2010年9月6日月曜日

ことばの世界、音楽の世界で起こっている大きな変化のこと

(以下の記事はあくまで私見であり、私が自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです)

ブームという言葉は使いたくないが、確実になにかが変わりつつあるようだ。
社会全体の価値観の話。
高度経済成長が終焉をむかえ、物質的豊かさが成長しつづけることは幻想であり、また罪悪ですらあると人々が感じはじめているいま、社会的価値観が変わっていくのは当然の帰結だろう。
中央より地方、物質的豊かさよりつつましさ、人工より自然、スピードよりゆったり。
テレビ番組で見たのだが、「標準語より方言のほうがいい」と答える人は、若い世代のほうが圧倒的に多い。そしてその割合も90パーセント以上になっている。
かつては恥ずかしいことだった「なまる」話し方も、いまは「かわいい」といって堂々と使われている。
朗読の世界では標準語イントネーションに固執し、そのまちがいに目くじらを立てる人がまだまだ多いが(もちろん高齢者層)、そんなことは全然本質的ではないし、つまらないことだと、私はずっといいつづけてきた。論点は多少ちがうが、このような流れのなかでつまらない価値観を捨ててくれる人が増えるといいと思う。

社内公用語を英語にする企業が出てきているが、これもまったく時代に逆行した流れであることがわかるだろう。
グローバル化という全体化の流れは、まだ大きな流れであるかのように見えるが、人間社会がそれで幸福になれないことはだれもが感じていることだ。英語公用語化で不幸な人が増えるばかりだろう。
英語は私たちにとっては母国語ではなく、グローバル言語という「道具」である。道具の使い方を学び練習するのはもちろん有用なことだが、それ「だけ」にしてしまうというのは日本全体の話し言葉を標準語だけに強要するような戦前や戦後直後の全体的な流れと同じことである。その流れのなかでは、ディテールやこまやかな心のふれあい、多様な思考・身体性といったものが失われていくだろう。結果的に企業も力を失っていくことになる。
母国語、そして地方の言葉を失ったとき、その人の世界観はフラットで殺風景なものとなる。

音楽の世界でも価値観の転換が起こりはじめている。
商業音楽の大きな流れのなかで、時代につれて流行したスタイルはあるが、気がついてみればいまや全世界が似たような音楽でおおわれている。日本もその流れに押しながされている。リズムはすべて2拍4拍に強拍を持つダンスビートだし、ビートは極端にブーストされたベースとドラムキックが受け持つ。そこにコードを受け持つギターかキーボードが乗る。
使いつくされたメロディラインは、すでにメロディメークをあきらめ、ラップに取ってかわられた。メロディが残っている曲もほとんどラップのようにしか聞こえない単調なラインしか持っていない。それをコーラスで取りつくろっている。その曲を非常に凝った映像やバックダンサーズなどでビジュアル装飾し、オーディエンスを無理やりノセている。ノセられているオーディエンスは麻薬のようなビートで思考停止におとしいれられた消費者である。

一部の人はそんな音楽シーンの不自然さに気づきはじめている。
すでにそんな商業音楽に背をそむけた人は増加の一歩をたどっている。そんな人たちはクラシック音楽やジャズ、そして日本にも古くからある美しいメロディの宝庫である童謡や唱歌を見直しはじめている。
いまの若い世代はほとんど童謡・唱歌を知らないが、一度聴けばその新鮮さに打たれるという(無関心な者ももちろんいるが)。ツイッターなどで情報が瞬時に共有されるいま、耳の肥えた音楽を熟知したオーディエンスのつぶやきに、若い世代が耳を傾けはじめている。
日本の童謡や、とくに明治期以降に成立した唱歌は、ジャズがそうであるように、独自の出自を持つ楽曲であり、いまも世界に通用する力のあるメロディの宝庫である。いままさにここに光があたろうとしていることを、私は確信する。