一日講座は10,000円と、低額の設定なので、参加者が少なければ、会場費や、手伝ってくれるメンバーの交通費すらまかなえないことがある。ましてや、資料や講義の準備を何日もかけておこない、現場に臨む講師の講師料もまかなうことは難しい。
現在おこなっているのは「話し方講座」(次回は来週20日)のみだが、これは先月スタートしたばかりのもので、これもまた参加費は3,000円に設定されている。参加者が少なければまた経費に苦労することになるが、いまのところ参加者はとても少ない。
しかし、内容は非常に充実したものであり、参加してくれた人にはとても喜んでもらうことができた。大変ユニークなアプローチ方法なので、ほとんどの人が驚くような内容なのだ。だから、我々としては自信をもっておすすめしたいところなのだが、よく宣伝ベタといわれてしまう。
運営費の一部としてもっとも助かっているのは「ゼミ費」である。正会員のうち「ゼミ生」として参加している人たちが、毎月定額を支払ってくれている。その額は決まっていない。1万円以上の人もいれば、1,000円の人もいる。金銭だけが団体に貢献できる方法ではないから。
とはいえ、物理的に金銭は必要なので、定額収入は大変ありがたい。
ゼミ生がいまのおよそ倍くらいの人数になれば、経費の心配が少なくなる。ただし、講師料や事務などの人件費は除く。現在の不足は、理事複数名の「持ち出し」および借金によって補填されている。
毎月の補填額は増えつづけているのが実情で、実をいえば私はこれまで何度か、現代朗読協会の運営の継続を断念しかけたことがある。
いまは、とにかく物理的に破綻するまではつづけようと思っている。
我々に足りない部分を真剣にかんがえてみることにした。
現代朗読協会に参加している人は、皆、その有用性を認めてくれている。
「ここに来ることが私の安心です」
といってくれる人もいる。活動によって人生観が変わった人すら多くいる。
私たちがやっている表現と運営方法が多くのコミュニティに取りいれてもらえればうれしいと思う。
しかし、現代朗読協会の存在や、活動内容を知る人は、とても少ない。やはり課題は宣伝・告知をどうするか、ということだろうか。それもお金をかけずに。
幸い、労力を無償で提供してくれる仲間が多くいる。そのことは私の大きな希望である。
決してそんなことはない。法的にも保障されている。ただ「主目的」が「営利」であってはならない、ということである。
営利を主目的としない活動をする団体をNPOという。運営してみるとわかるが、団体の活動と運営には実際的な経費や設備が必要となる。だから、可能ならば活動のなかからそれらの経費をまかなうだけの「利益」をあげられることが理想である。
しかし、もともと営利を目的としていない活動のなかから必要なだけの利益をあげていくのはなかなか難しい。だから「会費」の形で徴収する団体が多い。現代朗読協会も正会員には「年会費」をお願いしているが、何百人、何千人も会員を集められるような活動内容ではない。
現代朗読協会は朗読の実演者やそれをめざす人の団体なので、多くの会員を集めるような性格のものではない。会費のみでは運営は難しい。
運営にかかる経費はさまざまなものがあるが、もっともウェイトを占めるものが活動拠点の維持経費である。運営事務、稽古、ワークショップ。
現在、世田谷区羽根木にある築75年の庭付き古民家を格安で借りているが、それでも家賃、光熱費、さまざまな維持経費をいれて、(非常にざっくりした数字だが)毎月20万程度は必要だ。都内で活動している実演団体はたいていおなじような事情ではないかと思われる。
その他、パンフレットやチラシを作ったり、経理など諸事務をおこなうにも経費はかかるが、この人件費の部分は現在、捻出できていない。団体によってはきちんと収益をあげ、専任の事務員や有給理事を置いているところもあるようだが、現代朗読協会はまだそこまで至っていない。
現代朗読協会の収益の大部分は、ワークショップやゼミ、講座などの参加費で構成されている。ライブや公演をよくやっているので、その収益がかなり大きいと思われているようだが、まったくそんなことはない。ライブはほとんどが赤字に近いギリギリのラインでやっている。
赤字にならないといっても、もちろん手伝ってくれた人の人件費や交通費(たまにほんの一部出ることもあるが)や、もちろん出演料、演出料、脚本料などはまったく算入していない。それらの犠牲の上に立っての「非赤字」である。
大きな公演も同様だが、人件費については少しだけ違う。
ホールを借りるような大きな公演になると、我々だけではできないさまざまなことが発生する。とくに照明、音響、舞台監督などは専門家に頼むことが多く、その経費は割愛できない。また客演の役者や音楽家も、非常に安くはあるがギャランティーをあらかじめ設定し、了解してもらう。
したがって、大きな公演で多くの人が入場したとしても、出費も同様に大きく、ほんの数回のステージでは収益をあげるのは難しい。実際、昨年9月の名古屋市芸術創造センターでの「Kenji」2回公演では、数十万の赤字となり、それは主催者が最終的にかぶることとなった。
だからといって、公演自体が失敗したわけではもちろんない。公演は多くの方に観ていただけたし、大きな感動を共有することができた。大成功であった。
このように、商業的な仕組みのなかでやっていない以上、ライブや公演で大きな収益をあげることは難しいし、めざしてもいない。
話をもどす。ワークショップやゼミ、講座などが収益の大半だと述べたが、この実情について正直に明かす。
ワークショップは現在、かつておこなっていた体験WSや一日講座を含め、開催していない。理由は手伝ってくれるメンバーも不足、無償講師の負担があまりに大きいこと。
体験WSは参加費が1,000円、一日講座は10,000円と、低額の設定なので、参加者が少なければ、会場費や、手伝ってくれるメンバーの交通費すらまかなえないことがある。ましてや、資料や講義の準備を何日もかけておこない、現場に臨む講師の講師料もまかなうことは難しい。
現在おこなっているのは「話し方講座」(次回は来週20日)のみだが、これは先月スタートしたばかりのもので、これもまた参加費は3,000円に設定されている。参加者が少なければまた経費に苦労することになるが、いまのところ参加者はとても少ない。
しかし、内容は非常に充実したものであり、参加してくれた人にはとても喜んでもらうことができた。大変ユニークなアプローチ方法なので、ほとんどの人が驚くような内容なのだ。だから、我々としては自信をもっておすすめしたいところなのだが、よく宣伝ベタといわれてしまう。
運営費の一部としてもっとも助かっているのは「ゼミ費」である。正会員のうち「ゼミ生」として参加している人たちが、毎月定額を支払ってくれている。その額は決まっていない。1万円以上の人もいれば、1,000円の人もいる。金銭だけが団体に貢献できる方法ではないから。
とはいえ、物理的に金銭は必要なので、定額収入は大変ありがたい。
ゼミ生がいまのおよそ倍くらいの人数になれば、経費の心配が少なくなる。ただし、講師料や事務などの人件費は除く。現在の不足は、理事複数名の「持ち出し」および借金によって補填されている。
毎月の補填額は増えつづけているのが実情で、実をいえば私はこれまで何度か、現代朗読協会の運営の継続を断念しかけたことがある。
いまは、とにかく物理的に破綻するまではつづけようと思っている。
我々に足りない部分を真剣にかんがえてみることにした。
現代朗読協会に参加している人は、皆、その有用性を認めてくれている。
「ここに来ることが私の安心です」
といってくれる人もいる。活動によって人生観が変わった人すら多くいる。
私たちがやっている表現と運営方法が多くのコミュニティに取りいれてもらえればうれしいと思う。
しかし、現代朗読協会の存在や、活動内容を知る人は、とても少ない。やはり課題は宣伝・告知をどうするか、ということだろうか。それもお金をかけずに。
幸い、労力を無償で提供してくれる仲間が多くいる。そのことは私の大きな希望である。
語りっ娘・小林沙也佳、通算200回の語り
愛知の語りっ娘・小林沙也佳ちゃんから「今日で通算200回の語りをしました!」といううれしいメールが届いた。うれしいと同時に、びっくりだ。知り合って7年間、ずっとその語りの成長を見させていただいてきたが、それがもう200回とは!
沙也佳ちゃんは軽度の知的障碍を持っていて、数年前に豊田の高等養護学校を卒業した。それからはTBクリエイトスタッフという会社の全面的支援を得ながら、語りの活動に専念している。
彼女の語りを聴いた人はだれもが深く感動し、ときに心から笑い、ときに涙を流す。
豊田に住んでいた彼女が初めて東京の私のところにやってきたのは、中学校3年生、まだ14歳のときだった。
お母さんの淑江さんは、彼女のために語りの脚本を書いていて、ふたりの語り活動はまだほんの端緒についたばかりだった。
沙也佳ちゃんを語り手としてより成長させたいというお母さんの思いで、ネットで検索して私の朗読研究会を見つけ(そのころはまだ現代朗読協会は発足していなかった)、指導をしてほしいと、わざわざ豊田から東京まで沙也佳ちゃんを連れてやってきたのだった。
たしか、なにかのワークショップの最中だったと思う。私は沙也佳ちゃんの語りがどういうものなのかまったく知らなかったので、なんの先入観もないまま、
「とにかくなにか聴かせてください」
とお願いした。そのとき語られたのが「いのち」という語り作品だった。
彼女が語り終わったとき、そこにいる全員がボロボロに涙していた。私も同様で、とにかく心を揺さぶられた。こんな語りは聴いたことがなかった。
「今後どうすればいいんでしょう」
というお母さんに、
「とにかくなにもしないでください。このまままっすぐ伸ばしてあげて」
とお願いしたことを覚えている。
その後、沙也佳ちゃんと淑江さんは私のところに通いつづけてくれ(それはいまでも続いている)、いろいろな経緯があって、私も沙也佳ちゃんの活動をサポートすることになった。
まずは「いのち」という作品に音楽を提供すること。
それを皮切りに、私がピアノを弾いて一緒の舞台に立ったり、CDを作ったり、さらにいくつかの曲を提供したり、舞台作りのお手伝いをしたり、語りのアドバイスをしたりと、数えきれないほどの経験を共有してきた。それは私にとっても宝物の経験である。
この過程で私は、知的障碍を持っている彼女にたいして、自分が指導者であるとか、先輩であるとか、ただの一度も考えたことはない。断じてない。私はつねに彼女の共演者であり、サポーターであるという立ち位置でやってきた。それは淑江さんも保障してくれるだろう。
語りの共演者であるというのはどういうことか。それは、語りを最大限生かすことを考えながら、しかし自分と語りとの有機的なつながりを持った舞台を実現することだ。あたかも一緒におなじ道を歩きながら相手の話を完全に聞き、ときに自分の意見も差し挟むような行為だ。自分と語りが共にそこに存在し、生きている、それは二度とおとずれないフレッシュなものであり、準備されたものでもなければ、たくらまれたものでもない。毎回ユニークな瞬間なのだ。
そのことを私は沙也佳ちゃんから教えられた。
彼女は毎日懸命に練習する。
お母さんに怒られながら(厳しいのだ、これがまた)、何度も何度も読みの練習をする。そして彼女は「お話」そのものになる。一心不乱に「お話」そのものになる。それと共演するとき、共演者も一心不乱にお話そのものになる。お話のなかで沙也佳ちゃんとひとつになる。
そのときお客さんもお話そのものになる。会場がひとつになる。それは、ここで太鼓を鳴らすとか、ここから音楽を入れるとか、ここで静止するとか、そういった段取りを越えた世界なのだ。
「自己主張」とか「自己表現」という言葉の意味についてあらためて考えさせられる。
なぜなら、沙也佳ちゃんはそのとき、自分のことなど微塵も考えていない。彼女が考えているのはお話のことだけ。純粋に語ることだけ。そのとき、我々の前には、小林沙也佳という語り手が圧倒的な力を持って立ち現れる。私もただその世界のなかに入って行くだけ。
彼女はいま、その7年200回の活動を通して多くの支援者を得てきた。これからもそれは増え続けていくだろう。
私ひとりが支援してきたような顔をしているように見えるかもしれないが、決してそんなことはない。
彼女を支援しているすべての方に大きな感謝を持っている。
沙也佳ちゃんは軽度の知的障碍を持っていて、数年前に豊田の高等養護学校を卒業した。それからはTBクリエイトスタッフという会社の全面的支援を得ながら、語りの活動に専念している。
彼女の語りを聴いた人はだれもが深く感動し、ときに心から笑い、ときに涙を流す。
豊田に住んでいた彼女が初めて東京の私のところにやってきたのは、中学校3年生、まだ14歳のときだった。
お母さんの淑江さんは、彼女のために語りの脚本を書いていて、ふたりの語り活動はまだほんの端緒についたばかりだった。
沙也佳ちゃんを語り手としてより成長させたいというお母さんの思いで、ネットで検索して私の朗読研究会を見つけ(そのころはまだ現代朗読協会は発足していなかった)、指導をしてほしいと、わざわざ豊田から東京まで沙也佳ちゃんを連れてやってきたのだった。
たしか、なにかのワークショップの最中だったと思う。私は沙也佳ちゃんの語りがどういうものなのかまったく知らなかったので、なんの先入観もないまま、
「とにかくなにか聴かせてください」
とお願いした。そのとき語られたのが「いのち」という語り作品だった。
彼女が語り終わったとき、そこにいる全員がボロボロに涙していた。私も同様で、とにかく心を揺さぶられた。こんな語りは聴いたことがなかった。
「今後どうすればいいんでしょう」
というお母さんに、
「とにかくなにもしないでください。このまままっすぐ伸ばしてあげて」
とお願いしたことを覚えている。
その後、沙也佳ちゃんと淑江さんは私のところに通いつづけてくれ(それはいまでも続いている)、いろいろな経緯があって、私も沙也佳ちゃんの活動をサポートすることになった。
まずは「いのち」という作品に音楽を提供すること。
それを皮切りに、私がピアノを弾いて一緒の舞台に立ったり、CDを作ったり、さらにいくつかの曲を提供したり、舞台作りのお手伝いをしたり、語りのアドバイスをしたりと、数えきれないほどの経験を共有してきた。それは私にとっても宝物の経験である。
この過程で私は、知的障碍を持っている彼女にたいして、自分が指導者であるとか、先輩であるとか、ただの一度も考えたことはない。断じてない。私はつねに彼女の共演者であり、サポーターであるという立ち位置でやってきた。それは淑江さんも保障してくれるだろう。
語りの共演者であるというのはどういうことか。それは、語りを最大限生かすことを考えながら、しかし自分と語りとの有機的なつながりを持った舞台を実現することだ。あたかも一緒におなじ道を歩きながら相手の話を完全に聞き、ときに自分の意見も差し挟むような行為だ。自分と語りが共にそこに存在し、生きている、それは二度とおとずれないフレッシュなものであり、準備されたものでもなければ、たくらまれたものでもない。毎回ユニークな瞬間なのだ。
そのことを私は沙也佳ちゃんから教えられた。
彼女は毎日懸命に練習する。
お母さんに怒られながら(厳しいのだ、これがまた)、何度も何度も読みの練習をする。そして彼女は「お話」そのものになる。一心不乱に「お話」そのものになる。それと共演するとき、共演者も一心不乱にお話そのものになる。お話のなかで沙也佳ちゃんとひとつになる。
そのときお客さんもお話そのものになる。会場がひとつになる。それは、ここで太鼓を鳴らすとか、ここから音楽を入れるとか、ここで静止するとか、そういった段取りを越えた世界なのだ。
「自己主張」とか「自己表現」という言葉の意味についてあらためて考えさせられる。
なぜなら、沙也佳ちゃんはそのとき、自分のことなど微塵も考えていない。彼女が考えているのはお話のことだけ。純粋に語ることだけ。そのとき、我々の前には、小林沙也佳という語り手が圧倒的な力を持って立ち現れる。私もただその世界のなかに入って行くだけ。
彼女はいま、その7年200回の活動を通して多くの支援者を得てきた。これからもそれは増え続けていくだろう。
私ひとりが支援してきたような顔をしているように見えるかもしれないが、決してそんなことはない。
彼女を支援しているすべての方に大きな感謝を持っている。
歌と詩の会「ぐるぐる詩の輪」のご案内
名古屋です。
知り合いの詩人から案内をもらったので、紹介します。私自身は残念ながら行けないので。
興味のある方はどうぞ。飛び入りでも大丈夫だそうです。
------------
●9月25日(土)午後3:00〜5:00
会場:喫茶Jaaja(ジャージャ)
アクセス:名古屋市・地下鉄・覚王山(かくおうざん)駅下車、1番出口(右へ)直進1分
三菱東京UFJ銀行・東隣、3台分の100円パーキングとなり(間口の狭い店です)
料金:(会場使用料として)参加費500円+1オーダー
流れとしては、一人5〜10分で歌か詩の朗読、(いつも2順をします)、歓談をして交流をします。10代〜80代まで幅広いメンバーが集まります。
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知り合いの詩人から案内をもらったので、紹介します。私自身は残念ながら行けないので。
興味のある方はどうぞ。飛び入りでも大丈夫だそうです。
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●9月25日(土)午後3:00〜5:00
会場:喫茶Jaaja(ジャージャ)
アクセス:名古屋市・地下鉄・覚王山(かくおうざん)駅下車、1番出口(右へ)直進1分
三菱東京UFJ銀行・東隣、3台分の100円パーキングとなり(間口の狭い店です)
料金:(会場使用料として)参加費500円+1オーダー
流れとしては、一人5〜10分で歌か詩の朗読、(いつも2順をします)、歓談をして交流をします。10代〜80代まで幅広いメンバーが集まります。
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2010年9月13日月曜日
「ピースウィークくにたち」が開催されます
NVCをいっしょに勉強している仲間から、以下の案内をいただいたので、紹介します。
とても盛りだくさんで魅力的なイベントですね。
------------
★実行委員会企画映画ラインアップ(日時など詳細はウェブで)
『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督/2010年/125分)
『ヒバクシャとボクの旅』(國本隆史監督/2010年/64分)
忌野清志郎主演『不確かなメロディー』(杉山太郎監督/2001年/93分)
『死んどるヒマはない―益永スミコ86歳』(ビデオプレス/2010年/70分)
『未来の食卓』(ジャン=ポール・ジョー監督/2008年/112分)
『アボン 小さい家』(今泉光司監督/2007年/111分)
『水になった村』(大西暢夫監督/2007年/92分)
『ディア・ピョンヤン』(ヤン・ヨンヒ監督/2005年/107分)
『パリのモスク〜忘れられたレジスタンス』
★その他くにたち各地で行われる市民企画いろいろ
■秋の夜長 みつろうキャンドルを灯そう 作ろう
SAPではみつろうキャンドルやキャンドル作成キットを、器の店ノーションでは作家もの
の燭台やキャンドルホルダーを販売。SAKKA no ZAKKAでは手作りキャンドルのワーク
ショップを開催します。
【日 時】販売9月10日(金)〜23日(木)
ワークショップ:9月11日(土)、18日(土)、24日(金)13:30〜15:00
【参加費】1500円(材料費込み)
【定 員】各5名(要予約)
【主 催】SAP、器の店ノーション、SAKKA no ZAKKA
【連絡先】TEL/FAX:042-573-4780(SAP)
TEL:042-573-3449(器の店ノーション)、
TEL/FAX:042-505-5323(SAKKA no ZAKKA)
■セプテンバーコンサート
毎年9月11日に「平和」への思いを音楽に託して世界中で行われている入場無料の「草の
根コンサート」です。この日、地球全体が音楽に包まれることを夢見て。詳細はウェブ
ページをご覧ください。
【日 時】9月11日(土)・12日(日)(時間はHP参照)
【場 所】agreable*musee
【主 催】agreable*musee
【連絡先】TEL:042-577-7353 FAX:042-577-7362
■平和を紡ぐ1000人の女性たち写真展
&横井久美子とピースな仲間たちコンサート+映画
世界中の平和活動家女性1000人の顔々に囲まれる写真展。その一人、国立在住の歌手横井
久美子さんの展示初日ロビーコンサート。横井久美子と歌仲間コンサート&女性達をノー
ベル平和賞に正式ノミネートした記録映画。
【日 時】9月11日(土)〜9月18日(土)
【場 所】公民館ロビー(展示と初日16:00〜ロビーコンサート)
【日 時】9月25日(土)18:00〜
【場 所】くにたち公民館ホール(映画上映とコンサート)
【主 催】1000ピースウィメン
【連絡先】TEL/FAX:042-576-1297
■9条カフェ
9条カフェは、憲法9条や平和のことをみんなでおしゃべりする会です。誰か「偉い」人
が来て話をするのではなく、参加した人みんなが主人公。様々な興味をもったいろんな人
がいることがわかるだけでも、世界が広がった気分です。
【日 時】9月16日(木)16:00〜18:00
【場 所】カフェひょうたん島
【参加費】100円+飲み物代
【主 催】国立東9条の会
【連絡先】TEL:042-574-8012(八木)
■「韓国併合100年」─歴史・現在・未来を考える─
立川シビル市民講座第15期。第1節は徐京植さんをお迎えし6月に終了。第2節は石坂浩
一さん(立教大学)を講師に第1回「韓国民主化運動と日本社会の変化」、第2回「21世
紀の日本と朝鮮半島」。第3節第1回は10月30日(土)昼、イ・ヨンチェさん(恵泉女学
園大学)を予定。
【日 時】9月18日(土)・10月2日(土)各18:00〜21:00
【場 所】立川シビル(モノレール立川南駅から徒歩1分)
【受講料】1000円(会員・学生・生活困窮者は800円)
【主 催】市民の学習・活動・交流センター シビル
【連絡先】TEL/FAX:042-524-9014 メール:civiltachikawa@yahoo.co.jp
■パーソナルフォーカス2010
―3分間8ミリフィルム フェスティバル―
小さな8ミリフィルムの手作り感に溢れたフェスティバル。商業映像とは一味違った、多
彩な楽しさ美しさが輝いています。
【日 時】9月19日(日)15:00〜
【場 所】木乃久兵衛:キノ・キュッヘ
【参加費】1000円
【主 催】パーソナルフォーカス東京上映企画
【連絡先】TEL/FAX:042-577-5971(キノ・キュッヘ)
■『たいせつなもの』出版記念会
2007年、夫の急死で、この絵本の著者と9人の子どもが残されました。離婚で会えなく
なった妹の子とともに子どもたちに伝えたい思い。著者のなるさわまちこさんが語ります。
【日 時】9月23日(木)
【場 所】カフェひょうたん島
【参加費】1800円(絵本付)
【共 催】「たいせつなもの」を伝える会/子どもとの交流を求める親の会
【連絡先】TEL/FAX:042-574-0930
■ソプラノ独唱と映画の夕べ
沖縄の地に1日も早く平和な日々が来ることを願って、沖縄の歌と映画『太陽の子』を上
映します。
【日 時】9月24日(金)19:00〜
【場 所】公民館・講座室
【主 催】子どもたちに豊かな未来を!映画会
【連絡先】TEL:042-573-3101
■モーニング ヨーガ
心と身体の調和をとるためのヨーガ、特に、一日の始まりの朝に行うヨーガによってクリ
アーな目覚めを体感しましょう! どうぞ気軽にご参加ください!
【日 時】9月26日(日)7:00〜8:15
【場 所】スタジオ凛
【主 催】スタジオ凛
【連絡先】TEL/FAX:042-575-3833
そのほか全部で18の市民企画
ピースウィークくにたちのウェブサイトはこちら。
⇒ http://blog.goo.ne.jp/kunitachipw/
とても盛りだくさんで魅力的なイベントですね。
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★実行委員会企画映画ラインアップ(日時など詳細はウェブで)
『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督/2010年/125分)
『ヒバクシャとボクの旅』(國本隆史監督/2010年/64分)
忌野清志郎主演『不確かなメロディー』(杉山太郎監督/2001年/93分)
『死んどるヒマはない―益永スミコ86歳』(ビデオプレス/2010年/70分)
『未来の食卓』(ジャン=ポール・ジョー監督/2008年/112分)
『アボン 小さい家』(今泉光司監督/2007年/111分)
『水になった村』(大西暢夫監督/2007年/92分)
『ディア・ピョンヤン』(ヤン・ヨンヒ監督/2005年/107分)
『パリのモスク〜忘れられたレジスタンス』
★その他くにたち各地で行われる市民企画いろいろ
■秋の夜長 みつろうキャンドルを灯そう 作ろう
SAPではみつろうキャンドルやキャンドル作成キットを、器の店ノーションでは作家もの
の燭台やキャンドルホルダーを販売。SAKKA no ZAKKAでは手作りキャンドルのワーク
ショップを開催します。
【日 時】販売9月10日(金)〜23日(木)
ワークショップ:9月11日(土)、18日(土)、24日(金)13:30〜15:00
【参加費】1500円(材料費込み)
【定 員】各5名(要予約)
【主 催】SAP、器の店ノーション、SAKKA no ZAKKA
【連絡先】TEL/FAX:042-573-4780(SAP)
TEL:042-573-3449(器の店ノーション)、
TEL/FAX:042-505-5323(SAKKA no ZAKKA)
■セプテンバーコンサート
毎年9月11日に「平和」への思いを音楽に託して世界中で行われている入場無料の「草の
根コンサート」です。この日、地球全体が音楽に包まれることを夢見て。詳細はウェブ
ページをご覧ください。
【日 時】9月11日(土)・12日(日)(時間はHP参照)
【場 所】agreable*musee
【主 催】agreable*musee
【連絡先】TEL:042-577-7353 FAX:042-577-7362
■平和を紡ぐ1000人の女性たち写真展
&横井久美子とピースな仲間たちコンサート+映画
世界中の平和活動家女性1000人の顔々に囲まれる写真展。その一人、国立在住の歌手横井
久美子さんの展示初日ロビーコンサート。横井久美子と歌仲間コンサート&女性達をノー
ベル平和賞に正式ノミネートした記録映画。
【日 時】9月11日(土)〜9月18日(土)
【場 所】公民館ロビー(展示と初日16:00〜ロビーコンサート)
【日 時】9月25日(土)18:00〜
【場 所】くにたち公民館ホール(映画上映とコンサート)
【主 催】1000ピースウィメン
【連絡先】TEL/FAX:042-576-1297
■9条カフェ
9条カフェは、憲法9条や平和のことをみんなでおしゃべりする会です。誰か「偉い」人
が来て話をするのではなく、参加した人みんなが主人公。様々な興味をもったいろんな人
がいることがわかるだけでも、世界が広がった気分です。
【日 時】9月16日(木)16:00〜18:00
【場 所】カフェひょうたん島
【参加費】100円+飲み物代
【主 催】国立東9条の会
【連絡先】TEL:042-574-8012(八木)
■「韓国併合100年」─歴史・現在・未来を考える─
立川シビル市民講座第15期。第1節は徐京植さんをお迎えし6月に終了。第2節は石坂浩
一さん(立教大学)を講師に第1回「韓国民主化運動と日本社会の変化」、第2回「21世
紀の日本と朝鮮半島」。第3節第1回は10月30日(土)昼、イ・ヨンチェさん(恵泉女学
園大学)を予定。
【日 時】9月18日(土)・10月2日(土)各18:00〜21:00
【場 所】立川シビル(モノレール立川南駅から徒歩1分)
【受講料】1000円(会員・学生・生活困窮者は800円)
【主 催】市民の学習・活動・交流センター シビル
【連絡先】TEL/FAX:042-524-9014 メール:civiltachikawa@yahoo.co.jp
■パーソナルフォーカス2010
―3分間8ミリフィルム フェスティバル―
小さな8ミリフィルムの手作り感に溢れたフェスティバル。商業映像とは一味違った、多
彩な楽しさ美しさが輝いています。
【日 時】9月19日(日)15:00〜
【場 所】木乃久兵衛:キノ・キュッヘ
【参加費】1000円
【主 催】パーソナルフォーカス東京上映企画
【連絡先】TEL/FAX:042-577-5971(キノ・キュッヘ)
■『たいせつなもの』出版記念会
2007年、夫の急死で、この絵本の著者と9人の子どもが残されました。離婚で会えなく
なった妹の子とともに子どもたちに伝えたい思い。著者のなるさわまちこさんが語ります。
【日 時】9月23日(木)
【場 所】カフェひょうたん島
【参加費】1800円(絵本付)
【共 催】「たいせつなもの」を伝える会/子どもとの交流を求める親の会
【連絡先】TEL/FAX:042-574-0930
■ソプラノ独唱と映画の夕べ
沖縄の地に1日も早く平和な日々が来ることを願って、沖縄の歌と映画『太陽の子』を上
映します。
【日 時】9月24日(金)19:00〜
【場 所】公民館・講座室
【主 催】子どもたちに豊かな未来を!映画会
【連絡先】TEL:042-573-3101
■モーニング ヨーガ
心と身体の調和をとるためのヨーガ、特に、一日の始まりの朝に行うヨーガによってクリ
アーな目覚めを体感しましょう! どうぞ気軽にご参加ください!
【日 時】9月26日(日)7:00〜8:15
【場 所】スタジオ凛
【主 催】スタジオ凛
【連絡先】TEL/FAX:042-575-3833
そのほか全部で18の市民企画
ピースウィークくにたちのウェブサイトはこちら。
⇒ http://blog.goo.ne.jp/kunitachipw/
2010年9月11日土曜日
名古屋より
名古屋、晴れ上がっている。今日も猛暑日の予定。
今日は9.11。あれから9年。21世紀の最初の10年はいろいろな意味で激動の世界だった。私の人生観、考え方、そして日々の生活も大きく変わった。
そんなことを思いをはせながら、今夜はウェルバ・アクトゥスのミニライブをおこなう。
昨日は予定どおり、東京から名古屋へ移動し、語りっ娘・小林沙也佳ちゃんとお母さんと合流。
三好市北部小学校での公演イベントの打ち合わせ。
豊田市足助に行って、知立演劇フェスティバルのレッスンと、「水琴」コンサートの打ち合わせ。
名古屋に戻り、劇団クセックのアトリエでバラさんと落ち合い、今日のミニライブにアトリエの1階部分を貸してくれ、給仕も手伝ってくれるアトリエオーナーもいっしょに軽く会場準備をしてから、飲みに行く。
終電でホテルにチェックイン。
今日は午後、クセックのアトリエ〈エル・ノルテ〉でウェルバ・アクトゥスのワークショップ。バラさんが急遽、ワークショップ講師として来てくれることになった。参加の皆さんはまだこのことを知らない。
見学や一回きりの臨時参加も歓迎です。
この問い合わせ電話番号は臨時ですが「090-9962-0848」です。
今日は9.11。あれから9年。21世紀の最初の10年はいろいろな意味で激動の世界だった。私の人生観、考え方、そして日々の生活も大きく変わった。
そんなことを思いをはせながら、今夜はウェルバ・アクトゥスのミニライブをおこなう。
昨日は予定どおり、東京から名古屋へ移動し、語りっ娘・小林沙也佳ちゃんとお母さんと合流。
三好市北部小学校での公演イベントの打ち合わせ。
豊田市足助に行って、知立演劇フェスティバルのレッスンと、「水琴」コンサートの打ち合わせ。
名古屋に戻り、劇団クセックのアトリエでバラさんと落ち合い、今日のミニライブにアトリエの1階部分を貸してくれ、給仕も手伝ってくれるアトリエオーナーもいっしょに軽く会場準備をしてから、飲みに行く。
終電でホテルにチェックイン。
今日は午後、クセックのアトリエ〈エル・ノルテ〉でウェルバ・アクトゥスのワークショップ。バラさんが急遽、ワークショップ講師として来てくれることになった。参加の皆さんはまだこのことを知らない。
見学や一回きりの臨時参加も歓迎です。
この問い合わせ電話番号は臨時ですが「090-9962-0848」です。
2010年9月8日水曜日
次世代オーディオブック・リーダー養成講座受講生募集(第四期)
新しい声のジャンル、“オーディオブックリーダー”養成のための実践的集中講座!
最終オーディションを突破してプロReaderを目指しましょう。
第四期生9月23日スタートです。
ハイクォリティなオーディオブックを制作しているアイ文庫が、次世代のオーディオブックリーダー養成集中講座を開催しています。
当講座には、オーディオブック販売のことのは出版とNPO法人現代朗読協会の全面的バックアップを得ています。
主催:アイ文庫
協力:ことのは出版
現代朗読協会
★次世代オーディオブック・リーダー養成講座
声優/ナレーター/朗読者のためのステップアップ講座
申込みはこちら
【概要】
オーディオブックの読みや収録についてのノウハウとトレーニング法を一日で集中講義します。
その後1~2か月のトレーニング期間をおいて最終オーディション(収録)をおこないます。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
【詳細】
(1)集中講座
以下の日程で開催される一日集中講義を受講していただきます。
日時:2010年9月23日(月)10:00~18:00
場所:アイ文庫(世田谷区/京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
受講料:33,000円
(2)トレーニング
収録用の作品を選び、(1)の内容の習得と(3)にむけての1~2か月間のトレーニング期間を設けます。
期間中は、メールによる指導と面談(またはスカイプ、希望者のみ)で習得状況をチェックします。質問等も自由です。
理解度や技術レベルによっては現代朗読協会のワークショップに参加していだくこともあります(参加費免除)。
(3)オーディション
アイ文庫のスタジオにて収録をおこないます。
収録後、数日以内に合否を決定します。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
すでに一期生から三期生が実際の収録をおこなったり、収録の準備をはじめています。
【本講座の特徴】
オーディオブックリーダー(朗読者)は、ナレーターでもアナウンサーでもなく、声優でもない、新しい声のジャンルです。
オーディオブックの朗読にチャレンジしてみたいと思っている人が多いなか、その読みや収録についてのノウハウをしっかりとアドバイスしてくれる場所はそう多くありません。
そんななかで、アイ文庫は、今後も長くネットコンテンツとして流通していくに耐えるクオリティを持ったオーディオブックの制作とリーダーの育成にあたっています。
単なる音読コンテンツではなく、「朗読作品」としてのオーディオブックを読める人を育てることが目的です。
文芸朗読、詩曲集、教科書朗読、英語朗読などで業界随一のクオリティと実績を持つアイ文庫のオーディオブック・ディレクターが指導にあたります。
ただ読むだけではない、情報伝達のみにとどまらない、「表現」の域にまで踏みこんだクオリティの高いオーディオブック収録ができるハイレベルなリーダー(朗読者)の育成をめざします。数多くの実践的なノウハウを盛りこんだプログラムで予定しています。
◎ドキュメント「オーディオブックの真実」
日本のオーディオブックの現状や経緯を詳しく書いたドキュメントを、講師の水城が配信しました。
こちらからその全文が読めます。
アイ文庫のツイッターも参考にしてください。
最終オーディションを突破してプロReaderを目指しましょう。
第四期生9月23日スタートです。
ハイクォリティなオーディオブックを制作しているアイ文庫が、次世代のオーディオブックリーダー養成集中講座を開催しています。
当講座には、オーディオブック販売のことのは出版とNPO法人現代朗読協会の全面的バックアップを得ています。
主催:アイ文庫
協力:ことのは出版
現代朗読協会
★次世代オーディオブック・リーダー養成講座
声優/ナレーター/朗読者のためのステップアップ講座
申込みはこちら
【概要】
オーディオブックの読みや収録についてのノウハウとトレーニング法を一日で集中講義します。
その後1~2か月のトレーニング期間をおいて最終オーディション(収録)をおこないます。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
【詳細】
(1)集中講座
以下の日程で開催される一日集中講義を受講していただきます。
日時:2010年9月23日(月)10:00~18:00
場所:アイ文庫(世田谷区/京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
受講料:33,000円
(2)トレーニング
収録用の作品を選び、(1)の内容の習得と(3)にむけての1~2か月間のトレーニング期間を設けます。
期間中は、メールによる指導と面談(またはスカイプ、希望者のみ)で習得状況をチェックします。質問等も自由です。
理解度や技術レベルによっては現代朗読協会のワークショップに参加していだくこともあります(参加費免除)。
(3)オーディション
アイ文庫のスタジオにて収録をおこないます。
収録後、数日以内に合否を決定します。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
すでに一期生から三期生が実際の収録をおこなったり、収録の準備をはじめています。
【本講座の特徴】
オーディオブックリーダー(朗読者)は、ナレーターでもアナウンサーでもなく、声優でもない、新しい声のジャンルです。
オーディオブックの朗読にチャレンジしてみたいと思っている人が多いなか、その読みや収録についてのノウハウをしっかりとアドバイスしてくれる場所はそう多くありません。
そんななかで、アイ文庫は、今後も長くネットコンテンツとして流通していくに耐えるクオリティを持ったオーディオブックの制作とリーダーの育成にあたっています。
単なる音読コンテンツではなく、「朗読作品」としてのオーディオブックを読める人を育てることが目的です。
文芸朗読、詩曲集、教科書朗読、英語朗読などで業界随一のクオリティと実績を持つアイ文庫のオーディオブック・ディレクターが指導にあたります。
ただ読むだけではない、情報伝達のみにとどまらない、「表現」の域にまで踏みこんだクオリティの高いオーディオブック収録ができるハイレベルなリーダー(朗読者)の育成をめざします。数多くの実践的なノウハウを盛りこんだプログラムで予定しています。
◎ドキュメント「オーディオブックの真実」
日本のオーディオブックの現状や経緯を詳しく書いたドキュメントを、講師の水城が配信しました。
こちらからその全文が読めます。
アイ文庫のツイッターも参考にしてください。
げろきょでないと Vol.20 ライブレポート
昨日は毎月2回恒例の中野ピグノーズ「げろきょでないと」だった。開催はこれがちょうど20回め。
女優の石村みかさんが初出演してくれるというので、7時20分に中野駅前で待ち合わせ。いっしょにブロードウェイを抜けてピグノーズへ。
すでに照井数男が来ている。彼は20回のほぼ皆勤である。
出演はもうひとり、野々宮卯妙。こちらもほぼ皆勤。
20時すぎにぼちぼちと始める。まずは照井数男による連続朗読、太宰治の「彼は昔の彼ならず」という中編。だいぶ後ろのほうまで来た。このところしはしばやっているMacBookをつないでの電子音を使いながら。それにピアノ演奏もからめて。
かなり前衛的な雰囲気になる。
私の演奏と照井くんの朗読が興に乗って盛り上がってきたところへ、初めていらっしゃるお客さんがふたり。女性。初めての方にはこれはちょっと刺激が……と思ったが、途中で止めるわけにはいかない。そのまま最後までやる。
その後でうかがったのだが、女性ふたりはネットで「朗読」と検索して、現代朗読協会のことを知り、このライブのことも知って、思い切ってやってきたそうだ。むむ。せめてこの後の演目は手柔らかにいこうかとも思ったが、今夜のテーマは「特殊相対性」であった。
彼女たちが思いっきり引いている感じを受けながらも、いつものようにやる。
野々宮が「洗濯女」をやる。これは「桃太郎」の現代小説バージョン。一見、普通の朗読を装いつつ、途中でふざけた仕掛けがある。いわゆる従来型の朗読ではない。これも聴いて怒る人は怒る。
石村みかが出る。
9月19日に下北沢〈音倉〉でおこなうライブ「特殊相対性の女」のシナリオの一部を朗読する。朗読といいつつ、やはりそこは役者だ。思いもよらないさまざまな表現を乗せてきて、おもしろい。当日はこれに動きが付く、と思うとわくわくする。が、もちろん、従来朗読の枠からは大きくはみ出している。怒る人は怒る。
つづいて野々宮による西田幾多郎の『善の研究』。哲学書を朗読するというのはあまりないだろう。私はミニマルミュージック風に、しかし左右の手指の連動能力の極限に挑戦しつつ、からむ。
照井によるアインシュタインの名古屋における「特殊相対性理論」に関しての講演録の朗読。これまた講演録を読むというのはあまりないだろう。次第に白熱していく照井くんの朗読と私の渾身のフリー演奏とで、非常に過激なパフォーマンスとなる。
前半ラストは、せめて一本くらいわかりやすいものを、ということで、野々宮が新美南吉の「あし」というおばかな馬の話。
少し休憩をはさんで、後半のしょっぱなはお客さんからのリクエストにより、野々宮が芥川龍之介の「桃太郎」を。
つぎに、レイラさんが連れてきてくれたギタリストの曽根一馬さんが演奏に参入。とりあえず、ブルースをやろう、ということで、私とデュオでのブルース演奏に乗って野々宮に漱石の「夢十夜・第六夜」を読んでもらう。楽しい。
照井によるアインシュタイン講演録の、曽根ギター参加フリーバージョン。
石村みかによる「眠らない男」歌入りバージョン、曽根ギター付き。
野々宮による「砂時計」静寂バージョン、曽根ギター付き。
そして今夜もまた、フリージャズの第一人者であるピアニストの板倉克行さんが遊びにきてくれた。
曽根さんとのガチンコセッション、そして朗読との入り乱れてのセッション。
しまいには、全員参加、私も板倉さんと連弾での、「乱れ髪」セッションと、すごいことになってしまった。
第20回にふさわしい濃密なライブの時間であった。
女優の石村みかさんが初出演してくれるというので、7時20分に中野駅前で待ち合わせ。いっしょにブロードウェイを抜けてピグノーズへ。
すでに照井数男が来ている。彼は20回のほぼ皆勤である。
出演はもうひとり、野々宮卯妙。こちらもほぼ皆勤。
20時すぎにぼちぼちと始める。まずは照井数男による連続朗読、太宰治の「彼は昔の彼ならず」という中編。だいぶ後ろのほうまで来た。このところしはしばやっているMacBookをつないでの電子音を使いながら。それにピアノ演奏もからめて。
かなり前衛的な雰囲気になる。
私の演奏と照井くんの朗読が興に乗って盛り上がってきたところへ、初めていらっしゃるお客さんがふたり。女性。初めての方にはこれはちょっと刺激が……と思ったが、途中で止めるわけにはいかない。そのまま最後までやる。
その後でうかがったのだが、女性ふたりはネットで「朗読」と検索して、現代朗読協会のことを知り、このライブのことも知って、思い切ってやってきたそうだ。むむ。せめてこの後の演目は手柔らかにいこうかとも思ったが、今夜のテーマは「特殊相対性」であった。
彼女たちが思いっきり引いている感じを受けながらも、いつものようにやる。
野々宮が「洗濯女」をやる。これは「桃太郎」の現代小説バージョン。一見、普通の朗読を装いつつ、途中でふざけた仕掛けがある。いわゆる従来型の朗読ではない。これも聴いて怒る人は怒る。
石村みかが出る。
9月19日に下北沢〈音倉〉でおこなうライブ「特殊相対性の女」のシナリオの一部を朗読する。朗読といいつつ、やはりそこは役者だ。思いもよらないさまざまな表現を乗せてきて、おもしろい。当日はこれに動きが付く、と思うとわくわくする。が、もちろん、従来朗読の枠からは大きくはみ出している。怒る人は怒る。
つづいて野々宮による西田幾多郎の『善の研究』。哲学書を朗読するというのはあまりないだろう。私はミニマルミュージック風に、しかし左右の手指の連動能力の極限に挑戦しつつ、からむ。
照井によるアインシュタインの名古屋における「特殊相対性理論」に関しての講演録の朗読。これまた講演録を読むというのはあまりないだろう。次第に白熱していく照井くんの朗読と私の渾身のフリー演奏とで、非常に過激なパフォーマンスとなる。
前半ラストは、せめて一本くらいわかりやすいものを、ということで、野々宮が新美南吉の「あし」というおばかな馬の話。
少し休憩をはさんで、後半のしょっぱなはお客さんからのリクエストにより、野々宮が芥川龍之介の「桃太郎」を。
つぎに、レイラさんが連れてきてくれたギタリストの曽根一馬さんが演奏に参入。とりあえず、ブルースをやろう、ということで、私とデュオでのブルース演奏に乗って野々宮に漱石の「夢十夜・第六夜」を読んでもらう。楽しい。
照井によるアインシュタイン講演録の、曽根ギター参加フリーバージョン。
石村みかによる「眠らない男」歌入りバージョン、曽根ギター付き。
野々宮による「砂時計」静寂バージョン、曽根ギター付き。
そして今夜もまた、フリージャズの第一人者であるピアニストの板倉克行さんが遊びにきてくれた。
曽根さんとのガチンコセッション、そして朗読との入り乱れてのセッション。
しまいには、全員参加、私も板倉さんと連弾での、「乱れ髪」セッションと、すごいことになってしまった。
第20回にふさわしい濃密なライブの時間であった。
声優・ナレーター・朗読者が使うヘッドホンについて
ヘッドホンを買いたいがどのようなものがいいか、ということを時々聞かれるので、簡単にまとめておきたい。
まず、選択肢として、ヘッドホンではなくてイヤホン型のレシーバーが多く使われているが、これはNG。イヤホン型レシーバーはあくまで娯楽用であり、簡易モニターなので、勉強用には不向き。また、電車の中などつい大音量で聴いてしまいがちになり、朗読者の命でもある耳を痛めることがよくある。
ロックバンドをやっている(いた)人で難聴の人が多いのは、ライブのせいではない。イヤホン型レシーバーを使って大音量で音楽を聴くのは(とくに一定のビートと低音をブーストしたものを聴くのは)、想像以上に耳に与えるダメージは大きい。朗読者はなるべくイヤホン型レシーバーを使用しないように心がけたい。使うときには音量に細心の注意を払いたい。
ヘッドホンには大きく分けて2種類のタイプがある。密閉タイプとオープンエアタイプ。微細なニュアンスを聞き分けるにはどちらが適しているか、あらためて書くまでもないだろう。そして朗読やナレーションなど人の音声を詳細に聴くというのは、音楽鑑賞以上に微細な観察行為である。
人の声の要素としては、息使いやリップノイズのような微細な音成分から、音圧の高い声成分まで、幅広いレンジがある。それらをきっちり聞き分けるには、それなりの解像度の高いモニター(ヘッドホン)と、よく訓練された「耳」が必要になる。
人の声と音楽との一番大きな違いは音域だろう。非常に低い音から高い音まで存在する音楽に対し、人の声の主要成分は中音域(300~700ヘルツ前後)に集まっている。とはいえ、低音域と高音域がないわけではない。その証拠に、両方の音域をカットすると、電話のような声になる。
人の声には音程としては現れない倍音成分が豊富に含まれていて、それらが音質や表情を作っている。中音域だけ再生できればいいというわけではない。とはいえ、中心成分は中音域に多く集まっているので、中音域の再生に強いヘッドホンを選ぶのがよいだろう。
J-POPやロックなど、現代商業音楽の再生を主目的にした多くのヘッドホンは、低音域の極端なブーストや高音域のいわゆる「伸び」や「抜け」を重視した作りになっているので、人の声の再生にはあまり向いていないといわざるをえない。できればフラットな特性のものを選びたい。
出回っているヘッドホンでこの目的に一番近いのは、クラシック音楽用とされているものだろう。これとて、好みによってピアノがきらびやかに聞こえる高音域が伸びるもの、落ちついた音色のもの、オーケストラの迫力が増す低音域に強いものなど、さまざまある。
ヘッドホン選びにおいてもっとも理想的なのは、自分がよく聴いている親しいナレーターや朗読者の声を録音したCDを持参して、店で実際に聴いてみることだ。
自分の声はNGである。自分の声は自分が聴いているようには人には聴こえていない。よく聴いている人の声がよい。しかも生で直接聴く機会がある人の、きちんと録音されてマスタリングされた音源が準備できればベスト。それをかけて、もっとも自然に聴こえるヘッドホンが、あなたにとって最適のヘッドホンに近いだろう。
しかしここまで準備するのは大変だし、そもそも店に行けないこともある。その場合は、購入者の評価や知り合いの推奨、データ、価格帯など、さまざまなデータを見て検討することになる。
価格としては、一概にはいえないし、上を見ればきりがないが、やはり1万円以上であるかどうかが製品クオリティの判断基準点になるかと思われる。
使用状況によっては密閉タイプよりオープンエアタイプがよかったり、最近ではノイズキャンセラー付きのものが安価になったりと、さまざまな選択肢があるので、詳しい人に直接相談するのがもっとも適切だろう。現代朗読協会に来れば私も気軽に相談に乗ります。
まず、選択肢として、ヘッドホンではなくてイヤホン型のレシーバーが多く使われているが、これはNG。イヤホン型レシーバーはあくまで娯楽用であり、簡易モニターなので、勉強用には不向き。また、電車の中などつい大音量で聴いてしまいがちになり、朗読者の命でもある耳を痛めることがよくある。
ロックバンドをやっている(いた)人で難聴の人が多いのは、ライブのせいではない。イヤホン型レシーバーを使って大音量で音楽を聴くのは(とくに一定のビートと低音をブーストしたものを聴くのは)、想像以上に耳に与えるダメージは大きい。朗読者はなるべくイヤホン型レシーバーを使用しないように心がけたい。使うときには音量に細心の注意を払いたい。
ヘッドホンには大きく分けて2種類のタイプがある。密閉タイプとオープンエアタイプ。微細なニュアンスを聞き分けるにはどちらが適しているか、あらためて書くまでもないだろう。そして朗読やナレーションなど人の音声を詳細に聴くというのは、音楽鑑賞以上に微細な観察行為である。
人の声の要素としては、息使いやリップノイズのような微細な音成分から、音圧の高い声成分まで、幅広いレンジがある。それらをきっちり聞き分けるには、それなりの解像度の高いモニター(ヘッドホン)と、よく訓練された「耳」が必要になる。
人の声と音楽との一番大きな違いは音域だろう。非常に低い音から高い音まで存在する音楽に対し、人の声の主要成分は中音域(300~700ヘルツ前後)に集まっている。とはいえ、低音域と高音域がないわけではない。その証拠に、両方の音域をカットすると、電話のような声になる。
人の声には音程としては現れない倍音成分が豊富に含まれていて、それらが音質や表情を作っている。中音域だけ再生できればいいというわけではない。とはいえ、中心成分は中音域に多く集まっているので、中音域の再生に強いヘッドホンを選ぶのがよいだろう。
J-POPやロックなど、現代商業音楽の再生を主目的にした多くのヘッドホンは、低音域の極端なブーストや高音域のいわゆる「伸び」や「抜け」を重視した作りになっているので、人の声の再生にはあまり向いていないといわざるをえない。できればフラットな特性のものを選びたい。
出回っているヘッドホンでこの目的に一番近いのは、クラシック音楽用とされているものだろう。これとて、好みによってピアノがきらびやかに聞こえる高音域が伸びるもの、落ちついた音色のもの、オーケストラの迫力が増す低音域に強いものなど、さまざまある。
ヘッドホン選びにおいてもっとも理想的なのは、自分がよく聴いている親しいナレーターや朗読者の声を録音したCDを持参して、店で実際に聴いてみることだ。
自分の声はNGである。自分の声は自分が聴いているようには人には聴こえていない。よく聴いている人の声がよい。しかも生で直接聴く機会がある人の、きちんと録音されてマスタリングされた音源が準備できればベスト。それをかけて、もっとも自然に聴こえるヘッドホンが、あなたにとって最適のヘッドホンに近いだろう。
しかしここまで準備するのは大変だし、そもそも店に行けないこともある。その場合は、購入者の評価や知り合いの推奨、データ、価格帯など、さまざまなデータを見て検討することになる。
価格としては、一概にはいえないし、上を見ればきりがないが、やはり1万円以上であるかどうかが製品クオリティの判断基準点になるかと思われる。
使用状況によっては密閉タイプよりオープンエアタイプがよかったり、最近ではノイズキャンセラー付きのものが安価になったりと、さまざまな選択肢があるので、詳しい人に直接相談するのがもっとも適切だろう。現代朗読協会に来れば私も気軽に相談に乗ります。
2010年9月7日火曜日
「(演劇+朗読)×音楽=特殊相対性の女」公演のお知らせ(9/19)
(演劇+朗読)×音楽=「特殊相対性の女」!?
女優・石村みかと朗読家・野々宮卯妙、そして即興演奏の水城ゆうがぶつかりあい融合する音の饗宴……
さまざまな舞台で活躍中、その天性の演技力で観る者を魅了している劇団東京乾電池の女優、石村みかと、現代朗読協会でバロック朗読家の異名をとる朗読者、野々宮卯妙。
個性の強いふたりを融合しぶつからせるのは、水城ゆうの斬新な演出、そして音楽。
写真家・三木義一による映像が音を目に焼きつけます。
時空を超えた物語が、地下空間で跳ねまわる!
ことばを超えて溢れる、ことばにならない感動を体験してください!
(演劇+朗読)×音楽=「特殊相対性の女」
作:水城ゆう
出演:石村みか/野々宮卯妙/水城ゆう
映像美術:三木義一
日時:2010年9月19日(日)
昼の部 14:00開場/15:00開演
夜の部 18:00開場/19:00開演
会場:Com.Cafe 音倉(下北沢)
http://www.otokura.jp
(155-0031)東京都世田谷区北沢2-26-23 EL NIU B1F
料金:3,000円(ワンドリンク付き)
予約:オンライン予約(携帯可) ⇒ こちら
メール予約 live@roudoku.org
FAX予約 03-6893-0595
問い合わせ:live@roudoku.org/090-9962-0848(現代朗読協会)
印刷美術:出愚坊一歩
印刷デザイン:伊藤貴人(鯔背屋)
制作:NPO法人現代朗読協会
協力:ウェルバ・アクトゥス制作実行委員会/アイ文庫
◆演出家からのメッセージ◆
演劇が役者の身体による表現であることは異論のないところだと思うが、朗読もそうであることはあまり認識されていない。
私は朗読演出においても常に朗読者の身体性、時空性を意識し、また意識させてきたが、すぐれて鍛えぬかれた朗読者の身体性が鍛錬された役者の身体性とどこまで拮抗するのか、興味を持っていた。もちろん朗読者と役者との身体性は、その使用方法やあり方そのものが異質なものだが、それゆえおなじステージ上に存在したときにどのように拮抗するのか、あるいは拮抗しないのか、化学反応を起こすのか、起こさないのか、好奇心をかきたてられる。
野々宮卯妙といういわば現代朗読で純粋培養された朗読者と、石村みかというすぐれた身体感覚を持った役者とのぶつかりあい。見たこともないもの、聴いたことのない声、音、経験したことのない時空を経験したくて、このテキストを書いた。
アルバート・アインシュタインは、物質が光速度に近づいていけばいくほど時間と空間に非日常的な歪みが生まれることを証明した。彼の頭脳が高速(光速)回転していたとき、彼の身体はどんなイメージに包まれていたのだろうか。彼はまた音楽を愛する人でもあった。
私もピアノ弾きという立場でステージにいるのだが、ご来場の皆さんとともに異空間の目撃者、体験者としてそこにありたいと望んでいる。
(水城ゆう)
女優・石村みかと朗読家・野々宮卯妙、そして即興演奏の水城ゆうがぶつかりあい融合する音の饗宴……
さまざまな舞台で活躍中、その天性の演技力で観る者を魅了している劇団東京乾電池の女優、石村みかと、現代朗読協会でバロック朗読家の異名をとる朗読者、野々宮卯妙。
個性の強いふたりを融合しぶつからせるのは、水城ゆうの斬新な演出、そして音楽。
写真家・三木義一による映像が音を目に焼きつけます。
時空を超えた物語が、地下空間で跳ねまわる!
ことばを超えて溢れる、ことばにならない感動を体験してください!
(演劇+朗読)×音楽=「特殊相対性の女」
作:水城ゆう
出演:石村みか/野々宮卯妙/水城ゆう
映像美術:三木義一
日時:2010年9月19日(日)
昼の部 14:00開場/15:00開演
夜の部 18:00開場/19:00開演
会場:Com.Cafe 音倉(下北沢)
http://www.otokura.jp
(155-0031)東京都世田谷区北沢2-26-23 EL NIU B1F
料金:3,000円(ワンドリンク付き)
予約:オンライン予約(携帯可) ⇒ こちら
メール予約 live@roudoku.org
FAX予約 03-6893-0595
問い合わせ:live@roudoku.org/090-9962-0848(現代朗読協会)
印刷美術:出愚坊一歩
印刷デザイン:伊藤貴人(鯔背屋)
制作:NPO法人現代朗読協会
協力:ウェルバ・アクトゥス制作実行委員会/アイ文庫
◆演出家からのメッセージ◆
演劇が役者の身体による表現であることは異論のないところだと思うが、朗読もそうであることはあまり認識されていない。
私は朗読演出においても常に朗読者の身体性、時空性を意識し、また意識させてきたが、すぐれて鍛えぬかれた朗読者の身体性が鍛錬された役者の身体性とどこまで拮抗するのか、興味を持っていた。もちろん朗読者と役者との身体性は、その使用方法やあり方そのものが異質なものだが、それゆえおなじステージ上に存在したときにどのように拮抗するのか、あるいは拮抗しないのか、化学反応を起こすのか、起こさないのか、好奇心をかきたてられる。
野々宮卯妙といういわば現代朗読で純粋培養された朗読者と、石村みかというすぐれた身体感覚を持った役者とのぶつかりあい。見たこともないもの、聴いたことのない声、音、経験したことのない時空を経験したくて、このテキストを書いた。
アルバート・アインシュタインは、物質が光速度に近づいていけばいくほど時間と空間に非日常的な歪みが生まれることを証明した。彼の頭脳が高速(光速)回転していたとき、彼の身体はどんなイメージに包まれていたのだろうか。彼はまた音楽を愛する人でもあった。
私もピアノ弾きという立場でステージにいるのだが、ご来場の皆さんとともに異空間の目撃者、体験者としてそこにありたいと望んでいる。
(水城ゆう)
2010年9月6日月曜日
ことばの世界、音楽の世界で起こっている大きな変化のこと
(以下の記事はあくまで私見であり、私が自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです)
ブームという言葉は使いたくないが、確実になにかが変わりつつあるようだ。
社会全体の価値観の話。
高度経済成長が終焉をむかえ、物質的豊かさが成長しつづけることは幻想であり、また罪悪ですらあると人々が感じはじめているいま、社会的価値観が変わっていくのは当然の帰結だろう。
中央より地方、物質的豊かさよりつつましさ、人工より自然、スピードよりゆったり。
テレビ番組で見たのだが、「標準語より方言のほうがいい」と答える人は、若い世代のほうが圧倒的に多い。そしてその割合も90パーセント以上になっている。
かつては恥ずかしいことだった「なまる」話し方も、いまは「かわいい」といって堂々と使われている。
朗読の世界では標準語イントネーションに固執し、そのまちがいに目くじらを立てる人がまだまだ多いが(もちろん高齢者層)、そんなことは全然本質的ではないし、つまらないことだと、私はずっといいつづけてきた。論点は多少ちがうが、このような流れのなかでつまらない価値観を捨ててくれる人が増えるといいと思う。
社内公用語を英語にする企業が出てきているが、これもまったく時代に逆行した流れであることがわかるだろう。
グローバル化という全体化の流れは、まだ大きな流れであるかのように見えるが、人間社会がそれで幸福になれないことはだれもが感じていることだ。英語公用語化で不幸な人が増えるばかりだろう。
英語は私たちにとっては母国語ではなく、グローバル言語という「道具」である。道具の使い方を学び練習するのはもちろん有用なことだが、それ「だけ」にしてしまうというのは日本全体の話し言葉を標準語だけに強要するような戦前や戦後直後の全体的な流れと同じことである。その流れのなかでは、ディテールやこまやかな心のふれあい、多様な思考・身体性といったものが失われていくだろう。結果的に企業も力を失っていくことになる。
母国語、そして地方の言葉を失ったとき、その人の世界観はフラットで殺風景なものとなる。
音楽の世界でも価値観の転換が起こりはじめている。
商業音楽の大きな流れのなかで、時代につれて流行したスタイルはあるが、気がついてみればいまや全世界が似たような音楽でおおわれている。日本もその流れに押しながされている。リズムはすべて2拍4拍に強拍を持つダンスビートだし、ビートは極端にブーストされたベースとドラムキックが受け持つ。そこにコードを受け持つギターかキーボードが乗る。
使いつくされたメロディラインは、すでにメロディメークをあきらめ、ラップに取ってかわられた。メロディが残っている曲もほとんどラップのようにしか聞こえない単調なラインしか持っていない。それをコーラスで取りつくろっている。その曲を非常に凝った映像やバックダンサーズなどでビジュアル装飾し、オーディエンスを無理やりノセている。ノセられているオーディエンスは麻薬のようなビートで思考停止におとしいれられた消費者である。
一部の人はそんな音楽シーンの不自然さに気づきはじめている。
すでにそんな商業音楽に背をそむけた人は増加の一歩をたどっている。そんな人たちはクラシック音楽やジャズ、そして日本にも古くからある美しいメロディの宝庫である童謡や唱歌を見直しはじめている。
いまの若い世代はほとんど童謡・唱歌を知らないが、一度聴けばその新鮮さに打たれるという(無関心な者ももちろんいるが)。ツイッターなどで情報が瞬時に共有されるいま、耳の肥えた音楽を熟知したオーディエンスのつぶやきに、若い世代が耳を傾けはじめている。
日本の童謡や、とくに明治期以降に成立した唱歌は、ジャズがそうであるように、独自の出自を持つ楽曲であり、いまも世界に通用する力のあるメロディの宝庫である。いままさにここに光があたろうとしていることを、私は確信する。
ブームという言葉は使いたくないが、確実になにかが変わりつつあるようだ。
社会全体の価値観の話。
高度経済成長が終焉をむかえ、物質的豊かさが成長しつづけることは幻想であり、また罪悪ですらあると人々が感じはじめているいま、社会的価値観が変わっていくのは当然の帰結だろう。
中央より地方、物質的豊かさよりつつましさ、人工より自然、スピードよりゆったり。
テレビ番組で見たのだが、「標準語より方言のほうがいい」と答える人は、若い世代のほうが圧倒的に多い。そしてその割合も90パーセント以上になっている。
かつては恥ずかしいことだった「なまる」話し方も、いまは「かわいい」といって堂々と使われている。
朗読の世界では標準語イントネーションに固執し、そのまちがいに目くじらを立てる人がまだまだ多いが(もちろん高齢者層)、そんなことは全然本質的ではないし、つまらないことだと、私はずっといいつづけてきた。論点は多少ちがうが、このような流れのなかでつまらない価値観を捨ててくれる人が増えるといいと思う。
社内公用語を英語にする企業が出てきているが、これもまったく時代に逆行した流れであることがわかるだろう。
グローバル化という全体化の流れは、まだ大きな流れであるかのように見えるが、人間社会がそれで幸福になれないことはだれもが感じていることだ。英語公用語化で不幸な人が増えるばかりだろう。
英語は私たちにとっては母国語ではなく、グローバル言語という「道具」である。道具の使い方を学び練習するのはもちろん有用なことだが、それ「だけ」にしてしまうというのは日本全体の話し言葉を標準語だけに強要するような戦前や戦後直後の全体的な流れと同じことである。その流れのなかでは、ディテールやこまやかな心のふれあい、多様な思考・身体性といったものが失われていくだろう。結果的に企業も力を失っていくことになる。
母国語、そして地方の言葉を失ったとき、その人の世界観はフラットで殺風景なものとなる。
音楽の世界でも価値観の転換が起こりはじめている。
商業音楽の大きな流れのなかで、時代につれて流行したスタイルはあるが、気がついてみればいまや全世界が似たような音楽でおおわれている。日本もその流れに押しながされている。リズムはすべて2拍4拍に強拍を持つダンスビートだし、ビートは極端にブーストされたベースとドラムキックが受け持つ。そこにコードを受け持つギターかキーボードが乗る。
使いつくされたメロディラインは、すでにメロディメークをあきらめ、ラップに取ってかわられた。メロディが残っている曲もほとんどラップのようにしか聞こえない単調なラインしか持っていない。それをコーラスで取りつくろっている。その曲を非常に凝った映像やバックダンサーズなどでビジュアル装飾し、オーディエンスを無理やりノセている。ノセられているオーディエンスは麻薬のようなビートで思考停止におとしいれられた消費者である。
一部の人はそんな音楽シーンの不自然さに気づきはじめている。
すでにそんな商業音楽に背をそむけた人は増加の一歩をたどっている。そんな人たちはクラシック音楽やジャズ、そして日本にも古くからある美しいメロディの宝庫である童謡や唱歌を見直しはじめている。
いまの若い世代はほとんど童謡・唱歌を知らないが、一度聴けばその新鮮さに打たれるという(無関心な者ももちろんいるが)。ツイッターなどで情報が瞬時に共有されるいま、耳の肥えた音楽を熟知したオーディエンスのつぶやきに、若い世代が耳を傾けはじめている。
日本の童謡や、とくに明治期以降に成立した唱歌は、ジャズがそうであるように、独自の出自を持つ楽曲であり、いまも世界に通用する力のあるメロディの宝庫である。いままさにここに光があたろうとしていることを、私は確信する。
2010年9月3日金曜日
インタラクティブなミュージッククリップ「The Wilderness Down Town」
グーグルが作ったウェブ上のミュージッククリップ。
サイトはこちら。
「インタラクティブ」というところがミソ。従来との違いをアピールしている。
こちらが関われのは二カ所。
まず、場所。自分の好きな場所の地名を入れる。
私だったら世田谷の梅丘に住んでいるので「Umegaoka」と入れると、自動的に検索して、「東京の世田谷区ね?」と補完して聞いてくる。
オーケーすると、ミュージッククリップの再生が始まる。
流れるのはカナダのバンド「Arcaid Fire」の「The Wilderness Down Town」という曲で、パーカーを着て帽子を深くかぶって顔の見えないランナーが道をひたすら走っている映像が流れる。
HTML5の技術を駆使して、次々とウインドウが開いたり閉じたり、動いたりする。
ランナーが走っているのはどこともわからない場所なのだが、途中でおなじみの「グーグルアース」「グーグルマップ」や「ストリートビュー」の映像がウインドウで重なって流れ、なんとなく男が走っている街が梅丘であるかのような錯覚におちいるのだ。
途中でもう一度、「インタラクティブ性」が出てくる。
入力窓があらわれ、そこにマウスで自由に絵を描いたり、メッセージを書きこんだりできるのだ。それがまたミュージッククリップのなかで動的にクロスしていって、イメージを変化させる。
よく見れば他愛ない加工で、それほど凝ったことをやっているわけではない。が、インタラクティブ性が目新しさを感じさせる。
しかし、確認してほしいことだが、やはりもっとも重要なのは、まずは曲を作った人、それを演奏した人、それを収録し音楽作品に仕上げた人、そして映像を撮影し編集した人。つまり、最初に「もの」を作った人たちであるということ。
ネットではともすれば、そこのところがおろそかに、忘れられがちになる。私も作り手のひとりとしてときに残念な気持ちになることがある。
サイトはこちら。
「インタラクティブ」というところがミソ。従来との違いをアピールしている。
こちらが関われのは二カ所。
まず、場所。自分の好きな場所の地名を入れる。
私だったら世田谷の梅丘に住んでいるので「Umegaoka」と入れると、自動的に検索して、「東京の世田谷区ね?」と補完して聞いてくる。
オーケーすると、ミュージッククリップの再生が始まる。
流れるのはカナダのバンド「Arcaid Fire」の「The Wilderness Down Town」という曲で、パーカーを着て帽子を深くかぶって顔の見えないランナーが道をひたすら走っている映像が流れる。
HTML5の技術を駆使して、次々とウインドウが開いたり閉じたり、動いたりする。
ランナーが走っているのはどこともわからない場所なのだが、途中でおなじみの「グーグルアース」「グーグルマップ」や「ストリートビュー」の映像がウインドウで重なって流れ、なんとなく男が走っている街が梅丘であるかのような錯覚におちいるのだ。
途中でもう一度、「インタラクティブ性」が出てくる。
入力窓があらわれ、そこにマウスで自由に絵を描いたり、メッセージを書きこんだりできるのだ。それがまたミュージッククリップのなかで動的にクロスしていって、イメージを変化させる。
よく見れば他愛ない加工で、それほど凝ったことをやっているわけではない。が、インタラクティブ性が目新しさを感じさせる。
しかし、確認してほしいことだが、やはりもっとも重要なのは、まずは曲を作った人、それを演奏した人、それを収録し音楽作品に仕上げた人、そして映像を撮影し編集した人。つまり、最初に「もの」を作った人たちであるということ。
ネットではともすれば、そこのところがおろそかに、忘れられがちになる。私も作り手のひとりとしてときに残念な気持ちになることがある。
2010年9月1日水曜日
蔓木のなかの黒猫
しばらく描いてないな〜、と思ったら、猫スケッチは1年半ぶりだった。
無心で手を動かす。このかけがえのない時間を、ここずっと持てていなかったことが問題だ。
とはいえ、今日もやることがいっぱいあって、それらを全部わきにうっちゃってのスケッチだったんだけど。
この猫のように、すべての動きをとめて、偶然いるその場からじっと世界を見つめてみたい。
無心で手を動かす。このかけがえのない時間を、ここずっと持てていなかったことが問題だ。
とはいえ、今日もやることがいっぱいあって、それらを全部わきにうっちゃってのスケッチだったんだけど。
この猫のように、すべての動きをとめて、偶然いるその場からじっと世界を見つめてみたい。
2010年8月31日火曜日
2010年8月27日金曜日
ヒンドゥー五千回「モーリタニアの夜はふざける」
扇田拓也主宰の劇団・ヒンドゥー五千回の公演を観に行ってきた。
いやー、おもしろかった。
それにしても、変な名前の劇団だ。名前の由来は説明してもらって知っているのだが、面倒なので書かない。
扇田くんは先日、坂口安吾の『堕落論』をオーディオブック収録してもらった。すばらしい朗読だった。はやくマスタリングを終えたい。
扇田くんは石村みかさんの旦那さんであり、石村みかさんは来月9月19日に私の「特殊相対性の女」に出演してくれる女優さんだ。
今日行ったら、客席整理の手伝いをしていて、ひとりでがんばっていた。膝の悪い私のために特設席を作ってくれたりして、とてもありがたかった。
てな前置きはこのくらいにして、肝心の公演の内容。
そもそもふざけたタイトルだが、内容も実にふざけたシュールなもの。舞台は砂を敷いて破れた天井を作っただけ、という装置。始まるとそこに扇田くんが仰向けに寝ている。どうやら深い眠りについているらしい。
扇田くんは最後までひとこともセリフがなく、ほんとに最後のほうでみじかいセリフがあるのみ。観客は、結局そのセリフを成立させるためにこの芝居があったのだ、ということに気づくのだが、それは最後のほうまで来るまでわからない。
男ばかり何人かの役者が、どこともわからない場所で、なにとも知れない仕事のために共同生活をしているらしい。が、彼らの行動には脈絡がなく、実に不可解である。かといって、それが最後に明らかになるということでもない。
彼らの行動は、私たち自身に投げかけられていて、私たちの人生の不条理、滑稽、怒り、悲しみ、暴力、共感、笑い、好奇心など、すべてをあらわしている。
「意味をかんがえるんじゃない。意味なんかないんだから」というセリフが、だれかの行動に向けて何度も発せられるのだが、それは結局、人生そのものに向けられていることに気づかされる。
しかし、最後の最後で扇田くんのセリフが突如として立ちあらわれ、私たちの胸をえぐる。
「考えろ。考えぬけ。意味がわからなくても考えろ」
それが人間であり、私たちはそれしか生きる方法がないのだと突きつけられたような気がする。
テーマは重いが、それをじつに非現実的ともいえる軽さをもって作り、演出したのは、まさに扇田拓也という劇作家の風味なのだろう。とても魅力的だ。
これを「演劇」というメディアで表現する必然性があったのかどうかは別として、この1時間40分を出演者たちとともに大いに楽しませて(生きさせて)もらったことは確かなことである。
いやー、おもしろかった。
それにしても、変な名前の劇団だ。名前の由来は説明してもらって知っているのだが、面倒なので書かない。
扇田くんは先日、坂口安吾の『堕落論』をオーディオブック収録してもらった。すばらしい朗読だった。はやくマスタリングを終えたい。
扇田くんは石村みかさんの旦那さんであり、石村みかさんは来月9月19日に私の「特殊相対性の女」に出演してくれる女優さんだ。
今日行ったら、客席整理の手伝いをしていて、ひとりでがんばっていた。膝の悪い私のために特設席を作ってくれたりして、とてもありがたかった。
てな前置きはこのくらいにして、肝心の公演の内容。
そもそもふざけたタイトルだが、内容も実にふざけたシュールなもの。舞台は砂を敷いて破れた天井を作っただけ、という装置。始まるとそこに扇田くんが仰向けに寝ている。どうやら深い眠りについているらしい。
扇田くんは最後までひとこともセリフがなく、ほんとに最後のほうでみじかいセリフがあるのみ。観客は、結局そのセリフを成立させるためにこの芝居があったのだ、ということに気づくのだが、それは最後のほうまで来るまでわからない。
男ばかり何人かの役者が、どこともわからない場所で、なにとも知れない仕事のために共同生活をしているらしい。が、彼らの行動には脈絡がなく、実に不可解である。かといって、それが最後に明らかになるということでもない。
彼らの行動は、私たち自身に投げかけられていて、私たちの人生の不条理、滑稽、怒り、悲しみ、暴力、共感、笑い、好奇心など、すべてをあらわしている。
「意味をかんがえるんじゃない。意味なんかないんだから」というセリフが、だれかの行動に向けて何度も発せられるのだが、それは結局、人生そのものに向けられていることに気づかされる。
しかし、最後の最後で扇田くんのセリフが突如として立ちあらわれ、私たちの胸をえぐる。
「考えろ。考えぬけ。意味がわからなくても考えろ」
それが人間であり、私たちはそれしか生きる方法がないのだと突きつけられたような気がする。
テーマは重いが、それをじつに非現実的ともいえる軽さをもって作り、演出したのは、まさに扇田拓也という劇作家の風味なのだろう。とても魅力的だ。
これを「演劇」というメディアで表現する必然性があったのかどうかは別として、この1時間40分を出演者たちとともに大いに楽しませて(生きさせて)もらったことは確かなことである。
2010年8月25日水曜日
2010年8月24日火曜日
今日とどいた本:キーワード 現代の教育学
まだ最初のほうを読んだだけだが、なかなかの良書と思われる。
第一章の「言語——記号からメディアへ」のなかに、かつては言語がたんなる記号として教育において軽視されてきた経緯があるが、いまは「メディア」として認識されていて、個々の子どもの自発的な表現欲求にたいして形を与えうるものとして考えられている、という前提をしめしたあとで、このようなことを書いている。
「それは自発性の解放ではあるが、同時に自発性を挑発し自発性そのものを教育的にコントロール可能にする試みでもあった。言語は、子どもの自発性そのものを構築可能にするためのメディアとして投入されることになる」
このように非常に示唆に富んだ考察が豊富に展開されていて、刺激的だ。
現代朗読協会も一種の「学びの場」としてあるので、このような最新の教育論は非常に有益だ。
読みすすんだらまた内容を紹介したい。
『キーワード 現代の教育学』田中智志・今井康雄/東京大学出版会
第一章の「言語——記号からメディアへ」のなかに、かつては言語がたんなる記号として教育において軽視されてきた経緯があるが、いまは「メディア」として認識されていて、個々の子どもの自発的な表現欲求にたいして形を与えうるものとして考えられている、という前提をしめしたあとで、このようなことを書いている。
「それは自発性の解放ではあるが、同時に自発性を挑発し自発性そのものを教育的にコントロール可能にする試みでもあった。言語は、子どもの自発性そのものを構築可能にするためのメディアとして投入されることになる」
このように非常に示唆に富んだ考察が豊富に展開されていて、刺激的だ。
現代朗読協会も一種の「学びの場」としてあるので、このような最新の教育論は非常に有益だ。
読みすすんだらまた内容を紹介したい。
『キーワード 現代の教育学』田中智志・今井康雄/東京大学出版会
2010年8月23日月曜日
下北沢・音倉での「蜘蛛の糸」と「猫朗読」ライブ映像3本
2010年8月21日におこなわれた下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクイベントに、現代朗読協会のメンバーが参戦しました。
まずは芥川龍之介「蜘蛛の糸」。
朗読はまぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙の3人。
おなじみの作品が、現代朗読ならではの即興性のある動きをまじえた朗読パフォーマンスになっています。抜粋映像です。
つづいて、嶋村美希子による詩の朗読。
作品は萩原朔太郎「猫」。
ちょっと色っぽいです。
もう一本は、嶋村美希子と照井数男による水城ゆうの「サウンドスケッチ」シリーズの作品のデュオ朗読。
作品は「Cat's Christmas」。
照井数男の子猫ちゃんがなんともグロい。
ピアノはいずれも水城ゆうです。
ほかにもこの日のオープンマイクの映像がありますが、順次公開していきます。
まずは芥川龍之介「蜘蛛の糸」。
朗読はまぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙の3人。
おなじみの作品が、現代朗読ならではの即興性のある動きをまじえた朗読パフォーマンスになっています。抜粋映像です。
つづいて、嶋村美希子による詩の朗読。
作品は萩原朔太郎「猫」。
ちょっと色っぽいです。
もう一本は、嶋村美希子と照井数男による水城ゆうの「サウンドスケッチ」シリーズの作品のデュオ朗読。
作品は「Cat's Christmas」。
照井数男の子猫ちゃんがなんともグロい。
ピアノはいずれも水城ゆうです。
ほかにもこの日のオープンマイクの映像がありますが、順次公開していきます。
2010年8月22日日曜日
下北沢〈音倉〉オープンマイクに参加した
2010年8月21日、土曜日。
下北沢のライブスペース〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクイベントに、現代朗読協会のメンバー何人かとOeufs(うふ)で出演してきた。
ここは1組15分枠で区切られていて、私たちは3枠もらった。
1. 芥川龍之介「蜘蛛の糸」の現代朗読
朗読:まぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙
2. Oeufs(うふ)による「Summertime」「浜辺の歌」「ヒガンバナ」
うた:伊藤さやか
3. 萩原朔太郎「猫」〜水城ゆう「Cat's Christmas」「Cat Plane」
朗読:嶋村美希子、照井数男
午後2時、いつもの昼ゼミ枠に朗読参加者がやってくる。ふなっちもゼミに参加。丸さんも手伝いに来てくれた。
気づき報告のあと、おもに「蜘蛛の糸」を中心にリハーサルをする。
丸さんが差し入れてくれたおいしい北海道のメロンをいただく。2玉あって、みんなで堪能。元気をつけて、いざ5時半すぎに〈音倉〉に向かう。丸さんが車を出してくれた。といっても、〈音倉〉は徒歩10分とごく近いので、歩き組も。「蜘蛛の糸」組が浴衣に着替えたので、彼女らと私が同乗させてもらう。
丸さんには今回も、車だけでなく、撮影など協力してもらって多謝。
午後6時に店に入ると、すでに他の出演者も何組か来ていた。今回も私たち以外は全員音楽らしく、私たちも含めて8組が出演するようだ。
6時半スタート。お客さんも来てくれた。バンガードさんが奥さんを連れていらしてくれた。豊津さんがお友だちを連れて。ほかにもシマムラが自分のブログやmixiでたくさん告知してくれたので、知り合いが何人も来てくれていた。
最初はインドのチャントを歌う女性がひとり。バックの映像に友人による点描の曼荼羅を映しだしながら、カラオケで歌う。
2組めは若い女性歌手とおじさんのピアノという、ちょっと前の秀恵ちゃんと私のコンビを連想させる人たち。で、一曲めにいきなり「浜辺の歌」をやったのでびっくりしたが、まあOeufs(うふ)とはまったくキャラクターも演奏もかぶらないのでよかった。あとはオリジナルナンバー。
3組めはピアノの弾き語りの女性。なかなかうまかった。技術的には。
4組めは大学生の男の子のギターの弾き語り。まったくへたくそな子なのだが、それがかえってオープンマイクらしくてよかった。そして音楽は奇妙なことに、技術が身につければつけるほど個性は消えがちになる。なので、彼は逆にほほえましかったのである。といっても、彼が音楽に向いているかどうかという話になると別なのだが。
いよいよ我々の番。まずは浴衣の3人組。
まずはまぁやがひとりステージに座り、「いかにも」な朗読スタイルで「蜘蛛の糸」を語りはじめる。これはわざと。で、観客も案の定、「ああ、朗読ね」という顔をしている。
そこへいきなり、玻瑠さんと野々宮が「注釈読み」で乱入。そこからは入れ替わり立ち代わりの即興的な現代朗読がはじまって、観客のなかにはポカンとしている人もいた。もちろん楽しんでくれている人がたくさん。
音楽好きな人は、ほぼ現代朗読も好きになってくれる。これはこれまでの経験でいえることなのだ。
あっという間に15分の「蜘蛛の糸」が終わり、野々宮が9月19日の「特殊相対性の女」の告知やら、現代朗読協会についての説明をみじかくしたあとは、ひさしぶりのOeufs(うふ)の登場。
1曲めはスタンダードナンバーの「Summertime」。通常とは違う8分の6拍子でやる。1年近いイギリス留学で力をつけてきた伊藤さやかが、堂々とジャジーに歌う。
が、もちろんこれがOeufs(うふ)の色ではない。次は唱歌の「浜辺の歌」。とても難しいスローなテンポでゆったりし、そしてメロディと音の感触を味わうようにじっくりとやる。
最後はオリジナルナンバーの「ヒガンバナ」。げろきょのメンバーにもお客さんにもとても好評で、ジンときた、という感想もいただいた。
Oeufs(うふ)の再起動はうまくいった。
我々の最後の組は嶋村美希子と照井数男の若手ふたり組による「猫」朗読。
まずは猫耳をつけたシマムラがひとり出て、萩原朔太郎の「猫」をひとりでやる。前後ろを反対に置いた椅子の上に乗っかり、エロかわいく詩を読む。ここでも観客は釘付け。
次に照井数男が出て、猫耳をシマムラにつけてもらい、「Cat's Christmas」をふたりで読む。どの部分をだれが読むかというのは決めていない。ふたりの呼吸でやりとりする現代朗読だ。子猫のかわいい「好き、ご主人様」というセリフを照井の野太い声でやられるのは、実にキモい。
最後はふたたびシマムラひとり。「Cat Plane」という、ある意味非常にアブナい内容の私の詩を、緩急をつけて一気に読みきった。ピアノとのからみもしっかりやれて、まさに疾走するようなフレッシュな現代朗読となった。
全員、終了。あとはほっとひと息ついて、飲んだり食べたり。
私たちのあとにはもうひとり、ピアノの弾き語りの女性が歌を歌って、この日のオープンマイクイベントはすべて終了。
私はずっと出ずっぱりだったのでかなり疲れたけれど、大変心地よい疲れだった。
9時に店を出て、ふたたび丸さんの車で羽根木の家まで連れて帰ってもらい、みんなでほっこり。
いろいろ感想をいいあって、11時近くにようやく解散となった。
みんな、お疲れさん。
ご来場いただいた方々にも感謝します。
下北沢のライブスペース〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクイベントに、現代朗読協会のメンバー何人かとOeufs(うふ)で出演してきた。
ここは1組15分枠で区切られていて、私たちは3枠もらった。
1. 芥川龍之介「蜘蛛の糸」の現代朗読
朗読:まぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙
2. Oeufs(うふ)による「Summertime」「浜辺の歌」「ヒガンバナ」
うた:伊藤さやか
3. 萩原朔太郎「猫」〜水城ゆう「Cat's Christmas」「Cat Plane」
朗読:嶋村美希子、照井数男
午後2時、いつもの昼ゼミ枠に朗読参加者がやってくる。ふなっちもゼミに参加。丸さんも手伝いに来てくれた。
気づき報告のあと、おもに「蜘蛛の糸」を中心にリハーサルをする。
丸さんが差し入れてくれたおいしい北海道のメロンをいただく。2玉あって、みんなで堪能。元気をつけて、いざ5時半すぎに〈音倉〉に向かう。丸さんが車を出してくれた。といっても、〈音倉〉は徒歩10分とごく近いので、歩き組も。「蜘蛛の糸」組が浴衣に着替えたので、彼女らと私が同乗させてもらう。
丸さんには今回も、車だけでなく、撮影など協力してもらって多謝。
午後6時に店に入ると、すでに他の出演者も何組か来ていた。今回も私たち以外は全員音楽らしく、私たちも含めて8組が出演するようだ。
6時半スタート。お客さんも来てくれた。バンガードさんが奥さんを連れていらしてくれた。豊津さんがお友だちを連れて。ほかにもシマムラが自分のブログやmixiでたくさん告知してくれたので、知り合いが何人も来てくれていた。
最初はインドのチャントを歌う女性がひとり。バックの映像に友人による点描の曼荼羅を映しだしながら、カラオケで歌う。
2組めは若い女性歌手とおじさんのピアノという、ちょっと前の秀恵ちゃんと私のコンビを連想させる人たち。で、一曲めにいきなり「浜辺の歌」をやったのでびっくりしたが、まあOeufs(うふ)とはまったくキャラクターも演奏もかぶらないのでよかった。あとはオリジナルナンバー。
3組めはピアノの弾き語りの女性。なかなかうまかった。技術的には。
4組めは大学生の男の子のギターの弾き語り。まったくへたくそな子なのだが、それがかえってオープンマイクらしくてよかった。そして音楽は奇妙なことに、技術が身につければつけるほど個性は消えがちになる。なので、彼は逆にほほえましかったのである。といっても、彼が音楽に向いているかどうかという話になると別なのだが。
いよいよ我々の番。まずは浴衣の3人組。
まずはまぁやがひとりステージに座り、「いかにも」な朗読スタイルで「蜘蛛の糸」を語りはじめる。これはわざと。で、観客も案の定、「ああ、朗読ね」という顔をしている。
そこへいきなり、玻瑠さんと野々宮が「注釈読み」で乱入。そこからは入れ替わり立ち代わりの即興的な現代朗読がはじまって、観客のなかにはポカンとしている人もいた。もちろん楽しんでくれている人がたくさん。
音楽好きな人は、ほぼ現代朗読も好きになってくれる。これはこれまでの経験でいえることなのだ。
あっという間に15分の「蜘蛛の糸」が終わり、野々宮が9月19日の「特殊相対性の女」の告知やら、現代朗読協会についての説明をみじかくしたあとは、ひさしぶりのOeufs(うふ)の登場。
1曲めはスタンダードナンバーの「Summertime」。通常とは違う8分の6拍子でやる。1年近いイギリス留学で力をつけてきた伊藤さやかが、堂々とジャジーに歌う。
が、もちろんこれがOeufs(うふ)の色ではない。次は唱歌の「浜辺の歌」。とても難しいスローなテンポでゆったりし、そしてメロディと音の感触を味わうようにじっくりとやる。
最後はオリジナルナンバーの「ヒガンバナ」。げろきょのメンバーにもお客さんにもとても好評で、ジンときた、という感想もいただいた。
Oeufs(うふ)の再起動はうまくいった。
我々の最後の組は嶋村美希子と照井数男の若手ふたり組による「猫」朗読。
まずは猫耳をつけたシマムラがひとり出て、萩原朔太郎の「猫」をひとりでやる。前後ろを反対に置いた椅子の上に乗っかり、エロかわいく詩を読む。ここでも観客は釘付け。
次に照井数男が出て、猫耳をシマムラにつけてもらい、「Cat's Christmas」をふたりで読む。どの部分をだれが読むかというのは決めていない。ふたりの呼吸でやりとりする現代朗読だ。子猫のかわいい「好き、ご主人様」というセリフを照井の野太い声でやられるのは、実にキモい。
最後はふたたびシマムラひとり。「Cat Plane」という、ある意味非常にアブナい内容の私の詩を、緩急をつけて一気に読みきった。ピアノとのからみもしっかりやれて、まさに疾走するようなフレッシュな現代朗読となった。
全員、終了。あとはほっとひと息ついて、飲んだり食べたり。
私たちのあとにはもうひとり、ピアノの弾き語りの女性が歌を歌って、この日のオープンマイクイベントはすべて終了。
私はずっと出ずっぱりだったのでかなり疲れたけれど、大変心地よい疲れだった。
9時に店を出て、ふたたび丸さんの車で羽根木の家まで連れて帰ってもらい、みんなでほっこり。
いろいろ感想をいいあって、11時近くにようやく解散となった。
みんな、お疲れさん。
ご来場いただいた方々にも感謝します。
朗読の聴き方
朗読する方については(私を含め)いろいろな人がいろいろなことを書いているけれど、聴き方についてはほとんど書かれたものがないので、書いてみようと思う。
そもそも「朗読に聴き方なんて必要あるの?」という疑問はあると思う。まずそれについて答えておく。
音楽だと「クラシック音楽の聴き方」とか「ジャズの聴き方」といった本はたくさんある。また「演劇鑑賞法」だの「現代美術鑑賞法」といったものもある。ほとんどの表現芸術について、オーディエンスの側からどのように接すればいいのか解説したものがたくさんある。
ところが、朗読についていえば、鑑賞法について書かれたものはまったくといっていいほどない。需要がない、といわれればそれまでかもしれないが、需要というものは作られるものである。つまり、その需要を作る努力を表現者側がおこなっていない、ということであろう。
ではなぜ朗読者は、朗読観賞という需要を作る努力をしていないのか。それは自分たちのおこなっていることを「表現芸術」と認識していないからだ。芸術とまでいわなくても、芸能ですら奥の深いものには鑑賞法が提供されている。歌舞伎や落語などがその例としてあげられる。朗読は芸能程度の認識すら表現者側にないといえる。
鑑賞法が必要のないものには、たとえばサーカスとかボクシングとか(これとてある程度はあるだろうが)、オーディエンス側が純粋に受取手であり、表現側が純粋に娯楽サービスの提供者である場合にそのような傾向になる。
朗読行為は娯楽サービスや、ストーリーの提供であって、表現行為ではないという暗黙の認識が朗読者側にまだまだあるように思われる。娯楽サービスやストーリーの提供であるならば、その鑑賞法などは必要ない。鑑賞者はただ気楽にサービスを受容するだけだからだ。
いま、朗読者側は「こんなふうに聴いてほしい」というアピールを多くのオーディエンスに対しておこなっていったほうがいいのではないか、と私は考えている。でなければ、日本の朗読はいつまでたっても「堅苦しく退屈なイメージ」から抜け出せないだろう。
朗読に限らず、すべての表現は、そのジャンルに習熟した聴き手があらわれることで、広がりと深みを増していく。
音楽を例にとればわかるだろう。たとえばクラシック音楽の場合、生まれつき曲や演奏のすばらしさがわかる人はいない。繰り返しよい演奏を聴くことで耳が育っていく。
よい演奏にはどうやってめぐりあうのだろう。
自分より先に音楽のよさに目覚めた人に教えてもらうのだ。友人であったり親兄弟であったり、ときには音楽評論家であったりするかもしれない。とにかく、「これはよい演奏ですよ」という指摘を受けて耳を傾けることになる。繰り返しそのようなことをおこなっていくうちに、自分でもよい演奏かそうでない演奏かを聴き分けられるようになる。すると楽しみはさらに深まっていく。そういう体験はだれもが持っているのではないだろうか。朗読もそれとおなじことがいえると思う。
ところが、いまの日本の朗読の楽しみ方というのは、芸術観賞にはほど遠い、非常に偏った方法になっている。
偏りの第一。オーディエンスは「朗読」を楽しむのではなく「ストーリー」を楽しむために朗読会に来ている、という事実がある。
音楽会の場合、演奏されるのが「どんな曲なのか」を聴きに来る人はほとんどいない。その曲が「どのように演奏されるのか」という期待を持って聴衆は楽しみに来るのだ。ところが、朗読会の場合、朗読されるのが「どんな作品なのか」ということに関心が集まることが多い。その作品がどのように読まれるのか、朗読者はその作品をどのように読む人なのか、という関心が持たれることはほとんどない。つまり朗読という行為が「表現」ではなく、ただの「伝達」だと思われているからにほかならないだろう。その状況がいまだにつづいている。
伝達するだけなら、本そのものを読んでもらえばすむことだ。また最近はすぐれた音読ソフトが安価になってきているから、視覚に障碍を持っているような方もそれを使えばよい。音訳ボランティアというものがあるが、人の手をわずらわせずとも、ソフトウェアに任せていけばいい。
そのかわり、人は人にしかできないことをやるのだ。すなわち表現であり、コミュニケーションである。朗読がすぐれた表現行為であることを、いま、正しく人々に伝えたいと思う。そのためのオーディエンスがまだまだ育っていない以上、朗読者自身が発言していきたい。
朗読はどのように聴けばいいのだろうか。
朗読は表現である。人の行為である。また、表現者とオーディエンスの間に生まれるコミュニケーションである。これは音楽やダンスや美術や文学などの他表現芸術となんら変わりはない。表現とは、人間自身を表現することである。
聴き手は表現に接して、その表現者がなにをどのように表現しようとしているのか、全身で感じるようにしたい。上手いとか下手とか、そんなことはどうでもいい。たとえばピカソの絵に接して上手い/下手を問題にする人がいるだろうか。それより、表現者自身を感じたい。
表現者の存在を感じるということは、自分自身の存在を感じることでもある。表現者を鏡にして、自分の存在を確認することができる。また、表現を自分がどのように受け取るのか、あらたな発見がそこにある。表現に接することは、自分自身の発見の旅でもある。
自分自身を見つけるためにも、ぜひとも朗読ライブや公演に足を運んでほしい。そして、「なにが語られているのか」ではなく、「どのように語られているのか」にぜひとも注視してほしい。するとこれまでの朗読会ではまったく見えなかったことが見えてくるはずだ。
私たちも朗読を実演するだけでなく、どのように朗読がおこなわれているのか、私たちはなにを伝えようとして朗読しているのか、など、さまざまなことを努力して発信していきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いである。
そもそも「朗読に聴き方なんて必要あるの?」という疑問はあると思う。まずそれについて答えておく。
音楽だと「クラシック音楽の聴き方」とか「ジャズの聴き方」といった本はたくさんある。また「演劇鑑賞法」だの「現代美術鑑賞法」といったものもある。ほとんどの表現芸術について、オーディエンスの側からどのように接すればいいのか解説したものがたくさんある。
ところが、朗読についていえば、鑑賞法について書かれたものはまったくといっていいほどない。需要がない、といわれればそれまでかもしれないが、需要というものは作られるものである。つまり、その需要を作る努力を表現者側がおこなっていない、ということであろう。
ではなぜ朗読者は、朗読観賞という需要を作る努力をしていないのか。それは自分たちのおこなっていることを「表現芸術」と認識していないからだ。芸術とまでいわなくても、芸能ですら奥の深いものには鑑賞法が提供されている。歌舞伎や落語などがその例としてあげられる。朗読は芸能程度の認識すら表現者側にないといえる。
鑑賞法が必要のないものには、たとえばサーカスとかボクシングとか(これとてある程度はあるだろうが)、オーディエンス側が純粋に受取手であり、表現側が純粋に娯楽サービスの提供者である場合にそのような傾向になる。
朗読行為は娯楽サービスや、ストーリーの提供であって、表現行為ではないという暗黙の認識が朗読者側にまだまだあるように思われる。娯楽サービスやストーリーの提供であるならば、その鑑賞法などは必要ない。鑑賞者はただ気楽にサービスを受容するだけだからだ。
いま、朗読者側は「こんなふうに聴いてほしい」というアピールを多くのオーディエンスに対しておこなっていったほうがいいのではないか、と私は考えている。でなければ、日本の朗読はいつまでたっても「堅苦しく退屈なイメージ」から抜け出せないだろう。
朗読に限らず、すべての表現は、そのジャンルに習熟した聴き手があらわれることで、広がりと深みを増していく。
音楽を例にとればわかるだろう。たとえばクラシック音楽の場合、生まれつき曲や演奏のすばらしさがわかる人はいない。繰り返しよい演奏を聴くことで耳が育っていく。
よい演奏にはどうやってめぐりあうのだろう。
自分より先に音楽のよさに目覚めた人に教えてもらうのだ。友人であったり親兄弟であったり、ときには音楽評論家であったりするかもしれない。とにかく、「これはよい演奏ですよ」という指摘を受けて耳を傾けることになる。繰り返しそのようなことをおこなっていくうちに、自分でもよい演奏かそうでない演奏かを聴き分けられるようになる。すると楽しみはさらに深まっていく。そういう体験はだれもが持っているのではないだろうか。朗読もそれとおなじことがいえると思う。
ところが、いまの日本の朗読の楽しみ方というのは、芸術観賞にはほど遠い、非常に偏った方法になっている。
偏りの第一。オーディエンスは「朗読」を楽しむのではなく「ストーリー」を楽しむために朗読会に来ている、という事実がある。
音楽会の場合、演奏されるのが「どんな曲なのか」を聴きに来る人はほとんどいない。その曲が「どのように演奏されるのか」という期待を持って聴衆は楽しみに来るのだ。ところが、朗読会の場合、朗読されるのが「どんな作品なのか」ということに関心が集まることが多い。その作品がどのように読まれるのか、朗読者はその作品をどのように読む人なのか、という関心が持たれることはほとんどない。つまり朗読という行為が「表現」ではなく、ただの「伝達」だと思われているからにほかならないだろう。その状況がいまだにつづいている。
伝達するだけなら、本そのものを読んでもらえばすむことだ。また最近はすぐれた音読ソフトが安価になってきているから、視覚に障碍を持っているような方もそれを使えばよい。音訳ボランティアというものがあるが、人の手をわずらわせずとも、ソフトウェアに任せていけばいい。
そのかわり、人は人にしかできないことをやるのだ。すなわち表現であり、コミュニケーションである。朗読がすぐれた表現行為であることを、いま、正しく人々に伝えたいと思う。そのためのオーディエンスがまだまだ育っていない以上、朗読者自身が発言していきたい。
朗読はどのように聴けばいいのだろうか。
朗読は表現である。人の行為である。また、表現者とオーディエンスの間に生まれるコミュニケーションである。これは音楽やダンスや美術や文学などの他表現芸術となんら変わりはない。表現とは、人間自身を表現することである。
聴き手は表現に接して、その表現者がなにをどのように表現しようとしているのか、全身で感じるようにしたい。上手いとか下手とか、そんなことはどうでもいい。たとえばピカソの絵に接して上手い/下手を問題にする人がいるだろうか。それより、表現者自身を感じたい。
表現者の存在を感じるということは、自分自身の存在を感じることでもある。表現者を鏡にして、自分の存在を確認することができる。また、表現を自分がどのように受け取るのか、あらたな発見がそこにある。表現に接することは、自分自身の発見の旅でもある。
自分自身を見つけるためにも、ぜひとも朗読ライブや公演に足を運んでほしい。そして、「なにが語られているのか」ではなく、「どのように語られているのか」にぜひとも注視してほしい。するとこれまでの朗読会ではまったく見えなかったことが見えてくるはずだ。
私たちも朗読を実演するだけでなく、どのように朗読がおこなわれているのか、私たちはなにを伝えようとして朗読しているのか、など、さまざまなことを努力して発信していきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いである。
2010年8月21日土曜日
今夜の音倉オープンマイク出演者ビデオ
出演者ビデオ(1)
野々宮卯妙朗読「砂時計」。水城作。
2年半前の豪徳寺ドルチェスタジオでのライブ映像。これを見て「日本にも現代朗読があったんだ」といって訪ねて来てくれた方もいる。
私が若いな(笑)。
出演者ビデオ(2)
野々宮卯妙による「Lookin' Up」(水城作)と、照井数男によるキャバクラのPR誌の同時朗読(ツインロードク)です。まずは聴いたこともないような不思議な雰囲気です。
今年の念頭の中野ピグノーズライブより。
出演者ビデオ(3)
玻瑠あつこ(当時は熊谷敦子)出演の「漱石の夢」ライブ。漱石作品を構成した群読で、玻瑠あつこは夢十夜の第十夜をおもに担当。野々宮卯妙ほかとともに。
出演者ビデオ(4)
昨年おこなった「メイドたちの航海」の抜粋。嶋村美希子が「階段」というエピソードで冒頭に登場。
出演者が全員女性、メイド服のコスプレで朗読するという、話題沸騰の朗読ライブでした。
出演者ビデオ(5)
伊藤さやかと水城による音楽ユニットOeufs(うふ)の「わらべうた・うさぎ」の演奏とトークです。
ひさしぶりに見たけど、トークおもろっ! これがうふですなー。月面探査の話から生命倫理、音楽理論の話まで、後半もどうぞ。
野々宮卯妙朗読「砂時計」。水城作。
2年半前の豪徳寺ドルチェスタジオでのライブ映像。これを見て「日本にも現代朗読があったんだ」といって訪ねて来てくれた方もいる。
私が若いな(笑)。
出演者ビデオ(2)
野々宮卯妙による「Lookin' Up」(水城作)と、照井数男によるキャバクラのPR誌の同時朗読(ツインロードク)です。まずは聴いたこともないような不思議な雰囲気です。
今年の念頭の中野ピグノーズライブより。
出演者ビデオ(3)
玻瑠あつこ(当時は熊谷敦子)出演の「漱石の夢」ライブ。漱石作品を構成した群読で、玻瑠あつこは夢十夜の第十夜をおもに担当。野々宮卯妙ほかとともに。
出演者ビデオ(4)
昨年おこなった「メイドたちの航海」の抜粋。嶋村美希子が「階段」というエピソードで冒頭に登場。
出演者が全員女性、メイド服のコスプレで朗読するという、話題沸騰の朗読ライブでした。
出演者ビデオ(5)
伊藤さやかと水城による音楽ユニットOeufs(うふ)の「わらべうた・うさぎ」の演奏とトークです。
ひさしぶりに見たけど、トークおもろっ! これがうふですなー。月面探査の話から生命倫理、音楽理論の話まで、後半もどうぞ。
鰹の変わりヅケ丼
刺身用の生の鰹のサクを買ってくる。驚くほど安いことがある。ちなみに今年は海水温の関係でサンマが不漁。高いらしい。
鰹のサクをザクザクと適当に切り、ボウルに放りこむ。そこへショウガをすりおろして絞った汁(小さじ1)を垂らす。
さらに醤油大さじ2、みりん大さじ1を加え、手で混ぜあわせる。
これを味がしみるまで10分くらい置く。
暖かいご飯を丼に盛り、その上に味をつけた鰹を散らす。
その上にさらにオニオンスライスを散らす。
マヨネーズをお好みで回しかけ、黒こしょうをかける。
マヨネーズの代わりにオリーブ油でもいいかも。
ちょっと洋風な味付けをして、いかにも「ヅケ丼」といった風味を少し変えてみました。超簡単、しかもけっこうイケますよ。
鰹のサクをザクザクと適当に切り、ボウルに放りこむ。そこへショウガをすりおろして絞った汁(小さじ1)を垂らす。
さらに醤油大さじ2、みりん大さじ1を加え、手で混ぜあわせる。
これを味がしみるまで10分くらい置く。
暖かいご飯を丼に盛り、その上に味をつけた鰹を散らす。
その上にさらにオニオンスライスを散らす。
マヨネーズをお好みで回しかけ、黒こしょうをかける。
マヨネーズの代わりにオリーブ油でもいいかも。
ちょっと洋風な味付けをして、いかにも「ヅケ丼」といった風味を少し変えてみました。超簡単、しかもけっこうイケますよ。
禅の膳ダイエット
ロードク娘の嶋村美希子がダイエットをするというので、「禅の膳ダイエット」をすすめてみた。
これは禅僧の食事法を実践するだけで体重が適性にもどる、というものだ。実に簡単なのだが、現代的生活習慣にまみれてしまった私たちが実践するのは、案外むずかしい。
禅僧の食事はご存知のように、一汁一菜の精進料理だ。不殺生のために肉、魚、玉子類は食べない。また、ニラやニンニクなどにおいの強いものも食べない。しかし、食材そのものを禅僧のようにするのはなかなか難しい。精進料理だけでは現代人は物足りなさを感じてしまう。なので、まずは食べ方から真似してみる。
いろいろな作法があるのだが、まずはひとつだけ実践してみよう。それは「ひと口ずつ箸を置く」というものだ。
なにか口に入れたら、そのつど箸を箸置きにもどす。口にいれた食べ物をゆっくりと噛んで味わう。
口のなかの食べ物が完全になくなったら、箸を取り、次の食べ物を取る。おかずとご飯を一度に口にいれることもしない。それぞれひと品ずつ、ゆっくりと味わいながら食べるのだ。これは時間のかかることだが、禅僧はみんなそうやって食べている。
この食べ方で適性体重になるというのは、理にかなっている。ゆっくり食べることで、満腹中枢が正常に働き、身体は必要以上を欲しない。
人の身体は必要な栄養分を必要なだけ摂取するような生理を持っている。それが正常に働かないのは、つまり太るのは、なんらかの阻害要因がある。時間にせき立てられて大急ぎで食べてしまう習慣が身についてしまっていたり、栄養過多や濃い味のものばかり食べるせいで味覚が麻痺してしまっていたり、といったことだ。そのせいで身体が「どのくらいが自分の適性な摂取量なのか」についての判断ができなくなってしまっている。
せめて、まずは食べるスピードをゆっくりにしてみる。そのために禅僧の食べ方、ひと口食べてはそのたびに箸を置き、ゆっくりと噛んで味わう、という方法が有効だ。それができるようになると、食べ物の本来の味がとてもしっかりとわかるようになる。米の味、豆の味、野菜の味。
食べ物本来の味がわかってくると、過剰な味付けのおかずや加工食品、添加物の多い食品は口にしたくなくなってくる。それはまた身体やこころの健康にもよいことになる。
必要ならば動物性の食品を断つことも可能になるだろう。それはまた地球にやさしい人になることでもある。なぜなら、私たち現代人は、人が食べることができる穀物を家畜に与えて肉を育て、それを食べているからだ。穀物を家畜に与えず、つまり肉食をせず、人が穀物を食べるようにすれば、世界の飢餓人口はゼロになる。
さまざまなことが、私たちの食事にも関わっている。
これは禅僧の食事法を実践するだけで体重が適性にもどる、というものだ。実に簡単なのだが、現代的生活習慣にまみれてしまった私たちが実践するのは、案外むずかしい。
禅僧の食事はご存知のように、一汁一菜の精進料理だ。不殺生のために肉、魚、玉子類は食べない。また、ニラやニンニクなどにおいの強いものも食べない。しかし、食材そのものを禅僧のようにするのはなかなか難しい。精進料理だけでは現代人は物足りなさを感じてしまう。なので、まずは食べ方から真似してみる。
いろいろな作法があるのだが、まずはひとつだけ実践してみよう。それは「ひと口ずつ箸を置く」というものだ。
なにか口に入れたら、そのつど箸を箸置きにもどす。口にいれた食べ物をゆっくりと噛んで味わう。
口のなかの食べ物が完全になくなったら、箸を取り、次の食べ物を取る。おかずとご飯を一度に口にいれることもしない。それぞれひと品ずつ、ゆっくりと味わいながら食べるのだ。これは時間のかかることだが、禅僧はみんなそうやって食べている。
この食べ方で適性体重になるというのは、理にかなっている。ゆっくり食べることで、満腹中枢が正常に働き、身体は必要以上を欲しない。
人の身体は必要な栄養分を必要なだけ摂取するような生理を持っている。それが正常に働かないのは、つまり太るのは、なんらかの阻害要因がある。時間にせき立てられて大急ぎで食べてしまう習慣が身についてしまっていたり、栄養過多や濃い味のものばかり食べるせいで味覚が麻痺してしまっていたり、といったことだ。そのせいで身体が「どのくらいが自分の適性な摂取量なのか」についての判断ができなくなってしまっている。
せめて、まずは食べるスピードをゆっくりにしてみる。そのために禅僧の食べ方、ひと口食べてはそのたびに箸を置き、ゆっくりと噛んで味わう、という方法が有効だ。それができるようになると、食べ物の本来の味がとてもしっかりとわかるようになる。米の味、豆の味、野菜の味。
食べ物本来の味がわかってくると、過剰な味付けのおかずや加工食品、添加物の多い食品は口にしたくなくなってくる。それはまた身体やこころの健康にもよいことになる。
必要ならば動物性の食品を断つことも可能になるだろう。それはまた地球にやさしい人になることでもある。なぜなら、私たち現代人は、人が食べることができる穀物を家畜に与えて肉を育て、それを食べているからだ。穀物を家畜に与えず、つまり肉食をせず、人が穀物を食べるようにすれば、世界の飢餓人口はゼロになる。
さまざまなことが、私たちの食事にも関わっている。
2010年8月20日金曜日
「クオリティが高い」とはどういうことか?
「アイ文庫はクオリティの高いオーディオブック制作をおこなっている会社です」
というツイートが、ときどきアイ文庫ツイッター(@iBunko)で流れてくる。botでランダムに配信しているツイートの一節なのだが、ある者から、
「クオリティが高いとはどういうことなのか、定義して」
といわれて、絶句してしまったことがある。
絶句した、というのは、つまり、うまく説明できなかったからだ。
ところが、ときどき流れてくるこのツイートをながめていて、ついいましがた、ハッと気づいた。
うまく説明できなかった、という事実こそ、クオリティという言葉の本質を表しているのではないか。
クオリティというのは、英語の「quality」で、日本語の意味は「品質、性質」といったことになるだろう。
この言葉自体に「品質が高いこと」を含んでいる。だから「クオリティが高い」というのはダブルミーニングかもしれない。
最近は茂木健一郎などによって「クオリア」という言葉が有名になった。
私たちがなにかに向かって「これはクオリティがいい」というとき、感覚はどんな働きをしているのだろうか。
たとえば、ワイン。
ワイン通の人はたんに「おいしい」「まずい」という表現だけではなく、「クオリティ」を問題にする。クオリティ=品質を問題にするとき、そこには自分の「好み」は極力排除されているように見える。彼らはなにか客観的基準を想定して、クオリティの評価をくだしているように見える。
その客観的基準とはなんだろう。
ここがやっかいだと思うのだが、ワイン通の人にはワイン通の人にしか通用しない客観的基準があって、それはある言葉や情報単位でワイン通以外の人に説明することは難しい。あるいは不可能だ。私はワイン通ではないので、ワイン通の人が「このワインはクオリティが高い」と判断したとき、それを味わってみてそのとおりかどうか確認することができない。私のなかにはワイン通の人たちが持っている共通の客観的基準がないからだ。しかし、ワイン通の人たちの間では、まちがいなく、それはクオリティが高いと共通に認識することができるのだ。
では、その客観的基準はどうやったら獲得することができるのか。ワイン通の人たちはどうやって共通の客観的基準を獲得できたのか。
答えはひとつしかない。ワインの世界にどっぷりと我が身を浸してみるしか、それを獲得する方法はないのだ。
これはワインの世界だけでなく、日本食であったりフランス料理であったり、あるいはクラシック音楽であったりジャズであったり、フィギュアスケートであったり、現代美術であったり古美術であったり、さまざまな世界に共通にあることだ。もちろん朗読やオーディオブックの世界にもある。
クオリティの良し悪しは、その世界にどっぷり浸っていない人に対してその客観的基準を説明することは不可能である。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高い、ということの理由を、オーディオブックを聴いたこともない人はもちろんのこと、どっぷりと浸って聴きこんでいない人に対して説明するのは不可能といっていい。
だから、冒頭のツイートは、オーディオブックにどっぷりとはまっている人に向かってのみつぶやかれている「排他的ツイート」ということができるかもしれない。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高いのだ、ということを多くの人にわかってもらうには、オーディオブックにどっぷりとはまってしまう人をどんどん増やすしか方法がないのである。
というツイートが、ときどきアイ文庫ツイッター(@iBunko)で流れてくる。botでランダムに配信しているツイートの一節なのだが、ある者から、
「クオリティが高いとはどういうことなのか、定義して」
といわれて、絶句してしまったことがある。
絶句した、というのは、つまり、うまく説明できなかったからだ。
ところが、ときどき流れてくるこのツイートをながめていて、ついいましがた、ハッと気づいた。
うまく説明できなかった、という事実こそ、クオリティという言葉の本質を表しているのではないか。
クオリティというのは、英語の「quality」で、日本語の意味は「品質、性質」といったことになるだろう。
この言葉自体に「品質が高いこと」を含んでいる。だから「クオリティが高い」というのはダブルミーニングかもしれない。
最近は茂木健一郎などによって「クオリア」という言葉が有名になった。
私たちがなにかに向かって「これはクオリティがいい」というとき、感覚はどんな働きをしているのだろうか。
たとえば、ワイン。
ワイン通の人はたんに「おいしい」「まずい」という表現だけではなく、「クオリティ」を問題にする。クオリティ=品質を問題にするとき、そこには自分の「好み」は極力排除されているように見える。彼らはなにか客観的基準を想定して、クオリティの評価をくだしているように見える。
その客観的基準とはなんだろう。
ここがやっかいだと思うのだが、ワイン通の人にはワイン通の人にしか通用しない客観的基準があって、それはある言葉や情報単位でワイン通以外の人に説明することは難しい。あるいは不可能だ。私はワイン通ではないので、ワイン通の人が「このワインはクオリティが高い」と判断したとき、それを味わってみてそのとおりかどうか確認することができない。私のなかにはワイン通の人たちが持っている共通の客観的基準がないからだ。しかし、ワイン通の人たちの間では、まちがいなく、それはクオリティが高いと共通に認識することができるのだ。
では、その客観的基準はどうやったら獲得することができるのか。ワイン通の人たちはどうやって共通の客観的基準を獲得できたのか。
答えはひとつしかない。ワインの世界にどっぷりと我が身を浸してみるしか、それを獲得する方法はないのだ。
これはワインの世界だけでなく、日本食であったりフランス料理であったり、あるいはクラシック音楽であったりジャズであったり、フィギュアスケートであったり、現代美術であったり古美術であったり、さまざまな世界に共通にあることだ。もちろん朗読やオーディオブックの世界にもある。
クオリティの良し悪しは、その世界にどっぷり浸っていない人に対してその客観的基準を説明することは不可能である。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高い、ということの理由を、オーディオブックを聴いたこともない人はもちろんのこと、どっぷりと浸って聴きこんでいない人に対して説明するのは不可能といっていい。
だから、冒頭のツイートは、オーディオブックにどっぷりとはまっている人に向かってのみつぶやかれている「排他的ツイート」ということができるかもしれない。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高いのだ、ということを多くの人にわかってもらうには、オーディオブックにどっぷりとはまってしまう人をどんどん増やすしか方法がないのである。
少年王者舘公演「ガラパゴス」
オーディオブックの朗読やライブ、UBunkoなどでおなじみの窪田涼子から、出演している芝居の案内をもらったので、紹介します。
------------
すでに始まっていますが、実は昨日から来週火曜日まで、東京は下北沢のスズナリでシバイしてます。
フシギで痛く、いとおしいコトバの渦に是非巻き込まれに来て下さい。
粗筋が、配役があるだけがシバイではないです、きっと。げろきょが好きなら、何かは必ず琴線に触れると思います。
また、今回の見所は、ダンス!どこの舞台でもコンテンポラリーダンス公演でも見られない、唯一無二の時間は名古屋・大阪公演から大絶賛です。
少年王者舘公演「ガラパゴス」
東京/ザ・スズナリにて
8月20日(金)19時半〜
21日(土)14時〜、19時半〜
22日(日)14時〜
23日(月)14時〜☆、19時半〜
24日(火)14時〜
前売3500円、当日4000円
上演時間:約1時間30分、☆は追加公演
水柊(みずき/窪田涼子)
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すでに始まっていますが、実は昨日から来週火曜日まで、東京は下北沢のスズナリでシバイしてます。
フシギで痛く、いとおしいコトバの渦に是非巻き込まれに来て下さい。
粗筋が、配役があるだけがシバイではないです、きっと。げろきょが好きなら、何かは必ず琴線に触れると思います。
また、今回の見所は、ダンス!どこの舞台でもコンテンポラリーダンス公演でも見られない、唯一無二の時間は名古屋・大阪公演から大絶賛です。
少年王者舘公演「ガラパゴス」
東京/ザ・スズナリにて
8月20日(金)19時半〜
21日(土)14時〜、19時半〜
22日(日)14時〜
23日(月)14時〜☆、19時半〜
24日(火)14時〜
前売3500円、当日4000円
上演時間:約1時間30分、☆は追加公演
水柊(みずき/窪田涼子)
2010年8月19日木曜日
プール
生理学に「無感温度」という言葉がある。ヒトが熱さも冷たさも感じない温度のことで、摂氏33度とわかっている。夏場の温水プールはこの温度に近い水温ではないかと思われる。
ヒトの皮膚感覚は、15度以下では痛覚神経が働く。15度を超えると冷覚神経が働きはじめる。
25度以上になると冷覚神経の働きが弱まり、温覚神経が刺激される。33度前後では冷覚神経と温覚神経がおなじくらいの働きになり、冷たさも暖かさも感じない無感温度となる。
ちなみに、45度以上になると冷覚神経と痛覚神経が働く。
最近、温泉でも、無感温度のお湯があるらしい。まだネットで調べてもほとんど出てこないが、この無感温度の水にはいると、副交感神経が働き、気持ちが落ち着いたり、癒し効果があるらしい。これとおなじ作用が、温水プールにもあるのではないか。だから私はプールに行くといい気分になって帰ってこれるのではないか。
もともと水遊びが好きだったことは、昨日の「水」の連続ツイートで書いた。
学校のプールは屋外プールで、あまりいい環境とはいえなかったが、それでも夏場は熱心に泳いだ。大学生になった初めての夏、出身高校のプールの監視員のアルバイトがあるので帰ってこいといわれた。
夏休みの一か月間、プールの監視員のアルバイトをやった。監視員はひとりだけで、気ままにやれたので楽しかった。生徒たちにプールを開放する午後、時間の少し前に行ってプールの入口の鍵をあけ、消毒用の塩素薬をいくつか放りこむ。
生徒たちがやってきたら、のんびり監視する。といっても、やることはほとんどない。後輩たちといっしょに遊んだりするだけだ。時間が来たら、生徒を追い出し、水温や浄化槽の具合を確認して日誌をつけ、それを職員室まで持っていく。雨の日などはだれも来ず、ひとり雨の波紋が広がる水面に眼から上だけ出して瞑想にふけったりした。
その後、大人になってからはしばらくプールから遠ざかっていた。京都でバンドマンをやったり、福井にもどってきてピアノの先生をやったりしていたが、そのうち小説が売れ、職業作家としての生活になった。ほとんど一日中机に座って原稿を書く生活だ。さすがに運動不足に危機感を覚えた。
そこで、通販でトレーニングマシンを買った。ボート漕ぎみたいな動作や、いろいろな筋トレ動作ができる組み立て式のマシンだ。
それが宅配便で届いた。かなり重くて、玄関にドカンと置かれたのだが、まずはそれを室内に運んで組み立てなければならない。
えいやっと持ち上げた瞬間だった。腰がグキリと鳴り、生まれてはじめてギックリ腰になった。それきり数日間、動けなくなった。もちろん、トレーニングマシンどころではない。買ったばかりのマシンはそのまま、欲しいという友人に送ってしまった。そのかわり、私は近所のプールに通うことにした。水泳は腰にいい、重力が縦にかからないので無理なく体幹を鍛えられる、という話を聞いたからだ。
幸い、近所に非常に設備の整った、しかも使用料金の安いプールができたばかりだった。それから毎日のようにプールに通い、少しずつ泳ぐ距離も伸ばしていった。
以来、ギックリ腰は二度と経験していない。
そのプールでは赤十字の指導員が来て、水難救助員の講習もあったので、受けた。何日か通わなければならない、かなりハードな講習だったが、受けてよかったと思う。なぜこれを義務教育でやらないのだろう、と思ったりもする。
東京に出てきてからはプール通いはほとんどしてなかったが、近所の中学校に温水プールができて、一定の時間帯を地区住民に開放しはじめた。ありがたいことだ。いまはこれを利用している。一回200円で、回数券を買えばもっと安い。また泳ぐ距離を伸ばしていこうと思っている。
ヒトの皮膚感覚は、15度以下では痛覚神経が働く。15度を超えると冷覚神経が働きはじめる。
25度以上になると冷覚神経の働きが弱まり、温覚神経が刺激される。33度前後では冷覚神経と温覚神経がおなじくらいの働きになり、冷たさも暖かさも感じない無感温度となる。
ちなみに、45度以上になると冷覚神経と痛覚神経が働く。
最近、温泉でも、無感温度のお湯があるらしい。まだネットで調べてもほとんど出てこないが、この無感温度の水にはいると、副交感神経が働き、気持ちが落ち着いたり、癒し効果があるらしい。これとおなじ作用が、温水プールにもあるのではないか。だから私はプールに行くといい気分になって帰ってこれるのではないか。
もともと水遊びが好きだったことは、昨日の「水」の連続ツイートで書いた。
学校のプールは屋外プールで、あまりいい環境とはいえなかったが、それでも夏場は熱心に泳いだ。大学生になった初めての夏、出身高校のプールの監視員のアルバイトがあるので帰ってこいといわれた。
夏休みの一か月間、プールの監視員のアルバイトをやった。監視員はひとりだけで、気ままにやれたので楽しかった。生徒たちにプールを開放する午後、時間の少し前に行ってプールの入口の鍵をあけ、消毒用の塩素薬をいくつか放りこむ。
生徒たちがやってきたら、のんびり監視する。といっても、やることはほとんどない。後輩たちといっしょに遊んだりするだけだ。時間が来たら、生徒を追い出し、水温や浄化槽の具合を確認して日誌をつけ、それを職員室まで持っていく。雨の日などはだれも来ず、ひとり雨の波紋が広がる水面に眼から上だけ出して瞑想にふけったりした。
その後、大人になってからはしばらくプールから遠ざかっていた。京都でバンドマンをやったり、福井にもどってきてピアノの先生をやったりしていたが、そのうち小説が売れ、職業作家としての生活になった。ほとんど一日中机に座って原稿を書く生活だ。さすがに運動不足に危機感を覚えた。
そこで、通販でトレーニングマシンを買った。ボート漕ぎみたいな動作や、いろいろな筋トレ動作ができる組み立て式のマシンだ。
それが宅配便で届いた。かなり重くて、玄関にドカンと置かれたのだが、まずはそれを室内に運んで組み立てなければならない。
えいやっと持ち上げた瞬間だった。腰がグキリと鳴り、生まれてはじめてギックリ腰になった。それきり数日間、動けなくなった。もちろん、トレーニングマシンどころではない。買ったばかりのマシンはそのまま、欲しいという友人に送ってしまった。そのかわり、私は近所のプールに通うことにした。水泳は腰にいい、重力が縦にかからないので無理なく体幹を鍛えられる、という話を聞いたからだ。
幸い、近所に非常に設備の整った、しかも使用料金の安いプールができたばかりだった。それから毎日のようにプールに通い、少しずつ泳ぐ距離も伸ばしていった。
以来、ギックリ腰は二度と経験していない。
そのプールでは赤十字の指導員が来て、水難救助員の講習もあったので、受けた。何日か通わなければならない、かなりハードな講習だったが、受けてよかったと思う。なぜこれを義務教育でやらないのだろう、と思ったりもする。
東京に出てきてからはプール通いはほとんどしてなかったが、近所の中学校に温水プールができて、一定の時間帯を地区住民に開放しはじめた。ありがたいことだ。いまはこれを利用している。一回200円で、回数券を買えばもっと安い。また泳ぐ距離を伸ばしていこうと思っている。
2010年8月18日水曜日
iPhone App : 東京アメッシュ
ネットサービスにもあるが、いつもコンピューターの前に座っているわけではないので、ほぼ同等機能のiPhoneアプリを重宝している。
iPhoneではGPSで現在位置を把握しているので、近くで雨が降りはじめると警告を出してくれる。
また、雨雲の動きを60分前(ネットサービスは120分前)から再生してくれるので、わかりやすい。
今日はいきなり警告が出たので、見てみたら、私が住んでいる世田谷区にピンポイントで雨雲が発生。すぐに降りはじめた。
アメッシュで見ていると、その雲がどんどん拡大していく様子がわかって、おもしろかった。
個人がこのような情報にアクセスできる時代になった。ということは、かつてこのような情報を一元的に握っていたどこかの機関の権威が、凋落していくということなのかもしれない。
iPhoneではGPSで現在位置を把握しているので、近くで雨が降りはじめると警告を出してくれる。
また、雨雲の動きを60分前(ネットサービスは120分前)から再生してくれるので、わかりやすい。
今日はいきなり警告が出たので、見てみたら、私が住んでいる世田谷区にピンポイントで雨雲が発生。すぐに降りはじめた。
アメッシュで見ていると、その雲がどんどん拡大していく様子がわかって、おもしろかった。
個人がこのような情報にアクセスできる時代になった。ということは、かつてこのような情報を一元的に握っていたどこかの機関の権威が、凋落していくということなのかもしれない。
水の思い出
ひさしぶりにプールで泳いできたら、暑さが身体になじんだ気がした。
これこれ、この感じ。夏の感じ。夏休みの感じ。
この感じにはずいぶんなじみがある。子どものころからなじんだ感じだ。
生まれた家の前には九頭竜川という、すばらしい一級河川があった。まだダムはできていなかった。
いまは巨大なダムがいくつも上流にできてドブ川になってしまったが、かつては清流で、釣れる鮎の味も日本有数の最高の香りと味を誇っていた。
もちろんそれと引き換えの犠牲も払っていた。台風が来るたびに住宅や農業に大きな被害があった。それを理由に巨大ダムが作られた。
もしダムを作ることなく治水に成功していたら、いまごろ世界に誇る名河川となって、釣り客・観光客はもちろんのこと、流域に住みたい家族がたくさんやってきたことだろう。現在の技術をもってすれば、ダムを作らない治水は充分に可能だろう。しかし、もう遅い。
九頭竜川の上流で九頭竜ダムの工事が始まったのは昭和40年。私が小学校3年生のことだった。なので、私が幼いころはもちろんダムはまだなく、家の前には巨大な清流があった。
夏は水量が少なく、流れの穏やかなところをせきとめて大人たちが子どものために小さなプールを作ってくれた。
河原で素っ裸で遊ぶ白黒写真が、いまも残っている。
私はゼロ歳のときから九頭竜川で泳いでいた。しかし、それも小学校3年生までだった。ダム工事が始まると、川の水は激減し、夏は藻が繁殖し、また生活用水が流れこんでヘドロがたまり、泳ぐどころではなくなった。
小学校にはプールができた。が、いまのように近代的な設備はなく、ため池に毛の生えたような屋外プールだったため、夏休みもなかごろになるとアオコが繁茂して水は緑色になり、臭くなった。なので、私はプールより川で泳ぐほうが好きだった。
祖父が車を持っていたので、よく海に行った。
一番近い海は、三国の海水浴場で、ここはファミリー向けだ。いまでもある。また、そのすぐ西側に鷹巣海水浴場というものもある。さらに西南には越前海岸の岩場がつづいている。海岸線を東北になぞれば、塩屋海水浴場や加賀の海岸、そして石川の千里浜、能登とつづいていて、豊かな海がある。
しかし、海からそう近くはない山間部の我が家は、しばしば海に行くわけにはいかなかった。なので、山の渓流で泳ぐことになる。
こちらはまだまだ清流が残っていて、水は冷たいが岩場から飛びこんだり、魚を捕ったりして大変楽しかった。
大学に進学したとき、私はヨット部にはいった。
いまはない九頭竜川の風景を歌った故郷の曲を作った。
「青い空、白い雲」という曲で、こちらから聴くことができる。演奏はOeufs(うふ)。
歌いたい、演奏したいという方には楽譜を差し上げるので、連絡ください。
これこれ、この感じ。夏の感じ。夏休みの感じ。
この感じにはずいぶんなじみがある。子どものころからなじんだ感じだ。
生まれた家の前には九頭竜川という、すばらしい一級河川があった。まだダムはできていなかった。
いまは巨大なダムがいくつも上流にできてドブ川になってしまったが、かつては清流で、釣れる鮎の味も日本有数の最高の香りと味を誇っていた。
もちろんそれと引き換えの犠牲も払っていた。台風が来るたびに住宅や農業に大きな被害があった。それを理由に巨大ダムが作られた。
もしダムを作ることなく治水に成功していたら、いまごろ世界に誇る名河川となって、釣り客・観光客はもちろんのこと、流域に住みたい家族がたくさんやってきたことだろう。現在の技術をもってすれば、ダムを作らない治水は充分に可能だろう。しかし、もう遅い。
九頭竜川の上流で九頭竜ダムの工事が始まったのは昭和40年。私が小学校3年生のことだった。なので、私が幼いころはもちろんダムはまだなく、家の前には巨大な清流があった。
夏は水量が少なく、流れの穏やかなところをせきとめて大人たちが子どものために小さなプールを作ってくれた。
河原で素っ裸で遊ぶ白黒写真が、いまも残っている。
私はゼロ歳のときから九頭竜川で泳いでいた。しかし、それも小学校3年生までだった。ダム工事が始まると、川の水は激減し、夏は藻が繁殖し、また生活用水が流れこんでヘドロがたまり、泳ぐどころではなくなった。
小学校にはプールができた。が、いまのように近代的な設備はなく、ため池に毛の生えたような屋外プールだったため、夏休みもなかごろになるとアオコが繁茂して水は緑色になり、臭くなった。なので、私はプールより川で泳ぐほうが好きだった。
祖父が車を持っていたので、よく海に行った。
一番近い海は、三国の海水浴場で、ここはファミリー向けだ。いまでもある。また、そのすぐ西側に鷹巣海水浴場というものもある。さらに西南には越前海岸の岩場がつづいている。海岸線を東北になぞれば、塩屋海水浴場や加賀の海岸、そして石川の千里浜、能登とつづいていて、豊かな海がある。
しかし、海からそう近くはない山間部の我が家は、しばしば海に行くわけにはいかなかった。なので、山の渓流で泳ぐことになる。
こちらはまだまだ清流が残っていて、水は冷たいが岩場から飛びこんだり、魚を捕ったりして大変楽しかった。
大学に進学したとき、私はヨット部にはいった。
いまはない九頭竜川の風景を歌った故郷の曲を作った。
「青い空、白い雲」という曲で、こちらから聴くことができる。演奏はOeufs(うふ)。
歌いたい、演奏したいという方には楽譜を差し上げるので、連絡ください。
2010年8月17日火曜日
アメリカのジャズ、日本の唱歌、そしてOeufs(うふ)
今夜の中野ピグノーズでのライブ「げろきょでないと」に伊藤さやかが来てくれるので、ひさしぶりにOeufs(うふ)として音楽をやることになった。
Oeufs(うふ)を知らない人のために説明しておく。
フランス語で「玉子」という意味で、扱うのは日本の童謡、唱歌、諸外国の民謡、そしてオリジナル曲。
いずれも商業音楽ではないけれど、ずっと歌いつがれてきているものを、Oeufs(うふ)独自のアレンジをほどこして、現代曲としてリニューアルしようという方向性である。
活動を再開しようとしてあらためて気づくのだが、日本の童謡、唱歌にはすぐれて力のあるメロディが多い。世界的に見ても、現代において充分に通用する美しいメロディがたくさんある。
音楽は時代とともに進歩しているように思われているが、進歩しているのはその演奏法、アレンジ、構成、楽器、電子的な処理などであって、メロディ自体はそうそうあたらしいものが生まれるものでないことはだれもが知っていることだろう。
とくに日本の唱歌はすぐれたメロディの宝庫だ。
明治期にはいって、日本は急速な西洋化政策を推し進めたが、それは音楽教育においても同じことだった。国策として進められたのだが、もともと日本人が独自に持っているメロディ感覚に西洋的な音階や和声を持ちこんだとき、唱歌という独特の味わいのある曲が生まれた。それはおそらく、アフリカ黒人のメロディ感覚に西洋音階が合わさったとき、ジャズというユニークな音楽が生まれたことと似ている。ジャズほど劇的な革新性はなかったが、それでも日本の唱歌が世界のなかでもオリジナリティの強い楽曲であることは、我々日本人がもっと認識していいことなのではないかと思う。
正直いって、私はいまちまたにあふれかえっている商業音楽にはあきあきしている。それは国内外のものを問わない。
Oeufs(うふ)はもともと日本にあるすぐれたメロディに眼を向け、なおかつ現代でも古くさくない演奏としてよみがえらせたいと思っている。またときには、外国でも古くから歌われているメロディや、オリジナル曲も提示していきたい。けっして商業音楽という枠組みではなく。
Oeufs(うふ)の活動は、今夜の中野ピグノーズ、そして今週末21日(土)下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクで再起動。
その後順次、ライブやコンテンツ展開をおこなっていく。
Oeufs(うふ)を知らない人のために説明しておく。
フランス語で「玉子」という意味で、扱うのは日本の童謡、唱歌、諸外国の民謡、そしてオリジナル曲。
いずれも商業音楽ではないけれど、ずっと歌いつがれてきているものを、Oeufs(うふ)独自のアレンジをほどこして、現代曲としてリニューアルしようという方向性である。
活動を再開しようとしてあらためて気づくのだが、日本の童謡、唱歌にはすぐれて力のあるメロディが多い。世界的に見ても、現代において充分に通用する美しいメロディがたくさんある。
音楽は時代とともに進歩しているように思われているが、進歩しているのはその演奏法、アレンジ、構成、楽器、電子的な処理などであって、メロディ自体はそうそうあたらしいものが生まれるものでないことはだれもが知っていることだろう。
とくに日本の唱歌はすぐれたメロディの宝庫だ。
明治期にはいって、日本は急速な西洋化政策を推し進めたが、それは音楽教育においても同じことだった。国策として進められたのだが、もともと日本人が独自に持っているメロディ感覚に西洋的な音階や和声を持ちこんだとき、唱歌という独特の味わいのある曲が生まれた。それはおそらく、アフリカ黒人のメロディ感覚に西洋音階が合わさったとき、ジャズというユニークな音楽が生まれたことと似ている。ジャズほど劇的な革新性はなかったが、それでも日本の唱歌が世界のなかでもオリジナリティの強い楽曲であることは、我々日本人がもっと認識していいことなのではないかと思う。
正直いって、私はいまちまたにあふれかえっている商業音楽にはあきあきしている。それは国内外のものを問わない。
Oeufs(うふ)はもともと日本にあるすぐれたメロディに眼を向け、なおかつ現代でも古くさくない演奏としてよみがえらせたいと思っている。またときには、外国でも古くから歌われているメロディや、オリジナル曲も提示していきたい。けっして商業音楽という枠組みではなく。
Oeufs(うふ)の活動は、今夜の中野ピグノーズ、そして今週末21日(土)下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクで再起動。
その後順次、ライブやコンテンツ展開をおこなっていく。
YouTubeのベストダウンロード数
朗読関係のライブや収録映像を「YouBunko」チャンネルに、音楽関係のライブや収録映像を「AsiaTrad」チャンネルに、それぞれYouTubeで配信している。
突然だが、そのベストダウンロード賞をここで発表したい。
YouBunkoベストダウンロード賞
「Flying Bird in the Dark」窪田涼子出演/1197views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=_RjGSIGCfqI
やはり「ふともも」効果であろうか。
窪田涼子は「水柊」という役者名で、いま、下北沢〈すずなり〉に少年王者館の一員として出演している。
AsiaTradベストダウンロード賞
「さくらさくら」Oeufs(うふ)/7,710+13,151=20,861views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=q8lTrZu_afM
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=WdJXp-V6q3E
海外からのアクセスが多いと思われます。やはり、季節ものは強いということでしょうか。
突然だが、そのベストダウンロード賞をここで発表したい。
YouBunkoベストダウンロード賞
「Flying Bird in the Dark」窪田涼子出演/1197views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=_RjGSIGCfqI
やはり「ふともも」効果であろうか。
窪田涼子は「水柊」という役者名で、いま、下北沢〈すずなり〉に少年王者館の一員として出演している。
AsiaTradベストダウンロード賞
「さくらさくら」Oeufs(うふ)/7,710+13,151=20,861views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=q8lTrZu_afM
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=WdJXp-V6q3E
海外からのアクセスが多いと思われます。やはり、季節ものは強いということでしょうか。
朗読で「噛まない」方法
ツイッターで、
「朗読するとき噛んでしまう」
という悩みを聞いたので、現代朗読のワークショップでやっている方法を紹介することにした。
ワークショップでは「噛まないように読むにはどうしたらいいか」という質問をよく受ける。
読み違えたり、つっかかったりして、表現の流れがそこでとぎれる。表現の断絶が意図的なものならともかく、意図的でない場合、読み手は、「しまった」と思い、それが声と身体にあらわれてしまう。
じつは、読み手が「噛んだ」ことよりも、噛んだことによる「しまった」という身体性のほうに、むしろぎくっとする。その証拠に、噛んでも平気で、あたかも噛んだ事実などなかったかのように読みつづけている朗読者にたいして、オーディエンスはすぐにその事実を忘れてしまう。
ひょっとして噛んだことに気づかないことすらある。とはいえ、読み手としては意図的なものは別として、噛まないに越したことはない。
噛む原因はいくつかある。
(1) テキストがきちんと身体にはいっていない。
(2) 読み急ぐ。
(3) 滑舌が悪い。
興味深いことに、書いた本人(つまり著者朗読/ポエトリーリーディングなどでよくおこなわれる)ですら噛むことがある。本人が書いたのだから、そこになんと書いているのかわからないはずはなく、それでも噛むということは起こる。
著者であろうがそうでなかろうが、抽象的ないいかたになるが「テキストを身体にいれていない状態」で読んでいるからだ。著者とて、書きあげたあとは、読者/朗読者としてテキストに接することになる。その際、そのテキストが、自分が書いたものかどうかはあまり関係ない。あらためてテキストを「読みなおす」必要がある。
いうまでもないが、自分が書いたものではないテキストを読む朗読者は、テキストをあらためて念入りに「読みなおす」。それとおなじことが著者自身にも必要になるということだ。その逆のこともまた有効だ。
自分が書いたものでない他人が書いたテキストを読む場合でも、あたかもそれが自分が書いたテキストであるかのように念入りに接するのは、朗読者にとって非常に有効である。そもそも、どんな「テキスト」も、それが書かれ、生まれた瞬間がある。
「親譲りの無鉄砲で、子どもの時から損ばかりしていた」
これは夏目漱石の『坊っちゃん』の冒頭部分だが、このテキストもまた、夏目漱石がそれを原稿用紙に書きつけた瞬間があり、まさにそのときに生まれたのだ。
その誕生の瞬間のことをイメージしてみよう。
ペンが原稿用紙の上を走り、文字を書きつけていくそのイメージ。あたかも自分がそれをおこなっているように想像し、その身体つきを思いなぞりながら、ゆっくりとテキストを読んでみる。
まず噛まないはずだ。これは(2)の問題も自動的に解決する。
(3)の問題。
滑舌というのは、骨格と筋肉の働きによってその良否が決定される。アナウンサーやナレーターの滑舌がよいのは、訓練によって骨格と筋肉の働きがコントロールされているからだ。
もっともどんな優秀なアナウンサーでも、みずからの能力を上回ることはできない。つまり、滑舌が悪いというのは、みずからの能力を上回ってことばを流暢に話そうとするときに生じる齟齬だ。
それを解決するにはふたとおりある。みずからの能力内でゆっくり丁寧に話すか、滑舌能力をあげるためのトレーニングをするか、である。
朗読者が滑舌よく流暢にことばを発することによって得られる表現的利益は、ほとんどないと私はかんがえている。それより、自分の滑舌能力を認識し、じっくり丁寧に、それこそ「書く」かのように読むことが、伝える表現のためには効果的なのではないだろうか。
「朗読するとき噛んでしまう」
という悩みを聞いたので、現代朗読のワークショップでやっている方法を紹介することにした。
ワークショップでは「噛まないように読むにはどうしたらいいか」という質問をよく受ける。
読み違えたり、つっかかったりして、表現の流れがそこでとぎれる。表現の断絶が意図的なものならともかく、意図的でない場合、読み手は、「しまった」と思い、それが声と身体にあらわれてしまう。
じつは、読み手が「噛んだ」ことよりも、噛んだことによる「しまった」という身体性のほうに、むしろぎくっとする。その証拠に、噛んでも平気で、あたかも噛んだ事実などなかったかのように読みつづけている朗読者にたいして、オーディエンスはすぐにその事実を忘れてしまう。
ひょっとして噛んだことに気づかないことすらある。とはいえ、読み手としては意図的なものは別として、噛まないに越したことはない。
噛む原因はいくつかある。
(1) テキストがきちんと身体にはいっていない。
(2) 読み急ぐ。
(3) 滑舌が悪い。
興味深いことに、書いた本人(つまり著者朗読/ポエトリーリーディングなどでよくおこなわれる)ですら噛むことがある。本人が書いたのだから、そこになんと書いているのかわからないはずはなく、それでも噛むということは起こる。
著者であろうがそうでなかろうが、抽象的ないいかたになるが「テキストを身体にいれていない状態」で読んでいるからだ。著者とて、書きあげたあとは、読者/朗読者としてテキストに接することになる。その際、そのテキストが、自分が書いたものかどうかはあまり関係ない。あらためてテキストを「読みなおす」必要がある。
いうまでもないが、自分が書いたものではないテキストを読む朗読者は、テキストをあらためて念入りに「読みなおす」。それとおなじことが著者自身にも必要になるということだ。その逆のこともまた有効だ。
自分が書いたものでない他人が書いたテキストを読む場合でも、あたかもそれが自分が書いたテキストであるかのように念入りに接するのは、朗読者にとって非常に有効である。そもそも、どんな「テキスト」も、それが書かれ、生まれた瞬間がある。
「親譲りの無鉄砲で、子どもの時から損ばかりしていた」
これは夏目漱石の『坊っちゃん』の冒頭部分だが、このテキストもまた、夏目漱石がそれを原稿用紙に書きつけた瞬間があり、まさにそのときに生まれたのだ。
その誕生の瞬間のことをイメージしてみよう。
ペンが原稿用紙の上を走り、文字を書きつけていくそのイメージ。あたかも自分がそれをおこなっているように想像し、その身体つきを思いなぞりながら、ゆっくりとテキストを読んでみる。
まず噛まないはずだ。これは(2)の問題も自動的に解決する。
(3)の問題。
滑舌というのは、骨格と筋肉の働きによってその良否が決定される。アナウンサーやナレーターの滑舌がよいのは、訓練によって骨格と筋肉の働きがコントロールされているからだ。
もっともどんな優秀なアナウンサーでも、みずからの能力を上回ることはできない。つまり、滑舌が悪いというのは、みずからの能力を上回ってことばを流暢に話そうとするときに生じる齟齬だ。
それを解決するにはふたとおりある。みずからの能力内でゆっくり丁寧に話すか、滑舌能力をあげるためのトレーニングをするか、である。
朗読者が滑舌よく流暢にことばを発することによって得られる表現的利益は、ほとんどないと私はかんがえている。それより、自分の滑舌能力を認識し、じっくり丁寧に、それこそ「書く」かのように読むことが、伝える表現のためには効果的なのではないだろうか。
朗読の快楽/響き合う表現 目次
アイ文庫のツイッターで「朗読の快楽/響き合う表現」というドキュメントを連載中です(ハッシュタグは「#roudoku」)。それをBLOGのほうでもまとめて読めるようにしました。
創造と共感の場である「現代朗読協会」がいまの形になるまでの経緯を、私の思考過程の変遷をたどりながら正直に、誠実にたどっています。
「朗読の快楽/響き合う表現」
Vol.1 Vol.2 Vol.3 Vol.4 Vol.5 Vol.6 Vol.7 Vol.8 Vol.9 Vol.10
Vol.11 Vol.12 Vol.13 Vol.14 Vol.15 Vol.16 Vol.17 Vol.18 Vol.19 Vol.20
Vol.21 Vol.22 Vol.23 Vol.24 Vol.25 Vol.26 Vol.27 Vol.28 Vol.29 Vol.30
Vol.31 Vol.32 Vol.33 Vol.34 Vol.35 Vol.36 Vol.37 Vol.38 Vol.39 Vol.40
Vol.41 Vol.42 Vol.43
創造と共感の場である「現代朗読協会」がいまの形になるまでの経緯を、私の思考過程の変遷をたどりながら正直に、誠実にたどっています。
「朗読の快楽/響き合う表現」
Vol.1 Vol.2 Vol.3 Vol.4 Vol.5 Vol.6 Vol.7 Vol.8 Vol.9 Vol.10
Vol.11 Vol.12 Vol.13 Vol.14 Vol.15 Vol.16 Vol.17 Vol.18 Vol.19 Vol.20
Vol.21 Vol.22 Vol.23 Vol.24 Vol.25 Vol.26 Vol.27 Vol.28 Vol.29 Vol.30
Vol.31 Vol.32 Vol.33 Vol.34 Vol.35 Vol.36 Vol.37 Vol.38 Vol.39 Vol.40
Vol.41 Vol.42 Vol.43
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.43
学童のための公演のほかにも、自主公演や助成公演、ライブ、ワークショップなども頻繁に開催している。すでに紹介したが、名古屋では去年に引きつづき、今年もワークショップを開催しながら、年末の公演に向けての準備が進んでいる。ベースは『銀河鉄道の夜』だ。
タイトルは「Ginga - 宮澤賢治・時と土と星 - 」、12月9日と10日に愛知芸術文化センターの小ホールでの3回公演を予定している。本拠地東京でももちろん頻繁に実施されている。去年おこなった「Kenji」は、ワークショップ経由方式で東京でもやる。
9月4日にワークショップがスタートし、ライブ本番は11月7日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での2回公演を予定している。ワークショップは全6回、羽根木の家でおこなわれる。現在、参加者を募集中なので、興味がある方はコンタクトしてほしい。
コンテンボラリーアートとしての最先端への挑戦としてのライブも、時々おこなっている。今年の3月に中野plan-B というライブスペースでおこなった「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」もそうだが、直近のものでは9月19日におこなうものがある。
タイトルは「特殊相対性の女」。「(演劇+朗読)×音楽=」という惹句がついている。女優の石村みかと朗読の野々宮卯妙、私の脚本・演出・音楽、そして三木義一の映像美術というタッグで、現代アート的な表現に挑む。「沈黙の朗読」に順じた内容になるだろう。
もっと気楽なライブも定期的に開催している。中野ピグノーズというとてもこじんまりしたライブスペースで、毎月第一第三火曜日の2回、夜8時から朗読と音楽のセッションライブを開催している。毎回、飛び入り朗読やら演奏やらが入り交じって、大変楽しいライブだ。
とはいえ、このようなライブこそ現代朗読の真髄が発揮される場なので、毎回どんなことが起こるかわからない、楽しくもスリリングな場となっている。いっぷう変わった講座が、近く、あらたにスタートすることになっている。「現代朗読協会の話し方講座」がそれだ。
自分の話し方に悩みをお持ちの方は多いと感じていたが、現代朗読のワークショップでおこなっている共感的な方法がまさにそのような人の悩みを解決できる、という指摘があった。それを受けて、初めて開催することにした。朗読に興味がなくても、どなたでも気軽に受けられる。
ほかに現代朗読ゼミが頻繁に開催されているし、それらスケジュールは公式ホームページの「協会カレンダー」をご覧いただければわかるようになっている。どのイベントも参加・見学が自由なので、興味がある方は気軽においでいただきたい。ネットでも活動を見ることができる。
YouTube、Ustream、Podcastや、オーディオブックのダウンロードサイトなど、現代朗読協会の活動そのものと協会員の出演作品などが多数配信されているので、ご覧ください。皆さんと近いうちに直接お会いしたりコンタクトできることを楽しみにしてます。
(おわり)
※iBunko Twitter
タイトルは「Ginga - 宮澤賢治・時と土と星 - 」、12月9日と10日に愛知芸術文化センターの小ホールでの3回公演を予定している。本拠地東京でももちろん頻繁に実施されている。去年おこなった「Kenji」は、ワークショップ経由方式で東京でもやる。
9月4日にワークショップがスタートし、ライブ本番は11月7日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での2回公演を予定している。ワークショップは全6回、羽根木の家でおこなわれる。現在、参加者を募集中なので、興味がある方はコンタクトしてほしい。
コンテンボラリーアートとしての最先端への挑戦としてのライブも、時々おこなっている。今年の3月に中野plan-B というライブスペースでおこなった「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」もそうだが、直近のものでは9月19日におこなうものがある。
タイトルは「特殊相対性の女」。「(演劇+朗読)×音楽=」という惹句がついている。女優の石村みかと朗読の野々宮卯妙、私の脚本・演出・音楽、そして三木義一の映像美術というタッグで、現代アート的な表現に挑む。「沈黙の朗読」に順じた内容になるだろう。
もっと気楽なライブも定期的に開催している。中野ピグノーズというとてもこじんまりしたライブスペースで、毎月第一第三火曜日の2回、夜8時から朗読と音楽のセッションライブを開催している。毎回、飛び入り朗読やら演奏やらが入り交じって、大変楽しいライブだ。
とはいえ、このようなライブこそ現代朗読の真髄が発揮される場なので、毎回どんなことが起こるかわからない、楽しくもスリリングな場となっている。いっぷう変わった講座が、近く、あらたにスタートすることになっている。「現代朗読協会の話し方講座」がそれだ。
自分の話し方に悩みをお持ちの方は多いと感じていたが、現代朗読のワークショップでおこなっている共感的な方法がまさにそのような人の悩みを解決できる、という指摘があった。それを受けて、初めて開催することにした。朗読に興味がなくても、どなたでも気軽に受けられる。
ほかに現代朗読ゼミが頻繁に開催されているし、それらスケジュールは公式ホームページの「協会カレンダー」をご覧いただければわかるようになっている。どのイベントも参加・見学が自由なので、興味がある方は気軽においでいただきたい。ネットでも活動を見ることができる。
YouTube、Ustream、Podcastや、オーディオブックのダウンロードサイトなど、現代朗読協会の活動そのものと協会員の出演作品などが多数配信されているので、ご覧ください。皆さんと近いうちに直接お会いしたりコンタクトできることを楽しみにしてます。
(おわり)
※iBunko Twitter
2010年8月16日月曜日
無料オーディオブックの連続配信、スタートしました
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.42
最後にいいたいのは、朗読という表現には大きな可能性がある、ということだ。その可能性について興味があり、表現することについて興味がある方は、どうぞ気軽に現代朗読協会にアクセスしてほしい。アクセス方法はいろいろある。直接来ていただくことがもちろん一番いい。
メールや電話での問い合わせも歓迎だ。また遠方の方や身体が不自由な方、事情で外出がままならない方らのためにSkypeでのやりとりにも対応しているし、Ustreamなどの放送中にチャットなどで対応することも可能だ。twitterのアカウントもある。これだが。
現代朗読協会への参加方法もいろいろある。読み聞かせの勉強のために、とやってくる人がいる。それもただ子どもに読み聞かせをしたいだけ、という人もいれば、学校や図書館で読み聞かせボランティアをやっているとか、やりたいので、という動機の人もいる。
ひとりで朗読会を開いてみたいと思っている人もいれば、みんなでひとつの舞台を作りたいと参加する人もいる。協会が関わっているさまざまなメディア/ネットラジオやYouTubeなどの映像、オーディオブックコンテンツなどを作りたいという人もいる。
いくつか朗読講座を受けてみたがどれもしっくり来なかったので、といって来られる人もいる。音楽のほうからやってくる人もいるし、ただ朗読を聴くのが好きだから、という人もいる。そういう人は「リスナー境界」などと自称して楽しんでおられたりする。
参加の形はさまざまなのだ。またさまざまな形を受け入れるようになっている。年齢もまちまちだ。他の朗読サークルなどに比べると比較的若い人が多い傾向はあるが、それでも上は60代、70代までいる。若い人も年輩の人も、区別なく参加し楽しんでおられるのが特徴だ。
現代朗読の未来のことを少し書いておこう。といっても、架空の未来の話ではなく、少し先の予定されている未来の話だ。私たちの現在から未来につながっている軸のなかで、次のような活動が予定されているという話だ。まず、学童向けのブログラムがある。
世田谷文学館と共同開催している「Kenji」および「ホームズ」という朗読プログラム。これはともに、学校の1時限内で上演できるように30分程度の長さである。これまで小中学校で上演してきた。クラス単位のこともあれば、全校対象のこともあった。地域も問わない。
もともとは世田谷区内から始まったことだが、区外にも出ているし、都外でもやる。年末には福島県の中学校で上演が予定されている。子ども向けのプログラムとしては、児童養護施設へのボランティアイベントのための「いちめんの菜の花に私はなりたい」もある。
こういった子どもたち相手の公演は、私たち自身にも本当にすばらしい経験となる。ほかでは得られない学びの場でもある。このような活動に参加してみたい、観てみたいという方は、歓迎する。いつでも私たちに加わって、現代朗読を学び、プログラムを共有してほしい。
※iBunko Twitter
メールや電話での問い合わせも歓迎だ。また遠方の方や身体が不自由な方、事情で外出がままならない方らのためにSkypeでのやりとりにも対応しているし、Ustreamなどの放送中にチャットなどで対応することも可能だ。twitterのアカウントもある。これだが。
現代朗読協会への参加方法もいろいろある。読み聞かせの勉強のために、とやってくる人がいる。それもただ子どもに読み聞かせをしたいだけ、という人もいれば、学校や図書館で読み聞かせボランティアをやっているとか、やりたいので、という動機の人もいる。
ひとりで朗読会を開いてみたいと思っている人もいれば、みんなでひとつの舞台を作りたいと参加する人もいる。協会が関わっているさまざまなメディア/ネットラジオやYouTubeなどの映像、オーディオブックコンテンツなどを作りたいという人もいる。
いくつか朗読講座を受けてみたがどれもしっくり来なかったので、といって来られる人もいる。音楽のほうからやってくる人もいるし、ただ朗読を聴くのが好きだから、という人もいる。そういう人は「リスナー境界」などと自称して楽しんでおられたりする。
参加の形はさまざまなのだ。またさまざまな形を受け入れるようになっている。年齢もまちまちだ。他の朗読サークルなどに比べると比較的若い人が多い傾向はあるが、それでも上は60代、70代までいる。若い人も年輩の人も、区別なく参加し楽しんでおられるのが特徴だ。
現代朗読の未来のことを少し書いておこう。といっても、架空の未来の話ではなく、少し先の予定されている未来の話だ。私たちの現在から未来につながっている軸のなかで、次のような活動が予定されているという話だ。まず、学童向けのブログラムがある。
世田谷文学館と共同開催している「Kenji」および「ホームズ」という朗読プログラム。これはともに、学校の1時限内で上演できるように30分程度の長さである。これまで小中学校で上演してきた。クラス単位のこともあれば、全校対象のこともあった。地域も問わない。
もともとは世田谷区内から始まったことだが、区外にも出ているし、都外でもやる。年末には福島県の中学校で上演が予定されている。子ども向けのプログラムとしては、児童養護施設へのボランティアイベントのための「いちめんの菜の花に私はなりたい」もある。
こういった子どもたち相手の公演は、私たち自身にも本当にすばらしい経験となる。ほかでは得られない学びの場でもある。このような活動に参加してみたい、観てみたいという方は、歓迎する。いつでも私たちに加わって、現代朗読を学び、プログラムを共有してほしい。
※iBunko Twitter
2010年8月15日日曜日
私が死んだら
臓器提供法が改正されて、本人の意思が書面で提示されていなくても、家族などに口頭で意思表示していたり、BLOGなどウェブサイトでその意思が確認できた場合、臓器提供ができることになった。
そこで、私もmixiのプロフィールとBLOGのプロフィールに提供してもいい旨、掲示してみた。ホームページにも掲示しようと思ったが、いま工事中であった。
そこで、私もmixiのプロフィールとBLOGのプロフィールに提供してもいい旨、掲示してみた。ホームページにも掲示しようと思ったが、いま工事中であった。
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.41
話を名古屋の「Kenji V」に戻す。実際に稽古にメンバーが出てこれなくて、まともな稽古ができないことがある。そういうとき、どうすればいいか。無理に首根っこをつかまえて引っ立ててくるわけにはいかない以上、メンバーが揃わないことを想定しておくしかない。
メンバーが揃わない稽古でもやれることはいくらでもある。逆にメンバーが無理をして揃った稽古で失ってしまうことは多い。揃わなくても、積極的な気持ちで出てきた者がなにかを作っていく。それが次回稽古のときに欠席者にも伝わっていく。稽古に出たい気持ちが増していく。
それでも稽古が充分におこなえず、ミニライブの成立自体があやぶまれるときにはどうすればいいか。その場合はライブを取りやめることになるだろう。それでいいのか? いいのだ。私たちが作るのは共感を共有する場としてのライブだ。成立させるための参加者の希求が必要だ。
その希求が場を成立させるに満たなかったら、そもそもライブは成立しない。おおげさに考える必要はない。そもそもそうなったとして困る人も死ぬ人もだれもいない。私たちはだれかが困らないようにやっているのではなく、みなの望みがあるからやっているし、成立するのだ。
それは年末に予定されている大規模な公演についてもいえることだ。今年の12月上旬に、名古屋の芸術文化センターの小ホールで4回公演をおこなうことが予定されている。その規模を想定したシナリオも準備しているし、出演者もある程度の人数を予定している。
もしその公演を成立させたいという皆さんのニーズが集まらなければ、公演は流れるだけの話だ。だれにも義務はないし、責任はない。しかし、皆さんのニーズが集まって公演が成立したときには、そこはすばらしい場となるだろうし、おこなわれるパフォーマンスも期待できる。
なにしろだれひとり義務感でやっている者はおらず、全員が自分のニーズにもとづいて自発的に場に参加しているわけなのだから。そのとき、ひとりひとりの潜在能力が最大に発揮され、それらが集まって相乗効果をあげ、おそらく私ですら想像できないようなことが起こるだろう。
次になにが起こるかわからない、それが現代朗読の方法であり、コンテンポラリー表現というものだろう。次になにが起こるか予定されていること、準備されていること、準備どおりになぞろうとするのは、旧来の表現であるが、生きた私たちの交流はそのようなものではない。
と、私と、私たち現代朗読の仲間がやってきた道のこと、発見したこと、おこなったこと、そしていまおこなっていることを長々と語ってきた。私たちがおこなっているのは、旧来の「朗読」という「型」の内側から見れば、非常にわかりにくいものであることは自覚している。
また説明もしにくいものだ。なので、たくさん語ってきはしたが、十全に伝えられたかどうかというと、まったく怪しいといわざるをえない。おそらくこの文章を読んだだけでは多くの誤解が残ってしまうだろう。まだまだ書き足りないし、説明も不十分だと考えている。
※iBunko Twitter
メンバーが揃わない稽古でもやれることはいくらでもある。逆にメンバーが無理をして揃った稽古で失ってしまうことは多い。揃わなくても、積極的な気持ちで出てきた者がなにかを作っていく。それが次回稽古のときに欠席者にも伝わっていく。稽古に出たい気持ちが増していく。
それでも稽古が充分におこなえず、ミニライブの成立自体があやぶまれるときにはどうすればいいか。その場合はライブを取りやめることになるだろう。それでいいのか? いいのだ。私たちが作るのは共感を共有する場としてのライブだ。成立させるための参加者の希求が必要だ。
その希求が場を成立させるに満たなかったら、そもそもライブは成立しない。おおげさに考える必要はない。そもそもそうなったとして困る人も死ぬ人もだれもいない。私たちはだれかが困らないようにやっているのではなく、みなの望みがあるからやっているし、成立するのだ。
それは年末に予定されている大規模な公演についてもいえることだ。今年の12月上旬に、名古屋の芸術文化センターの小ホールで4回公演をおこなうことが予定されている。その規模を想定したシナリオも準備しているし、出演者もある程度の人数を予定している。
もしその公演を成立させたいという皆さんのニーズが集まらなければ、公演は流れるだけの話だ。だれにも義務はないし、責任はない。しかし、皆さんのニーズが集まって公演が成立したときには、そこはすばらしい場となるだろうし、おこなわれるパフォーマンスも期待できる。
なにしろだれひとり義務感でやっている者はおらず、全員が自分のニーズにもとづいて自発的に場に参加しているわけなのだから。そのとき、ひとりひとりの潜在能力が最大に発揮され、それらが集まって相乗効果をあげ、おそらく私ですら想像できないようなことが起こるだろう。
次になにが起こるかわからない、それが現代朗読の方法であり、コンテンポラリー表現というものだろう。次になにが起こるか予定されていること、準備されていること、準備どおりになぞろうとするのは、旧来の表現であるが、生きた私たちの交流はそのようなものではない。
と、私と、私たち現代朗読の仲間がやってきた道のこと、発見したこと、おこなったこと、そしていまおこなっていることを長々と語ってきた。私たちがおこなっているのは、旧来の「朗読」という「型」の内側から見れば、非常にわかりにくいものであることは自覚している。
また説明もしにくいものだ。なので、たくさん語ってきはしたが、十全に伝えられたかどうかというと、まったく怪しいといわざるをえない。おそらくこの文章を読んだだけでは多くの誤解が残ってしまうだろう。まだまだ書き足りないし、説明も不十分だと考えている。
※iBunko Twitter
2010年8月14日土曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.40
「Kenji V」ではタイトルが示すとおり、5名の朗読者にテキストが割り振られている。演劇だとこれが「キャスト」となり、役者は自分のセリフを覚えてステージに立つことになる。現代朗読ではそのようには考えない。全員がひとつのテキストを共有すると考える。
たしかに個人が読む部分は割り振られるが、その部分だけを練習しても意味はないという考え方だ。全員がひとつのテキストを共有し、ひとつの表現を作る。たまたま自分が読むのはその場所であるが、それ以外の場所も「読まない」だけで、表現に参加していないわけではない。
自分以外の人が読んでいる間も、自分はおなじテキストをともに体験している。おなじテキストが自分の身体のなかを流れている。その共感性・共時性がひとつの有機体としての朗読グループを作る。なので、現代朗読において「稽古」とはたんなる段取り稽古ではない。
ひとつの作品に参加し、全員でひとつの共感を作りあげる作業が、稽古ということになる。その稽古には当然ながら「〜ねばならない」という考え方はない。共感は強制からは生まれないからだ。みずから喜んで参加し、ともにおなじものを感じあうときに、作品が成立していく。
だから、稽古も「出なければならない」という考え方はなく、「出たい」という喜びを持った気持ちが生まれたときにだけ来てほしい、という考え方をしている。「出なければ」という義務感が少しでもあって、その気持ちで参加したときに、私たちの目的は阻害される。
この考え方を理解し、徹底してもらうことが、実は一番困難なことだ。とくに名古屋のメンバーは演劇や朗読ワークショップなどの参加経験者が多く、なかには劇団員に近いような人もいる。そういう人に現代朗読の考え方をきちんと理解してもらうのはとても難しい。
なぜなら、劇団や公演などの運営は「責任」とか「義務」にもとづいた考え方でなされていることが多いからだ。たとえばだれかが「仕事が忙しいので身体が疲れて稽古に来れない」といったとする。私は「自分のニーズを大事にしてください」と答えるようにしている。
しかし従来の劇団的な考え方だと、「休めば他の者に迷惑がかかる。みんな無理を押して出てきているのに、自分だけわがままで来ないなんて責任感がなさすぎる」といわれる。この責任感と義務感で作りあげられるのが、旧来の非共感的表現作品だろうと思うのだ。
私たちは自発的に表現し、それを誇示し押しつけるのではなく、共感の場を提示するだけだ。その場は義務感で作られるものではないし、もし成立しなかったからといってだれかが責任を取らなければならないような種類のものでもない。メンバーのニーズがなかっただけのことだ。
表現の場に上下関係を作らないので、トップダウンでなにか作られるわけではない。自発的で協同的・共感的なものしかない。このように述べると「宗教みたい」と揶揄する人がかならず出てくるが、私たちはたとえ似た考え方になったとしても、特定の宗教に属するものではない。
※iBunko Twitter
たしかに個人が読む部分は割り振られるが、その部分だけを練習しても意味はないという考え方だ。全員がひとつのテキストを共有し、ひとつの表現を作る。たまたま自分が読むのはその場所であるが、それ以外の場所も「読まない」だけで、表現に参加していないわけではない。
自分以外の人が読んでいる間も、自分はおなじテキストをともに体験している。おなじテキストが自分の身体のなかを流れている。その共感性・共時性がひとつの有機体としての朗読グループを作る。なので、現代朗読において「稽古」とはたんなる段取り稽古ではない。
ひとつの作品に参加し、全員でひとつの共感を作りあげる作業が、稽古ということになる。その稽古には当然ながら「〜ねばならない」という考え方はない。共感は強制からは生まれないからだ。みずから喜んで参加し、ともにおなじものを感じあうときに、作品が成立していく。
だから、稽古も「出なければならない」という考え方はなく、「出たい」という喜びを持った気持ちが生まれたときにだけ来てほしい、という考え方をしている。「出なければ」という義務感が少しでもあって、その気持ちで参加したときに、私たちの目的は阻害される。
この考え方を理解し、徹底してもらうことが、実は一番困難なことだ。とくに名古屋のメンバーは演劇や朗読ワークショップなどの参加経験者が多く、なかには劇団員に近いような人もいる。そういう人に現代朗読の考え方をきちんと理解してもらうのはとても難しい。
なぜなら、劇団や公演などの運営は「責任」とか「義務」にもとづいた考え方でなされていることが多いからだ。たとえばだれかが「仕事が忙しいので身体が疲れて稽古に来れない」といったとする。私は「自分のニーズを大事にしてください」と答えるようにしている。
しかし従来の劇団的な考え方だと、「休めば他の者に迷惑がかかる。みんな無理を押して出てきているのに、自分だけわがままで来ないなんて責任感がなさすぎる」といわれる。この責任感と義務感で作りあげられるのが、旧来の非共感的表現作品だろうと思うのだ。
私たちは自発的に表現し、それを誇示し押しつけるのではなく、共感の場を提示するだけだ。その場は義務感で作られるものではないし、もし成立しなかったからといってだれかが責任を取らなければならないような種類のものでもない。メンバーのニーズがなかっただけのことだ。
表現の場に上下関係を作らないので、トップダウンでなにか作られるわけではない。自発的で協同的・共感的なものしかない。このように述べると「宗教みたい」と揶揄する人がかならず出てくるが、私たちはたとえ似た考え方になったとしても、特定の宗教に属するものではない。
※iBunko Twitter
2010年8月13日金曜日
無料オーディオブックの連続配信、スタートします!
岩崎さとこ朗読のオーディオブック『こころ』(作:夏目漱石)の無料配信がスタートします。
全10時間超の長編作品全編を、アイ文庫ツイッターで連続配信します。平日の毎日1回です。
いまのうちにアイ文庫ツイッターをフォローしておいてください。
スタートは8月16日(月)です。
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2010年8月12日木曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.39
自分が無意識に身につけてしまった余分なもの、社会的な関係のなかで道筋をつけられてしまった考え方や表現方法、思いこみ、そして自分と人の関係性のあいだで邪魔をしているもの。そういったものをすべて「引き算」としてなくしていく作業。それが現代朗読の方法だ。
もっとも、これはとても難しい。やってみればわかるが、私たちがなにをするにせよ、なにを読むにせよ、いかにさまざまな思いこみや、後天的な方法論に縛られているか、ということが問題だ。立ち方や歩き方ひとつとってみても、私たちは自分らしくはおこなっていない。
たとえば小学校に入ったとき、体操の時間で私たちが真っ先に教えられるのが「行進」や「整列」のやり方だ。だれもが覚えがあると思うが、行進の練習をするとき、かならずひとりやふたりは右手と右足、左手と左足が揃って前に出てしまう子どもがいたはずだ。
そういう子を教師はどう扱ったか。「正しい歩き方」をするように「指導」したはずだ。「正しい歩き方」とはつまり、右手と左足が、左手と右足が、交互に前に出る「西洋式軍隊歩行」の方法だ。また、子どもたちが体育館に集められ、床に座るとき、どのような姿勢を取ったか。
膝を立てて脚を三角形にし、それを両腕で抱えるようにする、いわゆる「体育座り」を教えられた。いまでも私は小中学校への公演に行くたびに、教師がこの姿勢を生徒たちに指示している場面を目にする。これは昭和35年に文部省からの通達で全校に広まった推奨姿勢である。
このように、私たちの立ち姿勢、座り姿勢といえども、なんらかの恣意的な「教育」がほどこされ、いまにいたっているということを、再認識してみる必要がある。このような「姿勢教育」「身体改革」「身体改造」は、いまに始まったことではなく、近代国家の原理なのだ。
これらの分析は、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に詳しい。朗読に限らず、みずからの自由を担保したなかでの表現をおこなっていくためには、まずはみずからがどのような不自由な監獄に閉じ込められているのか、ということの自覚/再認識からスタートする必要がある。
繰り返すがこの再認識の作業は大変な困難を極める。その実践/実験がいまの現代朗読協会であり、また名古屋ウェルバ・アクトゥスの制作現場であるといえよう。直近の経験を紹介しよう。今年のウェルバ・アクトゥスは12月に名古屋芸術文化センターでの公演を予定している。
ウェルバ・アクトゥスは劇団ではないので、参加者はその自由意志に任されている。毎月、ワークショップが開催され、12月の本公演に向けて準備が進められている。また、ワークショップそのものと本公演のプロモーションを兼ねて、毎回ミニライブが開催されている。
これまでのミニライブでは、去年の本公演の縮小版というか、オリジナル版である「Kenji V」という脚本が使われてきた。これまでに「まちの縁側MOMO」「鯔背屋」「ウェストダーツクラブ」「アクテノン野外ステージ」などで上演された。そのための練習が必要だ。
※iBunko Twitter
もっとも、これはとても難しい。やってみればわかるが、私たちがなにをするにせよ、なにを読むにせよ、いかにさまざまな思いこみや、後天的な方法論に縛られているか、ということが問題だ。立ち方や歩き方ひとつとってみても、私たちは自分らしくはおこなっていない。
たとえば小学校に入ったとき、体操の時間で私たちが真っ先に教えられるのが「行進」や「整列」のやり方だ。だれもが覚えがあると思うが、行進の練習をするとき、かならずひとりやふたりは右手と右足、左手と左足が揃って前に出てしまう子どもがいたはずだ。
そういう子を教師はどう扱ったか。「正しい歩き方」をするように「指導」したはずだ。「正しい歩き方」とはつまり、右手と左足が、左手と右足が、交互に前に出る「西洋式軍隊歩行」の方法だ。また、子どもたちが体育館に集められ、床に座るとき、どのような姿勢を取ったか。
膝を立てて脚を三角形にし、それを両腕で抱えるようにする、いわゆる「体育座り」を教えられた。いまでも私は小中学校への公演に行くたびに、教師がこの姿勢を生徒たちに指示している場面を目にする。これは昭和35年に文部省からの通達で全校に広まった推奨姿勢である。
このように、私たちの立ち姿勢、座り姿勢といえども、なんらかの恣意的な「教育」がほどこされ、いまにいたっているということを、再認識してみる必要がある。このような「姿勢教育」「身体改革」「身体改造」は、いまに始まったことではなく、近代国家の原理なのだ。
これらの分析は、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に詳しい。朗読に限らず、みずからの自由を担保したなかでの表現をおこなっていくためには、まずはみずからがどのような不自由な監獄に閉じ込められているのか、ということの自覚/再認識からスタートする必要がある。
繰り返すがこの再認識の作業は大変な困難を極める。その実践/実験がいまの現代朗読協会であり、また名古屋ウェルバ・アクトゥスの制作現場であるといえよう。直近の経験を紹介しよう。今年のウェルバ・アクトゥスは12月に名古屋芸術文化センターでの公演を予定している。
ウェルバ・アクトゥスは劇団ではないので、参加者はその自由意志に任されている。毎月、ワークショップが開催され、12月の本公演に向けて準備が進められている。また、ワークショップそのものと本公演のプロモーションを兼ねて、毎回ミニライブが開催されている。
これまでのミニライブでは、去年の本公演の縮小版というか、オリジナル版である「Kenji V」という脚本が使われてきた。これまでに「まちの縁側MOMO」「鯔背屋」「ウェストダーツクラブ」「アクテノン野外ステージ」などで上演された。そのための練習が必要だ。
※iBunko Twitter
2010年8月11日水曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.38
去年の名古屋は、全6回のワークショップで大きな舞台の準備をし、本公演まで持ちこんでしまう、しかもまったくの舞台未経験者も多く混じっている、という意味では、私にとっても初の試みだった。一種の安全策として劇団クセックの役者や音楽家をメンバーに入れておいた。
そのおかげで成功したともいえるが、安全策を取ってしまったその一点が私には心残りだった。そして助っ人がいなくても、今年はワークショップ参加者だけで舞台が成立するのではないか、という確信があった。現代朗読の方法を純粋に使って試してみたいと思っている。
いま名古屋でおこなわれているのは、年末の大きな公演に向けての準備をかねたワークショップだ。去年から参加しているメンバーと、今年あらたに参加したメンバーが混じっている。そして参加者はまだまだ募集中だ。劇団クセックの役者たちは、今年は参加していない。
今年もやはり宮澤賢治のテキストを使う。去年も一部使ったが、今年は『銀河鉄道の夜』をメインテキストとして使用するつもりで、それを再構成し、私のオリジナルなテキストも加えて、ウェルバ・アクトゥスのステージとする。この「ステージ」も去年からは大きく変わる。
そもそも「ステージ」対「客席」という位置関係に私は疑問を持っている。もちろん、演者側とオーディエンスという立場の違いはあるのだが、そこに位置関係、とくに上下の関係を持ちこみたくないのだ。ではどうするのか。今年は芸術文化センターの小ホールが予定されている。
ここは幸い、客席もステージもすべてが可動式である。ステージを全部とっぱらってしまったり、客席の組み方を自由にアレンジすることもできる。これを利用し、演者とオーディエンスが一体となった「表現の場」「共感共有の場」を作りあげたいと、私は考えている。
そのときに演者に求められるのはなにか。なにかを作りあげ、仕組み、企んで準備されたものではなく、演者そのもののありのままの身体性がそこにあること、それがもっとも重要であると私は考えている。たとえば、あるテキストを「こう読もう」と決めるための稽古ではない。
朗読や芝居の舞台準備でおこなわれていることは、ほとんどが、「作りあげる」という足し算である。こう読もう、ここではこう身体を動かす、相手がこう来たらこのように受ける。すべてを決め、絶対に失敗しないように何度も稽古して、繰り返し段取りを確認する。
そうではなく、舞台に立ち、オーディエンスと相対し、自分のドキドキやわくわくを感じたとき、初めてどのように言葉を出したくなるのか、動きたくなるのかがわかるのではないかと思うのだ。このように読みたいという気持ちに逆らって、準備してきたように読めばどうなるか。
それは一種、自分に嘘をつくことになるのではないか。また、聴き手に対しても誠実さを欠いたものになりはしないか。自分の状態、相手の表情、さらにはその場の環境、雰囲気などによって大きく変化する(はずの)表現の方向性を、自由に変えていきたい。それが現代朗読だ。
※iBunko Twitter
そのおかげで成功したともいえるが、安全策を取ってしまったその一点が私には心残りだった。そして助っ人がいなくても、今年はワークショップ参加者だけで舞台が成立するのではないか、という確信があった。現代朗読の方法を純粋に使って試してみたいと思っている。
いま名古屋でおこなわれているのは、年末の大きな公演に向けての準備をかねたワークショップだ。去年から参加しているメンバーと、今年あらたに参加したメンバーが混じっている。そして参加者はまだまだ募集中だ。劇団クセックの役者たちは、今年は参加していない。
今年もやはり宮澤賢治のテキストを使う。去年も一部使ったが、今年は『銀河鉄道の夜』をメインテキストとして使用するつもりで、それを再構成し、私のオリジナルなテキストも加えて、ウェルバ・アクトゥスのステージとする。この「ステージ」も去年からは大きく変わる。
そもそも「ステージ」対「客席」という位置関係に私は疑問を持っている。もちろん、演者側とオーディエンスという立場の違いはあるのだが、そこに位置関係、とくに上下の関係を持ちこみたくないのだ。ではどうするのか。今年は芸術文化センターの小ホールが予定されている。
ここは幸い、客席もステージもすべてが可動式である。ステージを全部とっぱらってしまったり、客席の組み方を自由にアレンジすることもできる。これを利用し、演者とオーディエンスが一体となった「表現の場」「共感共有の場」を作りあげたいと、私は考えている。
そのときに演者に求められるのはなにか。なにかを作りあげ、仕組み、企んで準備されたものではなく、演者そのもののありのままの身体性がそこにあること、それがもっとも重要であると私は考えている。たとえば、あるテキストを「こう読もう」と決めるための稽古ではない。
朗読や芝居の舞台準備でおこなわれていることは、ほとんどが、「作りあげる」という足し算である。こう読もう、ここではこう身体を動かす、相手がこう来たらこのように受ける。すべてを決め、絶対に失敗しないように何度も稽古して、繰り返し段取りを確認する。
そうではなく、舞台に立ち、オーディエンスと相対し、自分のドキドキやわくわくを感じたとき、初めてどのように言葉を出したくなるのか、動きたくなるのかがわかるのではないかと思うのだ。このように読みたいという気持ちに逆らって、準備してきたように読めばどうなるか。
それは一種、自分に嘘をつくことになるのではないか。また、聴き手に対しても誠実さを欠いたものになりはしないか。自分の状態、相手の表情、さらにはその場の環境、雰囲気などによって大きく変化する(はずの)表現の方向性を、自由に変えていきたい。それが現代朗読だ。
※iBunko Twitter
2010年8月10日火曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.37
人見さんの呼びかけで集まったのは、マジシャン、歌手、タップダンサー、クラウン、司会者、バルーンアーティスト、書道家など、さまざまな人たちだった。雑多ではあるが、なかなか豪華なイベントである。それが今年になってからスタートし、毎月のように続いている。
私たち現代朗読協会は、小学校版「Kenji」を上演した。これはこれで喜んでもらえたのだが、終わってから私はこの子どもたちへのオリジナルな演目を用意したくなった。そこで、野々宮卯妙が有名な詩を集めてきて、構成したものに、私が演出と音楽をつけることにした。
タイトルは「いちめんの菜の花に私はなりたい」。山村暮鳥、野口雨情、中原中也、竹久夢二、萩原朔太郎、尾崎放哉、八木重吉、宮澤賢治らの詩をコラージュした作品である。それぞれすべてに動きをつけ、読み方を変え、次々と詩が現われては消えていく、というイメージだ。
出演者は5名。私も入れれば6名。羽根木の家に集まって、何度も稽古した。私たちの稽古は、なにか決めごとを作って、その段取りを確認する、というようなことはあまりやらない。もちろんそういう部分もあるが、基本的に自由で即興的な動きや読みを重視する。
しかし、自由に動いたり即興的に読みを変化させたりするためには、言葉が完全に身体のなかにはいっていなければならない。それは「暗記する」ということではない。芝居のようにセリフとして覚えることでもない。そもそも朗読は、テキストを手に持っておこなう行為だ。
暗記ではなく、テキストを身体になじませ、実体あるもののように手のなかで自在に扱えるようにしておくこと。このことが自由な読みにどうしても必要になる。それを理解してもらうことが一番やっかいで、しかしそれが現代朗読の神髄ともいえる。そのために繰り返し稽古する。
「いちめんの菜の花に私はなりたい」は6月に初演し、その後も7月に2回上演した。次は9月にやる予定だが、養護施設の子どもたちへのボランティア朗読だけでなく、自分たちの大事なオリジナル作品としていずれ独立した形での公演も考えているところだ。
東京での活動のみならず、名古屋でのワークショップも去年からつづいている。去年、名古屋で「ウェルバ・アクトゥス」と題した朗読、音楽、演劇、美術など、さまざまなジャンルの表現を融合させた舞台を上演した。その前段階として一般から参加者をつのった。
名古屋やその周辺に住んでいる方々がおもな参加者だったが、朗読や演劇の経験者もいれば、まったくの舞台未経験者もいた。そういった人が15名ほど集まり、去年は5月から毎月1回のペースで、最終舞台に向けてワークショップが開催された。現代朗読の方法が使われた。
いろいろな思い込みを捨てていくこと、つい癖でやってしまっていることを再認識し、身体の動きや言葉の使い方の自分らしさを取りもどすこと、自分の外にも人がいて世界があることを知り、感覚を開くことで世界とつながること。つながりを持った身体で表現しあうこと。
※iBunko Twitter
私たち現代朗読協会は、小学校版「Kenji」を上演した。これはこれで喜んでもらえたのだが、終わってから私はこの子どもたちへのオリジナルな演目を用意したくなった。そこで、野々宮卯妙が有名な詩を集めてきて、構成したものに、私が演出と音楽をつけることにした。
タイトルは「いちめんの菜の花に私はなりたい」。山村暮鳥、野口雨情、中原中也、竹久夢二、萩原朔太郎、尾崎放哉、八木重吉、宮澤賢治らの詩をコラージュした作品である。それぞれすべてに動きをつけ、読み方を変え、次々と詩が現われては消えていく、というイメージだ。
出演者は5名。私も入れれば6名。羽根木の家に集まって、何度も稽古した。私たちの稽古は、なにか決めごとを作って、その段取りを確認する、というようなことはあまりやらない。もちろんそういう部分もあるが、基本的に自由で即興的な動きや読みを重視する。
しかし、自由に動いたり即興的に読みを変化させたりするためには、言葉が完全に身体のなかにはいっていなければならない。それは「暗記する」ということではない。芝居のようにセリフとして覚えることでもない。そもそも朗読は、テキストを手に持っておこなう行為だ。
暗記ではなく、テキストを身体になじませ、実体あるもののように手のなかで自在に扱えるようにしておくこと。このことが自由な読みにどうしても必要になる。それを理解してもらうことが一番やっかいで、しかしそれが現代朗読の神髄ともいえる。そのために繰り返し稽古する。
「いちめんの菜の花に私はなりたい」は6月に初演し、その後も7月に2回上演した。次は9月にやる予定だが、養護施設の子どもたちへのボランティア朗読だけでなく、自分たちの大事なオリジナル作品としていずれ独立した形での公演も考えているところだ。
東京での活動のみならず、名古屋でのワークショップも去年からつづいている。去年、名古屋で「ウェルバ・アクトゥス」と題した朗読、音楽、演劇、美術など、さまざまなジャンルの表現を融合させた舞台を上演した。その前段階として一般から参加者をつのった。
名古屋やその周辺に住んでいる方々がおもな参加者だったが、朗読や演劇の経験者もいれば、まったくの舞台未経験者もいた。そういった人が15名ほど集まり、去年は5月から毎月1回のペースで、最終舞台に向けてワークショップが開催された。現代朗読の方法が使われた。
いろいろな思い込みを捨てていくこと、つい癖でやってしまっていることを再認識し、身体の動きや言葉の使い方の自分らしさを取りもどすこと、自分の外にも人がいて世界があることを知り、感覚を開くことで世界とつながること。つながりを持った身体で表現しあうこと。
※iBunko Twitter
2010年8月9日月曜日
Ustream番組「UBunko」8月3日中野ピグノーズライブ
2010年8月3日に中野ピグノーズでおこなわれたライブ「げろきょでないと Vol.18」の一部をお送りします。
この日の出演は嶋村美希子、照井数男、野々宮卯妙の3人でしたが、とくに嶋村美希子はこの日が中野ピグノーズ初ライブということで、映像も彼女をフィーチャーしております。
フレッシュでほのぼのしたキュートな彼女ならではの朗読、今後も楽しみです。ぜひご注目ください。
放送は明日8月10日(火)午後8時より。
視聴はこちらから。
この日の出演は嶋村美希子、照井数男、野々宮卯妙の3人でしたが、とくに嶋村美希子はこの日が中野ピグノーズ初ライブということで、映像も彼女をフィーチャーしております。
フレッシュでほのぼのしたキュートな彼女ならではの朗読、今後も楽しみです。ぜひご注目ください。
放送は明日8月10日(火)午後8時より。
視聴はこちらから。
あの音楽ユニット「Oeufs(うふ)」が帰ってくる!(8/21)
童謡唱歌ユニット「Oeufs(うふ)」がひさしぶりに帰ってきます!
といっても、ご存知ない方も多いと思われますので、そういう方はこちらをご覧ください。
下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉では毎月一回のペースでオープンマイクイベントを開催しています。
こちらも1枠いただいて、3曲ほどお送りする予定です。例によって歌と演奏とトークでお楽しみください。出演は伊藤さやか(歌)と水城ゆう(ピアノ)。
◎日時 2010年8月21日(土)18:30開場(私たちは19:30から)
◎場所 Com.Cafe 音倉(下北沢)
http://www.otokura.jp/
◎料金 チャージ無料、飲食代のみ
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.36
私もそうだが、朗読を聴きに行くというと、どこか構えた気持ちになっていることがある。つまり、演者にある「評価」をくだそうという構えが、知らず知らず私のなかに生まれている。それは教育によって作られてしまったほとんど無意識の習慣のように思える。
ところが中学生たちにはそのような習慣はまだ身についていない。それどころか、大変受け身な態度でやってくる。実はそれが芸術表現を素直に受け入れるのに最適な姿勢なのだ。私たちは無防備な彼らに「意味」ではなく私たちの存在と「表現」をダイレクトに投げかける。
最初は拒否反応を示す生徒もいる。顔をそむけたり、ヤジを飛ばしたり。が、そのうちに目がらんらんと輝いてくる。こちらが自分をさらけだして、大人によくある作りこまれ用意されたものではなく、彼らとおなじ時間と空間を共有しようとする姿勢が、彼らにも伝わっていく。
その結果、私たちと彼らの間にはなにか「仲間意識」に似たようなものが生まれ、ある種の共感が共有される。私たちはその後も何度も小中学校でこのプログラムを上演しているが、そのたびに似たような手応えを感じてきた。なにより終わったあとの彼らの反応がうれしかった。
ものおじしない生徒の何人かは、終わってから私たちの控え室にやってきて、積極的に感想をいったり質問を浴びせたりしてくれた。また、帰るために玄関から出ようとしたとき、私たちにまとわりついて離れない生徒たちもいた。また、あとで生徒たちの感想文が送られてきた。
感想文はいい加減に手抜きして書かれているものもあったが、丁寧に、熱心に書いてあるものも少なくなかった。それらを読んで、彼らが実に本質的に私たちの表現をとらえ、共感してくれているのを感じることができた。これは本当にうれしく、宝物のような経験であった。
宝物のような経験といえば、最近またあらたにそういう経験を持つことができた。今年になってからのことだが、東松原の〈スピリット・ブラザーズ〉というレストランでのイベントに参加するようになった。この店は、昨年、一度ライブに使わせてもらったことがあった。
そのときは「メイド(冥土)ライブ」という、出演者全員(女性)がメイド服を着用して、冥土話を語るという、ちょっとふざけたイベントのために使わせてもらったのだが、それが縁でオーナーの人見さんとつながりができるようになった。彼はかねてからやりたいことがあった。
めぐまれない子どもたちを集めて、レストランでの自由な飲食とライブイベントをプレゼントしたいと考えていたのだ。そのために、何人かに声をかけ、現代朗読協会もイベントに参加することになった。親から虐待されている児童を保護している施設のためのイベントである。
このような児童養護施設は都内だけでも59、全国では560もある。多くの子どもたちがここで暮らしているのだが、いずれの施設も予算にはめぐまれておらず、子どもたちも習い事やレクリエーションが自由にできないことが多い。それをボランティアで支えている実情がある。
※iBunko Twitter
ところが中学生たちにはそのような習慣はまだ身についていない。それどころか、大変受け身な態度でやってくる。実はそれが芸術表現を素直に受け入れるのに最適な姿勢なのだ。私たちは無防備な彼らに「意味」ではなく私たちの存在と「表現」をダイレクトに投げかける。
最初は拒否反応を示す生徒もいる。顔をそむけたり、ヤジを飛ばしたり。が、そのうちに目がらんらんと輝いてくる。こちらが自分をさらけだして、大人によくある作りこまれ用意されたものではなく、彼らとおなじ時間と空間を共有しようとする姿勢が、彼らにも伝わっていく。
その結果、私たちと彼らの間にはなにか「仲間意識」に似たようなものが生まれ、ある種の共感が共有される。私たちはその後も何度も小中学校でこのプログラムを上演しているが、そのたびに似たような手応えを感じてきた。なにより終わったあとの彼らの反応がうれしかった。
ものおじしない生徒の何人かは、終わってから私たちの控え室にやってきて、積極的に感想をいったり質問を浴びせたりしてくれた。また、帰るために玄関から出ようとしたとき、私たちにまとわりついて離れない生徒たちもいた。また、あとで生徒たちの感想文が送られてきた。
感想文はいい加減に手抜きして書かれているものもあったが、丁寧に、熱心に書いてあるものも少なくなかった。それらを読んで、彼らが実に本質的に私たちの表現をとらえ、共感してくれているのを感じることができた。これは本当にうれしく、宝物のような経験であった。
宝物のような経験といえば、最近またあらたにそういう経験を持つことができた。今年になってからのことだが、東松原の〈スピリット・ブラザーズ〉というレストランでのイベントに参加するようになった。この店は、昨年、一度ライブに使わせてもらったことがあった。
そのときは「メイド(冥土)ライブ」という、出演者全員(女性)がメイド服を着用して、冥土話を語るという、ちょっとふざけたイベントのために使わせてもらったのだが、それが縁でオーナーの人見さんとつながりができるようになった。彼はかねてからやりたいことがあった。
めぐまれない子どもたちを集めて、レストランでの自由な飲食とライブイベントをプレゼントしたいと考えていたのだ。そのために、何人かに声をかけ、現代朗読協会もイベントに参加することになった。親から虐待されている児童を保護している施設のためのイベントである。
このような児童養護施設は都内だけでも59、全国では560もある。多くの子どもたちがここで暮らしているのだが、いずれの施設も予算にはめぐまれておらず、子どもたちも習い事やレクリエーションが自由にできないことが多い。それをボランティアで支えている実情がある。
※iBunko Twitter
2010年8月8日日曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.35
現代朗読協会が中学生のために作った朗読プログラムは「Kenji」というタイトルだ。これを作るにあたってまずかんがえたのは、中学生たちになにを伝えるか、ということだ。作品のストーリーを伝える? 宮澤賢治がどういう人なのかわかってもらう? どちらも違うと思った。
ストーリーを伝えるだけなら、きれいに読めるアナウンサーかナレーターにやってもらえばいい。そもそもそれなら本を読むのが一番だ。宮澤賢治という作者の人となりを伝えるとしても、私は宮澤賢治という人に会ったこともなければ、そもそもすでにこの世にいない人である。
たしかに作品は残っているが、そもそも彼がなにをかんがえてその作品を書いたのかなど、だれにもわかりはしない。もし「わかる」という人がいたら、とてつもなく傲慢な人だろうと思う。作者ですら自分がその作品をなぜ書いたのか、わかりはしないというのが真実なのだ。
宮澤賢治はおそらく深い潜在意識を持っており、暗闇にうごめく衝動に突きうごかされるようにして仕事をした人間なのだろう。そのことは残されている言葉をつぶさに読めばだれでもわかる。そしてただひとつ確かなことは、いま我々の手の中に賢治の言葉があるということだ。
その賢治の言葉をただ中学生たちに伝えたい。ストーリーを伝えるのではなく、言葉そのものを、しかもいまこの時代に生きている我々と彼らという生身の肉体同士の交流電源として言葉を伝え交換したい。そう考えた。そして「Kenji」を賢治の言葉によるコラージュにした。
もうひとつ、賢治コラージュを作るにあたって私なりにひとつのアイディアがあった。それは音楽だ。賢治は音楽が好きで、自身も音楽家になりたくて何度も挑戦していた。チェロやオルガンを習い、作曲にも挑戦していた。しかし適性がなかったらしく、そのたびに挫折していた。
「セロ弾きのゴーシュ」にせよ「ポラーノの広場」にせよ、音楽が主題になった小説だ。「ポラーノの広場」では、賢治自身の作曲ではないにせよ、楽譜が使われている。賢治自身の作った「星めぐりのうた」という曲もある。音楽的にはけっして優れた曲ではない。
しかし、不思議な魅力のある曲なのだ。私はこの曲を「Kenji」のなかで使おうと思った。そのために、出演者に歌手をひとり加えた。ほかは私がピアノ演奏、そして4名の朗読者というメンバーで上演するためのプログラムとなった。朗読者には当時75歳の網野隆さんがいらした。
世田谷区立東深沢中学校での初演は、9月のまだ残暑が厳しい日だった。2年生の2クラスが音楽教室に集められ、私たちはその前で「Kenji」を上演した。生徒たちとの距離が近かったせいもあったが、最初から食いいるように見てくれて、反応もよく、手応え十分だった。
中学生たちは朗読公演といっても、なんの先入観もなく見てくれていたのだと思う。どちらかというと、「朗読? うざいけど、まあ授業だし、見なきゃしょうがないよね」くらいの気持ちで音楽教室に集まってくれたのだろう。そこでなにが行なわれるのかまったく知らずに。
※iBunko Twitter
ストーリーを伝えるだけなら、きれいに読めるアナウンサーかナレーターにやってもらえばいい。そもそもそれなら本を読むのが一番だ。宮澤賢治という作者の人となりを伝えるとしても、私は宮澤賢治という人に会ったこともなければ、そもそもすでにこの世にいない人である。
たしかに作品は残っているが、そもそも彼がなにをかんがえてその作品を書いたのかなど、だれにもわかりはしない。もし「わかる」という人がいたら、とてつもなく傲慢な人だろうと思う。作者ですら自分がその作品をなぜ書いたのか、わかりはしないというのが真実なのだ。
宮澤賢治はおそらく深い潜在意識を持っており、暗闇にうごめく衝動に突きうごかされるようにして仕事をした人間なのだろう。そのことは残されている言葉をつぶさに読めばだれでもわかる。そしてただひとつ確かなことは、いま我々の手の中に賢治の言葉があるということだ。
その賢治の言葉をただ中学生たちに伝えたい。ストーリーを伝えるのではなく、言葉そのものを、しかもいまこの時代に生きている我々と彼らという生身の肉体同士の交流電源として言葉を伝え交換したい。そう考えた。そして「Kenji」を賢治の言葉によるコラージュにした。
もうひとつ、賢治コラージュを作るにあたって私なりにひとつのアイディアがあった。それは音楽だ。賢治は音楽が好きで、自身も音楽家になりたくて何度も挑戦していた。チェロやオルガンを習い、作曲にも挑戦していた。しかし適性がなかったらしく、そのたびに挫折していた。
「セロ弾きのゴーシュ」にせよ「ポラーノの広場」にせよ、音楽が主題になった小説だ。「ポラーノの広場」では、賢治自身の作曲ではないにせよ、楽譜が使われている。賢治自身の作った「星めぐりのうた」という曲もある。音楽的にはけっして優れた曲ではない。
しかし、不思議な魅力のある曲なのだ。私はこの曲を「Kenji」のなかで使おうと思った。そのために、出演者に歌手をひとり加えた。ほかは私がピアノ演奏、そして4名の朗読者というメンバーで上演するためのプログラムとなった。朗読者には当時75歳の網野隆さんがいらした。
世田谷区立東深沢中学校での初演は、9月のまだ残暑が厳しい日だった。2年生の2クラスが音楽教室に集められ、私たちはその前で「Kenji」を上演した。生徒たちとの距離が近かったせいもあったが、最初から食いいるように見てくれて、反応もよく、手応え十分だった。
中学生たちは朗読公演といっても、なんの先入観もなく見てくれていたのだと思う。どちらかというと、「朗読? うざいけど、まあ授業だし、見なきゃしょうがないよね」くらいの気持ちで音楽教室に集まってくれたのだろう。そこでなにが行なわれるのかまったく知らずに。
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2010年8月7日土曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.34
現代朗読協会が初めていただいた助成金というもので、金額こそ少なかったがありがたかった。少なくとも、いままで公演に協力してくれていたメンバーに交通費その他必要経費を支払うことができた。これまでは必要経費すら持ち出しのことが多かったのだ。もちろん私も。
これは世田谷文学館のおかげだったが、世田文(せたぶん:略称)とはなぜか数年前から縁があった。最初のきっかけはなんだったのか忘れたが、2008年2月に生活工房での「庭を編」という展示イベントのオープニングパーティーで、朗読パフォーマンスを依頼された。
造形作家の眞田岳彦さんが中心になって進められていたイベントで、世田谷区内で採れる産物を使って衣服を編み、染色し、展示するというものだった。主催の生活工房は世田谷文化財団の一員で、世田谷文学館もそこに属する組織である。
生活工房から世田谷文学館に、世田谷にちなんだ文学作品の朗読をオープニングでできないかという依頼があり、世田文から現代朗読協会に打診があったというわけだ。文学作品は、世田谷に在住していた徳富蘆花の『みみずのたはごと』を使うことになった。
そもそも世田谷文学館は徳富蘆花にちなんだ「芦花公園」にある。私はさっそく朗読パフォーマンスのシナリオ構成に取りかかり、出演者5人による朗読作品を作った。中心は名古屋の榊原忠美氏で、ほかは協会の朗読者を使った。友人の12歳と4歳の子どもも出演してもらった。
展示会場でのオープニングパーティーの朗読パフォーマンスは、なかなか好評だった。200人くらいの参会者がバラバラと立ったままつどうなか、会場全体に散らばった作品群の間を縫うように動きながら朗読する、という演出だった。現代美術展にはとても親和性がよかった。
これがきっかけとなって、世田谷文学館からまた別の依頼が来た。世田文では区内の小中学校に文学パネルを貸し出して展示したり、ブックトークや朗読を学芸員がおこなう「巡回文学展」という企画をおこなっていた。シャーロック・ホームズ、赤毛のアンなどの紹介だ。
この巡回展示に合わせた朗読公演が、中学校でできないだろうか、という打診だった。実際に展示パネルを見学に行ってみた。ちょうど宮沢賢治の展示をやっていて、写真家による賢治の作品の写真と、作品からの抜粋テキストをパネルにしたものが何枚もならべてあるものだった。
私は宮沢賢治の作品を使った朗読脚本を作ることにした。それを初演する学校は世田谷区立東深沢中学校と決まった。私は賢治のどれかの作品をストーリーに沿って構成することはやめ、10近い作品をコラージュした脚本を作った。協会員4名と歌手ひとり(伊藤さやか)の出演。
予算はほとんどないに等しいほど少なく、採算がとれるどころか、経費に足りないほどだった。が、私たちはその公演を引き受けた。世の中には採算を度外視してもやらなければならない大切な仕事があると思ったからだ。もっとも、いろいろな人からいろいろなことをいわれた。
※Twitter連載中
これは世田谷文学館のおかげだったが、世田文(せたぶん:略称)とはなぜか数年前から縁があった。最初のきっかけはなんだったのか忘れたが、2008年2月に生活工房での「庭を編」という展示イベントのオープニングパーティーで、朗読パフォーマンスを依頼された。
造形作家の眞田岳彦さんが中心になって進められていたイベントで、世田谷区内で採れる産物を使って衣服を編み、染色し、展示するというものだった。主催の生活工房は世田谷文化財団の一員で、世田谷文学館もそこに属する組織である。
生活工房から世田谷文学館に、世田谷にちなんだ文学作品の朗読をオープニングでできないかという依頼があり、世田文から現代朗読協会に打診があったというわけだ。文学作品は、世田谷に在住していた徳富蘆花の『みみずのたはごと』を使うことになった。
そもそも世田谷文学館は徳富蘆花にちなんだ「芦花公園」にある。私はさっそく朗読パフォーマンスのシナリオ構成に取りかかり、出演者5人による朗読作品を作った。中心は名古屋の榊原忠美氏で、ほかは協会の朗読者を使った。友人の12歳と4歳の子どもも出演してもらった。
展示会場でのオープニングパーティーの朗読パフォーマンスは、なかなか好評だった。200人くらいの参会者がバラバラと立ったままつどうなか、会場全体に散らばった作品群の間を縫うように動きながら朗読する、という演出だった。現代美術展にはとても親和性がよかった。
これがきっかけとなって、世田谷文学館からまた別の依頼が来た。世田文では区内の小中学校に文学パネルを貸し出して展示したり、ブックトークや朗読を学芸員がおこなう「巡回文学展」という企画をおこなっていた。シャーロック・ホームズ、赤毛のアンなどの紹介だ。
この巡回展示に合わせた朗読公演が、中学校でできないだろうか、という打診だった。実際に展示パネルを見学に行ってみた。ちょうど宮沢賢治の展示をやっていて、写真家による賢治の作品の写真と、作品からの抜粋テキストをパネルにしたものが何枚もならべてあるものだった。
私は宮沢賢治の作品を使った朗読脚本を作ることにした。それを初演する学校は世田谷区立東深沢中学校と決まった。私は賢治のどれかの作品をストーリーに沿って構成することはやめ、10近い作品をコラージュした脚本を作った。協会員4名と歌手ひとり(伊藤さやか)の出演。
予算はほとんどないに等しいほど少なく、採算がとれるどころか、経費に足りないほどだった。が、私たちはその公演を引き受けた。世の中には採算を度外視してもやらなければならない大切な仕事があると思ったからだ。もっとも、いろいろな人からいろいろなことをいわれた。
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2010年8月6日金曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.33
20歳代の音楽と小説修行とラジオの時代、30代の商業小説とネットの時代、40代のラジオとネット事業と朗読研究の時代と経てきて、もっとも成功したのはなにか。経済的にはいろいろあるが「成功」の基準を金銭に置かないとすれば、まちがいなくひとつだけある。
それが現代朗読協会のゼミシステムだ。継続的で、非暴力で、幸福な一種のコミュニティとして機能している。これは私が意図的に作ったものでもなければ、予想していたものでもない。私の意図外で自然発生的に奇跡のように成立したシステムだ。もちろん、まだ未完成ではある。
この場が唯一、私のやってきたことで「成功した」といえることかもしれない。ただし、この場もまだまだもろく、いつ消えてなくなってしまうかわからない、という不安はある。その主な理由は、やはり経済的なことだ。現代において場の維持にはまだまだ経済の裏付けが必要だ。
私は資産家でもないし、商売上手なビジネスマンでもない。また、売れっ子作家でもない。いまのこの場を維持するために必要な資金のために、もう少しまじめに売れる小説を書いておけばよかったと思うこともあるが、たぶんそんなことをしていれば、いまここにはいないだろう。
現代朗読協会という場を守るために、ある程度の経済的裏付けが必要なことはまちがいない。そのひとつに「ゼミシステム」があるわけだが、それだけではもちろん足りない。そこで、これはあまりこれまで積極的にやってこなかったことだが、補助金を申請するという方法もある。
積極的ではなかったが、何度か挑戦したことはある。その際にわかったのは、補助金の申請というのはとても面倒臭い作業だ、ということだ。NPO法人の認可を得るために都に書類を提出したことがあるが、それに近い作業になる。申請事業の企画を作り、予算書を整える。
資料をそろえ、必要事項を申請書式にしたがってきちんと書きこみ、窓口へ持っていく。書類審査がおこなわれ、不備がないとわかれば、事業内容の具体的な説明のために出かけていって、担当者たちとの面談がある。その後、本審査などがおこなわれ、必要があればまた呼ばれる。
なので、ある程度は「作文」であり「つじつま合わせ」になってしまう。それをまた確信的に「説明」しなければならず、そこはかとないうしろめたさがつきまとう。などと感じているのは、私だけだろうか。とにかく、私はこういう申請作業がとても苦手なのだ。
で、過去何度か申請したものは通らなかった。ところが、これは私が申請したわけではないのだが、今年のはじめにおこなった小中学校への朗読公演に対して、文化庁から補助金が出ることになった。これは世田谷文学館との共同事業で、申請は世田文がやってくれたものだった。
※Twitter連載中
それが現代朗読協会のゼミシステムだ。継続的で、非暴力で、幸福な一種のコミュニティとして機能している。これは私が意図的に作ったものでもなければ、予想していたものでもない。私の意図外で自然発生的に奇跡のように成立したシステムだ。もちろん、まだ未完成ではある。
この場が唯一、私のやってきたことで「成功した」といえることかもしれない。ただし、この場もまだまだもろく、いつ消えてなくなってしまうかわからない、という不安はある。その主な理由は、やはり経済的なことだ。現代において場の維持にはまだまだ経済の裏付けが必要だ。
私は資産家でもないし、商売上手なビジネスマンでもない。また、売れっ子作家でもない。いまのこの場を維持するために必要な資金のために、もう少しまじめに売れる小説を書いておけばよかったと思うこともあるが、たぶんそんなことをしていれば、いまここにはいないだろう。
現代朗読協会という場を守るために、ある程度の経済的裏付けが必要なことはまちがいない。そのひとつに「ゼミシステム」があるわけだが、それだけではもちろん足りない。そこで、これはあまりこれまで積極的にやってこなかったことだが、補助金を申請するという方法もある。
積極的ではなかったが、何度か挑戦したことはある。その際にわかったのは、補助金の申請というのはとても面倒臭い作業だ、ということだ。NPO法人の認可を得るために都に書類を提出したことがあるが、それに近い作業になる。申請事業の企画を作り、予算書を整える。
資料をそろえ、必要事項を申請書式にしたがってきちんと書きこみ、窓口へ持っていく。書類審査がおこなわれ、不備がないとわかれば、事業内容の具体的な説明のために出かけていって、担当者たちとの面談がある。その後、本審査などがおこなわれ、必要があればまた呼ばれる。
なので、ある程度は「作文」であり「つじつま合わせ」になってしまう。それをまた確信的に「説明」しなければならず、そこはかとないうしろめたさがつきまとう。などと感じているのは、私だけだろうか。とにかく、私はこういう申請作業がとても苦手なのだ。
で、過去何度か申請したものは通らなかった。ところが、これは私が申請したわけではないのだが、今年のはじめにおこなった小中学校への朗読公演に対して、文化庁から補助金が出ることになった。これは世田谷文学館との共同事業で、申請は世田文がやってくれたものだった。
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2010年8月5日木曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.32
しかし私は思う。朗読というものは、もっとスリリングだし、共感的だし、驚くようなことが起こる場だし、音楽コンサートを聴く人々が持つような一体感をも作れる表現方法なのだ。自由で暖かく、スリリングで、個性的だ。人がイキイキとつながりあえる表現の場でもある。
いったいだれが朗読をこんなに窮屈で固定的・限定的な入れ物にしてしまったのだろう。私はその入れ物をいったんバラバラにし、うんと風通しをよくしたいと思う。実際に現代朗読ではそれができるようになったと確信している。現在の現代朗読協会のありようを知ってもらおう。
前にも書いたように、現代朗読協会の参加メンバーの顔ぶれは、数年前から一変してしまった。利益と等価交換を求める人はいなくなり、代わりにごく普通の、でも自己実現や表現、人とのつながりに強い興味を持っている人たちがやってくるようになった。多くはゼミ生になる。
ゼミ生になるには、まず現代朗読協会の正会員になる必要がある。が、その方式に、私はコンテンポラリーアートの考え方を取りいれている。何度も書いてきたように、現代朗読協会は等価交換の場ではない。一定の金銭をいただいて、それに見合うだけの技術を与える場ではない。
ゼミ生には「現代朗読協会という学びの場を継続的に存在させるための必要な金銭その他」を提供していただきたい、というリクエストをしている。これもあくまで「リクエスト」であって、強制ではない。金銭および「その他」というのは、例えば労働力であったりする。
労働力以外にも、あらたな会員を紹介してくれたり、ライブの告知宣伝をしてくれたりと、いろいろな貢献方法がある。ゼミ生についてもっとも大事な考え方は、この学びの場を成立させ、継続的に参加するために無理のない自分なりの貢献方法を見つける、ということだ。
自分なりの継続的な貢献方法が見つかれば、それを申告してもらう。金銭であれば、毎月このくらいなら無理なく継続的に払えるという金額を申告してもらう。経済的に余裕のある人なら毎月1万円以上を継続的に払えるかもしれないし、経済的に苦しい人は数千円かもしれない。
あるいはまったくゼロ円かもしれない。それでも活動に参加するには、現代朗読協会まで来る必要があり、交通費もかかる。だから、ゼロ円でも大歓迎なのだ。朗読をやりたいという人がいて、その人が金銭的理由で我々の活動に参加できない、という事態は可能な限り排除したい。
そもそも表現行為というものは、朗読に限らず、経済活動は関係のないはずだ。歌いたければ人は歌えばいいし、書きたければ書けばいい。読み聞かせたければ読み聞かせればいい。そのことを学びたいという人がいて、経済的理由で学べないとしたら、それはとても悲しいことだ。
しかし、学びの場を維持するには、金銭も労力もある程度必要だ。それをみんなで支えてもらうという考え方を採用している。この方式を最初に説明すると、たいていの人はびっくりする。が、理解してもらえればとてもスムーズに、おだやかにものごとが進んでいく。
※Twitter連載中
いったいだれが朗読をこんなに窮屈で固定的・限定的な入れ物にしてしまったのだろう。私はその入れ物をいったんバラバラにし、うんと風通しをよくしたいと思う。実際に現代朗読ではそれができるようになったと確信している。現在の現代朗読協会のありようを知ってもらおう。
前にも書いたように、現代朗読協会の参加メンバーの顔ぶれは、数年前から一変してしまった。利益と等価交換を求める人はいなくなり、代わりにごく普通の、でも自己実現や表現、人とのつながりに強い興味を持っている人たちがやってくるようになった。多くはゼミ生になる。
ゼミ生になるには、まず現代朗読協会の正会員になる必要がある。が、その方式に、私はコンテンポラリーアートの考え方を取りいれている。何度も書いてきたように、現代朗読協会は等価交換の場ではない。一定の金銭をいただいて、それに見合うだけの技術を与える場ではない。
ゼミ生には「現代朗読協会という学びの場を継続的に存在させるための必要な金銭その他」を提供していただきたい、というリクエストをしている。これもあくまで「リクエスト」であって、強制ではない。金銭および「その他」というのは、例えば労働力であったりする。
労働力以外にも、あらたな会員を紹介してくれたり、ライブの告知宣伝をしてくれたりと、いろいろな貢献方法がある。ゼミ生についてもっとも大事な考え方は、この学びの場を成立させ、継続的に参加するために無理のない自分なりの貢献方法を見つける、ということだ。
自分なりの継続的な貢献方法が見つかれば、それを申告してもらう。金銭であれば、毎月このくらいなら無理なく継続的に払えるという金額を申告してもらう。経済的に余裕のある人なら毎月1万円以上を継続的に払えるかもしれないし、経済的に苦しい人は数千円かもしれない。
あるいはまったくゼロ円かもしれない。それでも活動に参加するには、現代朗読協会まで来る必要があり、交通費もかかる。だから、ゼロ円でも大歓迎なのだ。朗読をやりたいという人がいて、その人が金銭的理由で我々の活動に参加できない、という事態は可能な限り排除したい。
そもそも表現行為というものは、朗読に限らず、経済活動は関係のないはずだ。歌いたければ人は歌えばいいし、書きたければ書けばいい。読み聞かせたければ読み聞かせればいい。そのことを学びたいという人がいて、経済的理由で学べないとしたら、それはとても悲しいことだ。
しかし、学びの場を維持するには、金銭も労力もある程度必要だ。それをみんなで支えてもらうという考え方を採用している。この方式を最初に説明すると、たいていの人はびっくりする。が、理解してもらえればとてもスムーズに、おだやかにものごとが進んでいく。
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2010年8月4日水曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.31
日本でもごく一時期、ネオダダと称して「ハプニング」など前衛的なパフォーマンスをおこなう芸術家が出たことがあったが、ほとんど理解も広がりもないままに消えていってしまった。そういう特殊な芸術事情のなかで、朗読は手つかずのまま原始的な形態で残ったのだ。
念のために書いておくが、私たち現代朗読協会はコンテンポラリーアートとしての朗読だけをやるために集まっているのではない。コンテンポラリーも視野に入れた広々とした視界のなかで、日本の朗読表現をもう一度ゼロから見直してみようというだけのことなのである。
そのなかには「読み聞かせ」などの活動もはいっている。この読み聞かせにしたところで、どこへ指導に行っても聞かれるのが、「どうやればいいんでしょう」という現場の途方に暮れたような声だ。なにをどうやればいいのか、表現原理がまったくないまま行なわれているのだ。
読み聞かせにしても朗読にしても、しばしば指導の依頼がある。NPOということで安心してもらえるのと、若いNPOにしては多くの活動実績があるということもあるのだろう。幼稚園、小中学校、高校、大学の講義にも呼ばれることがあるし、また教員や保護者への指導もある。
私たちの指導は、表現やコミュニケーションの原理にのっとった理論を、現場での数多くの実証実験を経てつちかわれた方法でおこなわれる。そのため、「なぜそうするのか」「どのようにするのか」がだれにもわかるようになっているし、まただれにでも応用ができる。
私たちは私たちが発見した方法を独占するつもりはまったくなく、多くの人に知ってもらってよりよいコミュニケーションや表現に役立ててほしいと願っている。そうすることで、特殊事情で特定のイメージに凝り固まった朗読の世界を、より多くの人に親しんでもらいたいのだ。
これまで書いてきたように、日本では朗読というと、ある特定の限定的なイメージが世間一般にはある。だれかに「朗読をしませんか?」と誘うとする。するとその人の頭のなかには、ステージの上にひとり座ってスポットを浴び、まじめに本を読んでいる自分の姿が浮かぶ。
ひょっとしたらそれは着物姿だったりするかもしれない。そしてオーディエンスは中高年が多く、半分くらい居眠りしている。そんなイメージだ。また、朗読の練習をするというと、滑舌だのイントネーションだのを先生から厳しく指導され、何度も読み直しをするというイメージ。
現代朗読協会のワークショップにやってきた人の多くが、そんなイメージとはまったく違った内容に驚く。とうより、驚くのは、一般の人が朗読に対してそのようなイメージを持ってしまっていることだ。いったいどこでそのようなイメージがついてしまったのだろう。
私も朗読研究会や現代朗読協会を運営するようになって、多くの朗読会、朗読ライブを見てきた。そのほとんどが実に退屈な、予定調和的な、型にはまったものだった。そのイメージで朗読はとらえられており、また世間一般にもそのイメージが刷りこまれているのだ。
※Twitter連載中
念のために書いておくが、私たち現代朗読協会はコンテンポラリーアートとしての朗読だけをやるために集まっているのではない。コンテンポラリーも視野に入れた広々とした視界のなかで、日本の朗読表現をもう一度ゼロから見直してみようというだけのことなのである。
そのなかには「読み聞かせ」などの活動もはいっている。この読み聞かせにしたところで、どこへ指導に行っても聞かれるのが、「どうやればいいんでしょう」という現場の途方に暮れたような声だ。なにをどうやればいいのか、表現原理がまったくないまま行なわれているのだ。
読み聞かせにしても朗読にしても、しばしば指導の依頼がある。NPOということで安心してもらえるのと、若いNPOにしては多くの活動実績があるということもあるのだろう。幼稚園、小中学校、高校、大学の講義にも呼ばれることがあるし、また教員や保護者への指導もある。
私たちの指導は、表現やコミュニケーションの原理にのっとった理論を、現場での数多くの実証実験を経てつちかわれた方法でおこなわれる。そのため、「なぜそうするのか」「どのようにするのか」がだれにもわかるようになっているし、まただれにでも応用ができる。
私たちは私たちが発見した方法を独占するつもりはまったくなく、多くの人に知ってもらってよりよいコミュニケーションや表現に役立ててほしいと願っている。そうすることで、特殊事情で特定のイメージに凝り固まった朗読の世界を、より多くの人に親しんでもらいたいのだ。
これまで書いてきたように、日本では朗読というと、ある特定の限定的なイメージが世間一般にはある。だれかに「朗読をしませんか?」と誘うとする。するとその人の頭のなかには、ステージの上にひとり座ってスポットを浴び、まじめに本を読んでいる自分の姿が浮かぶ。
ひょっとしたらそれは着物姿だったりするかもしれない。そしてオーディエンスは中高年が多く、半分くらい居眠りしている。そんなイメージだ。また、朗読の練習をするというと、滑舌だのイントネーションだのを先生から厳しく指導され、何度も読み直しをするというイメージ。
現代朗読協会のワークショップにやってきた人の多くが、そんなイメージとはまったく違った内容に驚く。とうより、驚くのは、一般の人が朗読に対してそのようなイメージを持ってしまっていることだ。いったいどこでそのようなイメージがついてしまったのだろう。
私も朗読研究会や現代朗読協会を運営するようになって、多くの朗読会、朗読ライブを見てきた。そのほとんどが実に退屈な、予定調和的な、型にはまったものだった。そのイメージで朗読はとらえられており、また世間一般にもそのイメージが刷りこまれているのだ。
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中野ピグノーズはさらなる未来を予感させた
午後7時、出かける。中野ピグノーズへ。
新宿駅のホームで偶然、シマムラと出会う。そのまま一緒に中野ピグノーズへ。中野ブロードウェイの解説などしながら。
ピグノーズにはすでに野々宮と照井が来ていた。
お客さんは数人と少なかったが、今夜の「げろきょでないと」はなかなかおもしろかった。照井数男のラップトップを使った新しい試み(まだ未熟だが)も、初参加のシマムラもがんばった。
シマムラは朗読欲が出てよかった。「猫」「Cat's Christmas」「Cat Plane」など、猫シリーズのエロかわいいパフォーマンス。
そして野々宮の実力は新規のお客さんをグイッと引きこんでくれた。今後に大きくつながるライブだったと思う。
気分よく撤収して帰宅。この時間になった。
新宿駅のホームで偶然、シマムラと出会う。そのまま一緒に中野ピグノーズへ。中野ブロードウェイの解説などしながら。
ピグノーズにはすでに野々宮と照井が来ていた。
お客さんは数人と少なかったが、今夜の「げろきょでないと」はなかなかおもしろかった。照井数男のラップトップを使った新しい試み(まだ未熟だが)も、初参加のシマムラもがんばった。
シマムラは朗読欲が出てよかった。「猫」「Cat's Christmas」「Cat Plane」など、猫シリーズのエロかわいいパフォーマンス。
そして野々宮の実力は新規のお客さんをグイッと引きこんでくれた。今後に大きくつながるライブだったと思う。
気分よく撤収して帰宅。この時間になった。
2010年8月3日火曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.30
2007年の暮れのことだったか。西荻窪の〈遊空間がざびぃ〉というところで、現代朗ウィークということで「読まれなかった手紙」という公演シリーズを上演したことがある。そのなかで、私の書きおろした「初恋」というテキストを、私と榊原忠美のふたりでやった。
前衛的な朗読で、といっても私と榊原のふたりにとっては25年前から日常的にやってきたパフォーマンスであり、とくに珍しいということはなかったのだが、「朗読」を期待してきた方には、一種のショックがあったようだ。シリーズだったので4演目の通しチケットが出ていた。
一番最初の「初恋」を見て、ショックを受け、残り3演目をすべて払い戻しして帰られた中年女性がおられた。気の毒だったとは思うが、「初恋」はその後、2回、3回と再演を重ね、2010年の今年6月末には、名古屋のちくさ座で作曲家の坂野嘉彦氏も加えて再演された。
ドイツにおける20世紀パフォーマンス史の研究をされている東京外国語大学の西岡あかねさんも、ネットで野々宮のパフォーンスを見て、「日本でもこういうことをやっている団体がいたんだ」と驚きつつ来てくれたひとりだ。ドイツにはダダという運動があった。
表現主義ともいうが、20世紀最初の抽象表現運動だった。それはヴォイスパフォーマンスの世界にも取りいれられ、ドイツではいまだに前衛的な朗読が盛んにおこなわれているという。ドイツに限らず、欧米では朗読表現にもコンテンポラリーアートの手法が取りいれられている。
コンテンポラリーアートはドイツのダダを始め、欧米では美術や文学、さらには演劇や音楽やダンスなどのパフォーミングアートの世界に取りいれられていき、現代芸術の主要な流れとなっている。朗読も当然ながらその流れのなかで語ることができるのだが、ところがである。
日本に目を向けたとき、とても特殊な風景が展開している。日本でも美術や音楽、演劇、ダンスなどにもコンテンポラリーの手法は取りいれられ、盛んに実演されているが、朗読だけが特殊事情なのだ。朗読をやっている人でコンテンポラリーを意識している者を私は知らない。
前にも書いたが、朗読をやっている人はそのほとんどが「放送技術」の延長線上でやっていて、コンテンポラリーアートとして表現活動をしている人を日本ではほとんど見つけることができない。なぜこういう事態になっているのか、私は長い間わからなかった。
最近、こういうふうな事情ではないかと考えるようになった。日本ではアニメ文化が発達した。また、洋画の「吹き替え」という文化もある。こういうなかで、声優やナレーターといった職業が発達した。そして声の仕事をしたいと思ったら、そのような専門学校に行くことになる。
朗読会が開かれることがあるが、ほとんどがアナウンサー、声優、ナレーターといった「声の仕事」をしている人であり、それはまた放送やメディアの人々でもある。まれに役者が朗読をしていることがあるが、それでも放送の人たちの朗読イメージに引きずられていることが多い。
※Twitter連載中
前衛的な朗読で、といっても私と榊原のふたりにとっては25年前から日常的にやってきたパフォーマンスであり、とくに珍しいということはなかったのだが、「朗読」を期待してきた方には、一種のショックがあったようだ。シリーズだったので4演目の通しチケットが出ていた。
一番最初の「初恋」を見て、ショックを受け、残り3演目をすべて払い戻しして帰られた中年女性がおられた。気の毒だったとは思うが、「初恋」はその後、2回、3回と再演を重ね、2010年の今年6月末には、名古屋のちくさ座で作曲家の坂野嘉彦氏も加えて再演された。
ドイツにおける20世紀パフォーマンス史の研究をされている東京外国語大学の西岡あかねさんも、ネットで野々宮のパフォーンスを見て、「日本でもこういうことをやっている団体がいたんだ」と驚きつつ来てくれたひとりだ。ドイツにはダダという運動があった。
表現主義ともいうが、20世紀最初の抽象表現運動だった。それはヴォイスパフォーマンスの世界にも取りいれられ、ドイツではいまだに前衛的な朗読が盛んにおこなわれているという。ドイツに限らず、欧米では朗読表現にもコンテンポラリーアートの手法が取りいれられている。
コンテンポラリーアートはドイツのダダを始め、欧米では美術や文学、さらには演劇や音楽やダンスなどのパフォーミングアートの世界に取りいれられていき、現代芸術の主要な流れとなっている。朗読も当然ながらその流れのなかで語ることができるのだが、ところがである。
日本に目を向けたとき、とても特殊な風景が展開している。日本でも美術や音楽、演劇、ダンスなどにもコンテンポラリーの手法は取りいれられ、盛んに実演されているが、朗読だけが特殊事情なのだ。朗読をやっている人でコンテンポラリーを意識している者を私は知らない。
前にも書いたが、朗読をやっている人はそのほとんどが「放送技術」の延長線上でやっていて、コンテンポラリーアートとして表現活動をしている人を日本ではほとんど見つけることができない。なぜこういう事態になっているのか、私は長い間わからなかった。
最近、こういうふうな事情ではないかと考えるようになった。日本ではアニメ文化が発達した。また、洋画の「吹き替え」という文化もある。こういうなかで、声優やナレーターといった職業が発達した。そして声の仕事をしたいと思ったら、そのような専門学校に行くことになる。
朗読会が開かれることがあるが、ほとんどがアナウンサー、声優、ナレーターといった「声の仕事」をしている人であり、それはまた放送やメディアの人々でもある。まれに役者が朗読をしていることがあるが、それでも放送の人たちの朗読イメージに引きずられていることが多い。
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2010年8月2日月曜日
朗読の快楽/響き合う表現 Vol.29
それがわかったとき、現代朗読の方法論がピタッと定義され、定着した。朗読は文章を人に伝えるためだけに行なうのではない。また、自分自身の優位をリスナーに誇示するために行なうのでもない。文章を読み上げるという行為を通して、自分自身を伝えるために行なうのだ。
その方法論を検証するために、現代朗読ゼミではさまざまなエチュードが試されたし、いまも試されている。人が書いた文章をだれかが読みあげるとき、どんなことが起こっているのか。なにが伝わっているのか。どう伝わっているのか。それを聴いている人はどうなるのか。
朗読表現に関するこのようなつぶさな検証が、現代朗読協会以外でなされているという話は、あまり聞かない。海外生活が長かった複数の人から、欧米ではコンテンポラリーな表現の朗読会がかなり頻繁に開かれているのに、日本ではそういうものはまったく見かけないといわれた。
いくつかのライブやスタジオでのパフォーマンス映像をYouTubeで公開しているが、その映像を見て興味を持ったという人は多い。いままででもっとも反響が大きかったのは、野々宮卯妙による「メニュー朗読」だ。これを見てやってきたという人が何人もいる。
これは国立の〈クレイジージャム〉というライブハウスでやったパフォーマンスの記録映像だ。クレイジージャムでは毎月、オープンマイクという方式の飛び入り演奏日を設定していて、これに「朗読でもいいか?」といって申しこんでみたのだ。他流試合的な気持ちもあった。
このときの模様は全演目がYouTubeで公開されている。窪田涼子、野々宮卯妙らが出演者だ。それぞれの演目がおもしろくやれたのだが、いつもは音楽演奏ばかりのところに現代朗読が殴りこんだのが目新しかったのだろう。観客は少なかったがとても反応はよかった。
マイクを占有できる予定の30分を終わったら、思いがけず「アンコール」が来たのだ。うれしかったが、音楽演奏ならともかく、朗読でアンコールなんて聞いたことはない。当然私たちもアンコール演目など準備していなかった。そこで私たちは苦肉の策に出た。
それが「メニュー朗読」だった。クレイジージャムの店のメニューを、最初から全部読んでしまおう、というものだ。野々宮卯妙が読み、私がそれに即興的に音楽をつけた。わざと古臭い「朗読」っぽく、感情たっぷりにやるように、大げさなベタベタの音楽をつけた。
野々宮も私の意図を即座に理解し、ベタベタの朗読を披露した。めちゃくちゃに受けた。その模様をそのままYouTubeに公開してある。それを見て、「朗読ってこんなんでもいいんだ」とか、「こんなに楽しいんだ」と感じて協会にやってくる人がけっこういたのだ。
もちろんそれを見て顔をしかめる人は多いだろう。実際、現代朗読に拒絶反応を示す人は多い。とくに伝統的な(といってもだいたいは放送技術にのっとった、という程度なのだが)朗読をまじめにコツコツとやってきたような人からは、嫌悪感を示されることが多い。
※Twitter連載中
その方法論を検証するために、現代朗読ゼミではさまざまなエチュードが試されたし、いまも試されている。人が書いた文章をだれかが読みあげるとき、どんなことが起こっているのか。なにが伝わっているのか。どう伝わっているのか。それを聴いている人はどうなるのか。
朗読表現に関するこのようなつぶさな検証が、現代朗読協会以外でなされているという話は、あまり聞かない。海外生活が長かった複数の人から、欧米ではコンテンポラリーな表現の朗読会がかなり頻繁に開かれているのに、日本ではそういうものはまったく見かけないといわれた。
いくつかのライブやスタジオでのパフォーマンス映像をYouTubeで公開しているが、その映像を見て興味を持ったという人は多い。いままででもっとも反響が大きかったのは、野々宮卯妙による「メニュー朗読」だ。これを見てやってきたという人が何人もいる。
これは国立の〈クレイジージャム〉というライブハウスでやったパフォーマンスの記録映像だ。クレイジージャムでは毎月、オープンマイクという方式の飛び入り演奏日を設定していて、これに「朗読でもいいか?」といって申しこんでみたのだ。他流試合的な気持ちもあった。
このときの模様は全演目がYouTubeで公開されている。窪田涼子、野々宮卯妙らが出演者だ。それぞれの演目がおもしろくやれたのだが、いつもは音楽演奏ばかりのところに現代朗読が殴りこんだのが目新しかったのだろう。観客は少なかったがとても反応はよかった。
マイクを占有できる予定の30分を終わったら、思いがけず「アンコール」が来たのだ。うれしかったが、音楽演奏ならともかく、朗読でアンコールなんて聞いたことはない。当然私たちもアンコール演目など準備していなかった。そこで私たちは苦肉の策に出た。
それが「メニュー朗読」だった。クレイジージャムの店のメニューを、最初から全部読んでしまおう、というものだ。野々宮卯妙が読み、私がそれに即興的に音楽をつけた。わざと古臭い「朗読」っぽく、感情たっぷりにやるように、大げさなベタベタの音楽をつけた。
野々宮も私の意図を即座に理解し、ベタベタの朗読を披露した。めちゃくちゃに受けた。その模様をそのままYouTubeに公開してある。それを見て、「朗読ってこんなんでもいいんだ」とか、「こんなに楽しいんだ」と感じて協会にやってくる人がけっこういたのだ。
もちろんそれを見て顔をしかめる人は多いだろう。実際、現代朗読に拒絶反応を示す人は多い。とくに伝統的な(といってもだいたいは放送技術にのっとった、という程度なのだが)朗読をまじめにコツコツとやってきたような人からは、嫌悪感を示されることが多い。
※Twitter連載中
2010年8月1日日曜日
ウェルバのミーティング、デリヘイとの営業(?)ライブ
昨日。
名古屋へ。新幹線がゲロ混み。なぜ? 指定席が「A」だったのだが、横浜から「B」と「C」にも乗りこんできて、3列シートの窓側席はどん詰まりとなる。トイレにも行けやしない。
昼前に名古屋駅着。地下鉄で今池へ。ココスレストランというファミレスに行き、ウェルバ・アクトゥスのメンバーと制作ミーティング。昼食を兼ねて。11人が参加してくれた。
今後のワークショップとミニライブのスケジュールの話を詰める。また、来週7日に豊明の文化会館小ホールでやる公開ワークショップのことなども。
なかなかワークショップ参加者が思うように増えないのと、既存メンバーもいろいろとスケジュールが重なって思うように出られない、いまの状況をどうすればいいか、という悩みも皆さんから出されたが、私はこれについては非常に明快な答えを持っている。それについては、近いうちに詳しく明らかにする。
ミニライブの企画で、来月9月は11日にやることになっている。つまり「911」なのだ。特別なプログラムを用意することになった。これから手早く準備する。
16時、解散。
みんなと別れ、私は位里・デリヘイに車で迎えに来てもらって、そのまま夜のライブの会場へ。名古屋では老舗のフランス料理店で開催される広告業界若手の人たちの集まりへ。
簡単にリハーサル。楽器はピアノのみだが、なかなか状態のいいグランドピアノがあって、電子楽器などなくても充分だ。
浴衣パーティーとのことで、私もデリヘイも浴衣に着替える。浴衣を着たままピアノを弾くのはとてもやりにくい。
18時から客が来はじめて、まずは私ひとりでピアノを弾く。こういう「BGM」的な演奏サービスは、かつてよくやっていたものだが、最近またやる機会がつづいている。「朗読とマジックのある食卓」とか。おもしろいのは、こういうシチュエーションでいくら「前衛的」「芸術的」に力を入れて弾いたとしても、だれもそれに耳をとめてくれないことだ。お客は最初から「BGM」としてとらえていて、それがどれだけアーティスティックな演奏であろうと、そのようには認識しない。それが人間だ。
逆に、シチュエーション(コンサートホールやライブハウスなど)を整えた場所で演奏すれば、それがかなり平凡な演奏であっても、聴衆からはそれなりの拍手をもらうことができる。
デリヘイとのライブは20時前から。5曲と、アンコール1曲をやる。大変受けがよく、デリヘイも私も気持ちよく演奏できた。ん? これもシチュエーションのためか?
21時半ごろ、解散。
ふたたび車でホテルに送ってもらう。
疲れた。眠い。缶ビールを一本飲んで、すぐに寝てしまった。
名古屋へ。新幹線がゲロ混み。なぜ? 指定席が「A」だったのだが、横浜から「B」と「C」にも乗りこんできて、3列シートの窓側席はどん詰まりとなる。トイレにも行けやしない。
昼前に名古屋駅着。地下鉄で今池へ。ココスレストランというファミレスに行き、ウェルバ・アクトゥスのメンバーと制作ミーティング。昼食を兼ねて。11人が参加してくれた。
今後のワークショップとミニライブのスケジュールの話を詰める。また、来週7日に豊明の文化会館小ホールでやる公開ワークショップのことなども。
なかなかワークショップ参加者が思うように増えないのと、既存メンバーもいろいろとスケジュールが重なって思うように出られない、いまの状況をどうすればいいか、という悩みも皆さんから出されたが、私はこれについては非常に明快な答えを持っている。それについては、近いうちに詳しく明らかにする。
ミニライブの企画で、来月9月は11日にやることになっている。つまり「911」なのだ。特別なプログラムを用意することになった。これから手早く準備する。
16時、解散。
みんなと別れ、私は位里・デリヘイに車で迎えに来てもらって、そのまま夜のライブの会場へ。名古屋では老舗のフランス料理店で開催される広告業界若手の人たちの集まりへ。
簡単にリハーサル。楽器はピアノのみだが、なかなか状態のいいグランドピアノがあって、電子楽器などなくても充分だ。
浴衣パーティーとのことで、私もデリヘイも浴衣に着替える。浴衣を着たままピアノを弾くのはとてもやりにくい。
18時から客が来はじめて、まずは私ひとりでピアノを弾く。こういう「BGM」的な演奏サービスは、かつてよくやっていたものだが、最近またやる機会がつづいている。「朗読とマジックのある食卓」とか。おもしろいのは、こういうシチュエーションでいくら「前衛的」「芸術的」に力を入れて弾いたとしても、だれもそれに耳をとめてくれないことだ。お客は最初から「BGM」としてとらえていて、それがどれだけアーティスティックな演奏であろうと、そのようには認識しない。それが人間だ。
逆に、シチュエーション(コンサートホールやライブハウスなど)を整えた場所で演奏すれば、それがかなり平凡な演奏であっても、聴衆からはそれなりの拍手をもらうことができる。
デリヘイとのライブは20時前から。5曲と、アンコール1曲をやる。大変受けがよく、デリヘイも私も気持ちよく演奏できた。ん? これもシチュエーションのためか?
21時半ごろ、解散。
ふたたび車でホテルに送ってもらう。
疲れた。眠い。缶ビールを一本飲んで、すぐに寝てしまった。
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