2010年8月12日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.39

自分が無意識に身につけてしまった余分なもの、社会的な関係のなかで道筋をつけられてしまった考え方や表現方法、思いこみ、そして自分と人の関係性のあいだで邪魔をしているもの。そういったものをすべて「引き算」としてなくしていく作業。それが現代朗読の方法だ。

もっとも、これはとても難しい。やってみればわかるが、私たちがなにをするにせよ、なにを読むにせよ、いかにさまざまな思いこみや、後天的な方法論に縛られているか、ということが問題だ。立ち方や歩き方ひとつとってみても、私たちは自分らしくはおこなっていない。

たとえば小学校に入ったとき、体操の時間で私たちが真っ先に教えられるのが「行進」や「整列」のやり方だ。だれもが覚えがあると思うが、行進の練習をするとき、かならずひとりやふたりは右手と右足、左手と左足が揃って前に出てしまう子どもがいたはずだ。

そういう子を教師はどう扱ったか。「正しい歩き方」をするように「指導」したはずだ。「正しい歩き方」とはつまり、右手と左足が、左手と右足が、交互に前に出る「西洋式軍隊歩行」の方法だ。また、子どもたちが体育館に集められ、床に座るとき、どのような姿勢を取ったか。

膝を立てて脚を三角形にし、それを両腕で抱えるようにする、いわゆる「体育座り」を教えられた。いまでも私は小中学校への公演に行くたびに、教師がこの姿勢を生徒たちに指示している場面を目にする。これは昭和35年に文部省からの通達で全校に広まった推奨姿勢である。

このように、私たちの立ち姿勢、座り姿勢といえども、なんらかの恣意的な「教育」がほどこされ、いまにいたっているということを、再認識してみる必要がある。このような「姿勢教育」「身体改革」「身体改造」は、いまに始まったことではなく、近代国家の原理なのだ。

これらの分析は、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に詳しい。朗読に限らず、みずからの自由を担保したなかでの表現をおこなっていくためには、まずはみずからがどのような不自由な監獄に閉じ込められているのか、ということの自覚/再認識からスタートする必要がある。

繰り返すがこの再認識の作業は大変な困難を極める。その実践/実験がいまの現代朗読協会であり、また名古屋ウェルバ・アクトゥスの制作現場であるといえよう。直近の経験を紹介しよう。今年のウェルバ・アクトゥスは12月に名古屋芸術文化センターでの公演を予定している。

ウェルバ・アクトゥスは劇団ではないので、参加者はその自由意志に任されている。毎月、ワークショップが開催され、12月の本公演に向けて準備が進められている。また、ワークショップそのものと本公演のプロモーションを兼ねて、毎回ミニライブが開催されている。

これまでのミニライブでは、去年の本公演の縮小版というか、オリジナル版である「Kenji V」という脚本が使われてきた。これまでに「まちの縁側MOMO」「鯔背屋」「ウェストダーツクラブ」「アクテノン野外ステージ」などで上演された。そのための練習が必要だ。

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