たまたまその前日にそのごく近くでおこなわれたイベントに参加していたということもあったが、そればかりではない、丸一日この事件が頭から離れなくなってしまった。
亡くなったかたは本当に気の毒だと思うし、怪我されたかたには心からお見舞い申し上げたい。
とりわけ子どもたちが犠牲になったことについて心が痛む。
どうしてもかんがえてしまうのは、自分がその現場にいたらどうしただろうか、ということだ。
現場に居合わせておられた教頭先生がもし自分だったら、どうしただろうか。
たぶんなにもできなかっただろうと思う。
教頭先生の会見のようすを見たけれど、非常に厳しい状況にもかかわらず、懸命に子どもたちを守ろうとして動かれていたことは、心を動かされる。
しかしなにもできなかったご自分を責めておられるようだ。
にもかかわらず、もっとやるべきことがあったのではないかと非難めいたことをコメントする者もいる。
それもわかる。
しかし、もし自分が現場にいたら、ありふれた想像の及ばないような状況がそこにはあり、頭でかんがえるような空想的な行動を取れる人は、おそらくただのひとりもいないだろう。
そんなことを、その日の夜に参加した武術の講習会でまざまざと実感することができた。
毎週火曜日に昭島の駒井先生宅でおこなっている韓氏意拳火曜クラスでは、先日、私のリクエストに応じて、通常の稽古とはちがう内容でご指導いただいた。
登戸の殺傷事件を受けて、ナイフや包丁を持った暴漢がいたときになにができるかについて、いろいろ教えてもらったり、体験的に検証したりしてみた。
かなり勉強になったし、大きな気づきをいくつかいただいた。
刃物を持っている相手にたいしてうかつになにかできるなどと思わないほうがいいとはよくいわれることだが、それが本当にどういうことなのかを実証するシミュレーションを体験させてもらった。
その上でどのような戦略が立てられるのか、日頃どのようなことを心がけておけるのか、さまざまなシチュエーションをシミュレートしておくことは大切であることなど、多くのことを学ばせてもらった。
韓氏意拳の本道の稽古とはすこしそれた内容になったけれど、こういうことも大切だといって丁寧に付き合っていただいた駒井先生には感謝。
もちろん韓氏意拳をはじめとする武術の稽古がまったく有効ではないということではなく、まったく予想できない危機的なシチュエーションで、それでも自分がすこしでも能力を発揮するためには、日頃どんなことができるのか、そのような観点でも稽古しておくことが重要だということだ。
武術の稽古は、あるシチュエーションにおいて相手を圧倒することが有効だったり、あるいは健康法として役立ったりと、さまざまなねらいがあってもいいとは思うが、そもそも「武」というものがなぜ存在するのか、そのおおもとの部分から目をそらさない稽古が肝心だろうと、私は思う。
◎6月18日:国立・韓氏意拳初級&養生功講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を6月18日(火)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。