2010年8月11日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.38

去年の名古屋は、全6回のワークショップで大きな舞台の準備をし、本公演まで持ちこんでしまう、しかもまったくの舞台未経験者も多く混じっている、という意味では、私にとっても初の試みだった。一種の安全策として劇団クセックの役者や音楽家をメンバーに入れておいた。

そのおかげで成功したともいえるが、安全策を取ってしまったその一点が私には心残りだった。そして助っ人がいなくても、今年はワークショップ参加者だけで舞台が成立するのではないか、という確信があった。現代朗読の方法を純粋に使って試してみたいと思っている。

いま名古屋でおこなわれているのは、年末の大きな公演に向けての準備をかねたワークショップだ。去年から参加しているメンバーと、今年あらたに参加したメンバーが混じっている。そして参加者はまだまだ募集中だ。劇団クセックの役者たちは、今年は参加していない。

今年もやはり宮澤賢治のテキストを使う。去年も一部使ったが、今年は『銀河鉄道の夜』をメインテキストとして使用するつもりで、それを再構成し、私のオリジナルなテキストも加えて、ウェルバ・アクトゥスのステージとする。この「ステージ」も去年からは大きく変わる。

そもそも「ステージ」対「客席」という位置関係に私は疑問を持っている。もちろん、演者側とオーディエンスという立場の違いはあるのだが、そこに位置関係、とくに上下の関係を持ちこみたくないのだ。ではどうするのか。今年は芸術文化センターの小ホールが予定されている。

ここは幸い、客席もステージもすべてが可動式である。ステージを全部とっぱらってしまったり、客席の組み方を自由にアレンジすることもできる。これを利用し、演者とオーディエンスが一体となった「表現の場」「共感共有の場」を作りあげたいと、私は考えている。

そのときに演者に求められるのはなにか。なにかを作りあげ、仕組み、企んで準備されたものではなく、演者そのもののありのままの身体性がそこにあること、それがもっとも重要であると私は考えている。たとえば、あるテキストを「こう読もう」と決めるための稽古ではない。

朗読や芝居の舞台準備でおこなわれていることは、ほとんどが、「作りあげる」という足し算である。こう読もう、ここではこう身体を動かす、相手がこう来たらこのように受ける。すべてを決め、絶対に失敗しないように何度も稽古して、繰り返し段取りを確認する。

そうではなく、舞台に立ち、オーディエンスと相対し、自分のドキドキやわくわくを感じたとき、初めてどのように言葉を出したくなるのか、動きたくなるのかがわかるのではないかと思うのだ。このように読みたいという気持ちに逆らって、準備してきたように読めばどうなるか。

それは一種、自分に嘘をつくことになるのではないか。また、聴き手に対しても誠実さを欠いたものになりはしないか。自分の状態、相手の表情、さらにはその場の環境、雰囲気などによって大きく変化する(はずの)表現の方向性を、自由に変えていきたい。それが現代朗読だ。

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