2012年3月14日水曜日

ピアニストと手のメンテナンス

私のようにピアノの演奏をする者は、手のメンテナンスにはそれなりに気を使っていると思われているかもしれないが、実際にはそんなことはない。普通に手を酷使して生活している。家事もすれば、包丁も握る。大工仕事もするし、重いものも持つ。
 クラシック系のピアニストのなかには非常に気をつけて生活している人がいると聞く。重いものを持ちあげることはおろか、包丁など絶対に握らない。怪我でもしたら演奏家生命に関わる、というわけだ。有名なところでは、グレン・グールドが日常生活でもずっと手袋をはめて手を保護していたエピソードがある。それに近いような演奏家はいるかもしれない。
 私のように無頓着に生活していて、もし怪我したときはどうするか、という問題がある。実際に私はしょっちゅう包丁で指を切る。ひどく切ったときには、もちろん演奏に差し障りがある。
 じゃ、どうするのか。

 怪我した指を使わずに演奏するしかない。
 脳梗塞で右手が麻痺して動かなくなってしまったピアニストがいる。舘野泉さんという方だが、右手が動かないんじゃしようがない。左手だけで演奏している。それで立派に復活した。
 生きていればいろいろなことがある。包丁で指を切るだろうし、脳梗塞で右半身が麻痺することだってある。だからといってピアノを弾くことをまるごとあきらめることはない。できる範囲でやればいい。むしろ、その人の生活や生き様が乗っている音が出せればすばらしいじゃないか。それがその人の音になる。
 包丁でうっかり人差し指をザックリやってしまって、それが使えない状態での演奏。それはその演奏者の「いま」の正直な状態であるし、もしそれで演奏がたどたどしかったとしてもそれも含めて誠実な音だろう。その誠実なたどたどしさのなかでオーディエンスと共感できることをめざしたい。

 表現者はオーディエンスに自分の優位性を示すために表現をするのではない。ありのままの自分自身をその場に提示し、だれかとつながり、「いまここ」を共有するために表現するのだ。これは音楽に限らず、朗読を含むすべての表現がそうだろう。
 生活していること、老いていくこと、感じていること、そのすべてを誠実に提示できれば、それ以上の表現はないと思う。

 追伸。
 なんでこんなことを書き出したのか、いま思い出した。
 一か月くらい前から右手の第二中手骨に痛みが続いていて、ここ数日さらに痛みが気になりだしたので、医者に行ってきたのだった。レントゲンを撮ってもらったが、骨に異常はなく、筋肉の炎症が治らないだけだろうと診断された。消炎剤入りの湿布を処方してもらって、いまはそれを貼っているが、痛みが引かなければそれを抱えたまま演奏しなければならない。それはそれでどんな演奏になるのだろうと、自分自身興味がある。
 そんなことを考えていて、この文章を書きはじめたのだった。