あきらめるというより、割り切った感じで、自分では気持ちに区切りをつけたつもりでいました。
ところが、正直に自分に向かい合ってみると、なんとなく釈然としないというか、もやもやしたものが残っている。
そこに向かいあうのもなんとなく避けてきていましたが、先日のひと区切りの年齢である誕生日を迎えたことや、かつての仲間の表現活動の話を聞いたことがきっかけで、あらためてもやもやに向かいあってみることにしました。
こんなとき、共感的コミュニケーションをやっていてよかったと思えるのです。
自分のもやもやにきちんと向かいあい、ニーズにつながり、自分自身と深くつながります。
見えてきたのは、やはり私は若いころから一貫して表現の世界の住人であったということでした。
またその住まいもなんでもいいわけではなく、私独自の一定の形を持っているのです。
私の住まいは、小説などのテキストをふくむ「ことば」の世界、そしてそれを音声化したもの(朗読やオーディオブック)、またその音声化の過程そのものであるライブパフォーマンスの世界、そしてライブのなかに立ち働く人間の存在(身体)そのもの。
年齢を重ねるとともにこの順番で表現活動も広がってきたわけですが、そこへ幼少から楽しんできた音楽演奏の世界がクロスして、私独自の住まいを作ったと感じています。
小説家としての私からテキストが、そこから朗読、そして身体表現の世界へ羽ばたいていく。
そこへふたたび私自身がライブパフォーマーとして音楽演奏で参加する。
このステージ表現そのものが私の最終作品であるといっていいでしょう。
現代朗読協会がなくなったことがさびしいのではなく、そのようなステージ表現の世界から離れていることがさびしいのです。
そのことがはっきりわかったとき、私のもやもやは消えました。
ならば、ふたたび私がやりたいのは、現代朗読協会を作ることではなく、あらたな表現ステージに興味を持ってくれる人たちを集め、作品を書き、稽古し、演出し、そしてまたステージを作ることです。
こういうことに興味がある人がいるかどうかはわかりませんが、私はだれかがすでにやっているような表現には興味はないのです。
まだだれもやったことのないようなステージを作りたいのです。
そして、私自身をふくめて、自分も知らなかった自分に出会うスリルに興味がある人といっしょにしかやりたくないのです。
すでにいくつか作ってきた実績はあって、その片鱗はお見せすることも可能です。
でも、いまから思えば、それらはまだほんの卵にすぎなかったのです。
ほんとにやりたいことは、これから先にあるのです。