2013年6月2日日曜日

基礎講座、体験講座、テキストゼミ

昨日は午前中から現代朗読基礎講座の4回め。
いつものように気づき報告から始まって、ストレッチ、呼吸法、ハミング発声のあと、美子さんが毎日やっているというチベット体操を教えてもらう。
かなりきつい部分もあって、私はもちろんやれないが、若い人も苦労していた。
ヨガに近いところもあるので、朗読の身体作りに役立つかもしれない。

現代朗読のエチュードのなかで基本的なもののひとつ「お経朗読」をみんなでやってみる。
スピードを変えたり、リズムの取りかたの練習をしたり。
とくに朗読におけるリズムの問題や、リズムにたいする感受性を持つことの大切さについて確認する。
朗読のように揺れ動くリズムの感受性をとぎすますために、一定のリズムをキープする練習は逆に有効であろうと思う。

基礎講座が少し長引いたので、すぐに次の体験講座の時間がやってきた。
昨日はダンスとピラティスの先生とか、シナリオ教室の先生とか、あるいはわざわざ福岡から来られた方とか、ユニークな人がいておもしろかった。
朗読表現の本質とか、身体表現としての朗読のこと、共感的表現のことなど、ほんの入口だけれど多くのことをお伝えして、いくらかでも興味を持ってもらえたのではないかと思う。

来月の体験講座は7月6日(土)の開催。
詳細はこちら

夜はテキスト表現ゼミ。
今月からこのゼミはリアルゼミとして羽根木の家に集まって開催するのは月に1回になる。
それ以外はネットミーティングを利用してのオンラインゼミとなる。
昨日はいつもの奥田くんのほか、ひさしぶりの前野さんと、初めて見学に来られた方が参加しての開催。
作品講評のあと、時間があったので、ひさしぶりにライティングエチュードをやってみる。
なかなかおもしろくて、けっこう盛り上がったし、私も楽しかった。

ママカフェ、ネットライブ

木曜日はママカフェとネットライブの日だった。
参加者は少なかったが、おだやかで丁寧な時間をサポートのボイスセラピストたちが作ってくれていた。
後半は私も参加して、共感的コミュニケーションの解説や、参加者が直面している問題についてみんなで話を聞かせてもらった。
参加の方が自分の大切にしていることをあらためて確認し、涙され、そしてまた問題に立ちむかっていこうという気持ちになっていくプロセスを共有できて、私もしあわせな気持ちになった。

午後はオーディオブックリーダー養成講座を受講していた千絵ちゃんの最終実践収録。
とても魅力的な声のキャラクターを持っている人だが、養成所などでのさまざまな「ねばならない」「してはならない」ことをたくさん抱えこんでしまっていて、つらい思いをしていたようだ。
収録後、ゼミ生になりたいということだったので、これからじっくりと唯一無二の声の表現をしていけるお手伝いができると思って、うれしくなった。
数か月内にきっと魅力的なオーディオブックをお届けできることだろう。

次回のオーディオブックリーダー養成講座は6月24日(月)です。
詳細はこちら
日時にとらわれない個人セッションも受け付けています。

夜はネットライブの9回め。
出演はみぞれちゃん、唐ちゃん、野々宮卯妙の3人。
今回、私はほとんど初めてだったかもしれないが、ピアノ演奏で参加しなかった。
そのかわり、カメラ担当。
みぞれちゃんの泉鏡花「くさびら」のとき、動き回る彼女を追いかけまわして、いろいろなアングルから撮ったのは楽しかった。

唐&野々宮の森鴎外「阿部一族」は非常に斬新なパフォーマンスで、音楽的に聴こえておもしろかった。
一部、回線の不備で欠落があるが、ライブの模様はこちらの録画ファイルからご覧いただけます。

 前半 後半

終わってから軽く打ち上げ。
てんちゃん、菜穂子さん、麻奈ちゃんらが駆けつけてくれた。

2013年5月30日木曜日

共感的コミュニケーション勉強会、バーベキュー、春の祭典100年

昨日の昼はひさしぶりに羽根木の家の庭でバーベキューをやろうということになり、五月生まれのセルフ誕生会を兼ねて4人集まった。
木原さん、野々宮、みぞれちゃん、私。
みぞれちゃんは五月生まれじゃないけど、お誘いしたら来てくれたので。

それに先だって、肉を仕入れるために一昨日の昼、吉祥寺に行ってきた。
ついでに吉祥寺の駅のあたりをぶらぶら歩いてみたのだが、吉祥寺をそんなふうに歩くのはほとんど初めてだったかもしれない。
おもしろい店がいろいろあって、下北沢とはまた違った魅力のある街だなあと思った。
〈donburio〉という大変すっきりした造りの店でランチ。

吉祥寺から戻って、夜は共感的コミュニケーションの勉強会。
初めて参加する男性やゼミ生。
告知にも書いてあるけれど、継続的に勉強してもらいたいという気持ちがあるので、初回参加は2,000円だが、2回め以降のリピーターは500円とさせてもらっている。
ブリジットがワークショップでやっていた方法を参考にしながら、少し内容を工夫してやってみた。
わかりやすくなったのではないかと思う。

昨日のバーベキューでは木原さんがおいしいドイツビールを何本か持ってきてくれたので(重かったことであろう)、それを楽しみながら、肉とたくさんの野菜を炭火で焼いておいしくいただく。
そのあと、午後は共感的コミュニケーション勉強会。
木原さんとみぞれちゃんもそのまま参加。
こちらも初参加の人が何人かいて、非常に熱心に時間いっぱいみっちりとやれた。

6月の共感的コミュニケーション勉強会は27日(木)の開催。
また三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉でも26日(水)の夜に開催予定。

横浜のホッチポッチ・ミュージックフェスティバルの実行委員会から、今年も現代朗読協会に出演依頼がとどいた。
よろこんでやらせてもらいたい。
今年は10月20日(日)の開催らしい。

夜は下北沢のラプラスで、ストラビンスキーの「春の祭典」初演100周年を記念して、映像資料の上映会があるというので、行ってくる。
なかなか興味深い映像だった。
終わってから10数人が残って、近所のフレンチ居酒屋みたいなところで飲み会。
ソプラノ歌手でずっと東北被災地の支援活動をされている中村初惠さんを初め、ユニークな方々とお会いできて、楽しかった。

2013年5月28日火曜日

「Sound of Vision Vol.157」に行ってきた

昨夜はバリトンサックス奏者・UKAJIさんのソロライブ「Sound of Vision Vol.157」に行ってきた。
場所はキッド・アイラック・アート・ホール。
なにげなく書いたけれど、昨日で157回めとのこと。
びっくりである。

私はたまたまこのライブのことを知って、154回めから欠かさず聴きに行っている。
初めて聴いたときにはびっくりし、また混乱してしまったので、2回めはそれを確認しに行った。
2回めでこのライブのすごさを確認して、3回めは迷わず楽しみに行った。
そして昨日の4回めはだいぶ勝手がわかってきたので、リラックスして楽しむことができた。
つまり、この私(つまりかなりの音楽猛者であると自認している人間)にしてきちんと楽しめるようになるまで4回必要だったわけだ。
あまり音楽ライブに親しんでいない人にとっては、わけのわからないものかもしれない。

そうそう、ゼミ生のてんちゃんと菜穂子さんも聴きにきていたのだが、どういうふうに聴いたんだろう。
感想を聞きたいな。

昨日は比較的メロディアスな曲目が多かった。
最後の「My Foolish Heart」をのぞいてほぼ全曲、即興もふくめてマイナーキーで、調性のあるわかりやすい曲が多かった。
ただし、メロディがわかりやすいからといって、UKAJIさんのやっていることがわかるとは限らない。
針の穴をバリトンサックスのラッパの先でつつくような、おそろしく繊細なことに挑戦しているのだ。

めずらしくバッハは一曲のみ。
非常にゆっくりとしたテンポで、しかしリズムをしっかりと保って、一音一音確認するように、踏みしめるようにバッハの譜面を歩いていく、そんな演奏だった。
ほかにベラルーシだっけ、元ソ連領のどこかの国の民謡や、ベネズエラの曲があったり、選曲がおもしろい。
いちおうセットリストは用意してくるらしいが、本番のときにもう一度曲をにらみながら、どれを演奏するか変更することも多いとのこと。

というようなことを、ライブ後に下のカフェ〈槐多〉でゆっくりとうかがうことができた。
曲目のこと、演奏のこと、バリトンサックスのこと、そしてぶしつけながら普段どういうことをされているのか、このライブシリーズはどのような経緯をたどってきたのか、昔はどのような人たちと演奏していたのか。
いま入院中の板倉克行さんのことももちろん知っていて、かつてのフリージャズシーンについての話も少しうかがうことができた。

最後に「朗読とやりませんか」と誘ってみたが、いまはソロの自由気ままさを追求しているし、まだまだバリトンサックス一本でやりたいこと、やれることがあるんじゃないか、ということだった。
ちょっと残念。
次回のライブは未定。

自分の口はどこにあるのか(口どこ問題)

photo credit: Pamela Machado via photopincc

「口はどこにある?」とたずねると、ほとんどの人が自分の唇を指さす。
そこは口ではなく、口先。
そんな意識でいると、口先だけの朗読表現になってしまうぞ、と私は冗談半分で警告するわけだが、あながち冗談ばかりではない。

正面から見た顔の絵を描くと、口はたしかに唇の位置にあるし、鏡で顔を見ることが多いのでそのような認識になってしまいがちなのだが、口はもっと奥のほうへとつづいている。
頭を横から見てみると、口は唇、歯、口腔、舌、喉頭、そして気道へとつづいている。
口の上にはさらに鼻腔という大きな空間もあり、これも言葉を発することに深く関係している。

朗読では言葉の輪郭(滑舌ともいう)を明瞭にしたり、逆に不明瞭にしたり、といったコントロールをおこなうが、そのためには口の使い方にたいする意識が必要だ。
言葉が不明瞭だったり、さ行、ら行など特定の音節が苦手だったり、子どもっぽい発音だったり、といった人は、自分の口の使い方の意識を高めると有効だ。
唇はもちろん、口の開き(これはおもに顎の上下の開き)、鼻への音の抜け、舌の動き、口腔内の空間の使い方など、言語表現者なら当然、繊細な意識でそれらをコントロールできるようにしたい。

ところが、上記のようなわけで、自分の口にたいする意識はなんとなく前のほうにかたまっている。
奥まである口の構造全体にたいする正確なイメージを持つことが大切だ。
口という構造物は頭部の下部前方の大きな体積を締め、複雑な構造を持っている、そのことをきちんと意識することが必要なのだ。

物語と自我

イギリスのオックスフォードからやってきたNVC公認トレーナーのブリジットとパートナーのルードが、滞在していた羽根木の家を今日後にして、次の滞在地の長野へと旅立っていった。
彼らとすごした一週間、楽しかったなあ。
そしてたくさんの学びをもらった日々でもあった。

今朝、彼らが発つ前に、また日本に来てね、といったら、きみは来ないのかというので、もちろん行きたいと答えた。
来たらどんなことをしたい、と訊くので、そうだな、イングランドの人たちにピアノを聴いてもらいたいな、と答えた。
すると、音楽が好きで、日本に興味がある者たちを知っているので、集めてコンサートをやろう、とルードがいう。
なんて素敵な話だろう、いますぐにでも行きたい。

彼らを送りだして、入れ違いに石村みかちゃんと扇田拓也くんご夫妻が、生まれて四か月の莉緒ちゃんを連れて遊びに来てくれた。
お祝いを準備しておきたかったのだが、このところドタバタしていて間にあわなかった。
それはあらためて。

昨日の打ち上げのマリコディナーの残りを利用して、野菜グラタンを作ったり、残りをそのまま出したりして、いっしょにランチ。
みかちゃんたちは芝居の稽古にはいるということで、莉緒ちゃんのベビーシッターが必要なのだが、そのために何人かが名乗りをあげてくれている。
そのうちのひとりのみぞれちゃんが来てくれて、莉緒ちゃんと顔合わせ。

扇田くんが演出してみかちゃんも出演するてがみ座のスケジュールの話をしているうち、なんとなく合間に合同でワークショップをやりたいねという話になって、うまいタイミングでやれそうなことが判明。
8月に、演劇と朗読の合同ワークショップを開催することが、とんとんと決まった。
タイトルは「物語と自我」。
演劇と朗読はなにが違うのか、物語性と自我の問題を、それぞれの表現ではどのように扱うのか。
そして最終ライブ発表はキッド・アイラック・アート・ホールでの公演を9月23日に挙行。
おもしろそうだ。

2013年5月27日月曜日

二日間のブリジットNVCワークショップが終わった

昨日はイギリスはオックスフォードから来日したブリジット・ベルグレイブによるNVCのワークショップの二日目だった。
二日目はすでにNVCをいくらか経験している人や、トレーナーの招聘グループのコアメンバーを対象にしたワークショップとして開催された。

二日間を通して、私は大きな学びをもらった。
ブリジットが考案した「NVCダンスフロア」というシステムは、すでに多くの人が体験していて確固たる評判を得ているものだが、私は今回初めて体験した。
NVCの共感のプロセスをまず視覚的に明示し、それを使って身体を動かすことで実感と明確さを作っていくという、入門ツールとしてとてもすぐれたものだ。
これを体験しながら、私もこういった入門ツールをオリジナリティをともなって作りたいとずっと思っていたことを、あらためて確認できた。

実践ワークでは、私は幸いにも、私にNVCを紹介してくれたケンちゃん(今回は通訳サポートとして参加)と組むことができて、彼のプロセスに付き合ったり、私の力不測でブリジットの助けを借りたり、ケンちゃんの正直さ・誠実さに触れたりできたことがありがたかった。このことをだれかにシェアできたらいいのだが。

ワークショップが感動的に終了したあとは、都合のつくみんなで一斉に羽根木の家に移動(一部ののっぴきならない人をのぞいてコアメンバーの多くが来てくれた)。
今日は詩吟の会に行って尺八演奏の学びのニーズを満たしていたルードも合流。
NVCの会の打ち上げにいつも料理を作ってくれるマリコの、オーガニックでヘルシーなディナーを堪能しつつ、打ち上げ。
ヘルシーとは対極にあるかもしれない賢さんのスパイスてんこ盛りの麻婆豆腐もいただく。

ここでもまた、ワークショップ以上にいろいろと感動的なできごとがあった。
とてもここに書ききれない。
とにかく今日は、豊かで濃密で、あたたかなつながりと共感に満ちた一日だった。
こういう大切な日々を、一日一日かさねていきたいと思う。

2013年5月26日日曜日

ブリジットのNVCワークショップ初日

昨日は午前中の現代朗読基礎講座が終了後、東武練馬の大東文化会館まで行って、ブリジットのNVCワークショップの後半に参加した。
ちょっとだけだったが、NVCを教えるブリジットの美しい立ち姿からたくさんの学びを得た。
NVCのトレーナーからはその教える内容よりも教える姿勢から学ぶことが多い。
とくにブリジットはアレクサンダー・テクニークの教師でもあるので、物理的な立ち姿そのものが美しいということもあるし、教える態度そのものから教えられることが多い。

終わってからスタッフをまじえて10人くらいで近所の中華料理店にはいって、軽く打ち上げ。
軽くといいながらも、大盛り上がり。
これまでゆっくり話す機会がすくなかった浅川先生と楽しい話がたくさんできて、うれしかった。
賢さんが階段から落ちて怪我したということで、満身創痍の姿だったのがちょっと心配。
幸い、大事にはいたらなかったようで、一日も早い完治を祈る。

解散して、帰路につく。
ブリジットと隣り合わせに座って、いろいろな話ができた。
とくに音楽の話でビートルズやキース・ジャレットのこと、植物のスケッチのことなど、共通の興味があって楽しかった。

ブリジットを羽根木の家まで送りとどけ、8時半すぎに帰宅。
今日も朝からワークショップなので、帰宅後は『ストリーム』をまず書く。
今日はこれから9時半に昨日とおなじく大東文化会館に集合。
今日のワークショップは日本のNVCのコアメンバーのためのもので、人に伝えるための濃密な内容になる予定。
楽しみながら、ちょっと緊張している。

2013年5月23日木曜日

「槐多朗読」第七弾、終了

明大前のブックカフェ〈槐多〉(キッド・アイラック・アート・ホールの地下)で断続的におこなっている沈黙の朗読シリーズ「槐多朗読」の第七弾が、昨夜終了した。
カフェは席数が20。そのうち私が演奏のために2席をつぶしてしまうので、18席しかない。
お客さんを呼びすぎると窮屈になってしまうし、少ないと寂しい。
さじ加減が難しいのだ。
しかし今回はその「寂しい」パターンになってしまった。
それでも席の半分は埋まったし、お客さんが少ないためなのかそうでないのかはよくわからないが、とても充実したパフォーマンスになった。

羽根木の家から明大前まで、これまでほとんどだれかに機材運びを手伝ってもらっていたのだが、今回は上記のようなわけで手伝ってくれる人もいなく、私ひとりでえっちらおっちら運んだ。
運ぶものは、midiコントローラーを兼ねたシンセサイザー1台、MacBook、BOSSのアンプ付きモバイルスピーカー、ミニミキサー、そしてACアダプターやケーブル類だ。
総重量15キロから20キロ程度と推測される。
これを基本的に非力で、しかも演奏前に指や腕に不可を与えたくないピアノ弾きが自力で運搬しなければならないというのは、かなり厳しい。

大汗をかいて〈槐多〉にたどりつくと、カウンターのなかには多恵子ちゃんがいた。
元気そうだ。
コーヒーを飲みながら、機材のセッティング。
これもまた孤独な作業。
嫌いではないけれど、だれかが手伝ってくれるとうれしい気持ちになるプロセスではある。
そういえば、先月の「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 春の宴」では、菜穂子さんが私の補助についてくれてありがたかった。
いつも恵まれているわけではない。

午後7時半になるとお客さんが順次やってきた。
といっても、皆知り合いばかりで、とくに一昨日から羽根木の家に滞在しているブリジットとルードが来てくれたのはうれしかった。
ブリジットはNVCの公認トレーナーであり、またアレクサンダーテクニークの教師でもある。
ゼミ生のKAT、バンガードさん、珪子さんや、川橋さん、千絵ちゃん、アトゥールさんも来てくれた。

8時すぎ、全員に飲み物が行き渡るのを待って、開演。
テキストは私が書いた『子どものころの七つの話』と槐多の詩をひとつ。
出だしは軽くいこうかね、と打ち合わせしていたのだが、電子楽器が思うように鳴らず、なんとなく重々しい感じで出てしまった。
いつものことながら、生ピアノとちがって電子楽器と格闘しながら、しかしすぐにそれを楽しめるようになってきた。
野々宮はというと、いつになく集中して自在に読んでいる。
それに引っ張られるようにして、私もサウンドメークに集中できたように思う。

60分から70分くらいで終わる予定だったのに、終わったら9時45分。
たっぷり100分近くやっていたことになる。
途中から皆さんつらくないだろうかと心配したのだが、休憩もなしに最後まで集中して聴いてくれてうれしかった。

終わってすぐにブリジットが感想を聞かせてくれた。
もちろん日本語はひとことも理解できないが、テキストの内容とは別に自分のなかに独自のストーリーが浮かんできたそうだ。
たとえば、だれかが川の堤防のようなところをずっと歩いていって、途中の橋から飛びこむ、といったストーリー。
『子どものころの七つの話』のなかに、私の妹が川に落ちて流される話があったり、河にまつわる話が多かったので、ちょっとびっくりする。
野々宮の朗読については、大きなエネルギーとパワーを感じ、それを受け取ったといってくれた。

私の演奏については、ブリジットからもルードからも「beautiful music」といってもらえてうれしかった。
英語なので聴き取れない部分もあったけれど、とにかくブリジットたちが共感的に聴いてくれ、共感的に受け入れてくれ、共感的に感想を伝えてくれたのがよくわかって、とても豊かな気持ちになれた。
私も共感的コミュニケーションのことを人に伝える立場であるけれど、自分自身がもっと実践できるようになれるといいなと思ったひとときだった。

終わってから、都合で早く帰った人以外、残ってくれた人たちと話ができた。
長すぎたのではないかと恐縮していた私にたいして、何人かが「全然長く感じなかった」といってくれたのはうれしかった。

「槐多朗読」の次回開催は未定だが、その前に「沈黙の朗読」を上のホール(キッド・アイラック・アート・ホール)でやることが決まっている。
9月23日に名古屋から榊原忠美を招聘し、「記憶が光速を超えるとき」と「特殊相対性の女」の2本立てでやろうと思っている。
まだ先のことだが、そしてどういう形でやるのかはまだ決まっていないが、興味がある方はその日の予定をぜひともあけておいてほしい。

2013年5月21日火曜日

老人ホームでピアノを弾く

昨日の午後は富士見台の老人ホーム〈メディカルホームまどか〉に行って、いきいき音読ケアをおこなってきた。
KAT(1級ボイスセラピスト)と野々宮(音読療法士)のふたりが進行をしてくれたので、私はサポート。
ここではオープンフロアにグランドピアノが置いてあって、いつも私は最後に季節の唱歌を何曲か演奏させてもらうのが常だ。
あまり状態のいいピアノではないのだが、それでもグランドピアノなので演奏が始まるとお年寄りの方たちはよく反応してくれる。
歌は直接的に人の記憶を刺激するので、反応もはっきりしている。

昨日は初夏の曲を何曲か弾いた。
「茶摘」「夏は来ぬ」「ふじの山」「われは海の子」そして思いがけずアンコールをいただいたので「故郷」を。

その前の音読ケアでは、毎回来てくれる方も初めての方もたくさんの方がとても熱心に参加してくれたので、私たちもやりがいがあった。
なぜか今回はとくにみなさんとのつながりを強く感じられて、ちょっと感動的ですらあった。
音読療法の可能性をあらためて確信できた時間となった。


先日は蕨市のほうで、ボイスセラピストの玻瑠さんが体験教室を開催したという報告をもらった。
参加の方や市の職員に興味を持ってもらったということだった。
音読療法はとてもすぐれた健康法であり、心身の病の予防法であり、また介護予防にも効果を発揮するので、もっと多くの人に知ってもらい、利用してもらいたい。
より多くの人が利用するようになれば、ボイスセラピストも職業として自立していけるので、いまはとにかく認知度をたかめ、普及をはかっていくことに力を入れたい。

いま、音読療法についてのプレゼン資料を作っている。
また『音読療法の基礎』という教科書的な本ももうすぐ書きあがる予定だ。
東京周辺のみならず、地方や、海外在住の方も受講に来るし、受講後はネットのビデオミーティングを利用したフォローもできるので、遠方でも興味のある方はまずはコンタクトしてほしい。
もちろん近所の方も歓迎だ。
私か音読療法協会に直接コンタクトしてほしい。

ドイツからの受講生

日曜日の2級ボイスセラピスト講座には、ドイツのフライブルクからの方が参加された。
実家は仙台で、今日は講座のためにわざわざ東京に宿を取って来られたとのことだった。

ドイツの国内事情をいろいろと聞かせてもらって興味深かった。
ドイツは地方分権がかなり進んでいて、地方のそれぞれの地域が元気であること。
教育はかなり自由で、締め付けも競争もあまりなく、子どもたちは「これでいいの?」というくらいのびのびとしている。
エネルギーの問題や、農薬、オーガニックなど食糧問題にたいする関心も高いらしい。

私はドイツには行ったことがないが、ぜひ一度行ってみたい国ではある。
ドイツに行って、ピアノを弾いたり、現代朗読のライブをやってみたいと思っている。
なぜならドイツは音楽がとても愛されているし、朗読もかなり盛んで日常のなかにとけこんでいると、ドイツの朗読文化を研究している東京外大の先生から聞いたからだ。


さて、日曜日の講座では、いつものように音読療法の基本的考え方と呼吸、発声、音読ワークについて学んでいただいたあと、音読療法の重要な要素のひとつである共感的コミュニケーションについてもレクチャーと練習をしてもらった。
音読療法士の野々宮がサポートしてくれたほか、2級ボイスセラピストが2名来たので、グループで練習ができた。
音読療法そのものは、その実践においてはとてもシンプルでわかりやすい(しかし効果的)ものだが、共感的コミュニケーションは習ってすぐに使えるようになるというものではない。
日々の繰り返し練習と心がけが必要なのだが、講座ではその方法を伝える。

ドイツから来た方も興味を持ってくれて、どういう場面で使えるか、練習できるか、いろいろと想定しておられるようだった。
1級にも興味を持っているとのことだったが、ドイツ在住なので受講のタイミングをどうするかが問題だ。
次回の2級ボイスセラピスト講座は6月23日(日)に開催する。

2013年5月20日月曜日

自分用バリバリメモ

私の活動的な季節になったので、いろいろなことをバリバリ進めていきたいと思う。
自分用のメモもかねて、これからの予定を。

今週水曜日、5月22日夜は明大前ブックカフェ〈槐多〉で「槐多朗読」。
来週火曜日、5月28日の昼はオーディオブックリーダー養成講座、夜は共感的コミュニケーションの勉強会。
翌水曜日の5月29日の昼はプライベートなバーベキューパーティーと、そのままつづいて共感的コミュニケーションの勉強会。
翌木曜日の5月30日午前中はママカフェ、夜はげろきょネットライブ。

月が変わって6月1日(土)は朗読体験講座。
翌日曜日の6月2日は1級ボイスセラピスト講座。
その週の金曜日、6月7日夜は中野〈Sweet Rain〉にて朗読と即興音楽の「ののみずライブ」。
6月14日と15日は足立区の都市農業公園でのイベント「木とハーブ祭」に現代朗読協会も出店、朗読パフォーマンスをあちこちで繰り広げる予定。
その翌日、6月16日(日)は徳島に飛び、現代朗読ワークショップとライブ、そして楽しみな徳島観光をたるとさんのお世話になって。

電書および紙本として出版したいものもたまっている。
「音読療法の基礎」はもうすぐ脱稿、これは音読療法の教科書として書いているもの。
「音読日めくり」春夏秋冬は、連載終了した原稿をあらためて編集しなおして、季節ごとの4分冊にまとめる予定。
「祈る人」1~4は、既刊の『祈る人』以後「水色文庫」に書きたした作品を収容して、あらためて4分冊として出す予定。
「桟橋」はケータイ小説サイトに連載した長編小説。
「ジャズの聴き方」は現在もブックマン社から販売されている書籍だが、版元から電書にしてもらっていいという許可をもらったので。
「現代朗読入門」はこれまで書きためた膨大な量の現代朗読にかんする私の書簡をまとめるもの。
「共感的コミュニケーション〔応用編〕」もすでに文章はほとんど書きあがっているので、そろそろ本にまとめたいと思っている。

これらを5月、6月中に片付けてしまえたらなあカッコ希望。

2013年5月19日日曜日

やっかいな承認欲求というもの

photo credit: striatic via photopincc

人から承認されたい、あるいは自分自身を承認したい、という欲求はだれにでもあって、しかしこれがいろいろやっかいなことをもたらす。

「承認された/みとめられたい」という欲求は自分自身を無意識に「依存する側」に置いてしまう。
たとえば仕事において上司に認められたいと思ってがんばっているとする。
上司とあなたは「認める側」と「認められる側」という、一種の上下関係であり、依存/被依存の関係である。
認められなければその関係は苦しいものになるし、認められれば甘い関係となる。
いずれにしても関係性は対等ではない。

あなたは自分の行動を「上司に認められるため」に規定してしまう。
それは「上司の価値基準にそって」自分自身の行動を規定することである。
自分の価値を大切にして自分自身がどうしたいのか、というようにふるまえないあなたは、自分自身をないがしろにしている。
それはあなたにとってとても苦しいことだろう。
たとえ上司に認められたとしても、苦しい関係はつづく。
なぜなら、一度認められても、またつぎも認められなければならないと、承認欲求は永遠につづくからだ。

こういう他者にたいする承認欲求は、親子関係や友人関係、夫婦関係にも存在するが、自分自身にたいする承認欲求も同様にやっかいだ。
「自分自身を承認する」というマインドは、無意識に自分のなかにもうひとりの自分を置いている。
そのふたりの自分に依存/被依存関係を作り、上下関係を作っている。
自分のなかにあるこの「ふたりの自分」の関係矛盾が、あなたに苦しさをもたらす。
たとえ自分自身を承認できたとしても、「ふたりの自分」の関係性は消えることはないので、前記の上司との関係性のように苦しさはその先へとずっとつづいていくことになる。

ではどうすればいいのか。
「承認する」というマインドではなく「共感する」マインドをそこに置けばうまくいく。
これについてはまたあらためて書くことにする。

2013年5月18日土曜日

私のかんがえる朗読演出とは

現代朗読の体験講座や基礎講座、ライブワークショップなどで初めてやってきた人は、私が「朗読はやらない」というとびっくりする。
そのかわり「演出する」というと、ちょっと安心した顔になる。
しかし、「演出といってもこちらからなにか指示することはあまりしない」というと、また怪訝な顔をする。

一般に演劇にしてもなにかイベントを作るにしても、演出家がいれば出演者はその演出家の指示にしたがって動き、演出家のかんがえたイメージにそったステージを体現しようとする。
出演者は演出家の意図をくみとり、できるだけ忠実にイメージ実現に貢献しようとする。
演劇の場合、演出家の指示は絶対的である、というような劇団もある。

現代朗読では——すくなくとも私は——自分のイメージを出演者に押しつけることはない。
私がかんがえる演出とは、自分のイメージやアイディアを出演者に指示したり押しつけるのではなく、出演者ひとりひとりが持っている無限の表現性を引きだすお手伝いをすることだ。

朗読者はそれが初心者であれ熟練者であれ、自分でも気づいていない表現の可能性を無限に持っている。
自分がなぜ自身の可能性に気づけないかについては別の話なので、あらためて書きたいと思うが、とにかくそういうことなので、だれかがアドバイスしたり、ある仕掛けのなかで自分で気づいていってもらうことが有効だ。

自分がどれだけ自由であり、どれほどユニークな存在であるか、それに気づいてもらうのが朗読における演出家の仕事だと思っている。
それに気づくことができたら、あとはステージの上でなにが起こるのかを楽しみに待つだけでよい。
実際、現代朗読のステージでは、いつも、奇跡のようなすばらしいことが次々と起こる。
それはたしかに、私と朗読者たちの共同作業の結果産みだされた奇跡なのだ。

2013年5月17日金曜日

暖かい季節になってほっとしている

人は自分の生まれた季節が一番好きになるというが、私にかんしてはそれは本当だ。
いまの季節が一番好きだ。
好きというより、実際に体調がよくなり、気力も充実する。
寒いのが極端に苦手なので、この季節になるとほっとする。

北陸生まれなのに寒いのが苦手なのは変だ、といわれることが多いが、雪国生まれでも苦手なものは苦手だ。
たぶん、父親も寒いのが苦手な男で、子どものころから家の暖房にはうるさかったのと、子ども(つまり私)にもしこたま厚着をさせていたので、私も寒さに弱くなったのだろう。

東京でも北陸でも、この季節には植物がぐいぐい育ちはじめて、楽しい。
実家の軒先には毎年、ツバメが巣を作るのだが、今年も作っている。
ほとんど完成していて、もうすぐ卵を産んで暖めはじめることだろう。
だれに教わったわけでもないのに、泥と藁を運んできて、器用に巣を作っているのを見るのは、不思議でもあり楽しくもある。


そろそろ小説のほうでまとまった仕事をしたい、という気持ちが強まってきている。
私は短編小説も好きだが、デビューは長編小説であり、長い物語を書くのも嫌いではない。
かなりの根気と持続的な集中力を要する仕事だが、自分ではわりあい得意なほうだと思っている。
かつては年に何本も書いていたこともあったが、数年に一本、集中して自分でも納得できるものを書きたいという欲求がある。

いま書きたいと思いはじめているのは、自分の少年期の話だ。
先日、現代朗読公演のために「子どものころの七つの話」という短編連作を書いたが、あの延長線上で長編にしてはどうかと思う。
いまの時代が失ってしまって、しかしまだ少しは取りもどせるとても大切なことが、私の子どものころにはたくさんあったような気がする。
それを伝えていくことは無意味ではないかもしれない。

「音読日めくり」みたいに一年連載で、季節に連動した話を書いてみようかな。

2013年5月15日水曜日

読みにくい作品を選び、読みたいように読む

よく、
「朗読の練習にはどんな作品を選べばいいんですか?」
と訊かれる。
朗読の作品選びに苦労される方はどうやら多いようなのだ。
私の答えは明快だ。
「読みにくい作品を選びましょう」

作品選びにこまるとつい自分の好きな作品を読もうとしてしまう。
すくなくともそれはあまり「練習」にはならない。
好きな作品や思いいれのある作品は、作品にたいするイメージがすでにできてしまっているので、「このように読もう」という道すじが作られやすい。
現代朗読でいうところの「テキストに読み方を指示される」ことになりやすい。

読み方の自由を確保する練習のためには、なるべく自分では読みにくい作品とか、ほうっておけば自分では決して読もうと選ばない作品を選ぶといい(無責任な他人に選んでもらうのもよい)。
読みにくい作品はあらかじめどう読もうという道すじができていないので、「さて、どう読めばいい?」というところからスタートしやすい。
また、自分がふだん使いなれていない言い回しや文体を自分の表現として使おうというのだから、しっかりと読みこんで練習しなければうまく読めない。
練習で苦労する分、力がつく。

理想は、読みにくい作品をしっかりと読みこんで、どのようにでも読めるように練習し、さらに読みたいように読む、ということだ。

「だれそれさんの朗読ライブを聴きたい」という人を何人出せるか

26歳くらいのことだったと思うが、バンドマンをやっていた京都で食いつぶし、生まれ故郷の福井で大人向け(子どももいたけれど)のピアノ教室をほそぼそとやっていたとき、FM福井というラジオ局が開局した。
ちょっとした縁があってそこでラジオ番組の制作に関わるようになった。
いま調べたら、FM福井の開局は1984年2月で、たしかに私は26歳だった。

情報番組の構成やら選曲の手伝いをしていたのだが、その番組のパーソナリティが局アナの女性と、もうひとりは名古屋のタレント会社から派遣されてきた榊原忠美氏だった。
榊原氏は名古屋の劇団クセックの俳優でもあり、どちらかというとラジオのパーソナリティやCMナレーションの仕事は食うための副業のようにかんがえているらしかった。
じつに多くのマニアックな映画や小説を読んでおり、ちょうどそのころ私もはまっていたラテンアメリカ文学の話でたまたま意気投合した。

いっしょになにかやろう、という話になり、彼が朗読、私が即興ピアノを弾く形で、ライブをおこなうことになった。
それがいまにいたる30年近くにわたってつづく、私と榊原氏の朗読パフォーマンスの付き合いのはじまりであり、ひいてはいま私が主宰している現代朗読協会の起点であったといえる。

榊原氏とは福井、名古屋、岐阜、豊橋、金沢など、さまざまなところでさまざまな朗読イベントをやった。
その後、私は2000年に仕事場を福井から東京にうつし、やはりラジオ番組やオーディオブック制作をはじめた。
失礼なものいいだが「名古屋ですら」榊原氏のようなすごい朗読者がいるのだから、「さぞや東京には」すごい人がゴロゴロいるのだろうと期待していたのだが、私の期待はすぐに裏切られることになった。
榊原氏をこえるようなすぐれた朗読者にはついぞ出会うことがなかった。

榊原氏のすごさは、その即興性と音楽性にある。
即興演奏家のように反応し、ダンサーのように身体を駆使する。
東京に出て間もなく、榊原氏のような朗読者は非常にまれな存在なのだと認識することになった。
それからしばらくして、榊原氏のような朗読者はどのようにして生まれるのだろうか、とかんがえはじめた。
私的な塾として朗読研究会を立ちあげたのは、そういう理由からだった。

その後、現代朗読協会を設立し、即興性、身体性、音楽性に的を絞った朗読者の育成方法を試行していった。

協会設立とほぼ同時期に、朗読などまったくやったことのない、いわばずぶの素人である野々宮卯妙に現代朗読の育成方法を試しはじめた。
いわば人体実験である。
それまでは声優やナレーター、アナウンサーといった、声の仕事にたずさわっている者が多く私のもとに来ていたのだが、まったくの素人に私の方法がどのくらい通用するのか、試してみたかったのだ。

結果はみなさんがご存知のとおりだ。
野々宮卯妙はいまや、どこに出しても恥ずかしくない、堂々たる現代朗読のパフォーマーである。
「朗読業界」から評価されることはあまりないが、ミュージシャンや身体表現のパフォーマーたちと共演すれば、たちまち皆驚愕し、おもしろがってくれる。
そして再演の機会を作ってくれる。
たとえば下北沢の老舗ライブバー〈レディ・ジェーン〉や、中野のジャズ・ダイニング・バー〈Sweet Rain〉などからは、名指しでライブの依頼が来たりするようになった。

榊原氏や野々宮の朗読パフォーマンスを観た人は、彼らがじつに自由に、気ままに、軽々とやっているように思えて、いますぐにも自分でもそのようにできるように勘違いすることがある。
やってみればわかることだが、とんでもない。
彼らのようにやるためには、すぐれた音楽的感性と身体反応力、瞬発力、自由度、そして高度な知性が必要だ。
朗読においてそれらをみがいていく方法を持っているのは、現時点で現代朗読協会以外には存在しない。

現在、現代朗読協会には、野々宮卯妙につづくようなすぐれた朗読パフォーマーの卵がひしめいている。
私の仕事は、あと何人、名指しでライブ依頼されるような朗読者をここから出すことができるか、だ。
同時にもちろん、私自身も、日本でただひとりの朗読ピアニスト(?)として彼らに負けないように腕をみがきあげていくことも大切だと思っている。

私と野々宮卯妙によるライブは、来週5月22日(水)夜の「沈黙の朗読——槐多朗読」が、6月7日(金)夜の「ののみずライブ@中野スウィートレイン」が予定されている。
よろしければ目撃しにきてください。

朗読するときは基本的に受け入れてもらえると信じて読む

朗読にかぎらず、なにかを表現するとき、いや、表現にかぎらずなにか行動するとき、人はかならず他人の批判の目にさらされることになる。
そのことを恐れるあまり、表現することをやめてしまったり、自分の行動に抑制をかけてしまうことがある。
それはとてもつまらないことではないだろうか。

先日、初日を迎えた現代朗読基礎講座で、私が、
「朗読とは伝達ではありませんよ、表現ですよ。自分自身を正直に誠実に相手に伝える手段のひとつですよ」
と、いつものように現代朗読のかんがえかたを示したら、
「それって自分をさらけだすことですよね。怖い」
という人がいた。
たしかに自分をさらけだしたとき、思いがけない非難や攻撃を受けることがある。
「怖い」と思うのは自分の安全がおびやかされるのではないかという怖れからやってくる。

たしかに物理的な危険がある場合はそこから退避したり、自分を守る必要があるが、表現の場においては物理的な危険はそうそうない(まれにあるから、そういう場合はただちに身を守ってください)。
あるのは心理的な危険だ。
心理的な危険にたいしては、心理的な防御や退避が必要だし、有効だ。
このあたりのスキルについては、ここではくどくど述べない。
興味がある方は拙著『共感的コミュニケーション〔入門編〕』をご覧ください。

自分の表現クオリティを最高にあげる方法のひとつは、オーディエンスを完全に信頼すること。
聴衆が自分のことをすべて受け入れてくれると信じてパフォーマンスをすること。
批判や攻撃を受けることを事前に想定しないこと。
そうすれば、みずからの表現のリミッターがなくなり、のびのびイキイキと表現できる。
自分とオーディエンスを信頼して思いきり表現できることこそ、表現することの喜びであり、目的でもあろう。

2013年5月14日火曜日

朗読と即興音楽の「ののみずライブ」@中野〈Sweet Rain〉のお知らせ


中野のジャズライブバー〈Sweet Rain〉で現代朗読パフォーマー野々宮卯妙の朗読と水城のピアノ演奏のライブをおこないます。

◎日時 2013年6月7日(金)20:00スタート(2ステージ)
◎場所 中野〈Sweet Rain〉
◎料金 投げ銭(飲食代は別)

 予約先:Sweet Rain(03-6454-0817)

前回3月6日につづいて2回めとなります。
即興性の高い現代朗読と、まったくの即興ピアノによるスリリングなセッションをおこないます。
演目は夏目漱石などの文学作品と、朗読のために書きおろした水城オリジナルのテキストです。
飲み食いしながら、気楽な音楽ライブのように楽しんでいただければと思っています。

2013年5月13日月曜日

まとまった仕事をする

photo credit: gbohne via photopincc

今年はもうすぐ宮崎駿の新作アニメ映画が公開になるという。
タイトルは「風立ちぬ」。
「崖の上のポニョ」が2008年公開だから、5年ぶりということになる。
その間も「借りぐらしのアリエッティ」や「コクリコ坂から」にも関わってはいるが、監督はしていない。

いずれにしても、宮崎駿は数年単位のスパンで大きな仕事を発表していく、というリズムで晩年の旺盛な製作をおこなっている。
うらやましい、と思う。
自分に引きくらべてみると(他人との比較は不幸のはじまりだが(笑))、毎日ちょこまかとブログを書き、表現欲求を小出しにして、まとまった仕事は何年もできていない。

まとまった仕事をしたいという欲求はある。
いや、まったくなかったわけではないな。
去年の2月13日から今年の2月12日まで、毎日欠かさずブログ連載した『音読日めくり』は、結果的に分量的にも力技的にもまとまったものとなった。
これは誇れることかもしれない。

ジブリという会社に理想的な仕事環境を持ち、周辺のノイズから守られて数年単位で集中して仕事をしていくのは宮崎駿のスタイルだが、私はそうではないし、そのようなスタイルを望むべくもない。
毎日こつこつと取りくみ、結果的に数ヶ月、数年単位でまとまった仕事として完成するような、そういうスタイルをこれからも取ればいいのか、と思う。
そう思ったとき、いま、明日からでも取りかかりたい仕事はなんだろう。
あるある、たくさんある。
あれもこれもではなく、順番に、『音読日めくり』のときのように、毎日の生活スタイルの一部のような継続的な仕事として、手をつけていこう。

明日死ぬかもしれないけれど、まだ何年も生きるかもしれない。
ガンジーの言葉を思いだす。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」