2010年7月6日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.7

ベースの森くんとドラムスの野崎くんとのピアノトリオで、何度かリハーサルを重ね、ライブハウスにも出演するようになった。その頃はまだバンドの仕事がたくさんあった時期で、新しくオープンした店にいきなりバンドが「ハコ」で雇われることになった。

ソロ演奏の仕事も舞いこんできた。フィリピンの女性がホステスをやっている、いわゆる「フィリピンパブ」で、いまから思えばたぶん違法の店だったろう。そこでピアノの「先生」としてソロ演奏やホステスの歌伴をやったりした。ほかにもソロ演奏の仕事はちょくちょくあった。

私は次第に生活の糧をバーテンダーのアルバイトからバンドマンの仕事で得るようになっていった。バンドの仕事は拘束時間が短く、ギャラも高くて効率がよかった。仕事は夜なので、昼間は本を読んだり、バンド仲間と草野球をしたり、リハーサルをしたりしてすごした。

大学はもちろんまったく行ってなかった。単位は足りず、そのうち学費も親から打ち切られてしまったので、除籍になった。バーテンダーもやめ、バンドマン一本でやりはじめた。ピアノトリオはそれなりに活動していて、奈良のラテン音楽系の店で週一のハコをもらったりした。

ほかにもブラックコンテンポラリー系の大きなバンドに参加して、ディスコに出演したりもした。ピアノトリオではドラムスの野崎くんがフリー指向の強い人間だったので、私もフリージャズの魅力に取りつかれ、隙を見てはフリー演奏をして店から嫌がられたりした。

一見、順調にスタートしたバンドマン生活のようだったが、思いがけない落とし穴が待ち構えていた。それはカラオケブームの到来である。カラオケマシンというものが現れ、スナックなどでは導入する店が出てきているという話はちらほらと聞いていた。

気にも止めていなかったのだが、あれよあれよという間にカラオケマシンは京都の店にも普及していき、気がついたらバンドマンをクビにしてカラオケマシンを入れる店が増えていた。バンドマンの仕事がどんどん減っていった。とくに私のような駆け出しはきつかった。

あちこちにコネがある古手のバンドマンはまだしも、私のような新人はどんどん仕事をホサれていった。いくつも掛け持ちしていたハコの仕事がなくなり、歌伴やソロの仕事がなくなり、単発の営業仕事もなくなっていった。さらに追い打ちをかけられることが起こった。

ハコで入っていた店からクビを宣言されたはいいが、さらに給料をもらいにいったら、なんの前触れもなく閉店していたのだ。閉まったシャッターには「差し押さえ」の張り紙が張ってあった。しかもその店からは3か月分の給料が未配だったのだ。

とたんに生活に窮してしまった。その頃には結婚もしていた。バーテンダーの仕事に戻ろうかとも思ったが、拘束時間が長く体力的にもきつい仕事にはもう戻りたくなかった。というのも、バンドマン生活の昼間の長い余暇を利用して、私は小説書きに熱中しはじめていたからだ。

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