2010年9月19日日曜日

仮想敵

なにかをがんばっておこなったり、だれかになにごとかを説明するとき、「仮想敵」を作ることがよくある。
スポーツのトレーニングをするとき、自分より強い敵を想定して、それを超える/やっつけようとイメージしてがんばる、という方法だ。たしかにそれは勝ち負けの世界では有効だ。
また「数字が出る」世界でも有効だ。
たとえば学校の試験、売り上げ、観客動員といった世界。これらは現在の自分の状況について数値化できるので、より上の数値を設定した仮想敵を作ることで、より大きな数字をあげる努力のためのモチベーションを持てる。が、数値化できない世界では?

表現の世界は数値化できない。観客動員や知名度や売り上げや収入を尺度にして表現者を評価しようとする向きがあるが、それは尺度をすり替えただけのことで、表現という行為を数値化することは、本質的にはできない。
表現の評価基準は世間や自分の外側にはない。自己の内部にある。
しかし私たちはなにかを数値化して評価し、自分の評価基準を世間や自分の外側に求めることをずっと教育されつづけてきたので、その考え方から抜けだすことはとても難しい。もちろん私もそのとおりで、自覚はしていた。が、文章の書き方にまでそれが現れているとは考えていなかった。

このところブログやツイッターで書く自分の文章に違和感を覚えることが多かった。また、私の文章に反発したり、嫌悪を表明する人がいた。そのことがずっと気になっていた。
原因が「仮想敵」であることに思いいたったのは、つい最近のことだ。そのことについて考えつづけている。

私は「現代朗読」というものを提唱し、従来の放送技術偏重型の朗読を変えようと努力している。朗読が「表現行為」であるという認識から、コンテンポラリーアートやコミュニケーション、身体運用、現代思想などを取りいれ、できるかぎり自由でなにものにもとらわれない朗読を考えてきた。それはまだ始まったばかりで、研究の余地はまだまだあるが、出発点としてはおもしろく、いまのところうまくいっているように見える。
この方法を多くの人に知ってもらいたくて、私はたくさんの記述をおこなってきた。そのとき、つい「仮想敵」を想定した書き方をしてしまっていたのだ。
私が無意識に想定していた仮想敵は「従来朗読」とでもいうべきものだった。つまり、これまでアナウンサー、ナレーター、声優、役者といった人たちが「放送技術」を中心におこなったり教えたりしてきた、そしていまもおこなったり教えたりしている朗読行為。これを無意識に想定していた。そのせいで、まじめに朗読の勉強をやっている多くの人を、文章のなかで暗に攻撃し、けなし、その価値を下げようとするかのように書いてしまっていたと思う。多くの人に不快な思いをさせてしまった。あらためておわびしたい。と同時に、私のこれまでの書き方は誤っていたと思う。

現代朗読は他のどの表現分野とも比較できるものではない。これまで日本ではまったくといっていいほどおこなわれてこなかった「言語音声表現」の、自由でコンテンポラリーな、すぐれた方法、それが現代朗読だ。それを従来の朗読と比較して論じること自体、まちがっていた。無意識に比較対象とすることで、従来からある朗読を「仮想敵」にしていた自分がいることに気づいた。今後、私は、仮想敵を想定することなく、ただ純粋に論じてみたい。これまで朗読について書いたものについても、すべて見直し、あらたに書きなおしてみようと思っている。
おそらく表現の世界に限らず、自分のなかで仮想敵を設定することほどつまらないことはない。それはものごとの見方を狭くし、自分自身を狭小で貧相な世界に閉じこめてしまうことになる。そのことを常に自戒しながら進んでいきたい。