私自身は学生時代のアルバイトをのぞいて、会社に勤めたりだれかに雇われて働いたことはない。
バーテンダーのアルバイトからバンドマンとして独立し(いまかんがえてみればまさに独立したんだな、あれは)、カラオケブームのおかげでバンドマンで食えなくなったあとはピアノ教師をやり、そのあと職業作家になった。
いまはピアニストであり、小説家でもあり、現代朗読協会を主宰していたり音読療法協会をオーガナイズしていたり、養蜂をやっていたり(笑)するが、フリーランスであることに変わりなく、どこかから給料をもらっているわけではない。
「普通の生活」というと、学校を出たら就職して、毎月給料をもらい、結婚し、子どもを産み、ローンを組んで家を買う、みたいなフレームがいつの間にか人々の頭に刷りこまれ、実際にそのような人生を歩んでいる多くの人々によって大量消費社会が成立している。
しかし、そこからイチ抜けたり、そもそもそこに行かない生き方を選ぶ人もいるし、それがだんだん増えてきているように思う。
だれにも雇われない生き方をするためには、自分でなんとか生きていく手段を持つ必要がある。
昔は漁をしたり畑をたがやしたり、山仕事をしたり、自分ひとりの力で生きている人はいくらでもいた。
私の小説書きの生徒さんだった、タレントの清水國明のお父さんの清水栄馬さんは、マタギだった。
山の漁の話をたくさん聞かせてくれたし、書いてもいる(どこか出版しないかね。そのおもしろさは谷甲州さんのお墨付き)。
そんな昔の人でなくても、私のまわりにもたくさんいるし、増えてきた。
羽根木の家の横で手作りの帽子を荷車に乗せて売っていた女性がいた。
彼女はそれだけで生活していたし、そのやりかたを1、2年つづけて、自分の好きな熊本に移住する資金を作ってしまった。
いまは熊本で暮らしているはずだ。
いまもきっと、自分ひとりの力で生きているだろうと思う。
美大を出て、ゴム判子を手作りして、それだけで生活している女性も知っている。
受注が何ヶ月も先まで順番待ちで人気なのだが、自分の個展も時々開催したり、ワークショップもやったりする。
私のところでも何度かワークショップをやってもらったことがある。
先日偶然行った〈小春食堂〉というお店の瑞穂さんは、別のお店につとめていたが、夜だけ営業している居酒屋の昼の時間を借りて、もうひとりの料理人と共同でランチのお店をやっている。
日曜日は一日、彼女たちがやっていて、そのときはイベントをやったり、オープンマイクを開催したり、多く人が集まって愛される店になりつつある。
私も今度そこで共感カフェをやることになっている。
その共感カフェを主催してくれる萩岡真美さんもフリーランスで、メインはオイルマッサージを自宅でやっているのだが、フットワークの軽い人で、いろんなイベントをオーガナイズしたりファシリテートしたりして、たくさんの友だちがいるようだ。
私の共感カフェも、初対面で話しているうちに、あっという間に開催が決まってしまい、なかなか痛快だった。
その共感カフェに興味がある方は
こちらをどうぞ。
だれにも雇われないで生きていくためには、もちろん要件が必要だ。
・技術を身につけている
・ネットワークがあって情報発信ができる
・ストレス耐性が高い
技術はなんでもいいのだ。
手に職を、というとすぐに「資格が」という人がいるが、かならずしも資格を取る必要はない。
私の仕事であるピアニストも小説家も、資格はいらない。
帽子職人もゴム判子職人も料理人も、とくに資格はいらないだろう。
とにかく、なにか得意なことがあって、それを使ってだれかのために役に立つことができれば、それを生かせばいい。
ネットワークや情報発信については便利な時代になってきている。
これを利用しない手はない。
パソコン苦手だから、とか、ネットはこわい、などと毛嫌いするのではなく、利用できるものはフットワークを軽くしてやすやすと使いこなせばいい。
ストレス耐性は重要だ。
フリーランスにとってもっとも重要な要件がこれかもしれない。
定収入がなく、健康を損ねたら仕事もつづけられない、そういう不安な状況のなかにおいても、いきいきと自分の能力を発揮しつづけられる強いメンタルが必要だ。
しかし、これは身につけることができる。
共感的コミュニケーションや音読療法が役に立つだろう。
自分で自分の必要なもの(食料、衣服、家など)を作ってしまう人も多い。
必要なら学校だって作ってしまう。
ものを作って売ることで生活する人、ものを加工したり修理することで生活する人、表現したりなにかを教えることで生活する人、人を集め学びの場を運営することを生業としている人、人を癒したり健康作りの手伝いをしている人、研究したりアドバイスを専門としている人、なにかを流通させることで生活する人、プログラミングやデザインを生業としている人。
人に雇われずに生きていく方法はいくらでもある。
あるいはだれかと組んだっていいのだ。
共感的コミュニケーションや音読療法そのものを仕事にしてしまうこともいいのではないか。
まだそれを仕事としておこなっている人はまだほとんどいない。
だからこそ大きなチャンスがある。
もっとも、前人未到だからこそ、集中力が必要だ。
自分の持っている能力をすべてそこにつぎこんでこそ、フリーランスが成り立つのであり、だれにも雇われない生き方ができるのだ。
適当に手を抜いて山仕事をしているマタギなんていないでしょ?