それは、
「こうしなさい/それはだめ」
という物言いをするかわりに、
「あなたはどうしたいの?」
という問いを常に表現者に向けつづけてきたことです。
それは自分自身にたいしてもおなじでした。
私は現代朗読の活動を「習いごと」にしたくなかったのです。
習いごとというのは、先生がいて、その先生のいうとおりに稽古します。
先生がお手本となり、そこからはずれたことは「だめ」。
先生が直接「ダメ出し」をすることもあれば、長年習っているお弟子さんがそうすることもあります。
慣れてくると、自分自身でそうすることすらあります。
一定の型や方法があって、そこから逸脱することは許されません。
私はその方法では、表現者ひとりひとりが実は無限に持っているはずの可能性をのばすのは難しい、と感じていました。
さいわい、私自身は朗読家ではないので、お手本を示すことはできません。
しかし、「こうしろ、ああしろ」というのは簡単です。
そうではなくて、常に「あなたはどうしたいのか」という問いを向けていきます。
やってみるとわかりますが、なにかを表現しようとするとき、「自分はどうしたいのか」に向かい合うのはとても頼りなく、心細いものです。
自分がどうしたいのかは、実際にやってみるまでわからないからです。
かすかに見える兆候/兆しのようなものを頼りに、とにかくやってみる、すると初めて、自分がどうしたかったのかがわかります。
先生に「こうしなさい」「こうしてはだめ」といわれているほうが、よほど楽です。
なにもかんがえずに、感じずに、そのとおりにすればいいのですから。
自分の行為の「根拠」は先生が示してくれます。
表現の根拠は自分の外部にあるのです。
私の方法だと、表現の根拠は、自分自身の内側にあります。
自分が示してくれる根拠はごくわずかな声であり、よほど自分自身をよく観察し、自分自身につながっていないと聞こえてこないのです。
現代朗読では音声表現だけではなくさまざまなボディワークや古典的な健康法、武術などから、自分自身を観察し、身体の声を聞く方法を試したり、取りいれたりしてきました。
その結果、朗読を表現としておこなうために有効なトレーニング方法をある程度確立できたのではないかと思っています。
この方法はまだまだ発展の余地があり、もっと先があるように思っていますが、現時点でもかなり有効であることがわかっています。
また、これは朗読表現だけでなく、ほかのさまざまな表現にも応用できますし、また日常生活のなかでもとても役立つと感じています。
私だけでなく、いっしょにトレーニングをした多くの人がそれを感じてくれたようです。
すべての人が表現者であり、また意図的に表現に取りくむことで日常生活のなかでも大きな気づきが起こるようになります。
私はこのことを推奨しているのです。
なぜなら、私自身がそれで気づくことが多く、毎日いきいきとすごし、人生を心底味わいつくすことができるようになったからです。
そのことを自分のものとして囲いこまずに、全部伝えつくしてからこの世をおさらばしたいのです。