2011年11月3日、文化の日。げろきょ祭り「しもきた奇譚」が、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されました。
そのレポートを何回かに分けてお送りします。
朝8時半の少し前から、出演者の一部が羽根木の家に準備のために集まりはじめました。いつものようにライブ前のちょっとあわただしい気分でのスタートでしたが、この時点では、まだ、この日が私にとって、そして現代朗読協会にとって、忘れられない記念碑的な一日になろうとはまったく想像していませんでした。
出演者はライブワークショップ参加者10名と、ゼミ生のほとんど全員です。ほぼ総力戦です。そして「現代朗読リスナー協会」会長(笑)の丸さんも、いつものように助っ人でかけつけてくれました。
楽器やビデオ機材、印刷物などを持って、みんなでゾロゾロと歩いて下北沢に向かいました。会場の音倉までは歩いて10分ほど。近くて便利です。
会場にはすでに直行メンバーが来ていました。
音倉の担当の中山さんにご挨拶してから、午後の部ではほとんどリハーサル時間が取れないため、午前の部の準備をする合間にそれぞれ自主的にリハーサルをやっておいてもらいます。
私はまず楽器のセッティング。今回は音倉のグランドピアノのほかに、KORGのシンセを持ちこんで、その音と、シンセをMIDIコントローラーにしてMacBookAirにつなぎ、LOGICの音源も鳴らすセッティングです。店のPAは使わず、持ちこんだBOSEのスピーカーを使います。なぜこういうことをするかというと、生ピアノとシンセ音をおなじ場所から出したかったからです。
朗読も今回は完全生声で、マイクは使いません。
楽器のセッティングが終わったら、今度は照明のセッティング。第一部は嶋村美希子が中心になって、それに照井数男がからむパフォーマンス。途中でゼミ生が4人参加する演目もありますが、基本的にはふたり。と、演奏の私。
劇場ではないので、照明機材は豊富というわけではなく、セッティングには工夫が必要です。それでも演劇ではないので、あまり厳密で大げさなことは必要ありません。
そうする間にも、遅れて参加のゼミ生たちも続々とやってきました。
第一部で6人が出る演目「二匹の猫の冒険」のリハーサルをしようという段になって、参加するはずの菊地くんがまだ到着していません。やむをえず、配役を交代しようとしたら、ぎりぎりになって菊地くんが到着。
ごく簡単なリハーサルを終えたら、もう開場の10時半になりました。
いよいよ第一部のスタートです。
(つづく)
水城ゆうブログ
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2011年11月4日金曜日
現代朗読協会はどこへ向かうのか
げろきょ祭り「しもきた奇譚」が終わりました。なんだろうな、この充実感。
参加したゼミ生たちもとてもいい顔になってました。あらためてレポートを書きますが、すばらしい公演でした。
なにがすばらしかったかというと、全員がリラックスしてマインドフルで楽しく、自分をなにも飾ることなく誠実に表現しただけなのに、そこには確実にまったく見たこともない新鮮な表現が生まれていた、ということです。朗読と限定するには狭すぎるし、演劇的だけで演劇ではないし、音楽があるけれど音楽でもない、しかし同時にそのどれでもあるという、現代のジャンル分けの範疇にはおさまらない自由な表現パフォーマンスがそこにあります。
出演した私たちも初めてのことばかりでしたし、見に来てくれたお客さんにとっても初めて目撃することだったでしょう。そしていま、このような表現をやっているグループはどこにも存在しないと断言できます。
作ろうと思ってこのような表現集団ができたわけではありません。みなさんのそれぞれの意志が自然に合わさってこんな形になってきたのです。とても信じがたいことですが、とてもうろしいことでもあります。
この私たちが次にどんなことをするのか、どこへ向かっていくのか、どうぞ注目していただきたいと思います。
参加したゼミ生たちもとてもいい顔になってました。あらためてレポートを書きますが、すばらしい公演でした。
なにがすばらしかったかというと、全員がリラックスしてマインドフルで楽しく、自分をなにも飾ることなく誠実に表現しただけなのに、そこには確実にまったく見たこともない新鮮な表現が生まれていた、ということです。朗読と限定するには狭すぎるし、演劇的だけで演劇ではないし、音楽があるけれど音楽でもない、しかし同時にそのどれでもあるという、現代のジャンル分けの範疇にはおさまらない自由な表現パフォーマンスがそこにあります。
出演した私たちも初めてのことばかりでしたし、見に来てくれたお客さんにとっても初めて目撃することだったでしょう。そしていま、このような表現をやっているグループはどこにも存在しないと断言できます。
作ろうと思ってこのような表現集団ができたわけではありません。みなさんのそれぞれの意志が自然に合わさってこんな形になってきたのです。とても信じがたいことですが、とてもうろしいことでもあります。
この私たちが次にどんなことをするのか、どこへ向かっていくのか、どうぞ注目していただきたいと思います。
2011年11月2日水曜日
明日はいよいよげろきょ祭りですよ
明日はいよいよ、げろきょ祭り「しもきた奇譚」の日です。
昨日、第一部の若手肉体朗読のことを紹介しましたが、第二部のことも紹介させてください。
第二部は「若手ではない」というわけではなく、げろきょの特徴である幅広い年齢層によるバラエティ豊かな演目が目白押しの公演です。
全6回シリーズのライブワークショップ参加者による宮澤賢治の「双子の星 一」の群読や、朝ゼミメンバーによるこれも宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の群読があります。ほかにも、夏目漱石や落語、新美南吉、太宰治など、コンテンポラリーな朗読が盛りだくさんです。
これほどパリエーションが豊かで、しかも斬新な表現の朗読公演は、ほかにはまずないのではないかと自負しています。
私のことをいえば、演出とはいうものの、みんなが自由に自主的にかんがえた自分たちの表現をしてくれるのを、ただ見守り、「いまここ」に反応して音(ピアノ演奏)をつけていくだけなのです。
明日、どうなるかは、私もみんなも、そしておいでいただくお客さんも、まったく予想できません。それがライブというものではないでしょうか。
都合のつく方は、ぜひ明日、下北沢まで遊びにいらしてくださいね。
詳細はこちら。
昨日、第一部の若手肉体朗読のことを紹介しましたが、第二部のことも紹介させてください。
第二部は「若手ではない」というわけではなく、げろきょの特徴である幅広い年齢層によるバラエティ豊かな演目が目白押しの公演です。
全6回シリーズのライブワークショップ参加者による宮澤賢治の「双子の星 一」の群読や、朝ゼミメンバーによるこれも宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の群読があります。ほかにも、夏目漱石や落語、新美南吉、太宰治など、コンテンポラリーな朗読が盛りだくさんです。
これほどパリエーションが豊かで、しかも斬新な表現の朗読公演は、ほかにはまずないのではないかと自負しています。
私のことをいえば、演出とはいうものの、みんなが自由に自主的にかんがえた自分たちの表現をしてくれるのを、ただ見守り、「いまここ」に反応して音(ピアノ演奏)をつけていくだけなのです。
明日、どうなるかは、私もみんなも、そしておいでいただくお客さんも、まったく予想できません。それがライブというものではないでしょうか。
都合のつく方は、ぜひ明日、下北沢まで遊びにいらしてくださいね。
詳細はこちら。
2011年11月1日火曜日
11月3日は若手の肉体朗読を応援しに来てください
11月になりましたね。そして11月3日・文化の日はげろきょ祭りです。
げろきょ、すなわち「現代朗読協会」のお祭りです。朗読祭りです。題して「しもきた奇譚」。
現代朗読協会ではたくさんのライブや公演をやってきましたが、総力戦ともいうべき大きなものはたくさんはありません。今回はそのひとつです。
とはいえ、会場はこじんまりした下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉なので、どなたも気軽においでください。
げろきょの特徴として、参加者の年齢層がとても幅広い、というのがあります。たいていの朗読講座やサークルの参加者は中高年の女性が多いのですが、げろきょは若い人もたくさんいます。とくに今回の「しもきた奇譚」の第一部では、23歳女子と26歳男子のふたりがメインになって、フレッシュなパフォーマンスを披露してくれることになっています。いわば肉体朗読とでもいうべきものです。
朗読というと椅子に行儀よく座って淡々と本を読む、というイメージが強いですが、彼らはそんなことはやりません。コンテンポラリー朗読です。全身をめいっぱい使って朗読してもらいます。私のテキストも使いますし、演出と演奏で私も参加します。次世代の表現をになう若いもんを応援しに来てください。
詳細はこちら。
げろきょ、すなわち「現代朗読協会」のお祭りです。朗読祭りです。題して「しもきた奇譚」。
現代朗読協会ではたくさんのライブや公演をやってきましたが、総力戦ともいうべき大きなものはたくさんはありません。今回はそのひとつです。
とはいえ、会場はこじんまりした下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉なので、どなたも気軽においでください。
げろきょの特徴として、参加者の年齢層がとても幅広い、というのがあります。たいていの朗読講座やサークルの参加者は中高年の女性が多いのですが、げろきょは若い人もたくさんいます。とくに今回の「しもきた奇譚」の第一部では、23歳女子と26歳男子のふたりがメインになって、フレッシュなパフォーマンスを披露してくれることになっています。いわば肉体朗読とでもいうべきものです。
朗読というと椅子に行儀よく座って淡々と本を読む、というイメージが強いですが、彼らはそんなことはやりません。コンテンポラリー朗読です。全身をめいっぱい使って朗読してもらいます。私のテキストも使いますし、演出と演奏で私も参加します。次世代の表現をになう若いもんを応援しに来てください。
詳細はこちら。
2011年10月31日月曜日
朗読や音楽における成熟したオーディエンスとは
内田樹氏が書いた「さよならアメリカ、さよなら中国」というブログ記事に、資本主義についてのわかりやすく書かれていたのがおもしろく、紹介します。
------------
資本主義は「勝つもの」がいれば、「負けるもの」がいるゼロサムゲームである。
この勝ち負けの振れ幅が大きいほど「どかんと儲ける」チャンスも「奈落に落ちこむ」リスクも増える。
だから、資本主義者たちは「振れ幅」をどうふやすかに腐心する。
シーソーと同じである。
ある一点に荷重をかければ、反対側は跳ね上がる。
どこでもいいのである。ある一点に金が集まるように仕向ける。
「金が集まるところ」に人々は群がり、さらに金が集まる。
集まった金をがさっと熊手で浚って、「仕掛けたやつ」は逃げ出す。
あとには「そこにゆけば金が儲かる」と思って群がってきた人間たちの呆け顔が残される。
その繰り返しである。
このマネーゲームが順調に進むためには、消費者たちはできるだけ未成熟であることが望ましい。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
だから、資本主義は消費者の成熟を好まない。
------------
なるほど。
私はふと、朗読や音楽のリスナー(オーディエンス)のことを考えました。資本主義、つまり商品経済においては、オーディエンスもまた成熟してもらっては困るかもしれません。CDやDVD、あるいはネットコンテンツ、ライブチケットといったものが、集中的に売れるためには、オーディエンスが未成熟であり、均一の価値観でおしなべられていることが必要だということになります。
だから、テレビは消費者をよりバカにしようとがんばるし、音楽業界も多種多様な音楽を売るのではなく均質な音楽を大量に流してオーディエンスの成熟をはばもうとするのでしょう。
オーディエンスが多種多様な価値観を持つまだに成熟し、その購買行動が予測不能になっていけば、資本主義者はとても困ります。
私たち表現する者は、まさにそれに対する戦いを生きているといってもいいかもしれません。
また、資本主義社会における人の消費行動について、TPPを引き合いに出して書かれています。
------------
TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
------------
これを表現の場でのチケット料金にあてはめるとどうなるでしょうか。
一円でも安いチケットのほうがいい、と考えるオーディエンスは、その表現が衰退しても構わないと考える可能性があるということになります。その表現を衰退させない、応援したいと考えているオーディエンスは、一円でも安いほうがいいとは考えませんね、きっと。少しくらい高くても観に行きたい、と考えるでしょう。
自分のことに引きつけて考えると、それは納得できます。
逆にいえば、表現者は自分のパフォーマンスの場を成立させるための料金について、一円でも安く、などとは考えないほうがいいということになります。自分が表現をつづけていくためにどの程度のお金が必要なのか、そのための価格設定を堂々とすればいいのかもしれません。
表現作品や表現の場と、商品経済・資本主義経済を切りはなして考えたほうがいいというの、私がいつも主張していることですが、表現ばかりでなく我々の社会構造そのものにもそのような考え方が必要な時代になってきたように思います。
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資本主義は「勝つもの」がいれば、「負けるもの」がいるゼロサムゲームである。
この勝ち負けの振れ幅が大きいほど「どかんと儲ける」チャンスも「奈落に落ちこむ」リスクも増える。
だから、資本主義者たちは「振れ幅」をどうふやすかに腐心する。
シーソーと同じである。
ある一点に荷重をかければ、反対側は跳ね上がる。
どこでもいいのである。ある一点に金が集まるように仕向ける。
「金が集まるところ」に人々は群がり、さらに金が集まる。
集まった金をがさっと熊手で浚って、「仕掛けたやつ」は逃げ出す。
あとには「そこにゆけば金が儲かる」と思って群がってきた人間たちの呆け顔が残される。
その繰り返しである。
このマネーゲームが順調に進むためには、消費者たちはできるだけ未成熟であることが望ましい。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
だから、資本主義は消費者の成熟を好まない。
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なるほど。
私はふと、朗読や音楽のリスナー(オーディエンス)のことを考えました。資本主義、つまり商品経済においては、オーディエンスもまた成熟してもらっては困るかもしれません。CDやDVD、あるいはネットコンテンツ、ライブチケットといったものが、集中的に売れるためには、オーディエンスが未成熟であり、均一の価値観でおしなべられていることが必要だということになります。
だから、テレビは消費者をよりバカにしようとがんばるし、音楽業界も多種多様な音楽を売るのではなく均質な音楽を大量に流してオーディエンスの成熟をはばもうとするのでしょう。
オーディエンスが多種多様な価値観を持つまだに成熟し、その購買行動が予測不能になっていけば、資本主義者はとても困ります。
私たち表現する者は、まさにそれに対する戦いを生きているといってもいいかもしれません。
また、資本主義社会における人の消費行動について、TPPを引き合いに出して書かれています。
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TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
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これを表現の場でのチケット料金にあてはめるとどうなるでしょうか。
一円でも安いチケットのほうがいい、と考えるオーディエンスは、その表現が衰退しても構わないと考える可能性があるということになります。その表現を衰退させない、応援したいと考えているオーディエンスは、一円でも安いほうがいいとは考えませんね、きっと。少しくらい高くても観に行きたい、と考えるでしょう。
自分のことに引きつけて考えると、それは納得できます。
逆にいえば、表現者は自分のパフォーマンスの場を成立させるための料金について、一円でも安く、などとは考えないほうがいいということになります。自分が表現をつづけていくためにどの程度のお金が必要なのか、そのための価格設定を堂々とすればいいのかもしれません。
表現作品や表現の場と、商品経済・資本主義経済を切りはなして考えたほうがいいというの、私がいつも主張していることですが、表現ばかりでなく我々の社会構造そのものにもそのような考え方が必要な時代になってきたように思います。
朗読者・榊原忠美氏による「沈黙の朗読」レポート
先週土曜日に名古屋〈あうん〉でおこなわれた「沈黙の朗読」の公演レポートは、すでに私もこちらに書きましたが、朗読の出演者である榊原忠美氏も自身のブログで書いてくれているので、一部を紹介します。
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ピアノとクラリネットと照明と私の朗読が交錯する空間に立ち会われました。どんな感想が出ているのか解りませんが、話を聞かせていただいた方は、本人を前にしていますから「悪かった」とは言えないでしょうが、「楽しめたわ」なんて言葉が飛び出していました。まあ、まずまずといったところでしょうか?観客を100%満足させられませんから、その半分、いや三分の一でも、「おっ」と思って下されば良しというところです。そう思うと出演者も照明方も楽しかったのですから、その気持ちが伝播したと思う事にいます。
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全文はこちらからどうぞ。
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ピアノとクラリネットと照明と私の朗読が交錯する空間に立ち会われました。どんな感想が出ているのか解りませんが、話を聞かせていただいた方は、本人を前にしていますから「悪かった」とは言えないでしょうが、「楽しめたわ」なんて言葉が飛び出していました。まあ、まずまずといったところでしょうか?観客を100%満足させられませんから、その半分、いや三分の一でも、「おっ」と思って下されば良しというところです。そう思うと出演者も照明方も楽しかったのですから、その気持ちが伝播したと思う事にいます。
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全文はこちらからどうぞ。
足の裏を意識することで変わること
こまきみらい塾の現代朗読講座は、先週も定員いっぱいの40名のご参加をいただき、盛況でした。けっこう冷えこんだ日だったんですが、教室は皆さんの熱気でムンムンしてました。
その講座で質問が出ました。
「なぜ足の裏を意識するんですか」
私はいつも、朗読をするときには「足の裏を意識するといいですよ」というアドバイスをしているのです。
見ているとわかりますが、朗読をしている人はたいてい、本に書かれている文字とそれを見ている眼、動かしている口、そして頭の中に自分の意識が集中しています。実際には朗読はほかに、耳も使うし、呼吸や姿勢も使います。ようするに身体全部を使っているのです。でも、なにかを読もうとすると、そのことを忘れてしまいます。
自分の身体がここにあって、その全部を使って表現する、ということを思い出すためには、足の裏を意識するのがもっとも簡単な方法なのです。つまり、頭や口からもっとも遠い身体の場所に意識を向けることで、身体全体のことを思い出すことができるのです。
これはマインドフルネスのひとつの方法です。すべての表現には、そしてイキイキと生きていくためには、このマインドフルネスが大変有効です。
その講座で質問が出ました。
「なぜ足の裏を意識するんですか」
私はいつも、朗読をするときには「足の裏を意識するといいですよ」というアドバイスをしているのです。
見ているとわかりますが、朗読をしている人はたいてい、本に書かれている文字とそれを見ている眼、動かしている口、そして頭の中に自分の意識が集中しています。実際には朗読はほかに、耳も使うし、呼吸や姿勢も使います。ようするに身体全部を使っているのです。でも、なにかを読もうとすると、そのことを忘れてしまいます。
自分の身体がここにあって、その全部を使って表現する、ということを思い出すためには、足の裏を意識するのがもっとも簡単な方法なのです。つまり、頭や口からもっとも遠い身体の場所に意識を向けることで、身体全体のことを思い出すことができるのです。
これはマインドフルネスのひとつの方法です。すべての表現には、そしてイキイキと生きていくためには、このマインドフルネスが大変有効です。
2011年10月30日日曜日
名古屋→福井、実家
名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」公演を終え、栄のホテル泊。このホテルはバラさんが取ってくれたものですが、定宿にしていた丸の内のホテルより少しだけクオリティがいいのです。部屋が少し広くて、ベッドがかなり広い。シングルだけど、セミダブル。
そして朝食がいいのです。バイキング形式だが、おにぎり、味噌汁、ほかにいろいろ和食を中心としたおかずがあって、なによりそこで作っている人の姿が見える厨房があります。おばちゃんだけど。
次からはここを定宿にしようかなあ。料金も500円くらいしか変わらないし。アクセスもいいし。
ベッドが広いので、とてもよく眠れます。昨日も一昨日も熟睡して、朝、目がさめたときには、ここがどこなのか一瞬思いだせないほどでした。
この熟睡ベッドについて、杪ちゃんから強烈な失敗談を聞いたんですが、あまりに強烈すぎてここには書けません。
今朝は8時にフロントに集合ということで、降りてみたら、バラさん、杪ちゃん、坂野さんと、すでに全員集合。みんな元気です。
チェックアウトして、バラさんの車で名古屋駅まで送ってもらいました。
米原経由で北陸本線、福井へ。えちぜん鉄道を乗りついで、実家へ。
肺がんの手術をして、退院したばかりの母が駅まで迎えに来てくれました。車の運転は支障がないそうです。顔色もよく元気そうです。が、リンパ腺への転移があって、その治療が来週から始まるということで、ちょっと心配です。
母ももう78歳なので、これまで親不孝ばかり重ねてきた長男息子としては、せめて気持ちだけでも孝行したいものです。
それはともかく、やはり北陸は寒い。秋というより、もう初冬ですね。紅葉はまだ本格的ではありませんが。
そして朝食がいいのです。バイキング形式だが、おにぎり、味噌汁、ほかにいろいろ和食を中心としたおかずがあって、なによりそこで作っている人の姿が見える厨房があります。おばちゃんだけど。
次からはここを定宿にしようかなあ。料金も500円くらいしか変わらないし。アクセスもいいし。
ベッドが広いので、とてもよく眠れます。昨日も一昨日も熟睡して、朝、目がさめたときには、ここがどこなのか一瞬思いだせないほどでした。
この熟睡ベッドについて、杪ちゃんから強烈な失敗談を聞いたんですが、あまりに強烈すぎてここには書けません。
今朝は8時にフロントに集合ということで、降りてみたら、バラさん、杪ちゃん、坂野さんと、すでに全員集合。みんな元気です。
チェックアウトして、バラさんの車で名古屋駅まで送ってもらいました。
米原経由で北陸本線、福井へ。えちぜん鉄道を乗りついで、実家へ。
肺がんの手術をして、退院したばかりの母が駅まで迎えに来てくれました。車の運転は支障がないそうです。顔色もよく元気そうです。が、リンパ腺への転移があって、その治療が来週から始まるということで、ちょっと心配です。
母ももう78歳なので、これまで親不孝ばかり重ねてきた長男息子としては、せめて気持ちだけでも孝行したいものです。
それはともかく、やはり北陸は寒い。秋というより、もう初冬ですね。紅葉はまだ本格的ではありませんが。
名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」公演
昨日は名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」の公演でした。
早朝からバラさん、杪ちゃんといっしょに〈あうん〉へ。会場と照明のセッティングのためです。
劇団クセックから助っ人として樋口くんと柴田くん、今回の公演の制作の優美さんと知り合いのようへいくんがすでに来ていました。
バラさんの指示で、舞台になる背後のガラス窓の外側にある塀の上に黒い板を張り巡らせて、向こう側の住宅街が見えないように目隠しをするという、大掛かりな作業が樋口くんに任されました。一方、杪ちゃんも照明機材のセッティング。とても朗読公演とは思えない大掛かりなものです。
私が使うアップライトのピアノも窓際に移動。それ以外に私自身はたいしてやることはないので、少し手伝ったり邪魔したりするだけ。
優美さんがけっこうおいしい弁当を調達してきてくれて、昼食。
午後にはクラリネットの坂野さんも到着したので、ライブの段取りのきっかけの打ち合わせ。どこでピアノが入って、どこがクラリネットが入る、といった、ごくおおまかなきっかけを決めますが、あとはすべて即興演奏。バラさんは照明との兼ね合いがあるので、立ち位置などは確認しますが、それもほとんど即興。照明も即興。
あらかじめ作り込み、準備し、決められたとおりのことをなぞってやる、というようなことを、我々はもはややりたくないんですね。なぜなら、お客さんも空間も時間も私たち自身のコンディションも気持ちも、すべて変化のなかにあり、「いまここ」に誠実に向かい合っていくしかないからです。
大掛かりな目張りの工事が終わり、エンディングで使う布と吊り革の仕掛けもできて、出だしのリハーサルと、エンディングのリハーサル。
エンディングはけっこう細かな段取りを決めたんですが、これが本番ではまったく機能せず、予測不能の事態に。まあ、これもいつものことです。この緊張感がたまりません。
午後6時半からお客さんが来はじめ、7時の開演時間には40名くらいの方で店はほぼいっぱいに。中高年の方、とくに女性が多いです。
女性が多いのは東京でのげろきょ公演も同じですが、年齢層が高いのは名古屋の特徴でしょうか。というより、東京のげろきょ公演の年齢層が低いことのほうが特徴的といったほうがいいかもしれません。
さて、始めようとして、ピアノにつき、暗転になったとき、止めておくといったはずの換気扇がまだ回っていることに気づきました。なにしろ「沈黙の朗読」ですから、なるべく音がするものは減らしておきたいのです。そこで、暗転になっていたにもかかわらず、ピアノを離れ、換気扇を止めてもらうべくスタッフのところに走りました。ついでに、これも回すのを忘れていた記録用のビデオカメラのスイッチもオン。
気をとりなおして再スタート。
バラさんの朗読に、すかさずピアノとクラリネットがからみ、70分一本勝負の即興パフォーマンスの始まりです。
70分間も集中力を持続させるというのは、出演者も大変ですが、お客さんも大変です。とくに年輩の方は大変だったかもしれません。それでもだれひとり席を立つ人もなく、最後まで聴いてくださいました。そして最後には大きな拍手をいただくことができました。ありがたったです。
ライブは終わりましたが、〈あうん〉のイベントはまだつづきます。この公演は食事とセットになっているので、半分以上のお客さんが食事のために残ります。
スタッフと出演者は照明機材などをそそくさと片付け、途中から出演者を優先してもらってお客さんの席にまぎれいっしょに食事をさせていただきました。〈あうん〉の食事はオーナーの有馬さんがみずから作っておられて、オーガニックでとてもおいしいのです。そしてお客さんの声を直接聞かせてもらえる貴重な機会でもあります。
途中で私にピアノ演奏のリクエストがはいりました。
まさかリクエストがあるとは予想していなかったので、さて困った。
結局、秋の曲ということで「夕焼け小焼けの赤とんぼ」をアレンジして演奏。これ、来月の音倉のランチタイムコンサートでも弾いてみようかな。
演奏が終わったらびっくりするくらいたくさんの拍手をいただき、アンコールという声までかかりました。もう一曲だけ、ということで、ジャズのスタンダードを弾いて、ようやく終わりにさせてもらいました。
お客さんが全員帰ってから、有馬さんを交えスタッフだけで飲み会。
今回もいろいろ起きたハプニングやらサプライズやらについて大笑いしながらみんなで夜中まだ語りあったのでした。
いやいや、みなさん、お疲れさまでした。
早朝からバラさん、杪ちゃんといっしょに〈あうん〉へ。会場と照明のセッティングのためです。
劇団クセックから助っ人として樋口くんと柴田くん、今回の公演の制作の優美さんと知り合いのようへいくんがすでに来ていました。
バラさんの指示で、舞台になる背後のガラス窓の外側にある塀の上に黒い板を張り巡らせて、向こう側の住宅街が見えないように目隠しをするという、大掛かりな作業が樋口くんに任されました。一方、杪ちゃんも照明機材のセッティング。とても朗読公演とは思えない大掛かりなものです。
私が使うアップライトのピアノも窓際に移動。それ以外に私自身はたいしてやることはないので、少し手伝ったり邪魔したりするだけ。
優美さんがけっこうおいしい弁当を調達してきてくれて、昼食。
午後にはクラリネットの坂野さんも到着したので、ライブの段取りのきっかけの打ち合わせ。どこでピアノが入って、どこがクラリネットが入る、といった、ごくおおまかなきっかけを決めますが、あとはすべて即興演奏。バラさんは照明との兼ね合いがあるので、立ち位置などは確認しますが、それもほとんど即興。照明も即興。
あらかじめ作り込み、準備し、決められたとおりのことをなぞってやる、というようなことを、我々はもはややりたくないんですね。なぜなら、お客さんも空間も時間も私たち自身のコンディションも気持ちも、すべて変化のなかにあり、「いまここ」に誠実に向かい合っていくしかないからです。
大掛かりな目張りの工事が終わり、エンディングで使う布と吊り革の仕掛けもできて、出だしのリハーサルと、エンディングのリハーサル。
エンディングはけっこう細かな段取りを決めたんですが、これが本番ではまったく機能せず、予測不能の事態に。まあ、これもいつものことです。この緊張感がたまりません。
午後6時半からお客さんが来はじめ、7時の開演時間には40名くらいの方で店はほぼいっぱいに。中高年の方、とくに女性が多いです。
女性が多いのは東京でのげろきょ公演も同じですが、年齢層が高いのは名古屋の特徴でしょうか。というより、東京のげろきょ公演の年齢層が低いことのほうが特徴的といったほうがいいかもしれません。
さて、始めようとして、ピアノにつき、暗転になったとき、止めておくといったはずの換気扇がまだ回っていることに気づきました。なにしろ「沈黙の朗読」ですから、なるべく音がするものは減らしておきたいのです。そこで、暗転になっていたにもかかわらず、ピアノを離れ、換気扇を止めてもらうべくスタッフのところに走りました。ついでに、これも回すのを忘れていた記録用のビデオカメラのスイッチもオン。
気をとりなおして再スタート。
バラさんの朗読に、すかさずピアノとクラリネットがからみ、70分一本勝負の即興パフォーマンスの始まりです。
70分間も集中力を持続させるというのは、出演者も大変ですが、お客さんも大変です。とくに年輩の方は大変だったかもしれません。それでもだれひとり席を立つ人もなく、最後まで聴いてくださいました。そして最後には大きな拍手をいただくことができました。ありがたったです。
ライブは終わりましたが、〈あうん〉のイベントはまだつづきます。この公演は食事とセットになっているので、半分以上のお客さんが食事のために残ります。
スタッフと出演者は照明機材などをそそくさと片付け、途中から出演者を優先してもらってお客さんの席にまぎれいっしょに食事をさせていただきました。〈あうん〉の食事はオーナーの有馬さんがみずから作っておられて、オーガニックでとてもおいしいのです。そしてお客さんの声を直接聞かせてもらえる貴重な機会でもあります。
途中で私にピアノ演奏のリクエストがはいりました。
まさかリクエストがあるとは予想していなかったので、さて困った。
結局、秋の曲ということで「夕焼け小焼けの赤とんぼ」をアレンジして演奏。これ、来月の音倉のランチタイムコンサートでも弾いてみようかな。
演奏が終わったらびっくりするくらいたくさんの拍手をいただき、アンコールという声までかかりました。もう一曲だけ、ということで、ジャズのスタンダードを弾いて、ようやく終わりにさせてもらいました。
お客さんが全員帰ってから、有馬さんを交えスタッフだけで飲み会。
今回もいろいろ起きたハプニングやらサプライズやらについて大笑いしながらみんなで夜中まだ語りあったのでした。
いやいや、みなさん、お疲れさまでした。
演出家への最高の報酬とは
私のところへ毎月、何人もの人が朗読を習いに来ます。とはいえ、私自身は朗読者ではありません。まったく朗読はやりません。そのかわり、演出の立場で多くの人の朗読を聴き、アドバイスをしたりいっしょに考えたりします。
現代朗読協会の体験講座や基礎講座、あるいはライブワークショップ、それらの見学としてやってくるのは、まったく朗読経験のない人か、あっても従来の朗読に行き詰まってなにか突破口はないものかと模索している人がほとんどです。
みんな緊張して、難しい顔をして来られます。
その人たちも、現代朗読の考え方にふれ、実際にやってみていくにつれ、しだいに表情がほぐれ、笑顔になってきます。現代朗読には「これをやってはいけない」「こうしなきゃいけない」というものが一切ないからです。むしろ、意識的にせよ無意識的にせよ、身につけてしまった思いこみや癖を自覚し、それを「やめていく」ことに重点が置かれます。
ほかの朗読講座や朗読グループから来られた人の多くが、
「いつもいわれていることと真逆だ」
とびっくりします。
たとえば、
「しっかり声を張りましょう」
「お腹から声を出しましょう」
「文章の意味が変わらないように、間合いを取る場所はしっかり決めておきましょう」
というようなことをいわれるそうですが、現代朗読ではそんなことはやりません。むしろそのような「恣意的」な行動を「やめていく」ことに重きを置きます。こういった恣意的なことを多くの人が無意識に思いこんで、「やってしまっている」のです。とくに朗読経験の長い人ほどそういう傾向があります。
思いこみや癖を自覚し、それをやめていくにつれ、そこには驚くほど自由な表現が広がっていることに、たいていの人は気づきます。そしてその瞬間、笑顔になるのです。
「朗読ってこんなに自由だったんだ」
「こんなに楽しかっんだ」
「目からうろこが落ちました」
こういった感想が出てきます。その瞬間、私は演出家として「報われた」と思うのです。
私がおこなうのは、ある人を何者かに「作りあげる」ことではなく、ある人を本来その人があるがままの輝かしいオリジナルの姿に連れ戻すことなのです。それができたとき、その人は自由を取りもどし、自分をあるがままに表現する子どものときとおなじ楽しさを再発見するのです。
それがかなったときの笑顔が、演出家としての私にとって最高の報酬です。
現代朗読協会の体験講座や基礎講座、あるいはライブワークショップ、それらの見学としてやってくるのは、まったく朗読経験のない人か、あっても従来の朗読に行き詰まってなにか突破口はないものかと模索している人がほとんどです。
みんな緊張して、難しい顔をして来られます。
その人たちも、現代朗読の考え方にふれ、実際にやってみていくにつれ、しだいに表情がほぐれ、笑顔になってきます。現代朗読には「これをやってはいけない」「こうしなきゃいけない」というものが一切ないからです。むしろ、意識的にせよ無意識的にせよ、身につけてしまった思いこみや癖を自覚し、それを「やめていく」ことに重点が置かれます。
ほかの朗読講座や朗読グループから来られた人の多くが、
「いつもいわれていることと真逆だ」
とびっくりします。
たとえば、
「しっかり声を張りましょう」
「お腹から声を出しましょう」
「文章の意味が変わらないように、間合いを取る場所はしっかり決めておきましょう」
というようなことをいわれるそうですが、現代朗読ではそんなことはやりません。むしろそのような「恣意的」な行動を「やめていく」ことに重きを置きます。こういった恣意的なことを多くの人が無意識に思いこんで、「やってしまっている」のです。とくに朗読経験の長い人ほどそういう傾向があります。
思いこみや癖を自覚し、それをやめていくにつれ、そこには驚くほど自由な表現が広がっていることに、たいていの人は気づきます。そしてその瞬間、笑顔になるのです。
「朗読ってこんなに自由だったんだ」
「こんなに楽しかっんだ」
「目からうろこが落ちました」
こういった感想が出てきます。その瞬間、私は演出家として「報われた」と思うのです。
私がおこなうのは、ある人を何者かに「作りあげる」ことではなく、ある人を本来その人があるがままの輝かしいオリジナルの姿に連れ戻すことなのです。それができたとき、その人は自由を取りもどし、自分をあるがままに表現する子どものときとおなじ楽しさを再発見するのです。
それがかなったときの笑顔が、演出家としての私にとって最高の報酬です。
2011年10月29日土曜日
小牧経由、名古屋に来ています
小牧経由、名古屋に来ています。
小牧ではこまきみらい塾で現代朗読講座をやりました。二週間ぶり二回めです。今回も定員いっぱいの40名の方が参加して、まあすごい熱気です。身体と言葉をつないでいくエチュードや、朗読の身体を意識するエチュードをやってもらったので、きっといまごろ筋肉痛でしょう。朗読講座に行って筋肉痛になるなんて、とみなさんは笑っておられましたが。
私も名古屋のホテルではぐっすり眠り、朝は一瞬、ここがどこだかわからなかったほどです。こういうのはひさしぶりです。
ホテルの朝食では、埼玉から来て2週間も名古屋に滞在している、という若者と少し話をしました。なんでも、大学や電力会社に、水流実験のための設備を納入している会社の仕事で来ている、とのことでした。私もテレビで見たことがありますが、水路に波を起こして津波の実験をしたり、水流を作り出していろいろなことを調べたり、といった実験設備ですね。東日本大震災があったので、いま、注目されているのだ、といってました。
なるほどねー。
さて、今夜はライブレストラン〈あうん〉で「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」のライブです。朗読は榊原忠美、クラリネットの坂野嘉彦、照明の杪谷直仁、そして私という、黄金のおっさんカルテットで臨みます。
小牧ではこまきみらい塾で現代朗読講座をやりました。二週間ぶり二回めです。今回も定員いっぱいの40名の方が参加して、まあすごい熱気です。身体と言葉をつないでいくエチュードや、朗読の身体を意識するエチュードをやってもらったので、きっといまごろ筋肉痛でしょう。朗読講座に行って筋肉痛になるなんて、とみなさんは笑っておられましたが。
私も名古屋のホテルではぐっすり眠り、朝は一瞬、ここがどこだかわからなかったほどです。こういうのはひさしぶりです。
ホテルの朝食では、埼玉から来て2週間も名古屋に滞在している、という若者と少し話をしました。なんでも、大学や電力会社に、水流実験のための設備を納入している会社の仕事で来ている、とのことでした。私もテレビで見たことがありますが、水路に波を起こして津波の実験をしたり、水流を作り出していろいろなことを調べたり、といった実験設備ですね。東日本大震災があったので、いま、注目されているのだ、といってました。
なるほどねー。
さて、今夜はライブレストラン〈あうん〉で「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」のライブです。朗読は榊原忠美、クラリネットの坂野嘉彦、照明の杪谷直仁、そして私という、黄金のおっさんカルテットで臨みます。
2011年10月28日金曜日
だれでも簡単に不幸になれる方法
だれでも簡単に不幸になれる方法を教えてあげましょう。
それは「他人と自分を比較すること」です。
私のところにはたくさんの人が朗読の勉強にやってきますが、最初はみなさんたいてい不幸です。なぜなら「自分は人より朗読が下手」と思っているから。人と比較して、下手と思いこんでいるんですね。たいてい「自分なんか」と思っています。
その上手/下手という基準は、世間が作りあげた外部評価であり、おおむね技術的な面しか見ていません。しかし、朗読もそうですが、表現には「技術的な側面」のほかに「オリジナリティ」という、より重要な側面もあることを忘れてはいけません。
だれもが他には代え難い固有の身体と精神を持っています。それは「差異」こそあれ、比較して優劣をつけられるものではありません。このオリジナリティを別のオリジナリティ、つまり他人に伝えることこそ、表現の本質です。それなのに、往々にして人々は、自分と他人を比較して、優劣をつけようとします。自分のほうが他の人より下手だと思いこんで、勝手に不幸になっています。
そうではなくて、技術的には下手だけど、自分にしかないオリジナリティを表現する喜びを持てたとき、人は幸福になります。自分を伝える喜びのなかで幸せを感じます。そして技術をさらに磨き、表現のクオリティをあげていく努力もまた、喜びをもって取り組めるようになります。
自分の幸せは、人と比較することではなく、自分のなかに見つけるしかありません。自分が自分であり、いまここにいる自分のありようが生き生きとしていること。このことにしか幸福はありません。金持ちになるとか、なにか目的をとげるとか、人より上手になるとか、そういうことのなかには幸福はありません。いまここにある人生の課程そのものを楽しめること、それが幸福な生き方だと思います。
それは「他人と自分を比較すること」です。
私のところにはたくさんの人が朗読の勉強にやってきますが、最初はみなさんたいてい不幸です。なぜなら「自分は人より朗読が下手」と思っているから。人と比較して、下手と思いこんでいるんですね。たいてい「自分なんか」と思っています。
その上手/下手という基準は、世間が作りあげた外部評価であり、おおむね技術的な面しか見ていません。しかし、朗読もそうですが、表現には「技術的な側面」のほかに「オリジナリティ」という、より重要な側面もあることを忘れてはいけません。
だれもが他には代え難い固有の身体と精神を持っています。それは「差異」こそあれ、比較して優劣をつけられるものではありません。このオリジナリティを別のオリジナリティ、つまり他人に伝えることこそ、表現の本質です。それなのに、往々にして人々は、自分と他人を比較して、優劣をつけようとします。自分のほうが他の人より下手だと思いこんで、勝手に不幸になっています。
そうではなくて、技術的には下手だけど、自分にしかないオリジナリティを表現する喜びを持てたとき、人は幸福になります。自分を伝える喜びのなかで幸せを感じます。そして技術をさらに磨き、表現のクオリティをあげていく努力もまた、喜びをもって取り組めるようになります。
自分の幸せは、人と比較することではなく、自分のなかに見つけるしかありません。自分が自分であり、いまここにいる自分のありようが生き生きとしていること。このことにしか幸福はありません。金持ちになるとか、なにか目的をとげるとか、人より上手になるとか、そういうことのなかには幸福はありません。いまここにある人生の課程そのものを楽しめること、それが幸福な生き方だと思います。
こまきみらい塾と名古屋「沈黙の朗読」に行きます
今日はまた、愛知県小牧市の「こまきみらい塾」での現代朗読講座に出かけます。2週間おきに全部で5回のシリーズです。今日はその2回めです。
前回の初回では、定員40名のところ、定員いっぱいの方々に来ていただいて、盛況でした。かなり大変でしたが。
いやいや、そんなことをいってはいけません。大勢の方に現代朗読の魅力と神髄をお伝えする機会をいただけたことに感謝したいと思います。
今回はこまきみらい塾の翌日、名古屋の〈あうん〉というライブレストランで、「沈黙の朗読」という朗読セッションをおこないます。これは3年前に東京・中野の〈plan-B〉というスペースで初演し、昨年、名古屋の芸術劇場で再演した演目で、名古屋とおなじの朗読・榊原忠美と、クラリネット・坂野嘉彦というメンバーでやります。気心の知れた演者と、なじみのある演目を、時間と空間を違えて今回はどうなることやら、と期待しながら臨むというのは、悪くない気分です。
こんなふうに、東京を軸にしながらも、いろいろな場所に出かけて話したり、演じたりする機会をいただけているというのは、本当にうれしく、ありがたいものです。
小牧と名古屋のみなさん。お会いするのを楽しみにしてます!
前回の初回では、定員40名のところ、定員いっぱいの方々に来ていただいて、盛況でした。かなり大変でしたが。
いやいや、そんなことをいってはいけません。大勢の方に現代朗読の魅力と神髄をお伝えする機会をいただけたことに感謝したいと思います。
今回はこまきみらい塾の翌日、名古屋の〈あうん〉というライブレストランで、「沈黙の朗読」という朗読セッションをおこないます。これは3年前に東京・中野の〈plan-B〉というスペースで初演し、昨年、名古屋の芸術劇場で再演した演目で、名古屋とおなじの朗読・榊原忠美と、クラリネット・坂野嘉彦というメンバーでやります。気心の知れた演者と、なじみのある演目を、時間と空間を違えて今回はどうなることやら、と期待しながら臨むというのは、悪くない気分です。
こんなふうに、東京を軸にしながらも、いろいろな場所に出かけて話したり、演じたりする機会をいただけているというのは、本当にうれしく、ありがたいものです。
小牧と名古屋のみなさん。お会いするのを楽しみにしてます!
2011年10月27日木曜日
げろきょ祭りリハーサルいくつかつづく
いよいよげろきょ祭り「しもきた奇譚」が来週に迫ってきて、リハーサルがつづいています。
演目が全部で11。出演者が総勢22名。
まさに「祭り」です。
すべて従来の朗読とは一線を画した現代朗読として、自由でのびのびとした演目ですが、とくに「コンテンポラリー」の要素が強い演目がいくつかあります。実験的な要素があり、これは私と演者も苦労しながら取りくんでいます。それについて、ちょっと紹介しておきたいと思います。
まずは先の日曜日にリハーサルをした、鎌田絽未(かまたろみ)による太宰治「待つ」のコンテンポラリー朗読。
音楽とのかけあい。音楽が流れるときは朗読は静寂に。朗読が流れるときには音楽は静寂に。という入れ子のパフォーマンスなど、いくつかのアイディアが盛りこまれています。これがけっこう難易度が高くて、苦労してます。本番ではどうなりますやら。
嶋村美希子と照井数男のパフォーマンス。これも「コンテンポラリー度」が高い朗読です。昨日、今日と、つづけてリハーサルをしました。
とくに嶋村美希子にやってもらう私のオリジナルテキストは、テキストではなく朗読者の「身体性」を際立たせるための仕掛けで、いわば「肉体朗読」とでもいうべきもの。23歳の朗読者の身体性を、健全でありながらいかに危ういアンバランスを内包しているかを体現してもらうために使うパフォーマンスです。
照井数男の独特の身体リズムも、みもの。
まぁやと瀬尾明日香がふたりでやる新美南吉の「二匹の蛙」もくせ物。
昨日、初めてリハーサルをしたんですが、かわいらしく、また爆笑ものでありながら、ところどころセクシーでもあるという、なんとも形容しがたい味わいのパフォーマンスとなっています。たわいない、しかし実は深い意味にも取れる新美南吉の童話を、フリースタイルでやってくれます。
今朝は朝ゼミメンバーによる宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の最終リハーサルでした。総勢7名。
これは群読シナリオがあってある程度段取りが決められていますが、こちらも現代朗読として最終的に個々の身体性と「いまここ」の即興性にゆだねられます。
朝ゼミは固定メンバーによって何か月も稽古を積み重ねているので、大変クオリティの高いパフォーマンスが期待できます。私も音楽演奏のアイディアを、今日のリハーサルでしっかりと練りあげました。
これらの成果は11月3日のげろきょ祭り「しもきた奇譚」で存分に発揮されます。
皆さんのお越しをお待ちしてます。詳細はこちら。
演目が全部で11。出演者が総勢22名。
まさに「祭り」です。
すべて従来の朗読とは一線を画した現代朗読として、自由でのびのびとした演目ですが、とくに「コンテンポラリー」の要素が強い演目がいくつかあります。実験的な要素があり、これは私と演者も苦労しながら取りくんでいます。それについて、ちょっと紹介しておきたいと思います。
まずは先の日曜日にリハーサルをした、鎌田絽未(かまたろみ)による太宰治「待つ」のコンテンポラリー朗読。
音楽とのかけあい。音楽が流れるときは朗読は静寂に。朗読が流れるときには音楽は静寂に。という入れ子のパフォーマンスなど、いくつかのアイディアが盛りこまれています。これがけっこう難易度が高くて、苦労してます。本番ではどうなりますやら。
嶋村美希子と照井数男のパフォーマンス。これも「コンテンポラリー度」が高い朗読です。昨日、今日と、つづけてリハーサルをしました。
とくに嶋村美希子にやってもらう私のオリジナルテキストは、テキストではなく朗読者の「身体性」を際立たせるための仕掛けで、いわば「肉体朗読」とでもいうべきもの。23歳の朗読者の身体性を、健全でありながらいかに危ういアンバランスを内包しているかを体現してもらうために使うパフォーマンスです。
照井数男の独特の身体リズムも、みもの。
まぁやと瀬尾明日香がふたりでやる新美南吉の「二匹の蛙」もくせ物。
昨日、初めてリハーサルをしたんですが、かわいらしく、また爆笑ものでありながら、ところどころセクシーでもあるという、なんとも形容しがたい味わいのパフォーマンスとなっています。たわいない、しかし実は深い意味にも取れる新美南吉の童話を、フリースタイルでやってくれます。
今朝は朝ゼミメンバーによる宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の最終リハーサルでした。総勢7名。
これは群読シナリオがあってある程度段取りが決められていますが、こちらも現代朗読として最終的に個々の身体性と「いまここ」の即興性にゆだねられます。
朝ゼミは固定メンバーによって何か月も稽古を積み重ねているので、大変クオリティの高いパフォーマンスが期待できます。私も音楽演奏のアイディアを、今日のリハーサルでしっかりと練りあげました。
これらの成果は11月3日のげろきょ祭り「しもきた奇譚」で存分に発揮されます。
皆さんのお越しをお待ちしてます。詳細はこちら。
これからは好きなことしかやりません・宣言
表現についての話。
私だけではないと思いたいですが、自分が過去に作ってきた作品や行為を振り返ると、すべて消去してリセットしたい気分になることがよくあります。
いいようにかんがえれば、それだけ「成長した」という解釈もありうるわけですが、客観的にいってやはり出来の悪い作品やパフォーマンスが累々と横たわっているわけです。これは消しようもありません。
しかし、ふと気づいたのです。このように自分の過去作品を恥じるというのは、つまり自分にたいして「評価」をくだしているわけです。
いつも私は朗読ゼミやテキスト表現ゼミで口を酸っぱくして「評価を手放せ」といっています。それなのに、自分自身ではそれができていない。まったくこれは矛盾しています。
というわけで、自分自身に対する評価もばっさりと手放すことにしました。問題は、どうやれば評価を手放すことができるか、です。
自分がプロ、あるいはその道の専門家だと思っているから、外部評価や自己評価をあてはめてしまうことに気づきます。プロ/専門家というのは、それがお金が稼げるか、どれだけ多くの人から評価されているか、売れているか、人を集められるか、素人と比べて技術力がどれだけあるのか、といった点で評価されますし、また自分でも評価します。この基準を捨てないかぎり、評価を手放すことはできません。
そこで、プロ/専門家であるという意識を捨てればいいのだ、ということに気づきました。そもそも、プロ/アマチュアという区分をするのはナンセンスだといつもいっているではありませんか。
人にはプロ/アマチュアの区分はナンセンスだ、評価を手放せ、といっているくせに、自分のこととなると棚上げしていたのはまったくお粗末な話です。私は自分では、小説や詩などテキスト表現のプロ、音楽製作や演奏のプロだと思っていました。しかし、それらの行為にたいしていつもやりなおしたい気分に陥るくらいなら、最初からプロだと自負/自称しなければいいわけです。最初から初心者とおなじ気持ちでなにごとにも向かえばいいのです。
そうかんがえるととたんにあらゆることが楽になりました。気持ちが楽になるばかりではなく、創作が楽しくなります。小説書きもピアノ演奏も趣味だと思えばいいのです。自分の好きなことを好きなようにしか書かないし、好きなようにしか演奏しない。なぜなら趣味だから。趣味だから自己評価もしなければ、他人の評価も気にならない。ほめてもらえればうれしいけれど、けなされても気にならない。だって好きでやってることだから。
よく考えてみれば、私がテキスト表現において提唱している「純粋表現衝動」は、この「好き」のなかにしかないのかもしれません。ここから出発しなければ本物の表現はできないのです。
これまでにも、そしていまも、いろいろな作品をけなされたり、演奏をこきおろされたりして傷ついてきましが、これからは気にすることはありません。なにしろ好きでやってきただけのことですから。そしてこれからも純粋に「好き」でやっていきたいと思います。ええ、そうです、もう好きなことしかやりませんよ。
表現の話でした。
私だけではないと思いたいですが、自分が過去に作ってきた作品や行為を振り返ると、すべて消去してリセットしたい気分になることがよくあります。
いいようにかんがえれば、それだけ「成長した」という解釈もありうるわけですが、客観的にいってやはり出来の悪い作品やパフォーマンスが累々と横たわっているわけです。これは消しようもありません。
しかし、ふと気づいたのです。このように自分の過去作品を恥じるというのは、つまり自分にたいして「評価」をくだしているわけです。
いつも私は朗読ゼミやテキスト表現ゼミで口を酸っぱくして「評価を手放せ」といっています。それなのに、自分自身ではそれができていない。まったくこれは矛盾しています。
というわけで、自分自身に対する評価もばっさりと手放すことにしました。問題は、どうやれば評価を手放すことができるか、です。
自分がプロ、あるいはその道の専門家だと思っているから、外部評価や自己評価をあてはめてしまうことに気づきます。プロ/専門家というのは、それがお金が稼げるか、どれだけ多くの人から評価されているか、売れているか、人を集められるか、素人と比べて技術力がどれだけあるのか、といった点で評価されますし、また自分でも評価します。この基準を捨てないかぎり、評価を手放すことはできません。
そこで、プロ/専門家であるという意識を捨てればいいのだ、ということに気づきました。そもそも、プロ/アマチュアという区分をするのはナンセンスだといつもいっているではありませんか。
人にはプロ/アマチュアの区分はナンセンスだ、評価を手放せ、といっているくせに、自分のこととなると棚上げしていたのはまったくお粗末な話です。私は自分では、小説や詩などテキスト表現のプロ、音楽製作や演奏のプロだと思っていました。しかし、それらの行為にたいしていつもやりなおしたい気分に陥るくらいなら、最初からプロだと自負/自称しなければいいわけです。最初から初心者とおなじ気持ちでなにごとにも向かえばいいのです。
そうかんがえるととたんにあらゆることが楽になりました。気持ちが楽になるばかりではなく、創作が楽しくなります。小説書きもピアノ演奏も趣味だと思えばいいのです。自分の好きなことを好きなようにしか書かないし、好きなようにしか演奏しない。なぜなら趣味だから。趣味だから自己評価もしなければ、他人の評価も気にならない。ほめてもらえればうれしいけれど、けなされても気にならない。だって好きでやってることだから。
よく考えてみれば、私がテキスト表現において提唱している「純粋表現衝動」は、この「好き」のなかにしかないのかもしれません。ここから出発しなければ本物の表現はできないのです。
これまでにも、そしていまも、いろいろな作品をけなされたり、演奏をこきおろされたりして傷ついてきましが、これからは気にすることはありません。なにしろ好きでやってきただけのことですから。そしてこれからも純粋に「好き」でやっていきたいと思います。ええ、そうです、もう好きなことしかやりませんよ。
表現の話でした。
楽しい家事
先日、家事を楽しくやることについて書きましたが、自分自身でもマインドフルネスに気をつけてすごすうちに、いろいろなことがさらに楽しく感じるようになりました。秋だというのに。
というのも、私はずっと秋が苦手だったんですね。寒いのが苦手で、それはいまも変わらないんですが、これから寒くなる季節かと思うと気分が滅入ってしまうことが多かったんです。が、マインドフルネスのおかげでそれも少し変化が起きたようです。
毎朝、起きるとすぐに、布団をたたんで押し入れにしまいます。以前はそんなことも億劫に思っていたものですが、このところ布団をしまう動作そのものに傾注して、しまったあとの気持ちよさを味わっています。
布団をしまったら、猫の餌と水やり。餌入れと水入れは毎日かならず洗ってやるので、もしそのときにシンクに洗い物が残っていたら、それもついでに片付けます。汚れていればついでに磨いてピカピカにします。
それから、猫のトイレの始末。曜日によってはゴミ出し。それから自分の朝ご飯の準備。
毎日やることですが、やらなければ困ります。猫も困るし、自分自身だって困ります。どうせ毎日やることなら、集中して、自分自身を全部使って、できれば楽しみながらやりたい。楽しんで生きる。この世からおさらばするその瞬間まで楽しんですごしたいですね。
というのも、私はずっと秋が苦手だったんですね。寒いのが苦手で、それはいまも変わらないんですが、これから寒くなる季節かと思うと気分が滅入ってしまうことが多かったんです。が、マインドフルネスのおかげでそれも少し変化が起きたようです。
毎朝、起きるとすぐに、布団をたたんで押し入れにしまいます。以前はそんなことも億劫に思っていたものですが、このところ布団をしまう動作そのものに傾注して、しまったあとの気持ちよさを味わっています。
布団をしまったら、猫の餌と水やり。餌入れと水入れは毎日かならず洗ってやるので、もしそのときにシンクに洗い物が残っていたら、それもついでに片付けます。汚れていればついでに磨いてピカピカにします。
それから、猫のトイレの始末。曜日によってはゴミ出し。それから自分の朝ご飯の準備。
毎日やることですが、やらなければ困ります。猫も困るし、自分自身だって困ります。どうせ毎日やることなら、集中して、自分自身を全部使って、できれば楽しみながらやりたい。楽しんで生きる。この世からおさらばするその瞬間まで楽しんですごしたいですね。
2011年10月26日水曜日
体験講座参加の方が書いてくれた体験記
コミュニケーション能力は身体から作る
就職や結婚、仕事、家庭、あらゆる場面における人々のもっとも大事な能力は「コミュニケーション能力」である、というアンケート調査の結果があります。
まあ、そのとおりでしょう。
人は社会的生き物ですから、人との関わりのなかに生まれ、生きていきます。
このコミュニケーション能力に著しい齟齬が生じているのが、現代社会といえます。会社や家庭、学校などで、まったく人間関係のトラブルに巻きこまれたことのない人などいないでしょう。人と人がいっしょになにかやるとき、そこには必ずなんらかの軋轢や利害のぶつかりが生まれます。それは当然のことなのですが、それをどうやって乗り越えながら、平和で心穏やかに関わりつづけていけるか、というところにポイントがあります。
世の中にはたくさんのコミュニケーション・セミナーがあります。話し方教室やプレゼンテーションのスキルアップ講座なども、その一種といってもいいでしょう。どの講座やセミナーも、熟練者によって秘策が練られ、有益なものだと思いますが、あまり「身体性」というものに注目したものは多くないようです。
私がおこなっている音読ケアや音声表現者の個人セッションは、すべて「身体性」を再重要視しています。人はだれかと言葉を交わすとき、文字情報だけを交換しているわけではありません。その言葉がどのように発されているのか、言葉を発している相手がどのような状態であるのか、呼吸、姿勢、表情など、音声と同時に大量の身体情報を受け取っているのです。この部分をおろそかにしては良質なコミュニケーションを考えることはできません。
呼吸、マインドフルネス、身体と声の結びつき、こういったことにフォーカスしてコミュニケーションの練習をしてもらうと、驚くほど劇的な変化が起こる人もいます。たとえば最近では「自分の声を注意して聴くようになって(こういう練習もあるのです)怒りっぽさがなくなり、生活が穏やかになった」という報告を聞いて、うれしくなりました。
自分の呼吸、声、そして身体にまず目を向け、「いまここ」の自分自身にマインドフルであること。たったこれだけのことが、コミュニケーション能力やプレゼンテーション・スキルの大きな向上をもたらします。これができる人は、わざわざ私のところに来るまでもありません。
まあ、そのとおりでしょう。
人は社会的生き物ですから、人との関わりのなかに生まれ、生きていきます。
このコミュニケーション能力に著しい齟齬が生じているのが、現代社会といえます。会社や家庭、学校などで、まったく人間関係のトラブルに巻きこまれたことのない人などいないでしょう。人と人がいっしょになにかやるとき、そこには必ずなんらかの軋轢や利害のぶつかりが生まれます。それは当然のことなのですが、それをどうやって乗り越えながら、平和で心穏やかに関わりつづけていけるか、というところにポイントがあります。
世の中にはたくさんのコミュニケーション・セミナーがあります。話し方教室やプレゼンテーションのスキルアップ講座なども、その一種といってもいいでしょう。どの講座やセミナーも、熟練者によって秘策が練られ、有益なものだと思いますが、あまり「身体性」というものに注目したものは多くないようです。
私がおこなっている音読ケアや音声表現者の個人セッションは、すべて「身体性」を再重要視しています。人はだれかと言葉を交わすとき、文字情報だけを交換しているわけではありません。その言葉がどのように発されているのか、言葉を発している相手がどのような状態であるのか、呼吸、姿勢、表情など、音声と同時に大量の身体情報を受け取っているのです。この部分をおろそかにしては良質なコミュニケーションを考えることはできません。
呼吸、マインドフルネス、身体と声の結びつき、こういったことにフォーカスしてコミュニケーションの練習をしてもらうと、驚くほど劇的な変化が起こる人もいます。たとえば最近では「自分の声を注意して聴くようになって(こういう練習もあるのです)怒りっぽさがなくなり、生活が穏やかになった」という報告を聞いて、うれしくなりました。
自分の呼吸、声、そして身体にまず目を向け、「いまここ」の自分自身にマインドフルであること。たったこれだけのことが、コミュニケーション能力やプレゼンテーション・スキルの大きな向上をもたらします。これができる人は、わざわざ私のところに来るまでもありません。
北杜夫さんのご冥福をお祈りします
北杜夫さんが亡くなりました。
『どくとるマンボウ航海記』をはじめとする「どくとるマンボウ」シリーズや、『楡家の人々』はだれもが知っている作品でしょう。とくに『航海記』は私にも特別な思いいれがあります。ことのは出版からの依頼でオーディォブックを作ったからです。
朗読は相原麻理衣。一冊全部を丸ごと朗読して、オーディオブックにしました。こちらからダウンロード購入できます。
相原麻理衣はアイ文庫でオーディォブックを作りはじめた、その最初の朗読者のひとりです。夏目漱石の『坊っちゃん』を最初に彼女に全編朗読してもらったところから、アイ文庫オーディオブックの仕事がスタートしたのです。
このあたりの経緯は拙著『オーディオブックの真実』に詳しく書いています。
もちろんオーディォブックの思い出だけでなく、中学生のころには小説やエッセイをたくさん読みあさりました。さまざまな風景を見せてもらいました。
北杜夫さんはアイ文庫がある羽根木のすぐ近所に住んでおられました。だいたいこのあたりだろう、といつも近くを通りかかるたびに思っていました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
『どくとるマンボウ航海記』をはじめとする「どくとるマンボウ」シリーズや、『楡家の人々』はだれもが知っている作品でしょう。とくに『航海記』は私にも特別な思いいれがあります。ことのは出版からの依頼でオーディォブックを作ったからです。
朗読は相原麻理衣。一冊全部を丸ごと朗読して、オーディオブックにしました。こちらからダウンロード購入できます。
相原麻理衣はアイ文庫でオーディォブックを作りはじめた、その最初の朗読者のひとりです。夏目漱石の『坊っちゃん』を最初に彼女に全編朗読してもらったところから、アイ文庫オーディオブックの仕事がスタートしたのです。
このあたりの経緯は拙著『オーディオブックの真実』に詳しく書いています。
もちろんオーディォブックの思い出だけでなく、中学生のころには小説やエッセイをたくさん読みあさりました。さまざまな風景を見せてもらいました。
北杜夫さんはアイ文庫がある羽根木のすぐ近所に住んでおられました。だいたいこのあたりだろう、といつも近くを通りかかるたびに思っていました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
2011年10月25日火曜日
創作のモチベーションと外部評価を捨てること
現代朗読協会「羽根木の家」で週に2回開催されているテキスト表現ゼミの模様からの抜粋。
締切りがないと書けないのか、ライブ日程がないと朗読の練習にも熱がはいらないのか、という話から、純粋表現衝動についての話。そして、純粋さを失わせる最大の要因である外部評価の話へと。
評価を捨てること、人にどう思われるか予測しないこと、これがとても難しい、というお話。
テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」も並行開催しています。
興味のある方はこちらをご覧ください。
ケロログ「RadioU」で配信中。
締切りがないと書けないのか、ライブ日程がないと朗読の練習にも熱がはいらないのか、という話から、純粋表現衝動についての話。そして、純粋さを失わせる最大の要因である外部評価の話へと。
評価を捨てること、人にどう思われるか予測しないこと、これがとても難しい、というお話。
テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」も並行開催しています。
興味のある方はこちらをご覧ください。
ケロログ「RadioU」で配信中。
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