2020年6月25日木曜日

essay 20200625 音楽の聞き方

昨日は友人がやってきて音楽の話ができた。
友人は私の音楽の話と、残り時間について話をしながら、私のために泣いてくれた。

ある人間がそれをなぜ行ったのか、と言う事はなかなか他の人に教えることができない。
ましてや本人ですそれをなぜ自分が行ったかを明確に説明することは難しい。
たとえそれがどんな所業であれ、その時それを行っている本人にとってはそれはベストのことなのだろう。
後になって人からいろいろ批判されたり、本人すら後悔したり、自分の行いを打ち消してしまいたくなったりする事はしばしばある。

ある音楽を聞いたとき、それを素晴らしいと感じることがある。
そして、なぜこの音楽がこれほど素晴らしいのだろうと知りたくなることがある。
しかしその時すでに自分自身はその音楽をすばらしいとすでに「感じて」いるのであり、それ以上なにかを分析的に聞く必要は無いのではないか、もうすでに何かを十分に感じているのだから。

海津賢くんが、最近の私のピアノ演奏を聴くにあたって、そんな話をしてくれた。

私はただここに生きていて、何かを感じるままにただ純粋に音を奏でる。
それはそのままあなたに届き(いい時代だ)、あなたはただそれを受け取る。
様々なイメージが伝わるかもしれないし、伝わらないかもしれない。
そこに何かが生まれ、何かが伝わり、何かを感じてもらうことができたら、それは私にとっての祝祭の時間となる。

体に聞いてみる。
今日は演奏ができそうかな?
少しできそうだ、と私が答えている。



From editor


隠されていたものが暴かれると、嘘やごまかしが消えて、軽くなる。

芭蕉もそうだったように、「軽み」が到達点だと今の私は思っている。