2010年8月15日日曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.41

話を名古屋の「Kenji V」に戻す。実際に稽古にメンバーが出てこれなくて、まともな稽古ができないことがある。そういうとき、どうすればいいか。無理に首根っこをつかまえて引っ立ててくるわけにはいかない以上、メンバーが揃わないことを想定しておくしかない。

メンバーが揃わない稽古でもやれることはいくらでもある。逆にメンバーが無理をして揃った稽古で失ってしまうことは多い。揃わなくても、積極的な気持ちで出てきた者がなにかを作っていく。それが次回稽古のときに欠席者にも伝わっていく。稽古に出たい気持ちが増していく。

それでも稽古が充分におこなえず、ミニライブの成立自体があやぶまれるときにはどうすればいいか。その場合はライブを取りやめることになるだろう。それでいいのか? いいのだ。私たちが作るのは共感を共有する場としてのライブだ。成立させるための参加者の希求が必要だ。

その希求が場を成立させるに満たなかったら、そもそもライブは成立しない。おおげさに考える必要はない。そもそもそうなったとして困る人も死ぬ人もだれもいない。私たちはだれかが困らないようにやっているのではなく、みなの望みがあるからやっているし、成立するのだ。

それは年末に予定されている大規模な公演についてもいえることだ。今年の12月上旬に、名古屋の芸術文化センターの小ホールで4回公演をおこなうことが予定されている。その規模を想定したシナリオも準備しているし、出演者もある程度の人数を予定している。

もしその公演を成立させたいという皆さんのニーズが集まらなければ、公演は流れるだけの話だ。だれにも義務はないし、責任はない。しかし、皆さんのニーズが集まって公演が成立したときには、そこはすばらしい場となるだろうし、おこなわれるパフォーマンスも期待できる。

なにしろだれひとり義務感でやっている者はおらず、全員が自分のニーズにもとづいて自発的に場に参加しているわけなのだから。そのとき、ひとりひとりの潜在能力が最大に発揮され、それらが集まって相乗効果をあげ、おそらく私ですら想像できないようなことが起こるだろう。

次になにが起こるかわからない、それが現代朗読の方法であり、コンテンポラリー表現というものだろう。次になにが起こるか予定されていること、準備されていること、準備どおりになぞろうとするのは、旧来の表現であるが、生きた私たちの交流はそのようなものではない。

と、私と、私たち現代朗読の仲間がやってきた道のこと、発見したこと、おこなったこと、そしていまおこなっていることを長々と語ってきた。私たちがおこなっているのは、旧来の「朗読」という「型」の内側から見れば、非常にわかりにくいものであることは自覚している。

また説明もしにくいものだ。なので、たくさん語ってきはしたが、十全に伝えられたかどうかというと、まったく怪しいといわざるをえない。おそらくこの文章を読んだだけでは多くの誤解が残ってしまうだろう。まだまだ書き足りないし、説明も不十分だと考えている。

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