2020年6月29日月曜日

essay 20200629 つくりたかった場が現実に

オンラインとリアルミーティングのミックスした朗読ゼミを開催した。
私が介護ベッドで寝たり座ったりしているその脇で、みんなは通常の朗読ゼミを自発的に開いてくれた。

生惠さんははるばる名古屋から新幹線で来てくれた。
リアルでおたがい初めて会う人もいる。
みんながいろいろおいしいものを差し入れてくれた。

ゼミの後半ではそれぞれ読みたいものを持ち寄って、私にそれぞれ聞かせてくれた。

10年以上前から参加してくれている矢澤ちゃんとふなっちが語ってくれたゼミの感想が嬉しかった。
——お互いの気づきの伝え合いにしても、なにげないコミュニケーションにしても、社会的評価を基準にしたものではなく、おたがいの顔が見える思いやりをもったコミュニケーションがベースになっている。それが自然にこの場で実践されている。

言われてみればたしかにそのとおりだ。
今の現代朗読ゼミは、共感的コミュニケーションが自然にベースに定着している。
私もこの場にいることが、安心できる。
長年かけてそういう場に育ててきたことを、あらためて古参のゼミ生の口から聞いて、確信できた。
昨日もおたがいに朗読を聞きあったり、なにげない美味しいものの話をしたり、そういったコミュニケーションの場が、本来はゼミという勉強の場であるはずなのに、どれほど楽しそうなことか。
またみんなに会えることを、心から待ち望んでいる。




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昨日はそんなふうにとても楽しい一日でした。
今日は朝から吐き気があると言いつつも演奏をし、散歩にも行きましたが、午後になって嘔吐し、止まらないので、点滴をお願いしました。
看護師さんに点滴をしてもらいながらも最初のうちはまだ吐いて、食べたり飲んだりできると吐くものも多くなる、という悲しい図式を見ました。
ごくごくわずかながらも食事を用意できることのありがたさを思い、台所に立つことを愛しく思っています。

2020年6月28日日曜日

久々のリアル現代朗読ゼミ

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今日のessayはおやすみです。

自粛解除もあって、久々にリアル参加OKの現代朗読ゼミをおこないました。
オンライン参加の人たちと一緒に、現代朗読ルーティンワークをやり、エチュードは久々のリアルならではの「お経朗読」を。
歩く瞑想にお経朗読を組み合わせると、練習方法としては最強の部類になります(Mari基準)。
後半の一人読みでは、ベッドにいる水城さんからダイナミックな指導があり、目の前で微細な変化が起こるのを見られるのはリアルならではの楽しみでした。

ゼミ終了後はこれまた久々のみんなでのランチ。
ユウキさんがビーツやキャロットラペを手作りして持ってきてくれ、他の人たちがバケットなどを買ってきてくれて、手作りサンドイッチをわいわいと。オンライン参加のかなえさんからはエリカのチョコレート♡が届き、亜希子さんからはクッキー、名古屋からかけつけたいくえさんからは両口屋是清のお菓子、とプレゼントでテーブルの上はあふれんばかり。
水城も久々の生ハムやカマンベールチーズを味わい、喜んでいました。
つい無農薬野菜や薬草などに偏っていましたが、本人は肉や揚げ物が大好きで、体調も良くなるようなので、ただいまタンパク質増量月間です。
ランチ終了ごろ、女優で「放浪記」「こころ」など長編オーディオブックを録った仲間である岩崎聡子がかけつけ、また賑やかになりました。

水城は終始ベッドでしたが、みんなの笑い声を聞きながら、ユウキさんといくえさんにマッサージをしてもらっていました。
ひとりひとりが、名残を惜しみながら帰って行きました。
今日の水城は痛みもいつもよりは強かったようで、疲れもしたと思いますが、しあわせだったと思います。

←昨日散歩中の水城

2020年6月27日土曜日

essay 20200627 奇跡

絶望的につながりを絶たれた人と、再びつながりを取り戻すための奇跡のような対話を、日々経験している。
「奇跡」というような言葉は軽々しく使いたくないが、私にとってはそうとしかいいようのないまばゆい体験だった。

私はただ最初、相手から責められ、攻撃され、ののしられ、生きた心地もないような思いをしていた。
そんな私に手を差し伸べ、寄り添ってくれる人がいた。
ただただ無言で私に共感し、私もその共感をただ橋渡しするだけかのように相手に向けていた。
すると不思議なことに外に向けられていた相手の怒りや攻撃も、やがて自分自身への共感に変わり、一見私が何もしていないように見える中で不思議なことに対話の質が変わり、攻撃は思いやりへと変わった。

私は泣いていた。
私への深いつながりと、そこで起こった奇跡のようなできごとに驚いて。
私の困難な関係に関わってくれている全ての人に、心から感謝したい。
私は今、限りある未来への希望を抱いている。



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😊


🙌 共感トランプ

2020年6月26日金曜日

essay 20200626 必要

子供の頃は給食袋というのがあって、決まった日に親から現金をもらって学校に持っていった。
なんらかの事情でそれを払えない子どもがいた。

人生の最終盤になって直面するのも、結構お金の問題だったりする。
高額医療や差額ベッドの問題など。
自分にとって何が必要なんだろうか、ということに直面すると同時に、逆に自分はどのように必要とされているのだろうか、と言う問題が突きつけられるような気にもなる。

せめて朗らかにすごせたらいいと思う。
しかし、気詰まりなのは、痛み。
痛みと気詰まりなく過ごせたら良いのにと思うのだが、なかなかそうもいかない。
これはなかなかの至難の業。




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毎日が奇跡の連続で、それでいて静かな生活が続く。
NVCがなかったら、どうやってこの難局を超えていけるのか想像もつかない。
ときどき休息が必要だなと思うし、朝起きられなかったりもするけれど、なんだかじわじわと体の内側からの変化が表面に出始めているような、そんな気もする。
明日はどんな日になるだろう。

(去年見た、サーフィンでPTSDを治療するという動画で、医師が「明日の波のことを考えるとき、もう死ぬことは考えてない」と言っていて、激しく首肯した。今ここに意識をもちながら明日のことを考える、人間はそんなすごいことだってできるのだ)

2020年6月25日木曜日

essay 20200625 音楽の聞き方

昨日は友人がやってきて音楽の話ができた。
友人は私の音楽の話と、残り時間について話をしながら、私のために泣いてくれた。

ある人間がそれをなぜ行ったのか、と言う事はなかなか他の人に教えることができない。
ましてや本人ですそれをなぜ自分が行ったかを明確に説明することは難しい。
たとえそれがどんな所業であれ、その時それを行っている本人にとってはそれはベストのことなのだろう。
後になって人からいろいろ批判されたり、本人すら後悔したり、自分の行いを打ち消してしまいたくなったりする事はしばしばある。

ある音楽を聞いたとき、それを素晴らしいと感じることがある。
そして、なぜこの音楽がこれほど素晴らしいのだろうと知りたくなることがある。
しかしその時すでに自分自身はその音楽をすばらしいとすでに「感じて」いるのであり、それ以上なにかを分析的に聞く必要は無いのではないか、もうすでに何かを十分に感じているのだから。

海津賢くんが、最近の私のピアノ演奏を聴くにあたって、そんな話をしてくれた。

私はただここに生きていて、何かを感じるままにただ純粋に音を奏でる。
それはそのままあなたに届き(いい時代だ)、あなたはただそれを受け取る。
様々なイメージが伝わるかもしれないし、伝わらないかもしれない。
そこに何かが生まれ、何かが伝わり、何かを感じてもらうことができたら、それは私にとっての祝祭の時間となる。

体に聞いてみる。
今日は演奏ができそうかな?
少しできそうだ、と私が答えている。



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隠されていたものが暴かれると、嘘やごまかしが消えて、軽くなる。

芭蕉もそうだったように、「軽み」が到達点だと今の私は思っている。

2020年6月24日水曜日

essay 20200624 受け取っている

昨夜はオンラインの現代朗読ゼミだった。
ひどい体調不良だったり、出られても途中うとうととしてしまったり、心残りのある状態が続いていたのだが、昨夜は最初から最後まで皆さんとゆっくりお付き合いできた。
もちろん、快調と言うわけではなかったのだが、私の参加をゼミ生たちも喜んでくれて、そのことを逆に私は大変ありがたくうれしかった。

自分がそこにいることを誰かが喜んでくれる。こんなにうれしいことはない。
特に人になにかして差し上げられることがどんどんなくなっていくことを実感しているようなときは、それがとても貴重な時間となる。

逆に皆さんからいただくものは日に日にどんどん増えていく。
この文章も、いただいた飲み物を飲みながら書いている。
酒粕で作った甘酒だが、甘さが優しくて、ひと口ごとに体に染み渡るような気がする。
せつ子さん、いつもいつもありがとう。

ちょっと飲みにくいけれど、わざわざ自分の手で摘んだ薬草を積んで届けてくれる人もいる。
かねごん、ありがとう。

私への小言だって私への思いがなければできないことで、ありがたく受け取っている。
私にできるのは、できるだけ体調に留意し、誠実に正直に、真っ暗な野原を手探りではい進んでいくことだろう。
どこにゴールがあるのか、それは私にもわからない。



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「毎日なにもしてないのに疲れるのは年だからだろうか」と言ったら、「何もしてなくないからだよ!」と言われた。そりゃそうだ。
でも、とくに何かをしている感じがしない。その手応えのなさが、生活なのだろう。
不要なことをしていない、ということかもしれない。
(……と思いたい(笑))
水城もきっと、自分は何もしていないと思っているのではなかろうか。
でも、休むこと、治すこと、動くこと、水城には毎日やることがいっぱいだ。
それらすべてが今はこの演奏と短文に集約されていく。
昨日から酸素吸入の処方が追加になり、チューブを鼻に入れた姿はどこから見ても病人の態だが、それが「動く」を助けてくれることを切に願う。

2020年6月23日火曜日

essay20200623 生きていいということ

音楽について何か書こうとするとき、あるいは演奏しようとピアノの前に座った時、必ず思い浮かぶものがある。
20年来同じ機種のピアノを弾き続けているのだが、そのエコノミータイプのデジタルピアノの端っこに小さなガラスのコップに植え替えられた花束が置いてある。
いつかだれかにもらったものだ。
いまこの瞬間は私のピアノの上には存在しないけれど、弾こうとすると必ず目の前にそれが浮かんでくる。あたかもまるでそこにいまあるかのように。

私の虚偽の人生が私の音楽をもそうしてしまったことは、自分自身がいちばんよく知っている。
贈答用に作られた大量生産の切り花も、自分自身それを知っているのだろうか。
そんなはずはない。

私の本や文章の中にも、嘘偽りのないものは紛れ込んでいる。ただ、それをどうやって正直に丁寧に取り出せば良いのかわからないだけだ。

これまでに何度も何度もピアノが弾けなくなり、実際にやめてしまったこともあるけれど、私の古ぼけたデジタルピアノの上にはずっと小さな花束が載っていた。
自分に不誠実で、嘘偽りのある音楽を作っていたときも、その中に本当の美しい音が潜んでいることをずっと見ていてくれた人が、たったひとりある。
私の古いデジタルピアノの上に乗っている小さな花束。
私をここまで連れてきてくれた。

小さな花束には名前が付いている。
まり。

私がピアノを弾くこと、文章を書くこと、生きていること、それらを許されていることにいつもいつも気づかせてくれた。君がいなければ私はここにいない。




2020年6月22日月曜日

essay 20200621 ありのまま、変化

何もかも思い通りにいくとは行かないけれども、自分をありのままに開いて生活していると、物事は思いがけない方向に向かっていくこともある。
ただただありがたい。
私たちはただありのままに生かすことを許され、またその正直さの中に自分の喜びがあり、許しも楽しみもまたそこにあるのだろう。

雨もまたそこに降り続ける。
日もまたそこに照りつける。
痛みもまたそこに生まれ、しかし永遠に続く事はない。



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今日の最高気温は21度、寒い日がつづく。
水城は雪国出身ながら(だから?)寒いのが超絶苦手なうえ、冷え性で、今は感覚が過敏なこともあり、調子が悪いようだ。
そういえば昔ゼミ生たちで、けっこう高価な足を温めるグッズを贈ったが、めんどくさいと言って滅多につけてくれなかった。今は、人にいただいたお腹の温めグッズを寒い時は毎日頻繁に使って、ありがたいなあと言う。からだの声が聞こえるようになって良かったと思う。

2020年6月21日日曜日

essay 20200620 夏至の光景

夏至。
雨上がり。快晴。
日曜日のせいか、車の通りが少ない。
いつも大学通りで遊んでいるハシボソガラスの姿は今日はなし。

面白いことを発見。
聞いてもらいたいこと、読んでもらいたいことが頭の中に溜まってくると、外に出かけたくなる。
いつもいつも出かけられる余裕があるとは限らない。天気もいつも良いとは限らない。
出かけていてもいつもすらすら書けるといいんだけど。

日差しは強いけれど、気温は低くて湿り気を帯びている。
子ども連れの家族が多く散歩している。
みんな気軽に口述筆記している。
んなわけないか。


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ようやくピアノの前にたどり着いたのに、痛みがひどくて弾けない。
しばらく休んで様子を見る。
「いまのタミーちゃんはどんな色、どんな形? 大きさはどのくらい?」
タミーちゃんは水城の痛みの名前だ。
黄土色だったり濃い茶色だったり、オレンジ色だったり。それが薄いピンクになると相当痛いのだそうだ。
丹田あたりでぴくぴくしていたり、ぐーっと硬く小さくなったり。輪郭がぼんやりすることも。
水城はいま、嫌いで逃げ回っていたタミーちゃんと仲良くなろうとがんばっている。タミーちゃんが水城に扉を開いてくれるように。
ずいぶん長く逃げ回ってしまったので相当拗ねているだろうけれど、水城がたどり着くのをタミーちゃんがどうか待っていてくれますように。

2020年6月20日土曜日

essay 20200619 こんなにいい天気なのに

病気になって、今日も一日、クリアに晴れ渡った良い天気になるだろうことがわかる。
身体には痛みがたかまっている。
気持ちも重く、無理矢理奮い立たせようとしている気がして、それはもちろん自分の本心ではない。
周りを見回してみれば自分に誠実、正直に生きている人ばかりいるよ。
こんなにいい天気なのに、どうやれば楽になるのかばかりを考えている。

昨日は花農園に勤め始めた友人から、とても大きな花束が届いた。
迫力があって、きれいであるばかりか、存在感がある。
花は切られてなお、今を精一杯咲き誇っている。
淀んだ苦しみの中で、正直に生きることができるのだろうか。

今日もまた車椅子にのせてもらい、散歩に連れて行ってもらうのがささやかな楽しみだ。


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自分に正直であること。
それが解放への道なのではないかと思いました。
解放されたい、でも解放できるのは自分だけ。
自分に正直であるかどうかがわかるのは自分だけ。
無防備であること、正直であることが、やっぱりなにより大事なんだなあと思います。

その探求を支えてもらう準備もできている、今できっと良かったのだろうと思います。
もうちょっと気づくのが早いと良かったかなあと思わないでもないですが。

2020年6月19日金曜日

essay 20200618 友と過ごす

差し入れにお願いしたモンブランケーキは、子供の頃のそれのようにしっかりしっかりした甘さがある。
洋菓子や和菓子にまつわるダーさんの楽しい思い出話を聞きながら、友達が見舞いに来てくれたことに私はうれしくて仕方がない。
それなのに体調がイマイチで、介護ベッドの上でうとうとしてしまう。
もっと話したいのに。

時間がもったいなくて、15分間だけ昼寝することにして、その後みんなで散歩に出ることになった。
パチンパチンとほっぺたを叩いて無理やりに目を覚まし、散歩に出かける。
涼しくて過ごしやすい。
それよりぽつりぽつりと小雨が降っている。
小雨だって楽しくてしかたががない。
散歩というよりも遠足の気分。

帰ってきてまたしばらくうとうしてしまった。
ダーさんは野々宮と何やら難しい話をして帰っていった。
来てくれてありがとう。昨日という日を新しく生きることができた。


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COVID-19拡大もあり、人と会うことがほとんどなかったが、5月下旬から訪問診療・看護が始まり介護保険も利用するようになって、頻繁に人が出入りするようになった。
何もしていないつもりでも、人がくればどんどん時間が過ぎていく。

島田さんと水城はなんだか妙に似ていて、彼の話を聞いていると水城の状況とシンクロしていることもよくあって、昨日も驚くことしきり。
水城がうとうとしだして、ダーさんとふたり、「難しい話」(0か100しかない、扉は自分では開けることはできない、人に自由意志はない、等仏教に関する話題か、それとも他のか)をして、ダーさんは帰って行った。帰り際に水城に「じゃあ行ってきます」と言っていたのが可笑しかった。
どこにいようが、今が基点ならば、いつでも「行ってきます」ではあるね。

2020年6月18日木曜日

essay 20200617 ピアノのもとへ

階段の手すりに片手でつかまって、二階から一階のピアノの置いてある部屋まで降りていく。
手すりにつかまっていない方の手には、ピアノ収録用のソフトが入っているラップトップを持っている。

痛み止めがあまり効いていないときには、この移動はなかなか厳しい。
そして慎重派でもない自分が、慎重に手すりにつかまってバランスを崩さないように一歩一歩階段を降りていく。
痛みは呼吸と連動しているようで、一方進むために酸素欠乏のようになる。一方進むために息苦しくなって動きを止め、両手でどこかにつかまって呼吸を整える。そして少し動けるようになってからまたまたピアノに向かって歩く。

ピアノの前にラップトップを置き、オーディオインターフェースと接続し電源を入れる。
録音用のファイルを開き、セッティングを呼び出す。

昨日は椅子を変えた。
かなり低い椅子だったのでピアノ全体の高さも低くしなければならなかった。ピアノスタンドごとひっくり返し、危うく怪我をするところだった。こういう些細なことに気をつけないと、私のやりたい事はそこで永久に終わってしまう。

息を整え、頭の中を真っ白にしてから、録音ボタンを押し、おもむろに鍵盤に指を乗せる。
ただただ自分に正直に、偽りなく、醜い自分も、みっともない自分も、格好つけず、大きく見せようとせず、ただただ誠実に、まっすぐに表現する。
もちろんうまくいくとは限らない。うまくいかない方が多いくらいだ。でも私にできることは、うまくやろうとか上手に聞かせようと言うことではなく、ただただ自分がありのままにやれることをやるだけだ。
それで許されないと言うなら、それはそれでやむを得ないことだ。


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ピアノは私の足の上に落ちたのです。
それで水城さんの足はことなきを得ました。
なぜそのことは書かれないのだろう(笑)。

2020年6月17日水曜日

essay 20200616 車いすで散歩

まだ身体が普通に動く半年前までしばしば息抜きに行っていた喫茶店に、久しぶりに車いすで連れて行ってもらった。
車いすで近所まで散歩に連れて行ってもらうのはここ何日かの日課になっている。
体調がきつい時もそうでない時も、なるべく頑張って連れて行ってもらうようにしている。
蒸し暑い日もあれば、爽やかな日もある。
今日は日差しは強いが、気温も高くなく、風が気持ちよくて散歩には理想的だ。

車いすで行くのはもちろん初めてだ。
エレベーターも完備していて、バリアフリーの店だ。
ほとんど飲めなかったけれど、ロイヤルミルクティーの香りが贅沢だ。
お腹に強い痛みも出ていたので、長居はできなかったけれど、また行けるといいなぁ。

駅のロータリーの緑地帯の日陰のところで車いすを止め、行き交う人々をぼんやりと眺めているのも楽しい。
車いすではなく、自分の足で歩いていけるようになることが目標だ。
梅雨はまだ終わりそうにない。



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風がとてもとてもきもちよくて、いつまでも吹かれていたいと思う。
土の匂い、草や木の匂いをのせた空気のはためきは、少し湿っていて、肌のあたりも柔らかい。
日が当たるとじりっとして、陰に入るとひんやりする、その交互の感触、
車椅子のタイヤが、木の根っこが伸びて波打つ道路のタイルを乗り越えていく振動、
鳥の声。
生きていたいと思う。

応援ありがとう

水城を応援くださりありがとうございます。

昨日は贈り物がたてつづけでした。
「水城雄と仲間たち」名義で現代朗読ゼミ生やワークショップ参加者のみなさんたちから千羽鶴(いつの間に!)が届き、
三人の方からお花が届いて、ベッドの足もとはアレンジメントであふれました。
地元の方たちからも、白いあじさいと手作りのにんじんポタージュとパラダイス酵母、美生柑とフルーツトマトを届けていただきました。
ここにお名前は記しませんが、お心受け取りました。

昨夜は久々に、一度しか目覚めずに長く寝られたそうです。

毎日車椅子で散歩に出ています。
今朝は数ヶ月ぶりに、昨年朝の散歩がてら通っていた喫茶店に行きました。
ふだんおかゆやジュレなどが中心の食生活ですが、久々にトーストや紅茶を口にしました。
日差しは強くとも、風が実に心地よく、こんな日が続いてほしいと願わずにはいられません。

2020年6月16日火曜日

essay 20200615 問われている

その瞬間瞬間、正直で居続けられるのはとても難しい。
少なくとも、私にとってもとても困難を伴う。

小さな小さな不正直の積み重ねが大きな不正直、不誠実を作り出す。
自分ひとりではもうどうにもすることができない大きな塊となって、私は誰かに助けを請う。

あられもないみっともない姿となって私もすぐにひざまずく。
そこで問われるのもまた、どこまで正直で居続けられるかどうかということ。

蒸し暑い一日が終わり、不連続にやってきたのは、すごしやすい気温の、静かな風のある日。
空は薄い雲に覆われている。



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嵐の余波はまだまだおさまらない。美しい夕焼けを見たのに、彼がそこで終わりにしなかった。そこになんらかの意図・意味があるのではと穿ちたくなるのは当然だ。
数十年の澱が、見て見ぬふりをしてきた痛みが、死に際して頭上に降りかかってきたのだからしかたがない……のだけれど、呆れ、叫び、身をよじるのが当人だけで済まないのが酷すぎる。
絶望の前に、不正直もまた死に至る病なのではと疑う。
水城に正直さの言葉以外の表現手段があって、本当に良かった。この短い演奏が水城の生き方のリハビリであり、生き延びるための自己採点の試験のように見える。

2020年6月15日月曜日

essay 20200614 不思議だなぁ

皆さんから寄せられたピアノ演奏の感想を読んでいてふと目をあげると、もうずいぶん長いことそこにいけてあるランの花が目に入った。
ダーさんこと島田啓介さんから贈ってもらったものだ。
もうずいぶん長持ちしている。

目に入ったちょうどそのときも、ダーさんが書いてくれたピアノ演奏の感想を読んでいたので、不思議なシンクロを感じる。

こころの奥で起こっているたくさんの不思議なこと、世界で起こっている無数の不思議なこと。
宮沢賢治みたいに言えば、そんな不思議な世界の交流電燈の中で、また不思議な現象としてピアノの演奏が生まれ、うまくいけば皆さんのもとに届けられる。

不思議だなぁ。
フシギだなぁ。
ずっと一日、この同じ場所にいても、怒ったり、哀しんだり、喜んだり。
不思議だな。


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昨日は嵐のような、そして振り返れば凄まじくも素晴らしい一日でした。
ありえないことがおこり、関係性の修復が生まれ、つながりが立ち上がり、まさに compassionを生きた一日でした。
それは一人はもちろん、二人でも困難で、実際は六人いて、その六人が誰一人欠けても生まれなかった流れでした。

その人たちに見守られながら、水城は演奏しました。
誰かのためにではなく自分が弾きたいから、といって立ち上がるまでにはそれなりの時間を要しました。
緊張に満ちた演奏前。
演奏後は、涙と、愛の表現がありました。

人の人生にこれほどまでに緊張と愛(とおそらくは赦し)が行き交った一日があるとは、ふつう想像もできないだろうというほどの一日でした。いつか語れる日がくるのでしょうか……

この演奏の前後で大きな変化があったことだけは事実として、書き残しておきます。

6/16追記:20200613〜15のタイトルでアップしていたものを、実際の演奏日にあわせて20200612〜14に変更しました。

2020年6月14日日曜日

essay 20200613 麻痺に溺れないために

目が覚める。
朝なのか昼なのか、真夜中なのか、よくわからない。

真っ先にチェックするのは、思考がクリアかと言うことだ。
頭がクリアかどうかはすぐにわかる。何か物事を考えていても、あらぬ方向に考えが流出していく。放浪する。
これは病気でなくてもわかることだ。

最近気づいたのは、思考がクリアと言う部分の中に論理的思考と感覚的思考があると言うことだった。
いや、そういうふうに2つに分けるのもおかしいことかもしれない。私たちの脳は身体と一体となって絶えず働いている。それが統合されて平和に働いている状態を私はいつも望んでいる。しかしそういう時間はどんどん短くなっている。
それは仕方のないことだ。痛み止めの薬を大量に飲んでいる。薬を飲んでいてもずっと残っている疼痛が、感覚を鈍くさせている。

目が覚めてまず思うことは、何について考えたいのかな、どんなことを感じているのかな、と言うことだ。まさに生きていることそのものに対する感受性を立てていくことだ。

目の前の、介護ベッドの足もとに置いてある花瓶には、大きな花束と小さな花束がそれぞれ入っている。
それをくれた人のことを思う。その人のことを思い出すことができる。その人も多分私のことを思い出して私に花をくれたのだ。その人と話をしたいと思う。その人が今何を感じ何を思いやっているのか、ゆっくり話をしてみたい。
今日たった今の私の脳にあることはそのことだ。

昨日の夜中に録音したピアノ演奏を少し編集して、ブログにアップしてみよう。
その人が聞いてくれるだろうか。

 

From editor


今日も弾きたいと思う。それを聞いて、村山槐多が亡くなる直前に書いた「いのり」という詩を思い出す。

 生きて居れば空が見られ木がみられ
 画が描ける
 あすもあの写生をつづけられる。

  * * *

ひと月前の誕生日以来、みなさんがときおり花を贈ってくれます。
ベッド(の足もと)にはいつも花があります。
常に座位なので、足もとの花はいつも目に入るのです。

水城は昨年から、下腹部の痛みのために体を伸ばして寝ることができません。
座った状態で眠るうえ、痛みでまとまった時間を眠ることができませんでした。オキシコンチンの量がどんどん増えていきました。
5月下旬からはフェントステープという貼り薬が加わり、それから夜に(それなりに)眠ることができるようになったと言います。
食欲はさほどないのでエンシュアやおかゆ中心の食事です。合間に、楽しみとカロリーのためにプリンやゼリーを摂っています。
それが昨夜、アスパラの豚肉巻きを半本食べました。こんな食べ物は何ヶ月ぶりかというぐらいだったと思います。なにより食べてみようと思えたことに驚きと喜びがありました。
この仕事——演奏と短文が、力を与えてくれたと思いたい。

6/16追記:20200613〜15のタイトルでアップしていたものを、実際の演奏日にあわせて20200612〜14に変更しました。

2020年6月13日土曜日

essay 20200612 ピアノを弾く

半年ぶりくらいだろうか。鍵盤は冷たくて、予想していたのとは違ってややざらっとしている。

全然弾けなくなっているのではないかと思っていたのに、ゆっくりながらではあるけれども演奏ができたことがうれしい。やたらと涙が出る。

ほぼ明かりを消した夜の部屋のなかで、ふたりのオーディエンスが聞いてくれている。ふたりがスマホで私の半年ぶりの演奏を録音してくれようとして焦っているのが伝わってくる。

私は暗闇を味わい、肌寒さを味わい、体の痛みを味わい、自分の無力さを味わい、絶望と希望を同時に味わいながらただ弾きつづける。なにが本当の私のことなんだろう、なにが本当の私なんだろう。

私はまた再びここから進んでいけるのだろうか。
明日もまた弾けるのだろうか。

演奏を終えて暗がりのなかでやせ細った指としわくちゃの掌をみる。
結局ふたりは、録画にも録音にも失敗したらしい(ここに発表できたのは録音に成功した今日の演奏で、そのときのものではない)。
ありがとう、おふたりさん。

 

From editor


水城の「自分に正直に生きたい」という切望を満たすリクエストはなんだろう、と問うたところ、
「ピアノが弾きたい」
と言いました。
ニーズにつながったら、それで気分を良くして終えるのではなく、今ここでできるリクエストで自分なりにニーズを大切にしたという「実践」がなにより肝要です。そこで、
「ではピアノのところへ今すぐ行こう!」
とベッドから起き上がることをうながしました。
彼はしばらく躊躇していました。自分は実際に弾けるのだろうか、もし弾けなかったらどうしよう、という恐れがあったといいます。
それを確かめるには、やってみるしかないのです。
確かめないでいれば、その恐れはずっとあり続けるのです。
そして彼はベッドから立ち上がり、自分の足で階段を踏み、ピアノの場所へ行きました。
弾く者も聴く者も、涙を流しながらの演奏でした。
録音には失敗したのですが。

それから凄まじい3日間を経て、彼は自分が本当にやりたい仕事の第一歩として、文章と演奏を再開すると決めました。
そのためにできるだけ楽にできる方法を考え、サポート体制をつくりました。
文章をMariが誤字脱字等をチェックして転載し、収録した演奏を動画コンテンツに仕立ててYoutubeにアップしていきます。
とにかく一歩、一歩。

6/16追記:20200613〜15のタイトルでアップしていたものを、実際の演奏日にあわせて20200612〜14に変更しました。