2011年1月10日月曜日

「安ければいい」ではないでしょう?

あなたは100円圴一ショップでものを買いますか?
あなたはハンバーガーショップで100円バーガーを食べますか?
なぜこれらの商品がこれほどに安いのか、かんがえたことはありますか。
この低価格を実現するのになにが犠牲になっているのか、かんがえたことはありますか。

ものを買うときに「安ければいい」という価値判断が極端に進捗したのは、高度経済成長にともなう大量生産時代のせいだ。それ以前の日本には、安価なものを買うときにその判断をいさめる「安かろう悪かろう」という言葉が存在していた。安すぎるものにはなにか悪いことがある、安さを求めすぎれば代償を払わなければならない、という警鐘の言葉だ。
が、生産ラインによる大量生産品が安くても高品質で流通するようになって、古人の言葉は意味をうしなっていった。代わりに「安いほどよい」という価値観が全面に押しだされた。
その価値観が過剰に追求された結果、現在では「安さ」のためには「多少の犠牲もやむをえない」という風潮が蔓延している。安さを追求するメーカーは、原材料の仕入れ価格も徹底的に絞りこむ。
原材料は往々にして、発展途上国からやって来ることが多い。
ドキュメンタリー映画にもなっているが、コーヒー原産国の生産者の苦悩がある。
コングロマリットによる価格統制によって徹底的に買い叩かれることによって、生産者はギリギリまで追いつめられている。その実情は、冷暖房のきいたリビングで優雅にコーヒーを楽しむ先進国の者には届かない。

100円ショップで売られている音楽CDや食器、さまざまな日用品が、第三国からの労働力や資源の搾取によってその低価格が成り立っていることを、私たちはほとんど意識したことがない。ハンバーガーショップがどのような犠牲の上であの低価格を実現しているのか、かんがえたことはない。
人々が「安さ」を求めてそのような商品を追いかけてきたことで、きちんとした製造業や小売りや生産者の多くが犠牲をしいられた。また多くが廃業にまで追いやられた。それはいわば社会基盤ともいうべきもので、本来ならひとりひとりがコストをになうべき大事な人々なのだ。
私たちがこの社会を大事に思い、また子どもたちや次の世代に受け継いでいきたいと思うなら、安いものに飛びつくのではなく、きちんとしたものに正当な対価を払い、社会基盤を維持し育てる意識が必要なのだと思う。もちろん無駄をなくして価格を抑えることは大事なのだが。

物品や人々の労力、資源について、「適正価格」というものがもう少しきちんと考えられていいのではないか。単品としてではなく、さまざまなことの有機的な関係性において、それらがちゃんとかんがえられて設定され、みんなが納得できる文脈が再構成されてもいいのではないか。
ものを買うにしてもなにをするにしても、ほんの一歩踏みだしてなにかをかんがえてみることをしてもいいのではないだろうか。
たんなる「消費者」から「社会構成員」としての自覚を持った人間が増えるといいと思う。