2012年1月31日火曜日

いつか来る「その時」に備えて「いまここ」を生きる

なんとなく地震が多くなってきているような気がする。

音読ケアをやっていると、また大きな地震が来るのではないか、さらには首都直下型地震に見舞われるのではないか、富士山が噴火するのではないか、さらに別の原発が事故を起こすのではないか、といったさまざまな災害を予想して、不安で眠れなくなってしまうという人が多いことを実感する。

実際に放射線量が高いといった、現時点で現実に起こってしまっているようなことについてはどうしようもないが、まだ起こってもいないことについてあれこれ心配してもしかたがない。

もちろん、それは起こるかもしれない。地震などは、人の死とおなじで、いつかは確実に起こるだろう。しかし、いま、この瞬間に起きていないことは確かだ。いまこの瞬間、地震が起きていない現在、起こるかもしれない現象についてあれこれ思いめぐらせて不安にかられるのは、いまこの瞬間のライフ・パフォーマンス・クォリティ(いま作った私の造語)を下げることにしかならない。

いつかは起こることではあるが、その「いつか」の瞬間までそのことをあれこれ思いめぐらせて気鬱になっていてもしようがないだろう、と私は思う。

できるのは、いつか来るその瞬間に備えて、考えられるだけの準備をしてから、「いま」はそのことを考えないようにする。いま、ここにある自分の心と身体に意識を向けて、いまを生きることに集中する。

それにしても、備えを怠らないことは必要だな。うん。防災グッズの点検をしておこう。

音読療法の特徴

photo credit: h.koppdelaney via photopin cc

BLOG記事のコメントやメールなどでしばしば問い合わせを受けるので、この際、きちんと書いておきたい。

まず、「朗読療法」と「音読療法」はどう違うのか、という質問について。


朗読療法を提唱している方の著書やウェブサイトを確認したかぎりでは、当方の音読療法と内容が少し違うようだ。

朗読療法は朗読すること、朗読を聴くことなどによって「癒し」を得るものと理解できる。音読療法は呼吸・声など自分の身体を使って自分自身で心身ケアができるという特徴がある。ボイスセラピストはそのお手伝いをする。


「音読療法」は医療行為なのか。それとも民間療法なのか、という質問について。


音楽療法やアートセラピーなどもそうだが、音読療法は「代替医療」もしくは「補完医療」という位置づけである。つまり医療行為そのものではない。

医療を補完するもので、また予防効果や日常の健康法としても大変有効なものであると認識している。


以下、私が考える「音読療法」の特徴を書いてみた。


音読療法は音楽療法や箱庭療法、アートセラピー、漢方医学、アーユルヴェーダ、カイロプラクティック、その他さまざまな代替医療(alternative medicine)のひとつである。これを補完医療(complementary medicine)、または補完代替医療(Complementary and Alternative Medicine : CAM)ともいう。

古くから伝統医学、民間療法としていろいろなものが存在するが、近年は音楽や絵画表現、森林浴、瞑想などを用いた補完代替医療(CAM)が多く生まれている。

音読療法はクライアント自身の呼吸と声を用いることに最大の特徴がある。そのため、いつでも、どこでも、なにも道具を使わなくてもおこなえる、という利点がある。もちろん療法士が方法を指導することでより効果を高めることができるが、ひとりでもおこなえるところに手軽さがある。

音読療法では、ヨガ、禅、古武術、合気などのさまざまな呼吸法を取りいれ、現代人が手軽に、しかも効果的におこなえる方法としてそれを整備している。発声や音読も、この呼吸法の延長線上でおこなわれる。呼吸と自声に意識を向けていくことで、容易にマインドフルネスの状態にいたり、自分自身のことについての多くの気づきを得ると同時に、自分を苦しめる思考やイメージの反芻パターンから離れることができる。

音読療法の最大の特徴は文章の音読によって自己セラピー効果を得ることにある。この場合の文章は文学作品であることが多いが、必ずしも決められた作品でなくてもかまわない。自分が考えたり書いたりしたものではなく、他人が書いた文章を使う、というところが重要である。そのメカニズムについては本文中で詳しく述べるが、自身の外部から挿入された言葉やイメージを音読によって繰り返すことで、自己内部の雑念や特定の感情をそれに置き換え、手放すことができる。結果的に深い瞑想と同等の効果を得ることができる。


筆者はごく若いころから音楽演奏を職業としていたほか、二十代なかごろからはラジオ番組の制作、そして小説執筆と、音と言葉の世界に深く関わりつづけてきた。とくにここ十数年は音読・朗読の研究を進め、多くのアナウンサー、ナレーター、声優、歌手など声の表現のプロのほか、それをめざすアマチュア、あるいはプロ・アマを問わず音声表現を生き甲斐とする多くの人と濃密に関わっている。その過程で、声と呼吸、そして言葉と文章が、人の生理や心理に大きな影響を及ぼすことを観察してきた。

音読療法はこの観察と試行の結果として生まれたものを、だれもが利用できるように体系化したものである。

2012年1月30日月曜日

ピアノ弾きの生活

20代前半はピアノを弾いて生活していた。

京都の祇園にある〈バードランド〉というジャズパー(いまもあります)に学生アルバイトとしてバーテンで入ったのがきっかけで、ジャズピアノを弾くようになり、バンドマンの世界に仲間入りした。

当時はカラオケブームが到来する直前で、まだバンドマンの仕事がたくさんあった。いろいろな夜の店に行ってピアノを弾いたり、客の歌伴をしたり、歌手と組んだり、バンドで演奏したり、といった仕事をしていた。ありとあらゆる音楽をやり、たくさんのバンドマンや客を相手にした。その過程で、譜面さえあればどんな曲でもそれなりに弾けるようになったり、場合によっては譜面がなくても適当に合わせたり、アドリブで乗りきれるようになった。

音楽的にいえばあまり高級なものではなかったと思うけれど、音楽を演奏する楽しさということの本質は体得できた。その証拠に、いまだに音楽を演奏することを続けている。


「国境なき楽団」が運営している下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉で、毎月第一水曜日に「ジャムナイト」というジャムセッションのイベントがスタートするという。

ギタリストの北川涼さんがホストらしいのだが、私も誘われたので、ピアノで参加することになった。ひさしぶりに見も知らぬ人たちと音楽で会話する楽しみを経験できそうだ。

畳の学校第二回は庭仕事ワークショップ付き

今日は「畳の学校」の2回めだった。

開始は午前10時からだったのだが、庭師のかじくんが朝8時から来てくれて、羽根木の家の庭木の手入れを始めてくれた。

10時からはピリカさん、さよさん、月海ちゃん、野々宮、まりこが参加して、ゆるりとお勉強。といっても、今日はとくにだれが教えるということもなく、それぞれのトピックを聴き合いながら進んだが、途中からNVCを知らない月海ちゃんとさよさんに基本的な原理を教えるということで、私がNVCの解説と、ちょっとしたエンパシーをさよさん相手におこなう。ささやかなエピソードについて共感的聴き方をしていくのだが、思いがけないニーズが現われてきて、本人も回りもびっくりするのはNVCのいつものことだ。


お昼はまりこがご飯を用意してくれた。

稲庭うどんだと思ったのだが、実はそうめんだったらしい。鶏のつくねや人参のかき揚げを入れた麺で、いつものごとく大変おいしうございました。


大満足のあとは、みんなで庭に出て、かじくんの指導のもと、庭作業。寒かったのだが、みんなで剪定して落ちた枝を整理したり、のこぎりやはさみで切ったり、くくって束にしたり、身体を動かす作業が楽しかった。剪定した枝に野鳥の巣を見つけたりもした。もちろんもう古いものだったが。

いずれ近いうちに、土日にもやってみようと思っている。

次回「畳の学校」は2月13日にやります。

「畳の学校」第二回のお知らせ

「畳の学校」の一回めが1月16日にありました。
 少人数でしたが、大変楽しく、また学びの多い会となりました。
 さっそく次をやろう、ということになり、次回日程が決まりました。

◎日時 2012年1月30日(月) 10:00〜13:00
◎場所 羽根木の家 世田谷区羽根木1-20-17
    電話 : 090-9962-0848(現代朗読協会)
◎参加費 お茶代と場の維持費として500円
    持ち寄り歓迎。

 二回めは終わったあとに料理人・真理子による「マリコランチ」のサービスがあります。リーズナブルな料金で、安心安全なおいしいオーガニック料理をいただけます。数が限られていますので、お早めに申しこみください。
 また、ランチ後は「畳の学校」特別授業として、光琳ランドスケープさんによる庭の手入れワークショップがあります。要するに羽根木の家の庭で庭木の手入れをプロの庭師さんといっしょにやってみよう、ということなんですが。

「畳の学校」では、表現や心身ケアに限らず、参加者が直面している個人的問題や社会問題を含むさまざまな事象について、みんなで学び教えあうことをしています。
 とくに原発や災害の危機管理、エネルギーや食品の問題、子どもたちの教育、これからの政治、パートナー・縁戚関係・地域社会とのコミュニケーションの問題などに心を痛めているお母さんがたには、子ども連れでも安心して参加でき、ゆっくりと考えられる場になればいいなと思っています。
 もちろん、お母さんに限らず、学生、社会人、主婦、経営者、自営の方など、いろいろな立場の人にも来ていただいてかまいません。開かれた場です。
 興味のある方、ぜひ気楽にお越しください。準備の都合上、事前にメールなどで来ることをお知らせください。

2012年1月29日日曜日

わくわく(うんざり)イベント目白押し

いろいろわくわくするイベントが目白押しで近づいていて、うれしい。

今日は畳の学校の第二回。そしてそのあとは庭師かじPによる羽根木の家の庭での庭師ワークショップ。

明日は豪雪の実家に急遽帰省の予定。積雪はすでに2メートル近くになっていて、まわりの家は屋根雪下ろしをしたらしい。今週はふたたび寒波が到来するとのことで、帰省の予定を繰り上げて雪かきのために帰る。「わくわく、うれしい」というのはもちろん嘘で、これは気が重い。でも、これをマインドフルに受け入れられる自分になりたい。

明後日2月1日の夜には東京に戻り、下北沢・音倉の「ジャムナイト」に直行する予定。

2月に入って、5日にはボイスセラピスト2級講座。ぼちぼちと申し込みがあって、長年かけて検証し、体系化してきた音読療法が少しずつ広まっていくのはうれしいかぎり。

11日は体験講座。この講座が入口になって現代朗読の世界に入ってきてくれる人が多い。これもとてもうれしい。今年はもう少し現代朗読が世間に認知されるとうれしいな。

15日は私の音倉での恒例ミニライブ。前回は映像を出しそびれたので、今回はぜひ映像と音楽と朗読のコラボを実現したい。

そして16日からはNVCウィーク。カリフォルニアからトレーナーのロクシー・マニングがわざわざ来てくれる。

音読療法マスターコースの一日

今日は朝から音読療法マスターコースの勉強の日。マスターコースは現在、4人が参加しているが、その全員が参加。


音読療法では「エチュード」という、だれでも自分ひとりで練習できるセルフケアの方法がたくさん用意されている。そしていくつかはグループでできるエチュードもある。

ほかのセラピーやボディワークでは、「ワーク」と呼ばれて、セラピストがクライアントに対しておこなうことが多いが、音読療法ではあくまで自分がひとりでやれるようにするのが目的だ。なので、ワークではなく、練習という意味あいがあるエチュードという言葉を使う。


エチュードには以下のような分類項目がある。


・呼吸のエチュード

・発声(をともなった呼吸)のエチュード

・感受性のエチュード

・音読エチュード

・群読エチュード

・姿勢とストレッチのエチュード

・共感的コミュニケーションのエチュード


これらそれぞれがいくつかの具体的なエチュードで構成されている。

またこれらのエチュードは日々改良されたり、追加されたりしている。これで完成されているというものではない。


お昼はピピカレー( @PPcurry )に行き、臨時メニューのカレーうどんをみんなでいただく。

羽根木の家にもどり、午後もみっちり勉強。マインドフルネスやメタ認知についての理解を深めたり。


夜はNVCの会。

サンフランシスコでのリーダーシップ・プログラムに参加してきた久美子さんの報告を聞く会ということで、食べ物や飲み物を持ち寄って何人かが集まった。本場の合宿は刺激的で豊かな時間だったらしく、久美子さんは「みんなも来るべき」と強調していたが、なかなかそうはいかない。経済的問題、時間的問題、そして言葉の問題。

これを日本でもやれるようになるといいのだが。

深川・そら庵の夕べは前衛あり自在音楽ありの快楽の時間だった

昨日もまた音楽イベントに飛び入りで参加してきたげろきょ。

深川の〈そら庵〉というライブスペースでのイベントだったのだが、これがまあ楽しいのなんのって。

前座で漱石の「夢十夜 第八夜」をフリーセッション的にやらせてもらったのだが、そのあとに登場した〈つむぎね〉という現代音楽のユニットがすばらしかった。声だけでやったり、ピアニカとクラリネットでやったり、リズムと声とダンスでやったり、それが実に繊細で優しく、美しく、女性らしくて、しかしとんがっている。つまり前衛であり、コンテンポラリー。げろきょが朗読でやろうとしていることを、音楽でやっている感じ。シンパシーを感じる。

メインはチャーリー・ウイリアムズというユニットに、ジョンさんという女性フィドル奏者が加わっての、ポップだけど斬新な音楽演奏。これがまた自由自在で、フォームを逆手に取ったり、フォームを崩したりと、いい意味でやりたい放題。邦楽、ラテン音楽、ジャズ、さまざまな音楽を自在にあやつって、楽しいのなんのって。例えば、芭蕉の俳句をジャズ曲の「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」に乗せる、なんてことをやるわけだ。まさに手だれ。

げろきょもこういう人たちといっしょにやれて、広がりを持っていけるといいなあ、と思った夜だった。

2012年1月28日土曜日

チャーリー・ウイリアムズ企画ライブ「声つむぎ」のお知らせ

朗読のコンテンポラリー表現を開拓する「現代朗読協会」
2008年度TWS最優秀作品受賞。音楽と踊りの女性パフォーマンスグループ「つむぎね」
受賞歴特になし。二人合わせて90歳、歌って弾くだけの男性Duo「Charlie Williams」
の3組による「コエ」の夕べ。

◎日時 2012年1月28日(土) 16時開場/16時半開演
◎場所 そら庵
清澄白河駅徒歩7分/tel : 050-3414-7591
◎料金 投げ銭(要1オーダー)

※お問い合わせは「voizchoir@gmail.com」まで。

下北沢・音倉のオープンマイクにげろきょが出演

下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉が時々やっているオープンマイクに、ひさしぶりにげろきょで出演してきた。

ひと組15分の枠なのだが、私たちは2枠をもらって、ぶち抜いて30分の音楽と朗読のパフォーマンスをやらせてもらった。

演目は太宰治の「貨幣」と「悶々日記」を組み合わせた複合テキストで、出演は山田みぞれ、野々宮卯妙、佐藤ピリカ、なおと、ピアノ演奏が私。


夜7時からスタートしたのだが、私たちは最後の組。私たちの前に8組出演して、いずれも音楽演奏。ギターやピアノの弾き語りだったり、演奏だったり。バイオリンの方もいた。いずれも15分の枠で3曲演奏。どの組も例外がなかったので、ちょっと奇異な印象を覚えたほど。

音楽って、いつのまに1曲5分くらい、ということになったっけ?

そして、最後が私たち。

まあそうでしょうね。耳慣れた感じの音からあまり逸脱しない音楽演奏の方たちの間にげろきょのパフォーマンスがはさまると、とても異様な感じがするに違いない。

終わってから思ったことだが、普通の音楽のオープンマイクの場に乱入するのは、以後、すこし考えた方がいいかなあ、と。


私たちが始まると、それまで演奏の合間にも談笑していた方々(ほとんどが出演者やその関係者だった)は全員、静まりかえってしまった。よくいえば釘付け。きっと度肝を抜かれたんだろうと思う。

一方、やっている私たちはやりたい放題。楽しくてしかたがない。自由に、集中して、いつものパフォーマンスを展開。

この模様は記録してあるので、近いうちにYouTubeにupしようと思う。

ほかにゼミ生も何人か観に来てくれたこともあって、とても楽しかった。そしてあたらしい演目がひとつ生まれたと思った。

これはあらためてまたどこかで、さらに洗練した形に絞りこんで再演してみたい。

かっちょいいゼミ生たちの近況を聞く

金曜昼ゼミ終了後、ちょっと時間があったので、ゼミ生3人とラジオをとりました。
数学者の照井くんは、ドイツとイギリスへ学会のために行っていたそうです。そこでは自分の論文についての講義もしたそうです。かっちょいい。
初登場の麻奈さんは長年お茶をやっていて、3月には茶事で朗読をしてお客さまをもてなすそうです。かっちょいい。
こちらも初登場のみぞれちゃんは、この収録の日の後、下北沢・音倉でのライブに出演することになっていて、その直前の収録でした。「アルジャーノン朗読」の企画などで盛り上がりました。かっちょいい。

ケロログ「RadioU」で配信中。

音楽という形式の奇妙な印象

昨夜の下北沢・音倉のオープンマイクは大変おもしろかった。げろきょはトリで出演して、太宰治の二作品を構成した「悶々貨幣」という演目をやらせていただいた。これについてはあらためてレポートすることにするが、それとは別に気づいたことがあるので書いてみたい。

音倉は音楽ライブのカフェなので、オープンマイクも当然ながら音楽の人がほとんどだ。ギターの弾き語り、ジャズピアノ、ピアノの弾き語り、ピアノとバイオリンのユニットなど。私たちも朗読といいながら、実は気分は音楽と全然区別していない。そもそも私はピアノを弾くわけだし。

昨夜は出番が最後だったせいで、最初からの出演者全員の演目を聴かせてもらうことができた。そのとき、奇妙なことに気づいたのだ。

いや、これを奇妙というのはおかしいかもしれない。奇妙と感じるのは私だけかもしれず、ほとんどの人はそんなことは気にもしていないのかもしれないから。

気づいたことというのは、出演者には一枠15分の時間が与えられているのだが、すべての出演者が3曲演奏していたということだ。つまり、5分前後の曲を3曲。この曲の時間と三曲という形式で全員がやっていたのが、とても奇妙に思えた。もっとさまざまな長さの曲や曲数があってもいいように思ったからだ。

実際、私たちげろきょは、30分1本の演目をやらせてもらったのだった。

2012年1月27日金曜日

オープンマイクに出ます

現代朗読協会のゼミ生といっしょに、たまに「オープンマイク」というシステムのイベントに出ることがある。

これは文字通り、マイクをだれにでもオープンにして、だれもがその店のステージで歌ったり演奏できるようにするシステムで、原則的に申し込めばどんな人、どんなグループでもステージに立てる。

げろきょで最初にオープンマイクに出たのは、数年前のことで、立川にある〈クレージージャム〉というライブハウスだった。音楽のライブハウスで、私たち以外は全員がギターソロや弾き語りの人たちだったが、オーナーが朗読でも大丈夫ですよと快く受け入れてくれたので出演してみた。

それが大変楽しかったのだ。

最近、近所ということもあって、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクに一度出演させてもらった。そしてまた、今夜も出演することになった。今年初めての音倉のオープンマイクの日だ。

出演者リストを見たら、けっこうたくさんの人が出るようで、私たち以外は音楽演奏や歌の人たちだと思う。それにまじって朗読パフォーマンスをやるわけだが、私は音楽と朗読をとくに区別していない。実際、私はピアノを弾くわけだし。

演目は太宰治の「貨幣」と「悶々日記」を組み合わせたテキスト。これを現代朗読でやる。やること自体も、お客さんの反応も、楽しみなのだ。

2012年1月26日木曜日

音読療法士マスターコース、げろきょ木曜ゼミ

昨日の夜は音読療法士マスターコースだった。

なんとなく年末から年明けにかけて中だるみ感があったので、「音読療法とはなにか」という基本の確認をする。これは、療法士がだれかから「音読療法ってなんですか?」と聞かれたときに明確に答えることができるためにどうしても必要なことだからだ。

そのために準備したドキュメントの一部。


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音読療法は音楽療法や箱庭療法、アートセラピー、漢方医学、アーユルヴェーダ、カイロプラクティック、その他さまざまな代替医療(alternative medicine)のひとつである。これを補完医療(complementary medicine)、または補完代替医療(Complementary and Alternative Medicine : CAM)ともいう。

古くから伝統医学、民間療法としていろいろなものが存在するが、近年は音楽や絵画表現、森林浴、瞑想などを用いた補完代替医療(CAM)が多く生まれている。

音読療法はクライアント自身の呼吸と声を用いることに最大の特徴がある。そのため、いつでも、どこでも、なにも道具を使わなくてもおこなえる、という利点がある。もちろん療法士が方法を指導することでより効果を高めることができるが、ひとりでもおこなえるところに手軽さがある。

音読療法では、ヨガ、禅、古武術、合気などのさまざまな呼吸法を取りいれ、現代人が手軽に、しかも効果的におこなえる方法としてそれを整備している。発声や音読も、この呼吸法の延長線上でおこなわれる。呼吸と自声に意識を向けていくことで、容易にマインドフルネスの状態にいたり、自分自身のことについての多くの気づきを得ると同時に、自分を苦しめる思考やイメージの反芻パターンから離れることができる。

音読療法の最大の特徴は文章の音読によって自己セラピー効果を得ることにある。この場合の文章は文学作品であることが多いが、必ずしも決められた作品でなくてもかまわない。自分が考えたり書いたりしたものではなく、他人が書いた文章を使う、というところが重要である。そのメカニズムについてはあらためて詳しく述べるが、自身の外部から挿入された言葉やイメージを音読によって繰り返すことで、自己内部の雑念や特定の感情をそれに置き換え、手放すことができる。結果的に深い瞑想と同等の効果を得ることができる。

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後半はクライアントとの共感的コミュニケーション、共感的に話を聞く方法の、基礎的なツールを用いての練習。


今日は朝から現代朗読ゼミ。

朝ゼミでは、ゼミ生の現代朗読パフォーマーとしての音声&身体処理能力を高めてもらうためのエチュードをいくつか試行し、くりかえしてもらう。

現代朗読の最大の特徴としては、「なにも作りこまない」「あらかじめたくらまない」「マインドフルに反応する表現」というものがある。それを高度におこなうためには、どうしても身体にたいする高い感受性と反応能力が必要になるのだ。さまざまなエチュードはそのための訓練としてある。

エチュードを繰り返すにつれ、みんながどんどん能力が高まっていく(実際には潜在能力を引きだされる)のが目に見えてわかってスリリングだ。


午後は昼ゼミ。

明日の〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクで披露する演目「悶々貨幣」の打ち合わせなど。太宰治の「悶々日記」と「貨幣」を組み合わせたテキストで、みぞれちゃん、ピリカさん、野々宮と演出の打ち合わせ。

夜は夜ゼミ。Google+のhangoutでたるとさんと朱鷺さんも参加。思いがけずふなっちが来て、なおさんも遅れて参加。

たるとさんからは先日のチャレンジ徳島のイベントの様子を聞かせてもらったほか、太宰の「雪の夜の話」も読んでもらった。あとは昼ゼミで録画した「悶々貨幣」を見ながら、明日出演するなおさんに演出指示を少し。

2012年1月25日水曜日

呼吸から始めるマインドフルネスとメタ認知

音読療法では呼吸法をおこなうが、これは瞑想とおなじ効果を狙うことができる。

人が安静にしていても必ず動いているのが、呼吸である。心臓やほかの内臓も動いているが、直接的に感じて意識することは難しい。が、呼吸ならだれでもすぐに意識できる。

ゆっくりと連続的に動いている呼吸に意識を向けるというのは、自分の身体そのものを意識するということでもある。そこからスタートし、自分の全体の状態や自分を取り巻く環境のこと、音、空気の流れ、そういったものを意識できれば、マインドフルネスになることができる。さまざまな雑念や反芻する回想、まだ起こっていないことを想像してしまうことで生まれる不安感、そういったものを断ち切り、「いまここ」の意識に立ちもどることで、自分自身の落ち着きを取りもどすのだ。たとえその自分が不安であったり、悲しみや苦しみにとらえられていたとしても、その感情にとらわれている自分から、その感情を持っていることを認識している自分へと立場をシフトすることで、随分落ち着くことができる。

これを「メタ認知」といい、メンタルケアの方法としては大変重要で、強力なものとなっている。

医者めぐりの日

昨日も行ったのだが、今日もまだ偏頭痛がひどく、ちょっと長引いているので、下北沢の神経内科医院まで行ってみることにした。
毎年、一回くらいは偏頭痛に見舞われることがあった。そう頻繁でもないし、市販の痛み止めを飲んで数日すれば自然になおってしまうので、あまり気にしていなかった。が、今回は四日めともなると、ちょっと長くて気になる。

さすがに神経内科で、かなり丁寧で精密な診察をしてくれた。目を閉じて手をあげたり下げたり、握力をはかったり、横になって足をあげたりおろしたり、歩き回ったり。
とくに異常なし。偏頭痛の原因はよくわからないが、珍しいことでもないらしい。私の場合、たぶん気候の変動が一番の要因のような気がする。気圧がさがって雪が降りだした日から痛くなったし。
痛み止めと胃薬をもらってきた。

ついでに午後は歯医者に行くことにした。
前から前歯の欠けたところがギザギザして舌に触るのが気になっていた。そこを削ってもらう。
ついでにほかの歯も全部見てもらう。
虫歯予備軍が一か所。ほかに、食べ物が詰まりやすい場所が一か所。これはしかし、一番奥の歯を抜かなければならないそうで、できれば抜きたくない。
あとは長らく放置してあった歯石。
来週の予約をしてきた。

朗読者と音楽家的感受性の関係

photo credit: Noukka Signe via photopin cc

朗読は音声表現であり、音楽と同等の音声・音響に対する感受性が有効だと思っている。
音楽家がそうであるように、朗読においても表現のクォリティをあげるには、音に対する感受性を磨くことが重要だ。
では、音に対する感受性とはどのようなものだろう。
音の4要素というものをご存知だろうか。
「音高」「音強」「音質」「リズム」
これらはそれぞれ、音程、強弱、声質や音色、間合いやスピードと言いかえることができる。
これらの要素についての繊細な感受性を持つことで、朗読も表現のクォリティをあげることができる。が、一般的な朗読表現の考え方に音楽と同等の音声表現の精度を持ちこむことは少ない。
現代朗読では朗読表現にも音楽と同等の繊細で精度の高い感受性を用いたいと考えている。そのために、上記のような音の要素のそれぞれについて、感受性の精度をあげるためのエチュードを用意し、各自トレーニングをおこなうようにしている。
朗読が音楽と響き合い、また朗読同士も音楽演奏家同士のように響き合うとき、そこにはたんなる言語伝達にとどまらない豊かな音声表現の世界が生まれる。

住みにくい街に住む

東京に雪が降った。
まあたいした雪じゃない。5センチとか10センチとか、そんなもん。
私が生まれ育ったところは、2メートルとか3メートルが常態の土地だ。いまさら雪に驚くことはない。
それでも、ニュースでは「東京で大雪」なんていっていて、転倒やスリップ事故で大騒ぎになっている。
たしかに歩けば、東京の道もそれなりに危険だ。日陰になっている道は、降った雪が凍結してすべりやすい。これは慣れていない人には危ないだろうと思う。
自分の歩き方も、無意識に変化している。東京歩きではなく、自然に雪国歩きになっている。すなわち、歩幅は小さく、靴底はなるべく地面に並行にして慎重につける。坂道はさらに慎重になり、すべすべした路面を避けて、雪が積もってギザギザしているような場所を選んで歩く。
一番いいのは、雪国仕様の靴底の靴やブーツを履くことだが、東京でそれを売っている店は限られているだろう。
それにしても、冬は凍結する零下から夏は35度を超える猛暑まで、これほどの振り幅の大きい土地は、決して人の住みやすいところとはいえないだろうな。世界には一年を通して気温が20度プラスマイナス5度前後、なんていう土地があるらしいから。

2012年1月24日火曜日

先日の「畳の学校」参加者から

先日1月16日(月)に初めて「畳の学校」を開催したが、参加者のひとりから丁寧な感想メールをいただいた。
「畳の学校」がなかなかよくて、それをお知らせしたくて、ということで、よかった点を箇条書きにして送ってくれた。ありがとう。紹介したい。

1. 程よくユルい。

 羽根木の家効果絶大。
 でも何かしら能動的な意識を持って集まってるからユルさの中には高密度の学びが詰まっている。
 学びを見いだす可能性にワクワクした。

2. 知らない世界が垣間見れる。

 自分の回りにいない立場や職種の人が集まるから本当に興味深い。視野が広がる事は持続可能性にもつながるね〜

3. 話を聞いてもらえる。

 『ただ聞いてもらう』体験から始まる事はすごく沢山あるように思う。
 会自体が秘密裏にゆるくNVC的ファシリテートが為されているのがステキ。
 
 ゆるゆると自由自在に変容可な『共感と学びの場』の提供に感謝しています。

ということでした。
次回の「畳の学校」は来週月曜日1月30日午前10時からの開催です。
くわしくはこちら

自然災害はまんべんなく起こるわけではない

実家のある北陸では、大雪の前兆として「雪起こしの雷」が鳴る。天候がくずれて、ゴロゴロと雷が鳴りはじめると、大雪の覚悟をする。
東京でもたまに雪の降る前に雷が鳴ることがある。もちろん降っても数センチの積雪なのだが、雪の備えがない都会ではそれでも大混乱になる。車、電車、などの交通網が混乱をきたす。
大雪にしても台風にしても、自然災害はまんべんなく毎年平均してやってくるということはなく、波があることはだれでも体感していることだろう。災害はある年に続いて起こり、起こらないときはしばらく平穏だったりする。
地震にしてもおなじで、起こるときには大きなものが続けざまに起こる。それは過去の記録を見ても明らかだ。
去年、東日本大震災が起こったのは、それが単独で起こったのか、あるいは大きな地震がこれから続けて起こる前兆なのかということは、考え方にもよるのだろうが、過去の歴史に学ぶとしたらどうとらえればいいのだろうか。
地震と津波で原発がこのような状況にあるいま、さらに原発を稼働させ、また外国に輸出しようとしているというのは、狂気の沙汰ではないかと思うのは、私だけだろうか。
首都圏直下型地震が4年以内に起こる確率は70パーセントだそうだ。

2012年1月23日月曜日

呼吸法で頭痛改善

灯台下暗し。
数日前からたぶん気候変動が原因の激しい偏頭痛に見舞われていた。
私は頭痛持ちではないのだが、年に一度くらいの頻度でこの強烈な偏頭痛に悩まされることがある。やむなく痛み止めの錠剤を飲んでなんとかやりすごしているのだが、今夜は薬を切らしてしまった。かなり痛くて苦しい。ついつい顔がしかめっつらになってしまうので、それをしないように気を使っていたら、今度はチック(顔面痙攣)が出てしまった。
てなことをツイッターでつぶやいたら、友人から「深い呼吸をすると軽減される」というアドバイスをもらった。それを見て思い出したのだが、この呼吸法はまさに私が音読療法で推奨していた方法だった。自分に応用することを思いつかなかった。
というわけで、最初の一行。
やってみたら、かなり頭痛が改善される。頭にしろどこにしろ、痛みがあると呼吸はどうしても浅くなりがちなのだが、それを意識的に深くすることで痛みも落ち着くようだ。
ちなみに、深くてゆっくりした呼吸法は副交感神経を刺激するので、適切におこなえばさまざまな症状を改善することができる。例えば、先日も証言をもらったのだが、便秘の改善にも有効だ。やり方は、問い合わせていただければいつでも教えます。

2012年1月22日日曜日

人とつながる時間とひとりになる時間

人には「人とつながる時間」と「自分ひとりになる時間」の両方が必要だ。とくにこの年齢になると、人とつながる時間を確保しつつ、同時にひとりになる時間の確保がとても大切になる。
だれかとつながっていない人はとても孤独だ。生きている意欲さえ失われる。だれかとつながりたいという欲求のために犯罪すら犯してしまう人がいる。幸い私はげろきょというたくさんの人と共感的につながることができる場がある。とても幸せなことだと思う。
と同時に、孤独な時間も必要なのだ。
人からいわせればなにを贅沢な、ということになるのかもしれない。が、人とつながると同時に、自分自身と向き合う時間がなければ、なにも生むことができない。オリジナリティは完全な孤独からしか生まれてこない。
若い頃は人とつながる時間のほうが重要だったが、年齢を重ねるにつれ孤独にすごす時間がより大切になってくる。これは私だけかもしれないが、有限の時間のなかで生産をつづけていくためには、どうしてもひとりの時間を確保したいのだ。
共感と生産。
いずれにしても、その両方を与えられている自分は幸せなことだ。それゆえに次世代に伝えていきたいことがたくさんある。

2012年1月21日土曜日

これからの低線量被爆社会を生きる

これからの日本人が低線量汚染社会を生きていくことになるのは間違いないところだろう。いくら「除染」したところで、完全に放射性物質が消えるわけではない。線量を減らすことはできるが、取り除いた放射性物質はその場所を変えるにすぎない。
また、福島第一原発をはじめ日本中にある原発には大量の放射性物質が存在し、それも半永久的になくなるものではない。半減期がとても長い放射性物質もある。
私たちにできるのは、せいぜい自己修復能力を高めて、被爆しても発病しない免疫力の強い身体と生活を作ることくらいだろう。とくに子どもや若い人にはそれをおすすめしたい。
免疫力を高めるには、生活や食べ物の質を改善することが有効だし、また免疫力を高めるさまざまなエクササイズを習慣することもいいだろう。
規則正しい生活リズムを心がける。不規則な生活は免疫力をいちじるしく低下させる。
免疫力を高める食品を積極的にとる。
ヨガや武術、芸術表現、さまざまな呼吸法は免疫力を高めることが知られている。
そしてなにより、ストレスマネージメント。ストレスをためこんでトラウマ化させないようにマインドフルな時間をすごすように心がける。先人の知恵からも多くのことが学べる。
こういったことをできるだけ多くの人と共有できるといいなと思う。

2012年1月20日金曜日

雪を見るたびに思うこと

東京は雪。起きたらうっすらと雪化粧していた。
東京では雪が降るとはしゃぐ人が多い。私は雪国生まれなので雪は全然珍しくない。冷静だ。それどころか、雪に対する記憶はつらいものが多い。とくに私が生まれ育った土地は全国でも有数の豪雪地帯で、私が小学校1年生だった38豪雪のときには4メートルくらい積もった。一階は完全に雪に埋まって玄関が使えなくなり、かろうじて二階の窓から出入りしたことを覚えている。
56豪雪のときにも3メートルくらい積もった。
近年はかなり雪が少なくなっていたが、ここ数年はまた多くなっていて、去年は2メートル以上積もった。
雪が積もれば雪かきしなければならない。家からの出入りはもちろん、道路をあけなければならない。主要道路は除雪車が通るのだが、除雪車は道の真ん中の車が通る部分をあけるだけで、雪は道の両側にうずたかく積まれる。それをどけないと歩けないし、家の出入りもできない。家の車も出せない。
屋根雪をおろすのが大仕事だ。年寄りばかりの家ではとても屋根雪をおろせないので、人に頼むことになる。ひと屋根おろしてもらうと人足費だけで5、6万円くらいかかってしまう。おろした雪の始末を重機で頼むと、平気で10万円以上かかる。これがひと冬に何度もあると、暮らしが圧迫される。
てなことを、雪を見るたびに思うわけです。

2012年1月19日木曜日

よい顔、醜い顔

最近はあまりいわれなくなったが、私が子どものころはよく、大人から「そんな顔をしてるとそんな顔になっちゃうぞ」と脅されたものだ。たとえば、なにかいやいややっていたり、口ごたえしたり、といったときに。
また「嘘をつくと嘘つきの顔になる」といわれて、本気でおそれた。
これは迷信だろうか。私はいちがいに迷信だとはいえないような気がするのだ。
なぜ最近、こういうことがあまりいわれなくなったのだろうか。「顔で人を判断する」ということになんとなく精神性を感じ、論理的・物理的・物質的な社会のなかでいいにくくなったような空気があるのではないか。
しかし、美人・不美人というような価値基準とはべつに、たしかに「いい顔、わるい顔」というものがあると思わないだろうか? 私は思う。
電車に乗って人々の顔を見ていると、欲のないお年寄りは本当におだやかな顔をしていて、見ているこちらもおだやかになる。赤ちゃんをあやしているお母さんの顔は本当に美しくて、こちらも暖かな気持ちになる。もちろん逆に険しく醜い顔つきの人も多くいる。
自分はどうなんだろう、と思う。もともとあまり穏やかな人間ではないと思うのだが、せめてイキイキと楽しんで生きている顔つきでありたい。

2012年1月18日水曜日

下北沢・音倉「ぴあののことば」でのチャレンジ

今日は下北沢〈Com.Cafe 音倉〉で月に一回やっているランチタイムコンサート「ぴあののことば」だった。
このタイトルになってからは今日が初回。ピアノという楽器と「ことば」との関係。ことばは朗読であったり、私のなかにあることばであったり。それとピアノという非言語楽器とがどのように関係し、どのような音響を作るのか、という実験。

今日はさらに、ピアノに仕掛けをほどこしてみた。一種の電子的プリペアドピアノだ。
ピアノにマイクを突っ込み、それで拾った音をiPhoneに入れてイフェクターアプリを通す。それをスピーカーから出して、生音とミックスしてステージから流そうという試み。iRig mic という機材を使ってみた。
やってみると、意外に違和感なくピアノの音を変えられることがわかった。お客さんには違和感なく、しかししっかりと効果を出すことができた。

演奏とともにプロジェクターでステージ壁面に投影するべくあらかじめ準備しておいた映像が、なぜかUSBメモリーにコピーしそびれていて、映像はなしでスタート。せっかく作ったのにね。来月にあらためて使うことにする。
最初はこの季節の古い唱歌「冬景色」をピアノ演奏で。
そのあとに野々宮に出てもらって、私のオリジナルテキスト「特殊相対性の女」からの抜粋を30分一本勝負で通して朗読と演奏。いろいろと困難があったが、勉強になった。野々宮は安定していたが、今日はむしろ私のほうが少しおたおたしてしまった。まだまだだなあ。このところ、ピアノを弾いている時間があまり取れないのがつらい。
とはいいながらも、NVCをいっしょに勉強している仲間のくろりこさんが遊びにいらしてくれて、とても心強かった。
ほかに、大学生で朗読のレポートを書くために聴きに来たという女の子がいて、参考になったらよかったのだが。本人は「書けそうです」といってくれてたが。

終わってからくろりこさんと羽根木の家にもどり、まだたくさんなっている柚子の実をいくつか棹で叩き落として、持って帰ってもらった。
次回の「ぴあのの言葉」は2月15日(水)の予定。

2012年1月の「ぴあののことば」@下北沢・音倉のお知らせ

下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉で毎月一回、ランチタイムコンサートをおこなっています。
 これまでは第二水曜日の午後1時からでしたが、来年2012年からは第三水曜日になります。時間は午後1時からと変わりません。
 そしてタイトルも「ぴあののことば」となりました。
 ピアノと朗読、ときには歌も加わる30分程度のミニコンサートです。下北沢でのお昼ご飯やコーヒータイムに気軽にお立ち寄りください。

ぴあののことば
◎日時 2012年1月18日(水)13:00~13:30
◎場所 下北沢ライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉
    世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分
    ⇒ http://www.otokura.jp/
◎料金 無料
 飲食代のみ、それ以外のライブチャージなどはありません。予約も不要です。

 演奏の後はお茶でも飲みながらおしゃべりしましょう。
 みなさんのおいでをお待ちしてます。

「現代朗読協会」という場を死守する

photo credit: Noukka Signe via photopin cc

先日の体験講座でも、参加者の感想で「目からウロコでした」というものがありました。いつも必ずいわれることです。
なにが目からウロコなのか。
「朗読ってこんなに楽しかったのか」
「朗読ってこんなに自由でいいんだ」
「朗読って技術誇示ではなく自己表現の手段だったんだ」
「朗読の主人公は作者でも作品でもなく朗読者なんだ」
とまあ、こんなところでしょうか。
ほかの講座からいらした方からは、
「真逆のことをいわれました」
とよくいわれます。
現代朗読には「こうしなければならない」とか「これをしてはならない」というものが一切ありません。
普通にかんがえれば、表現というものはそうであって、子どもが自由に歌ったり踊ったり絵を描いたりするときのように、好きなようにやればいいのです。自発的にやりたいと思ったことは、すべて自分に許してやる。自己規制やあるいは外部評価のなかにすばらしい表現はありません。
しかし、こういう主張をしていると、苦しさをがまんして練習しなければいい表現ができるはずはない、ということをいわれることがあります。また、表現は厳しい制限があってこそよいものになる、という人もいます。
本当にそうでしょうか。
私にも覚えがありますが、苦しい練習や厳しい制限のなかにいると、なんとなく達成感があるような気がします。しかしそれは錯覚だし、また変ないいかたですが苦しさや制限のなかに逃げこんでいるともいえます。
表現するとき、ルールがあったほうが楽なのです。たとえば日本語の共通語アクセント。これを厳しく守ることに命をかけている人たちがいます。一見厳しい世界のように思えますが、ルールを守りさえすれば文句をいわれないわけですから、じつは楽です。
逆に、なんでもやっていいよ、アクセントだって好きにしていいんだよ、といわれたほうが大変です。人は大人になってしまうと、ルールのなかでやることを覚えてしまい、自由にすることが大変になってしまいます。
完全に自由ななかで自分のやりたい表現を見つけること。自分の自由を制限するものを厳しくチェックし、排除していくこと。これが現代朗読の基本姿勢です。だれからなんといわれようと、この姿勢を変えるつもりはありません。

身体とマインドになじむ文体を探す

今日はちょっと文体を着替えてみようと思います。
文体を「ですます」から「だである」に変えてみようと思う。
変えてみた。
私は29歳のときに職業小説家としてデビューしたのだが、その文体はもちろん「だである」調だった。そのころ、小説を「ですます」調で書くと、なんだか大江健三郎みたいになってしまう感じがしたのだ。私はむしろ安部公房のほうが好きだった。
その後、基本的にその文体でものを書いてきたのだが、近年、ですます調も使うようになった。とくにブログのように書き言葉ではなく、話し言葉ばに近い雰囲気の文章では、ですます調のほうがいいのではないかと思ったからだ。しかし、どうも違和感がある。自分の頭のなかで使っている言語と、それになじんでいる身体、マインド全体が、どうも私の場合「ですます」ではなく「だである」のような気がしてきた。
最近、マインドフルネスの練習で自分の身体のなかで起こっていることをじっくりと探す練習をするのだが、それでなんとなく文体にたいする違和を感じるときがあることを発見した。それで今日は「だである」で書いてみた。
違和感はないか?
ある。その原因をいまから探して検証してみたい。

2012年1月17日火曜日

音倉新年会、ジャムナイト、ぴあののことば

一昨日の日曜日に下北沢の音倉の新年会に行ってきました。「余興をお願いします」とマネージャーの中山さんから頼まれて、喜んで行くことにしたのです。
 げろきょメンバーの野々宮とふなっちも来てくれました。

 新年会では庄野真代さんがにこやかに出迎えてくれて、いい雰囲気です。たくさんのお客さんがいらしてましたが、あまりほかのお客さんと交流のない私たちはちょっときょろきょろ。スタッフのお母さんだという方と同席になったので、少しお話をさせていただきました。
 新年会が始まって、庄野真代さんをはじめ、いろいろな方がステージに出て音楽を披露しました。私たちも出て、朗読セッションをやらせてもらいました。野々宮に「夢十夜 第十夜」を読んでもらって、ふなっちにパンデーロを叩いてもらいました。
 ほかは全部音楽だったので、珍しかったと思います。みなさんから賞賛をいただいていい気分でした。
 この模様はYouTubeで配信しています。こちら

 私たちの直後に、音倉スタッフの柳本小百合さんがピアノの弾き語りをやったんですが、これがまたシュールでアバンギャルドで、とてもおもしろくてびっくりしました。聞けば音大の作曲科を出ているということで、今後が楽しみです。
 あと、スタッフの方たち8人くらいで「少女時代」の曲に合わせて踊ったのも、ちょっとした見ものでした。男性スタッフも女装して。
 楽しい会でした。

 終わりぎわ、中山さんと庄野真代に「ちょっと相談」と呼ばれて、聞いてみたら、2月から第一水曜日の夜に「ジャムナイト」と称して、ジャズに限定せずジャムセッションをやるそうです。それにピアノ弾きとして遊びに来てもらいたい、という話でした。もちろん喜んで。
 ジャムセッションだから、朗読だって飛び入り参加できるよね。

 音倉では明日1月18日の午後1時に、今年最初のランチタイムコンサート「ぴあののことば」をやります。
 明日はちょっとした仕掛けをピアノに施してみようと思っています。実験的にね。
 ノーチャージですので、お茶、お昼ご飯がてら下北沢まで遊びにいらしてください。詳細はこちら

楽しく学びの多い「畳の学校」

「畳の学校」第一回をやりました。
 とても楽しかったです。少人数でしたが、進行も決めず、羽根木の家の掘りごたつで暖まりながら、お茶菓子をつまんでお勉強会。というより、談笑。普通の学校のようにだれが先生でだれが先生ということもありません。話題のなかから自然に学びが生まれてくる感じを大切にします。
 昨日は庭師のかじさんがいて、羽根木の家の庭の手入れの話から、庭師の世界の興味深い話をたくさん教えてもらいました。
 知らないことばかりです。季節の木の話、庭師という仕事の世界の話、修行の話、資格の話、東京の庭の現状の話、公共事業の話など、本当に興味はつきません。
 ほかにもオーガニック料理と食材の店で働いているまりこからは、やはりいま問題になっている放射能と食品汚染の話が出て、これもまた私たちがかんがえている以上に生産者とお店の悩みは深く複雑で、難しいことがたくさんあるのだと知らされました。ともすれば忘れがちな、目をそむけがちな問題ですが、なにも終わっていないのだ、私たちはこういう世界のなかでこれからも生きていくことになるのだ、ということをあらためてかんがえました。
 この「畳の学校」、つづけていこうということで、次回は1月30日にまたやることになりました。今度はオーガニックランチと庭仕事のワークショップもつづけておこないます。

2012年1月16日月曜日

音倉新年会での朗読セッション「夢十夜 第十夜」

2012年1月15日夜、下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉で新年会がおこなわれました。野々宮卯妙(朗読)、船渡川広匡(パンデーロ)、水城ゆう(ピアノ)の3人でおこなった余興の演目、夏目漱石作「夢十夜 第十夜」の朗読セッションの模様を、抜粋でお送りします。

 なお〈Com.Cafe 音倉〉では毎月第三水曜日の昼1時から30分くらい、ランチタイムコンサート「ぴあののことば」を水城ゆうがおこなっています。ピアノ演奏と朗読によるミニライブで、チャージは不要です。カフェやランチがてら遊びにいらしてください。
 また、毎月第一水曜日の夜は「ジャムナイト」と称してだれでも演奏参加できるジャムセッションをやりますが、これにも水城がピアノ演奏で参加します。

音倉新年会とジャムナイト

私のランチタイムコンサート「ぴあののことば」や、現代朗読協会の朗読ライブなどでお世話になっている下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉の新年会に行ってきました。
 げろきょの作家・船渡川広匡と野郎二人で行ったんですが、オーナーの庄野真代さんがにこやかに迎えてくれました。あとで野々宮卯妙も合流。
 新年会はオープンマイク的に参加者が出し物を披露する形式で、ギターやピアノの弾き語りあり、音楽漫談あり、店のスタッフの方たちによるダンスパフォーマンスありと、大変バラエティにとんだものでした。
 もちろんげろきょもそのバラエティ感にひと役買ってきました。なにしろ、音楽に混じっての朗読ですからね。といっても、音楽的朗読です。夏目漱石の夢十夜の第十夜を、私がピアノを弾き、船渡川がパンデーロを叩き、野々宮が読むというセッションをやってきました。ウケましたね。
 この模様はビデオに撮ったので、近いうちにYouTubeで公開したいと思います。
 音倉では毎月第三水曜日に私が「ぴあののことば」をやるほか(明後日ですね)、二月からは第一水曜日の夜はあらたに「ジャムナイト」を始めるそうで、これに私もピアノで助っ人参加します。遊びにいらしてください。

2012年1月15日日曜日

羽根木の家「畳の学校」始まります

羽根木の家の柿の木は渋柿ですが、今年はたくさんの実がつきました。
 そのまま放置しておいたら、冬になって渋が抜けて、たくさんの野鳥がついばみに来るようになりました。ムクドリ、メジロ、オナガ、ツグミ、なにやら派手な色合いの野生化したインコも来ます。
 日中は大変にぎやかで、たくさんあった柿の実もあっという間になくなってしまいました。
 その様子を、縁側からながめるのが楽しいのです。
 その羽根木の家の畳の部屋で「畳の学校」が始まります。明日1月16日(月)の午前10時からが一回目です。
 義務教育や高校、大学では学べないような、しかし私たちがいま直面している重要な問題を、お互いに学びあい、教えあうための、私塾のような学びの場です。お仕着せの思いこみや特定の主義主張・立場を捨てられる人なら、だれでも参加できます。
 コミュニケーションの問題、ストレスフルな社会生活のなかで心身の落ち着きを保っていくためのスキル、教育や政治をはじめとするさまざまな社会問題、そういったことについてお互いに知恵を出しあい、また理解を深めていくための対話の学校です。
 どうぞどなたも気楽にいらしてください。連絡は「090-9962-0848」まで。

2012年1月14日土曜日

「動的平衡」軸足がぶれつづける

「軸足のブレない人」という言葉は、ふつう、ほめ言葉として使われます。
 主義主張、態度、生活様式、仕事、思想、そういったものが不変で一貫している人を一般的に「すばらしい」という雰囲気があるような気がします。
 気がする、というのは、私はそのような風潮のなかで常に苦しんできた者だからです。
 私は首尾一貫していたことがありません。時間とともに考え方も、自分のありようも、人に接する姿勢も、常に変化しつづけて、いまここにいます。去年の私といまの私とはまったく違う人間のように思います。去年考えていたことと、いま考えていることとでは、大きなへだたりがあります。自分に正直にあろうとした結果が、このようなことになっている気がします。
 だから、「おまえ、O型だよね」「牡牛座っぽいな」「雪国育ちだからな」「小説家はね」といったレッテル貼りにさらされて、抵抗をつづける日々だったといっていいでしょう。
 福岡伸一の『動的平衡』という本が好きです。人は外見はそう変わりないように見えても、その内側は劇的に流動的で、たえず変化しつづけているのだ、という生物学者の立場から見た哲学です。
 私は軸足をぶれ続けさせて、量子力学のような人生を楽しみたいと思っています。

2012年1月13日金曜日

「愛 イサドラ・ダンカン・ダンス」を観てきた

新浦安の浦安市民プラザまで、イサドラ・ダンカン国際学校日本の方々が踊る「愛 イサドラ・ダンカン・ダンス」を観に行ってきました。
 イサドラ・ダンカンは20世紀初頭に活躍したダンサーで、その独特の思想と踊りによって一斉を風靡し、モダンダンスの母と呼ばれている人です。現在も彼女を敬愛する人は多いですが、日本にこのような学校があるとは私は知りませんでした。

 公演は客席とステージがひとつながりのフラットなスペースでおこなわれました。お客さんはファミリーが多かった。出演者の家族がけっこう来ていたようです。150人か200人くらい入るスペースかなあ。
 イサドラ・ダンカンの言葉と思われるキャプションがナレーションによって流され、クラシック音楽が流れると、ダンスが始まりました。ゆったりとした流れるような動きの群舞です。が、一見して、ほとんどの出演者がダンスの特別な訓練を受けたような身体と動きではなく、ごく普通のどこにでもいるような女性たちです。30代以上、なかにはかなり高齢の方もおられました。70歳以上、ひょっとして80歳くらいの方。
 観ているうちに、これはダンスの「技術」を誇示するのではなく、彼女たちの身体つまり存在そのものを提示し、表現することが目的のパフォーマンスなのだとわかりました。これはげろきょがやっていることと似ています。げろきょも朗読の技術を誇示するのではなく、自分の身体と精神をありのままに表現し、オーディエンスとのコミュニケーション空間を作ることが目的です。
 彼女たちのダンスも技術的にどうこうではなく、それぞれの方の身体そのもののありようと動きの美しさを楽しみ、それに共感するように作られているようでした。イサドラ・ダンカンはまさにそのことを追求したのでしょう。だからこそモダンダンスの母といわれているんでしょう。

 さて、これ以降は私の妄想です。決して今回の公演にケチをつけるとか批判するつもりではないことをご了承ください。
私が考えたのは、イサドラ・ダンカンの精神は大切にしながら、パフォーマンスを現代日本の、日本人女性としての踊りとして振付けなおしたら、どんなものになるだろうか、ということです。
 というのも、今日のダンスはあくまで西洋人ダンサーの動きであり、西洋バレエの延長線上にある動きのように見えましたし、ダンカンのスピリッツというより、ダンカンの手法・戦略を実現しようとしていることにとどまっているように見えたからです。
 ダンカンは自分の思想を実現するために、あのような手法を取りました。いま、逆に、彼女の手法をなぞることで、彼女の思想を実現できるだろうか、と私は思うのです。彼女の思想を現代日本で実現するためには、思い切ったアプローチの転換が必要なのではないか、と。
 私だったら、より即興性を重視するでしょう。そして、日本女性の日常的な所作をダンスとして取りこむプログラムを作るでしょう。たとえば「お茶をいれる女性」の所作。これをダンスととらえることはできないでしょうか。その所作を美しいと見ることはできないでしょうか。イサドラ・ダンカンが日本に来たら、これをダンスにしようと思わなかったでしょうか。
 ほかにもいろいろあると思います。立ったり座ったりもそうです。雑巾がけの所作などいかがでしょう。
 また私だったら、音楽はありものを使わないでしょう。せっかく生身のダンサーがいるのに、音楽が録音物というのはいかにも寂しいじゃありませんか。パーカッショニストひとりでもいいし、つたないピアニストでもいいので、とにかく生身の音がほしいですね。ダンサーを尊重するためにも。

 私がやっている現代朗読は、イサドラ・ダンカンがダンスの世界でやろうとしていたことを、朗読の世界でやっているといっても遠くないように思います。しかし、現代朗読では根本的に「日本語」であり、日本人の所作をベースとします。また、モダンではなく、コンテンポラリーまで時間軸を進めます。伝統的な系列の延長線上には手法を置かないのです。あくまで「手法を」ですが。
 今日観たイサドラ・ダンカン・ダンスが、イサドラ・ダンカン・トラディショナルではなく、イサドラ・ダンカン・スピリッツを実現するための、モダンではなくコンテンポラリーな舞踊団体に進化していくことを、私はげろきょを主宰する立場からつい夢見ていました。

2012年初ラジオはまりも&野々宮と

2012年、現代朗読協会も精力的に始動しました。
 活動の中心の場になっている表現ゼミに参加している朗読者のまりもちゃんと、年末年始の様子などをうかがいながら、今年の抱負についても語り合いました。途中から野々宮卯妙も参加して、羽根木の家での掘りごたつトークとなりました。

 表現ゼミは随時、参加者を募集中しています。興味のある方はこちらをご覧ください。

 ケロログ「RadioU」で配信中。

パフォーマーにとってのライブとコンテンツ制作

音楽でも朗読でもそうですが、パフォーミングアートには「ライブ」という形式と「コンテンツ」つまりCDやダウンロードデータという形式があります。
 ライブは観客の前でおなじ時間と空間を共有しておこなうもの。コンテンツはパフォーマーが都合のいい時間と場所を使って作りこみ、オーディエンスもそれを自分の都合のいい時間と場所で楽しむ、ということになります。
 私はこの両方ともやるし、だれかにやってもらうこと(プロデュース)もしています。
 その過程でかねてから感じていたことがあります。それは、自分の「常態」をライブに置いているパフォーマーは、コンテンツ制作においてもとても魅力的なのに対し、常態をコンテンツ制作に置いているパフォーマーはライブではまったく使いものにならないことが多い、ということです。
 ライブでは多くの人と生身で関わります。当然ながら予測のつかないことがいろいろと起こります。なかには不愉快だったり、身の危険を感じるようなことも起こることがあります。なので、ライブを嫌い、コンテンツ制作だけに引きこもる人の気持ちがわからないではありません。しかし、人間は時間のなかを生き、他人とコミュニケーションを取りながら変化していく生き物なので、ライブこそパフォーマーのもっともイキイキする場なのではないかと思います。
 今年もそういうパフォーマーたちとおもしろいことをたくさんやっていきたいものです。

2012年1月12日木曜日

げろきょ石巻ボランティアツアー映像記録の抜粋

現代朗読協会が三谷産業のバックアップを得ておこなった東北ボランティアツアーは、9月と11月の2回にわたりましたが、その2回めの模様の抜粋です。
 2011年11月13日と14日の両日、宮城県石巻市の仮設住宅地の集会所を回っておこなってきた、計4回にわたるボランティアイベントの抜粋映像です。
 なおテキストと写真によるツアー報告は、こちらでご覧いただけます。

体験講座、畳の学校、ぴあののことば

風邪を老獪にうまくやりすごした私は、いろいろと予定をこなしていきます。
 今週末の土曜日は「現代朗読体験講座」です。たいていの方はおそるおそる来られるのですが(なにしろ現代朗読協会なんてほとんど知られてませんからね)、参加した方はたいていびっくりされます。「目からウロコでした」というのはいつも聞く言葉ですし、「朗読がこんなに楽しかったなんて」というのも多くの方がおっしゃります。
とにかくおもしろいので、まずは体験していただきたいです。
 来週はじめの月曜日は「畳の学校」が始まります。参加者のみなさんが共に作る、共感的な学びの場です。運営のベースに「共感的コミュニケーション」というスキルを使います。これはコミュニティや組織運営にとても威力を発揮するスキルで、ここからなにかおもしろいことが始まることを確信しています。
 その二日後の水曜日は、下北沢・音倉でのランチタイムコンサート「ぴあののことば」です。ここでは毎回、私のピアノ演奏と朗読のちょっとしたチャレンジをさせてもらっているんですが、今回もピアノの「音と演奏」に関してのあたらしい試みをさせてもらう予定です。
 みなさん、来てくださいね。

2012年1月11日水曜日

老練なる体調管理と風邪対策

昨年もおなじような時期におなじようなことをいってたような気がしますが、この歳になると風邪を引きかけても老練にそれをやりすごす技を身につけるものです。
 数日前、人ごみ(というのもすごいいいかたですが)に出たときに、風邪菌をもらってきたらしく、うっかりその侵入を許してしまいました。結果、症状が出るわけです。典型的にくしゃみ、鼻水、鼻づまり、そしてお腹にも来ました。幸い、まだ熱はありません。前兆です。
 こういうときにどう対処するかで、事後が決まります。
 今回、私はまず、お茶でした。緑茶をたくさん保温水筒に入れて、どんどん飲みます。つまり水分の補給。そしてものはあまり食べない。消化にたくさんのエネルギーを使うので、内蔵はできるだけ休ませます。
 いったん侵入してしまったばい菌は、いまさら追い出すこともできないので、体内の免疫系がそれを処理してくれる環境を整えます。暖かくして、しかし汗を無理にかくほどでもなく、睡眠を充分にとります。睡眠をとれなくても、身体を横にして安静にしているだけでも免疫系は働いてくれます。
 回復のきざしが見えたら、ビタミンやミネラルをたくさん含む消化吸収のよい食事をとります。
 たぶん今回も寝込まずに、軽微にすむでしょう。

2012年1月10日火曜日

イヤホン・ヘッドホン選びはむずかしい

Apple製品はすばらしいと思うけれど、音楽を聴くための機械でもあるはずのiPodやiPhoneに付属のイヤーヘッドホンは音が陳腐すぎてお話になりません。私は付属のものは使わず、少しお金を払って、ましなイヤーヘッドホンを使うようにしています。
 といっても、最近は驚くほど多くの種類のイヤーヘッドホンが出ています。量販店でもその売場面積は拡大する一方です。どれを選んでいいのか迷うんじゃないでしょうか。
 私は仕事柄、多くのヘッドホンやイヤホンを使ってきました。その経験から、メーカーによって多少の個性の偏りがあるような印象を得ています。もちろんメーカーごとにも価格帯が大きく違ったり、製品コンセプトが違ったりするので一概にはいえませんが。
 以前、声の仕事の人が使うためのヘッドホンについて書いた記事があるので、興味がある方はご参考までにこちらをどうぞ。

 今日は、たまたまいま手元にあるイヤーヘッドホンの聴き比べをしてみようと思います。
 まずは私がこのところずっと愛用しているゼンハイザーというメーカーの「CX300II」という機種。3,000円代で買えます。インナーイヤー式で、ノイズキャンセリングなどはありません。
 これは安いくせに全音域についてバランスがよく、特性はフラットに近いようです。そして音像がくっきりしているので、軽くコンプがかかっているみたいに小さな音もくっきりと聴こえます。高音域も低音域も必要以上にブーストしていないところが好きです。
 人の声や自然音などはこの点がいいんです。

ソニーの同価格帯の「EX300SL」という機種。
 ソニーは私もかつて大変愛用してました。ポップスやジャズ、ロック、フュージョンなど、クラシック以外の音楽全般にオールマイティで、バランスがいいといえます。とくに低音域の迫力と、高音域の抜けの良さはかなり気持ちいいです。もっとも、音量が足りないとシャリシャリしてチープな感じになってしまいます。ある程度音量をあげて聴く音楽に適しているといえるかもしれません。

 もう一個、ソニーが出てきました。これはどうやら、MDウォークマンについていたやつのようです。
 EX300SLと似た感じです。ただしこちらのほうが全体的に薄っぺらく、硬い印象があります。でもけっこうな音質です。

 iPhone付属のもの。実は以前、iPhone付属のものと、iPod nano だっけな、付属のもの同士を比べてみたことがあります。おなじメーカーなのに、明らかに種類の違うものでした。iPhoneのほうがクオリティが高く、iPodはちゃちだったんです。
 今回はiPhone付属のもの。全然使ってないので新品同様です。
 で、あれ? 以外にましな音じゃん。以前、聴き比べて、音質が悪いと思った印象が、さらに自分のなかで悪評価として定着しちゃってたみたいです。でも、案外聴ける音。
 とはいえ、ゼンハイザーやソニーに比べるとちょっと落ちます。深みのない音で、音像もやや曖昧な感じ。こういうイヤホンはどうしてもボリュームを稼いで聴きたくなりますが、難聴になるのが怖いので私はあまり大きな音で聴かないようにしています。

 ついでにもう一個。ローランド。これはバイノーラル・マイクロホン・ヘッドホン「CS-10EM」というもので、ヘッドホンであると同時にマイクでもあるという代物です。耳のところにマイクが付いているわけで、自分が聴いているとおりの音や位相で録音できるというおもしろいものです。
 このイヤホンのみを聴いてみました。
 だめですね、やはり(笑)。かなりいい加減な音です。まあ、録音するためのものですからね。

 以上の比較は、安いイヤーヘッドホンでしかおこなっていませんので、高価格帯のものやノイズキャンセリング機能がついているものについてはどんな音なのか責任は持てません。
 あと気になるメーカーとして、音響専門メーカーのAKG、フィリップス、日本のオーディオテクニカ、そしてもちろんBOSEなどがありますが、これらはまだ試す機会がありません。以前、パナソニックが意外によかった記憶があります。いまは使ってませんが。

便利さのなかで失われたもの

時代の変化、というと、つい大きな歴史的できごとを思い浮かべてしまいます。学校で習うし、マスコミでもそういう取り上げ方をするからでしょう。たとえば近代の大きな変化というと、明治維新、日中戦争、太平洋戦争、高度経済成長、オイルショック、バブル崩壊、911テロ、311大災害と原発事故、というふうにとらえます。しかし、実際の私たちの生活の変化は、これらの大きなできごととは関係なく起こっているのです。完全に無関係というわけではありませんけどね。
 日本人の生活は江戸時代から明治、大正、昭和と、あまり大きくは変わっていません。かまどに火をくべ、薪でお湯をわかし、畳の上で生活し、布団で寝る、といった生活をずっとつづけてきたのです。私が子どものころもそうでした。幼いころは風呂はまだ薪でしたし、家に「洋間」はありましたが、基本的は畳の部屋でした。もちろん洗濯機も冷蔵庫もテレビも電話もありません。
 それが劇的に変化したのは、昭和35年くらいからです。東京オリンピックの39年を境に、変化は加速していきます。それが便利で文明的な幸福な生活だと信じていたからです。
 いま私は立ちどまって問いたいと思います。それで本当に幸福になったのか、と。本当の幸福とはどういうものなのでしょうね。

2012年1月9日月曜日

ダンス・インパクト吉祥寺 Vol.1 に行ってきた

ゼミ生のなおさんに誘われて、ちょうど時間があったので、吉祥寺シアターまで行ってきました。
 出演は「キリコラージュ」「クリタマキ」「MOKK」の3組。主催は武蔵野文化財団。
 いや、おもしろかった。ちょっとびっくりしました。
 コンテンポラリー・ダンスの世界では有名な人たちなのかもしれませんが、私はいずれも知らない人ばかりで、もちろん初めて見ます。しかし、どれも大変おもしろかったのです。
 そういえば、出演者は全員女性でした。

「キリコラージュ」はふたりの女性のデュオダンス。演劇的要素があったり、ちょっとユーモラスでポップだったり、楽しいのですが、ダンスのキレは大変すばらしい。
「クリタマキ」はソロダンス。梶井基次郎の作品『檸檬』をモチーフにした作品で、最後にはたぶん500個くらいのレモンがステージ上にばらまかれて、それを蹴散らしながら踊るという壮観。かなりハードなダンスでした。
 そして「MOKK」がすばらしかったのです。演出と振り付けがすばらしく、一瞬たりとも目が離せないようなスリリングなパフォーマンスでした。そして私好み。コンテンポラリーの王道のような動きから、人が入れ替わってのめまぐるしいトリッキーな動き、不気味な群舞、そして歌にもびっくり。全員が声を出して音響空間を作りながら踊ったのです。音楽の扱い方も秀逸でした。
 始まってしばらくしてから思ったのは、これはげろきょのパフォーマンスの朗読をダンスにしたものにそっくりだ、ということです。つまり、コンセプトが似ているのです。

 コンテンポラリーはダンスも朗読も「意味」や「形式」をはずして、そこにむきだしのコミュニケーションを作ります。今回の3演目についても、意味や形式ではなく、こちらの感情にじかに触れてくるようなところがありました。危うさ、悲しみ、喜び、怒り、情熱といった感情が、言葉を介することなく直接刺激されるのは、日常生活ではあまりない経験です。いや、本当は日常生活でもそういうことは起こっているはずですが、私たちはそれを隠蔽して生活しています。そこの部分に触れられるのは怖いことでもあり、同時に癒しでもあります。そして心身の活性化をうながされます。
 お客さんはなぜか家族連れが多く、どう見てもコンテンポラリー・ダンスのオーディエンス層とはかなりずれている感じがしたんですが、最後には大拍手でした。

若さゆえの硬直性(私の場合)

自分の成人の日になにをしていたのか、まったく記憶にありません。とにかく、成人式に出なかったのは確かです。
 20歳の成人の日には、京都にいたことは確かです。ほとんど学校に行かない不良学生をやってました。住んでいたのは出町柳。当時はまだ京福電鉄の叡山電車の駅がまだ古い駅舎で、京阪電車もここまで延びていませんでした。駅前には小さな商店街があって、コーヒーショップ〈カミヤ〉もありました。カミヤはいまはどうなったんだろう。
 私が住んでいたアパートというより下宿部屋は叡山電車の線路に面していて、首を出せば出町柳駅の構内が間近に見えました。古い下宿で、共同玄関で靴を脱いで下駄箱に預けてあがる方式でした。古い廊下の突き当たりに共同炊事場がありました。もちろんトイレも共同。風呂はなし。風呂は百万遍の銭湯まで歩いていきます。
 いまから思えばとてもレトロで貴重な環境だったと思いますが、当時はその古臭さがいやなばかりでした。田舎から出てきた若者にとっては、京都といえどもその程度の感覚しか持っていなかったんでしょうね。振り返ってみれば、若さゆえの無感覚やもったいない経験をたくさんしてきました。
 いまの人はどうかわかりませんが、若いというのはむしろ思考や感覚が硬直していることが多かったような気がします。

2012年1月8日日曜日

iRig mic を使ってみた(すぐれもの。こりゃええわ)

iKmultimedia社の iRig mic が先日届いたので、使ってみました。
 これは高性能のコンデンサーマイクを直接iPhoneやiPadにつないで、アプリを通したアウトをミキサーやアンプにつないで加工した音を出せるという、なかなか画期的な製品です。
 アプリもいろいろと使えます。録音アプリもありますし、さまざまなイフェクターをビルトインしたアプリや、アンプシミュレーターアプリなど、使い方によってはかなりおもしろいことができます。
 とくに専用アプリの「VocaLive」を使えば、ヴォーカルにさまざまなイフェクトをリアルタイムに加えることができます。コーラス、リバーブ、イコライザー、コンプレッサーなど、すべてそろっています(アドオンは有料)。
 どんな感じなのかは、こちらの紹介映像を見てもらえばわかります。

 私がこれを買ったのは、ボーカルのためでもギターのためでもありません。実はアコースティックピアノの音を加工するためです。
 指向性のあるコンデンサーマイクをピアノの弦に向けて音を取り、それをiPhoneに入れます。アプリで加工して、それをミキサー&アンプスピーカーに戻します。ピアノの生音とイフェクターを通した音を同時に出して、ある効果を得ようというねらいなのです。
 コーラスやエコーを通したピアノの音が、生音と合わさってどんな効果が出るのか、やってみようと思ってます。
 この実験は、来週18日・水曜日の下北沢・ランチタイムコンサート「ぴあののことば」でやってみるつもりです。

寒の内に入って本格的な寒さが

寒の入りをすぎ、実際にかなり冷えこんでます。みなさん、風邪などめされてませんか?
 私はいたって元気ですが、もともと寒さに弱い体質なので、かなり重装備で注意しながらすごしてます。
 三が日に実家でストーブの薪運びをしたとき、寒さにちぢこまったまま中途半端な姿勢で重いものを運んだので、どうやら腰の深層筋を傷めてしまったようです。たぶん内腹斜筋という筋肉で、ここは以前にも何度かやっていて癖になっているみたいです。おかげで立ったり座ったりするときにかなり痛い。まあ、普通の生活には支障はありませんが。
 一昨日からげろきょこと現代朗読協会のゼミやワークショップの活動が始まっています。皆さんといっしょにストレッチや呼吸、ヨガのポーズをやったりしていると、徐々に身体が暖まってめざめていく感覚が気持ちいいのです。
 昨日は「寒の入り」で、暦上ではこれから本格的な寒さがつづく時期です。この節分までの期間を「寒の内」というそうです。年賀状を出しそびれたり、返事が遅くなった人は、「寒中見舞い」として出せばいいでしょう。それは私のことですが。
 今日も東京は晴。冬型の天気もゆるみ、私の実家のある北陸のほうでも今日はおだやかな天気のようです。

2012年1月7日土曜日

マインドフルにゆっくりと大切に生きる

今年もゆっくりと進んでいきます。まだ年が明けてから7日しかたっていませんが、1か月くらいたったように感じます。時間がこのようにゆっくりと進むように感じるようになったのはほんのここ5、6年のことで、その理由ははっきりしています。「マインドフルネス」ということを意識するようになり、それを実践するようになって以来です。
 それを知らなかった50年間の人生を、私は本当に生きいそいでいたし、マインドレスだったと思います。そのことを悔やんでいるわけではなく、ただ以前はそうだったし、いまはそうではない、というだけのことです。
 マインドフルネスというとなにか宗教やスピリチュアルなことと関係があるように思う人がいるらしいですが、実際には違います。もちろん宗教やスピリチュアル系でもマインドフルネスの大切さをいったり、その方法を取りいれている人たちもいますが、本来は人の意識のありようのひとつです。
 これは最近とくに心理カウンセリングの世界でも取りいれられるようになってきました。人が陥りやすい抑うつや不安を未然に解消するのに大変有効な方法であることがわかってきたからです。
 そういったこととは別に、生きる時間を大切に、つまりは自分自身をおろそかにせずに生きていくために、とてもよい方法なのです。

2012年1月6日金曜日

現代朗読協会の表現ゼミ生、2012年1月生を募集します

現代朗読協会では朗読、読み聞かせ、身体パフォーマンス、即興音楽、テキスト表現など、自己表現を研究するためのゼミナールを開催しています。その2012年1月生の募集のお知らせです。
「ことば」と「からだ」からスタートして、すべての表現に通底する原理を共感的に学びあうための場です。

◎日時 協会カレンダーをご覧ください
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    世田谷区羽根木1-20-17
◎参加 現代朗読協会のゼミ生になっていただきます

こちらのフォームからお申し込みください。

 また、羽根木の家に来れない方のために、Google+のビデオチャットシステムを利用したオンライン参加も用意しています。ご利用ください。

 非営利活動法人現代朗読協会についてはこちらをご覧ください。

未来を女性と子どもたちに

男性性と女性性ということについて考えています。
 命をつなぐ性である女性は、子どもの命のことを第一に考えています。男性はもともと、それをサポートするために生まれてきたのです。古代社会を見ればそれは明らかです。古代では女系家族があたりまえでした。しかし、それが過度になると、富の蓄積、権力の濫用、組織の強化といった「副作用」を生んでしまいます。
 5000年くらい前から始まった農耕と、それにともなう文明、国家の成立によって、男性が優位に立つ社会が加速されていきました。とくに産業革命以後、それは加速され、富の囲いこみや対立、つまり戦争・紛争が頻発しています。
 私たちはいま、社会全体を女性の手もとに返すべきではないでしょうか。独占欲を肥大させた男性性ではなく、命をはぐくむために有限の資源を共有し、共感しながら助け合う感性を持つ女性性に未来を託すべきではないでしょうか。
 国や地域のさまざな議会、委員会を見ると、席のほとんどを男性が占めています。これが女性が占めるようになれば社会は大きく変わります。
 男性が作ったどんづまりの現代社会は、女性の手によってしか起死回生できないと思います。未来を女性の手に託しましょう。私はそのためのサポートを惜しまないつもりです。

2012年1月5日木曜日

「評価を手放す」年頭から大反省(私は評論家ではない)

昨日、金沢の21世紀美術館に行って観てきた現代アート作品について私見を書いたんですが、そのなかに私の「判断」と「評価」がはいっていて、大変恥ずかしい思いをしています。あれほど皆さんには口をすっぱくして、表現の世界では「評価を手放す」ことをいっているのにね。
 自分自身の確認のためにも、あらためて書いておきます。

 私たちはなにかを見るときに、必ずなんらかの「評価」をくだそうとする習性を身につけてしまっています。それは教育や社会制度のなかで後天的に身につけてきたものです。資本主義という制度とも深い関係があります。
 商品経済においては、まず商品に対して一定の評価基準を持つ必要があります。そうしないと価格が決まらないからです。商品に対して評価が高ければ価格も高くなる。低ければ価格も低くなる。これが商品経済の根幹をなすシステムです。
これを私たちは人間関係や表現の世界にまで持ちこんでしまうのです。
 AさんよりBさんのほうが成績がいい。Cさんのほうが足が速い。Dさんは収入が多い。Eさんのほうがピアノがうまい。Fさんは絵が下手。
 こうやって、私たちは人間関係においても、飽くなき評価をつづけて「序列」をつけることに腐心します。序列がつけば、上下関係が生まれます。AさんよりピアノがうまいEさんは、発表会でも終わりのほうに出てきます。Aさんは最初のほうで発表します。下手だから。
 ピアノ教室の発表会のプログラムを見ると、きちんと「うまい順」にリストができています。
 これほど非人間的なことがありましょうか、という話です。
 私たちは商品ではないのです。
 表現も商品ではありません。表現行為は私たちが生きているからするのであって、商品として売るためではありません。自分の生きているあかしをだれかに伝えるためにするのです。だから、表現に序列をつけるなんてのはとても悲しいことです。
 もちろん人それぞれ「違い」はあります。しかしそれは上下にならべるべきものではなく、差異として横に並べればいいのです。表現はそういうものです。人の存在とはそういうものです。

 ところが困ったことに、資本主義商品経済においては、表現にも値段がつけられます。芸術パフォーマンスにも価格がつけられ、入場者数や売り上げに応じて芸術表現者に対して価値判断がされます。また、そういう判断をする専門家である「評論家」という人種もいます。
 私はこういう行為を自分にもいさめていたはずだったのに、やはりつい個人的ではあれジャッジの入った文章を書いてしまったり、話したりしてしまいます。
 私は評論家ではなく、自分も表現者でありたいのです。実はすべての人が表現者なんですけどね。
 今後私は、なにかを観たり聴いたりしたとき、評価ではなく、自分の身体と心のなかを注意深くのぞきこんで、そこで起こっていることだけを書きたいと思います。

変化を続けてきたげろきょ

 2006年3月にNPO法人として認可を受けたげろきょは、今年2012年で丸6年になります。たった6年のあいだにたくさんのできごとがありましたし、なによりげろきょそのものが大きくカーブを描いて変化してきた年月だからです。
 変化には3つのフェーズがありました。
「参加者の変化」「場の変化」「理念の変化」
 そしてこれらはお互いに影響しあっていて、不可分の要素です。逆順で考えてもいいかもしれません。
 しかし、まずは「参加者の変化」から始まったのだと思います。2009年からでしたが、体験講座というものを始めたのです。声優でもナレーターでもアナウンサーでも、あるいはそれらをめざしていないごく普通の人たちが「朗読表現」をやってみたい、といって来るようになった、そのときからげろきょの大きな変化が始まりました。
 それが現在の、ほかのどの団体とも違うユニークな「場」と「理念」を作ることになったのです。大きな感謝をもってそのことを振り返りたいと思います。
 14日には今年最初の体験講座です。すでにお申しこみをいただいてますが、まだまだ余裕がありますので、興味がある方は気兼ねなくいらしてください。

2012年1月4日水曜日

面倒をいとわない人のところに幸福が集まる

恋人ができたとします。大切なその人のことをいつも想い、なにかその人のために自分ができることはないか、どんなことをしたら喜んでくれるのか、いつもかんがえます。かんがえるだけでなく実行に移します。
 ときには花を贈ったり、料理を作ったり、いっしょに映画を観たり買い物に行ったり。とにかく気にかけ、手をかけて、その人を大切にします。このような行動を「まめ」といって、やや揶揄するような風潮もありますが、だれかを大切に想い、その人のためにあれこれするのはとても自然な気持ちでしょう。
 しかし、いったんその人のことを嫌いになってしまうと、あれこれ想ったりおこなったりすることがとても面倒になります。できればなにも考えたくなくなるし、したくなくなります。
 相手が恋人でなくてもおなじことです。自分にとって大切な人、深いつながりを持っている人のことを、人はいつも想い、自分にできることがあれば喜んでおこないます。つながりが切れてしまうと、あれやこれやがとたんに面倒になります。

 だれかと気持ちよくつながっているためには、メンテナンスが必要です。声をかけ、いっしょになにかをして、おなじ時間をすごす。話を聞き、聞いてもらい、ときには手紙を書いたり、贈り物をしたりする。面倒なことをいとわずにつながりのメンテナンスをします。
「そんな面倒なことをしないと切れてしまうようなつながりは、もともと深いつながりじゃないんじゃない?」
 という人もいるかもしれません。本当にそうでしょうか。
 冒頭に出した恋人の話のように、深いつながりがあれば面倒なことも面倒とは感じないのです。面倒だと感じはじめたら、それはつながりの質が低下しているからなのです。そのまま切れてしまってかまわないならなにもしなくてもいいでしょう。しかし、つながりつづけたいのにメンテナンスをおこたったために切れてしまった関係のいかに多いことでしょう。
 もっとも、人はあまりに多くの人と密接なつながりを持ちつづけることはできません。なにしろ、つながりのメンテナンスには時間と手間がかかりますから、人によっても違うでしょうが数人から数十人といったところでしょうか。それ以上になるとどうしても手抜きが生まれてしまいます。

 つながりのメンテナンスをいとわない相手とは、深い関係がつづきます。それは結局、自分自身の幸福でもあります。だれかと信頼しあい、心おきなくつながっているとき、人は幸福です。それがなくなると不幸になり、ときには病気になったり、犯罪に走ったりします。
 手をかける、面倒をいとわない、ということは、人との関係以外にもあてはめられます。
 毎日、面倒がらずに掃除をする、洗濯をする、料理を作る、洗い物をする、ペットの世話をする、といったことも、幸福と深い関係があります。私たちは「手を抜く」ことから不幸が始まるのです。
 現代生活を見てみてください。私たちの身のまわりには手を抜くための道具があふれています。
 私が子どものころ、まだ電化製品はほとんどありませんでした。母はいつも、雑巾がけをし、近所の清水で洗濯物や洗い物をしていました。さすがにかまどはありませんでしたが、ガスでご飯を炊き、お風呂は薪でした。きっと大変な労働だったと思いますが、いつも思い出すのは楽しそうに家事をこなしていた母の笑顔です。いまでも年老いた母は、一日中仕事部屋にいて、繕い物をしています。いまでも時々、私の服やセーターを作ってくれます。
 電化製品を使うことが悪いといっているのではありませんよ。手をかけることは愛情そのものなのだ、といいたいのです。
 私が玄関掃除をする。トイレ掃除をする。料理をする。洗い物をする。きっとだれかが喜んでくれるでしょう。それは多くの人ではありません。数人の、私とつながりを持っている人たちでしょう。その人たちが喜んでくれることで、私のところにも幸福がやってくるでしょう。私が面倒なことをいとわずにすることで、私のところに幸福がやってきます。
 消費社会のなかで私たちが支配者から刷りこまれてきたこと。それは、
「楽することで幸せになれる」
 という間違ったかんがえです。事実は逆です。楽することで、人は不幸にしかならないのです。
 恋人を喜ばしたいという気持ちで、私は日々のことを喜んでやろうと思います。

金沢21世紀美術館に「モニーク・フリードマン展」を観に行ってきた

ここ数年、正月に21世紀美術館、通称「まるび」に行くのが通例となっています。
今年も行ってきました。
 正月のまるびは親子連れが多く、子どもたちが元気でにぎやかです。若いカップルや年輩の方も多くて、とてもここが現代美術館とは思えないほどです。これほどファミリーでにぎわう現代美術館が日本のどこにあるでしょうか。奇跡のような成功例だと思います。

 さて、目当てのモニーク・フリードマン展。作品点数は多くありません。が、大作や新作があって、見応えがあります。2.5メートル角の巨大なキャンバスに均一に色を塗りつけ、それにパステルで断片的な曲線を描きちりばめた作品。着色した布を一面に吊るしたインスタレーションのような作品。和紙を壁一面に貼りつけ、空気の動きによって揺れ動くようにした作品。
 作品に意味はありません。なにか具体的なものが描かれているわけではありません。が、これぞコンテンポラリー・アート鑑賞という、深い体験をすることができます。
 色面はただ均質に塗られているわけではなく、そこには作家の手の動きと存在が感じられます。ランダムに描かれたパステルの曲線の動きは生命体そのものので、作家の存在と命を感じます。と同時に、それを見る私の感情と命が感じられます。
 抽象的で、しかし哲学的に陥らず、女性らしい柔らかな命の光にあふれたすばらしい作品群でした。
 私がやっている現代朗読でも、このような質感の朗読パフォーマンスの実現を試みてみたくなりました。
(昨日upした内容で個人的感想とはいえ、一部行きすぎた表現がありました。不快に思われた方に謹んでお詫びいたします)

めんどくさいは楽しい

実家には薪ストーブがあるので、この三が日は私は基本的にずっとストーブの番でした。
 薪ストーブはとても暖かいんですが、火の面倒をこまめに見てやらなければなりません。薪を絶やすと火は消えてしまいます。また、朝方に火を入れるのもコツがいります。スイッチオンですぐ暖かくなるエアコンや石油ストーブと違って、暖かくなるまでに時間がかかります。
 とにかく面倒なのです。面倒を楽しいと思えなければやっていられません。
 薪の調達も大変です。地元の林業組合やら薪業者と信頼関係を作っておいて、安定的に供給してもらう必要があります。最近は薪ストーブブームで、新築でも薪ストーブを設置する家が多いですから、薪を確保するのに皆さん苦労されているようです。
 しかし、実際には薪はいくらでもあるのです。幸いなことに、日本の森林は切ってもいくらでも生えてきます。丸裸にしても、十年、二十年たてばまた立派な森になります。もっともそのためには人の手をたえず入れる必要がありますが。
 その人の手に対しての対価が、経済優先のために見合わなくなり、外材を入れるようになりました。面倒を見る人がいなくなり、森林は荒れる一方です。
 ウランや化石燃料を消費しない薪ストーブはとてもすぐれたエネルギー源ですが、そのためには人が労力をいとわない社会が必要なのです。私はともかく、毎日の玄関掃除から始めましょう。面倒なことは楽しいのです。

2012年1月3日火曜日

国や制度や社会を嘆くのはもうやめよう

消費増税の決定、社会福祉基盤の弱体化、格差の拡大、原発事故、教育や文化への国家予算削減など、国の制度や社会基盤について将来のことを思うと暗くなるばかりです。
 私も現代朗読協会の活動を通して、たとえば助成金申請などの局面でさまざまな制度の理不尽を経験しています。また、お母さんたちの話から教育現場に対する危機感も感じます。東京と北陸の実家を行き来していると、地方格差を痛烈に感じますし、東京でも格差社会の拡大を肌で感じます。安定的高給を受けている大企業や公務員と、中小企業や派遣・パート・アルバイト、自営業者との収入格差は驚くほど開いてますし、そのことについて社会はなんの対策もしていないばかりか、資本主義というシステムが格差の拡大をさらに押し進めています。
 国も社会も、だれもが笑顔で希望を持って暮らせるはずの自由競争が、そのシステムのどん詰まりに来ているように思います。
 ここで私たちが声高に「なんとかしてくれ」「きれいな日本を返せ」と叫んでも、それはだれに届くというのでしょう。この声を受け止める政治家も役人も存在しません。
 それならいっそ発想を変え、私たちの生き方を変えるしかありません。つまり、国家や社会システムに頼るのはもうやめて、自分たちでなんとかしようと努力するのです。てんで勝手に私たち自身があたらしい道すじを作ればいいのです。

 国家という枠から自由になり、自分の手元を見つめ直して生きていく方策を作ることはできるでしょうか。
 私たちがなにも考えずにそこに身を置いてしまっている枠組みから、まずは身をはがしてみる。国家、企業、流通、資本主義と消費社会、エネルギー、教育。これらから自由になり、かわりに自分たちでやれることをやっていく。可能でしょうか。
 生産者になることがもっともこの近道かもしれません。農業をはじめとする生産者は、これまで大きな枠組みに入ることで生産流通の保証を受けてきました(受けていると信じてきた)。たとえば農業だったら、農業協同組合に入ることで米などを買いあげてもらう保証を受ける。そのかわり、生産方式を指定され、農業機械をローンで買わされ(ローンは農協で組む)、種を買い、飼料や農薬を買い、農地改革に応じ、海外ツアーに出かける。その結果が現在の農村の疲弊であり、高齢化です。若い人はいまの農業にまったく魅力を感じることができません。だれも農業をやりたくないという現状があります。
 この枠をはずす。つまり農協から離脱する。自分たちの農業をやり、自分たちで流通を作り、自分たちで売る。現にそうしはじめている生産者がいます。社会全体が変わらないせいで彼らはまだまだ苦しい生活をしいられていますが、それでも成功しはじめている人たちがいます。
 あるいは地域の農協が全国農協ネットワークから離脱してもいいかもしれません。農業が本来あるべき地域に密着した、地域コミュニティとネットワークした仕組みを作りなおせないでしょうか。

 生産者だけでなく、文化の担い手も同様です。
 表現活動をおこなっている人たちのことを、ちょっと乱暴ですが、ここでは「アーティスト」と総称しておきます。アーティストたちは、コンテンツを作ったり、ひと前でパフォーマンスすることをお金に換えたりして生活しています。しかしここに来て、コンテンツはまったく売れなくなりました。パフォーマンスも同様で、巨大なホールに人を入れるような興行をおこなえるのはごく一部のアーティストだけです。かなりの有名アーティストでも、100人、200人規模のライブハウスですら満席にするのは難しくなっています。
 ならばそういうマスシステムから離脱すればいいのです。
 ひとりのアーティストが生活するのに何人の支援者が必要でしょうか。彼がCDを出すたびに買ってくれ、ライブにはできるだけ来てくれる人。また彼に表現を習いたいと思ったり、彼がなにか活動をするとき寄付をしてくれるような人。
 おそらく百人規模のサポーターがいれば、ひとりのアーティストは生活していけるのだと思います。もっとも、そのアーティストが自分のサポーターと積極的にコミュニケーションを持ち、社会活動に関わっていることが必要ですが。
 このアーティストは教育に関わることもできます。教育はまちがいなく社会が必要としていることで、次世代のアーティストを育てるためにも、あるいはアーティストではなくても感受性や思想を育てるためにも必要なことです。お仕着せの学校教育に絶望している人はたくさんいます。アーティストが自分で学校を作ってしまえばいいのです。私塾でもいいです。 アーティストは自分の技能と感性と思想を次世代へと伝えていく積極的な姿勢を持たねばなりません。

 以上はかなり大雑把で雑然とした提案ですが、私たちが国家や既存の社会システムに頼らず自分の手であたらしい暮らしのコミュニティを作っていく方向性はこういったものだと確信しています。
 このことについては、いずれ近いうちに、緻密に考証しながらしっかりと文章にまとめてみたいと思っています。皆さんにもお知恵を拝借できれば幸いです。

私の幸せ、幸せな私

私の新年は、元旦から北陸の実家に帰省して、ずっとテキスト表現ゼミの機関誌『HiYoMeKi』第3号の編纂作業をしてました。
 もちろんその合間にはおせちやら、親戚からいただいた飛騨牛のすき焼きやら、ズワイガニの焼きガニやらの食三昧でもあったんですが。
 ゼミ生の作品はますます楽しく、それを編纂する作業も幸せなのです。また、自分自身にも書きたいものがたくさんあります。それはまったくお金にはならないだろうけれど、多くの人に読んでもらえるという幸せがあります。
 数日後にはまた東京に戻りますが、するとげろきょのゼミがあります。朗読やテキスト表現や音楽などのジャンルをとっぱらった表現ゼミです。これは、共感的コミュニケーションを用いた人との共同作業の場です。お互いに理解しあいながらクリエイティブな場を持てるというのは、とても幸せなことです。
 朗読から派生した音読療法のセミナーもあります。これは困っている人たちのお役に立ちたいという、社会参加のための活動です。社会参加といえば、16日からは「畳の学校」という開かれた学びの場もスタートします。
 お金がないとか、時間がないとか、困ることは多々ありますが、私の人生、こうやって見るととても幸せですよね。ありがとう。感謝してます。

2012年1月2日月曜日

本のなかに答えはない、答えは自分のなかにある

徳島在住の遠隔ゼミ生であるたるとさんのために、昨年末、朗読テキスト「ギターを弾く少年」を書きました。
 しばらくするとたるとさんからメールが来て、
「どのように読めばいいのかアドバイスください」
 といわれました。
 これは当然のことで、ほとんどの人がこのような反応になります。なぜなら、読むテキストがあって、著者がそこにいれば、どう読めばいいのか聞いてみたくなるのは当然のことだからです。私が朗読者だとしたら、私もそうします。
 しかし、残念ながら、その問いには答えはないのです。

 著者だからといって、その作品をどのように読めばいいのか、あるいはその作品の意図がどのようなものなのか、わかってはいないのです。著者は自分がなにを書きたいのかわからないまま、作品を書いていきます。書きあげたあとでも、なにをいいたかったのかよくわかりません。が、そこになにか美しさが感じられれば、満足します。
 おそらくすべての著者がそうです。それは夏目漱石であろと、芥川龍之介であろうと、太宰治であろうと、村上春樹であろうと、そうだろうと思います。
 しかし、作品を読もうとする朗読者は、著者ならなにかいうべきことがあるだろうと思って聞いてしまうのです。あるいは、作品を読みこめば表現のためのヒントやきっかけや、または正解が隠されているのだろうと信じて、必死に読もうとします。
 残念ながらそれは徒労です。作品のなかにも正解はありません。
 唯一、読むための手がかりがあるとすれば、自分のなかです。
 テキスト作品は、書きあげられた瞬間から作者の手を離れます。それは読み手のものになります。読み手がそれをどうとらえるか。どのように「食べる」か。「味わう」のか。自分の経験とどのような関係性を作るのか。そのことによってしか読み方は決まりません。
 ついでにいえば、読み手の状況も刻一刻と変化します。「いまここ」の自分自身が、目の前にあるテキストを読むにあたってどのような気分なのか。それを正直に、せいいっぱいの瞬発力を発揮して発揮していくこと。それが「いまここ」の観客たちにどのように伝わり、どのようなリアクションがあるのか受け取って、次に進んでいくこと。
 ライブパフォーマンスの醍醐味がここにあります。まさに生きていることそのものの営みです。

 私の作品とて同じことです。
 私は「ギターを弾く少年」という作品をたるとさんのために書きあげました。書いている間は、それは私の表現行為でした。が、書きあげた瞬間から、それはたるとさんという読み手のものになりました。たるとさんがどのように読もうが、私には関知しないことです。たるとさんが、私の書いたテキストのなかになにを読みとろうが、どう読もうが、私にはコントロールすることはできません。もはやテキストはたるとさんの手に渡っているのです。
 たるとさんは私のテキストのなかに、「作者の意図」を読むのではなく、「自分の意図」を読むのです。
 このことを想像するとき、私はとてもわくわくして幸せな気分になります。私の書いたものが、私の手を離れて、広い世界に旅立っていく姿を想像するからです。

 こういったことを伝えたとき、私のゼミ生のたるとさんはもちろんすぐに百パーセント理解してくれ、自分のやるべきことを見つけたようです。それを見て、私もゼミで多くの時間をついやして話してきたことが、たるとさんにちゃんと伝わっていることがわかって、とてもうれしかったのです。
 たるとさんの朗読パフォーマンスは、徳島チャレンジ芸術祭というところで、この1月中におこなわれるとのことです。私は見に行けませんが、楽しみです。

映画「第9地区」を観た

なぜだか全然アンテナに引っかかってこなかったんですが、年末になにか映画でも借りて観ようと思って iTunes Store を眺めてみました。
 SFな気分だったので、ジャンルを絞って見ていたら、この「第9地区」が目にとまりました。タイトルがいい。そして、あらすじを読むと、南アフリカのヨハネスブルクの上空に突然現れた巨大宇宙船、その下に作られたエイリアンたちのスラム街、といった設定がかなり変で、恐るおそる観てみることにしました。
 というわけで、前評判などの事前の情報は一切ありません。

 始まると、なんだかゆるい感じのキャラクターのおっさん(これが後で主人公だとわかるわけですが)がエイリアンを別の地区に引っ越しさせるための大規模作戦の責任者として、テレビカメラに向かってその意気込みを語る、というシーンから始まります。
 それで、彼が勤めるコングロマリット(あとで兵器製造もしているとわかる)の非情そうな重役やら、傭兵部隊やらが出てきて、エイリアン地区に乗りこんでの強制移住作戦が始まります。このあたり、まだなんとなくゆるい雰囲気を、もちろん意図的にかもしだして進んでいきます。
 ところが、あるシーンから「あれ?」という疑念とともに緊張感がじわじわと巧妙にしかけられていき、気がつくと一瞬たりとも画面から目が離せない展開に引きずりこまれてしまったのです。

 色っぽい美女も出なければ、もちろんロマンスもない。かっこいいヒーローもいない。というより、主人公はむしろ利己的でかっこ悪い、へなちょこなホワイトカラー。だれかとの熱い友情物語もなければ、感動的なラストシーンもない。しかし、それ以外は全部ある、という、まさにてんこ盛り映画なのです。
 すごいCGはあるわ、スプラッタシーンはてんこ盛りだわ、糞尿ゲロまみれだわ、あげくにガンダムみたいなロボットまで出てきて、ロートルSFファンにとってはスターウォーズからエヴァンゲリオンまですべてカバーしていると思えるコテコテの映画なのです。
 ストーリー設定は南アフリカだけあって、ちょっとアパルトヘイト問題をきっかけにしているような狙いはあるものの、ことさらに気にする必要はありません。
 なにがこの映画の魅力なんだろう。結局、普通の人間を特殊な状況に放り込むことによって卑劣な部分も含めて全部正直に描いているところかなあ。それをサービス満点の映像で商業的にも成立させている、という。
 ともかく、年末にとんでもないものに遭遇しちゃった、という感じです。

表現の統一理論

すべての表現行為に通底するはずの統一的な理論のことを、ずっとかんがえています。
 芸術とか表現とか、いろいろないいかたがありますが、人が自分を表現しだれかになにかを伝える行為を「表現」という言葉で定義しておきます。
 このとき、表現には二種類ある、というのが一般的なとらえかたでしょう。実際、私もそのようなとらえかたを長らくしていました。
 すなわち、美術、文学、映画といった、あらかじめ作者が自分の時間を自由に使って作品を準備し、最終的にそれを表現作品としてオーディエンスに提示する、時間にとらわれない表現がひとつ。もうひとつは、音楽、ダンス、演劇のように、表現者とオーディエンスが時間と空間を共有するなかで進んでいく表現。これらは別種の表現行為としてとらえられることが多かったのです。
 はたしてそうだろうか、というところから、私の思考・試行がはじまりました。

 私は小説や詩を書く一方で、音楽や朗読演出をやります。これらを行ったり来たりしています。
 小説や詩を書くときと、音楽を演奏するときとでは、なにが違うんでしょうか。
 かつて私は、ものを書くときは、表現の最終形態が「作品」だと思っていました。すなわち、作品を書いているときの自分自身にはあまり注意が向けられておらず、いつも未来にあるはずの完成形にばかり頭が行ってました。未来の完成形がどのように人に読まれるのか、どのようなゴールが望ましいのか、そんなことばかり考えていました。
 ピアノを弾くときはそうではありません。その瞬間瞬間の自分とオーディエンスに意識が向き、「いまここ」で起こっていることを感じながら進んでいきます。
 あるとき私は気づきました。小説もそのように書けばいいのだ、と。
 小説は完成形が表現の最終形態ではなく、書いているときそのものの自分が表現そのものなのではないか。書きあがった作品はたまたまその「結果」にすぎないのではないか。偶然の結果であるのだから、それを作者がコントロールすることなどできないし、ましてやそれを読んだ読者がどのような反応をするかなどわかりっこない。そんなことを予測して書くより、音楽演奏とおなじように「いまここ」の自分に意識を向け、最高のパフォーマンスで言葉とストーリーをキャッチしていければいいのだ。
 これに気づいたとき、私のなかでものを書くこととピアノを演奏することがピタリとつながりました。いずれも自分の身体と感受性をマインドフルに用いる行為なのです。
 私の表現統一理論はここをスタートラインとしてスタートしました。

 いま、これをきちんと体系化して、だれにでも共有できるような形にまとめたいと思っています。音楽も小説も芝居も絵画もダンスも映画も、すべての表現に通底する共通の原理があります。そこの部分に完全に集中し、意識を傾注することができれば、だれもが唯一無二のオリジナルな表現者になれると信じています。
 実際に私が主宰している表現ゼミは、そんな表現者が続々と誕生しています。
 自分自身もふくめて今年もどんなすばらしい表現者が育っていくのか、私は楽しみでしかたがないのです。

この世は意味のない美しさに満ちている

私たちは生まれ落ちて言語を獲得し、コミュニケーションをしながら社会生活をいとなんでいくうちに、いつしか「意味」ばかり追いもとめるようになります。この仕事にはなんの意味があるのか、この人と付き合うことに意味はあるのか、この本を読む意味はあるのか、この絵を見る意味はあるのか、この人生に意味はあるのか、などなど、果てしない意味の追求が人生そのものといってもいいようなことに陥ってしまっています。
「それ、意味わかんない」
「それって意味あるの?」
 といった言葉が聞かれない日はないといってもいいくらいです。
 しかし、思いだしてみてください。この世の中には意味のないことのほうが多いのです。というより、私たちの人生を含め、意味のないことがほとんどすべてといってもいいくらいです。
 道ばたに咲いている花に意味はあるのでしょうか。美しい夕焼けに意味はあるのでしょうか。夜空に輝く星々に意味はあるのでしょうか。それを見上げながら歩いている私の存在に意味はあるのでしょうか。
 意味がないからといって、それが美しくないわけはありません。意味がなくても美しい。そのことを味わうのが、私たちの生のいとなみそのものといえるのではないでしょうか。
 私は今年も意味はなくても美しいものを見つけていきたいと思います。

2012年1月1日日曜日

鈍感な時代から敏感な時代へ

2012年が明けました。
 新年の祝賀を申し上げたいところですが、それをためらわれる気分もどこかにあります。つまり、類型的な新年の挨拶を安易に述べる時代ではなくなった、という感じをいくらか持っています。だからこそ逆に、いつもどおりに新年を新年らしく迎えて次なる未来へと向かうべきかもしれない、というようなことも思います。
 多くの人がさまざまな思いで新年を迎えているのではないでしょうか。能天気になにも考えずに祝っている人もいるのかもしれませんが。それはそれでおめでたいことです。いや、皮肉ではなく。
 ともあれ、なにをいうにせよ、なにかを決断するにせよ、いろいろなことを考えてしまいます。
 鈍感な時代から敏感な時代へ、いい悪いは別にして、変化しています。敏感になった人々は、安易に触れあうことを怖れると同時に、共感にあふれたつながりを求めます。
 成長と消費の時代から、私たちはいま、調和と共感の時代に向かっていると信じます。自分の身体で感じ、類型を排して考え、だれかと繊細につながり、共感をはぐくんでいく。流速を減じている時代の流れが、それを可能にしていくように思います。
 明けましておめでとう。

 ところで、このコラムと今日のこの回でついに200回めとなりました。おめでとう。と自分にいいます。