2010年2月22日月曜日

現代音楽、現代文学、現代アート、現代思想、現代舞踊、現代演劇、現代朗読

「現代朗読ってなんですか? 普通の朗読とどう違うんですか?」
 という質問をしばしば受ける。そのたびに、そのときの気分でいろいろなふうに答えているのだが、いちおう、こういうことが「現代朗読」であるという核になる考え方はある。なので書いておく。

 タイトルに書いたように、さまざまな表現分野においても「現代」という言葉がつく場合がある。これは英語でいえば「contemporary」を日本語に置きかえたわけで、英語圏だけでなく他の外国語圏でも、ある表現方法について「contemporary」に相当する言葉を冠する場合がある。世界同時進行的に「contemporary」という表現方法が認知されているといっていい。
 もっとも、芸術表現に縁の薄い人には、この言葉はほとんど知られていないといっていいだろう。
「contemporary」という言葉はただ「現代の」とか「同時代の」という意味にすぎないが、表現分野においてはもう少し特別な意味を持つ。「伝統的なものや体系的なものに立脚しない」「いまあるこの自分の」「いまあるこの時代の人たちに向けて」の表現である、ということだ。

「伝統的/体系的」なものに立脚しないために、現代芸術とそれ以前の芸術とを決定的に分けているものがある。
 現代芸術以前の芸術表現の場においては、それが美術であれ音楽であれ文学であれ、芸術家と鑑賞者の位置関係がとてもはっきりしていた。常に芸術家が鑑賞者より上の立場にいて、鑑賞者を睥睨していた。芸術家はみずからの優位性を示すために技術=アートを磨き、鑑賞者の上に立つ。鑑賞者もそれを認め、その優位性をたたえ、ときにはそれへの対価を支払う。
「人間ってすばらしい! こんなことができるんだ。私にはできないけれど……」
 対価を支払うことでようやく、鑑賞者も芸術家とおなじ立場に立てるわけだ。それは、コンサートホールにおけるステージと客席という位置関係に象徴されている。優位性をより先鋭化させるために、先人によって積み上げられてきた表現技術をさらに積み上げ、一般の鑑賞者のとうてい手の届かない位置まで自分を高める。
 現代芸術ではそういうことはおこなわない。
 そもそも、便器を壁に取りつけただけとか、毛沢東の拡大複製写真をリトグラフに置きかえただけとか、街の音をつないだものを音楽だといって提示するとか、そういう作品で表現者の優位性を誇示することはできない。なぜなら、そんなことはだれにでもできることだから。現代芸術では、表現者も鑑賞者とおなじ人間であり、上位に立っているわけではない、おなじ土俵でただ作品を提示する者である、という立場を確認する。
 表現者は作品もしくは自分自身をある方法で鑑賞者に提示する。それは自分の優位性を誇示するためではない。作品と鑑賞者、もしくは、自分自身のパフォーマンスと鑑賞者との間にある関係性を作るためであり、共感関係を作るためである。表現者は鑑賞者と提示した作品を通じて、あるいは行なわれるパフォーマンスを通して、ともに感じ、考え、おなじ時間と空間を共有し、共感する。表現者と鑑賞者はひとつの経験を共有し、その経験の前と後とでは、たとえば「世界の見え方、捉え方が変わる」というようなことが起こる。それが現代芸術がめざす「芸術体験」のありかたである。

 朗読表現においてもおなじような考え方を導入することができる。
 伝統的/体系的なものに立脚することなく、いまここにある自分の身体と精神を開き、いまここにある人にただストレートに提示する。なにもたくらまれたものはなく、あらかじめ仕組まれたものもなく、すべてはいまある時間と空間のなかで起こっていく。予測不能の事件が起こり、体験を共有したとき、ともにあたらしいステージが開かれるのを目撃する。
 現代朗読ではそのライブや公演において、なにが起こるか予想できない。なにしろ、表現者自身が予想できないのだから。現代朗読の表現者は、自分自身ですら予測できない表現が自分と鑑賞者との間に生まれてくるのを、いつもわくわくして臨んでいる。
 以上が「現代朗読」と私が呼んでいるもののごく簡単な説明である。

「現時点では」現代朗読表現のひとつの到達点をめざすことになる「沈黙の朗読」が、3月6日に開催される。