2011年2月14日月曜日

読み聞かせ考

音読や読み聞かせの指導に行くと、ときにおどろかされることがある。
現場の指導者がしばしば、
「こうしなければならない」
「こうしてはならない」
「これはだめ」
「これはよい」
といった強固な価値基準を持っていることがあるからだ。
たとえば、音読の本選びについていえば、子どもが読む「べき」本は、
「子どもの立場に立った」
「子どものが感情移入しやすい」
「その年齢にふさわしい」
「子どもにもわかりやすいストーリーの」
といった基準だ。

その価値基準がどこからもたらされたものなのかかんがえてみた。
ひとつにはその指導者がどこかでだれか別の指導者から教えられたことがある、というケース。現場の子どもたちを見たり接したりして作った基準ではなく、だれかから教えこまれた基準。もちろん教えてくれた人がどんな根拠でそのような基準を作ったのかは、検証されていない。
もうひとつは、読み聞かせグループに先輩から受け継がれた独自の方法論があって、それがまるで法律になってしまったかのようにグループの人たちの方法を拘束しているケース。後からグループに参加した人は、おかしいなと思っても、先輩がたのやりかたを踏襲することを求められる。そこには残念なことに、お母さんがたのヒエラルキーのようなものが存在している。
じつにたくさんの、子どもたちにとって一利もない指導法がまかりとおっている。

子どもたちとその指導者をがんじがらめの世界から開放し、音読の本当の楽しさ、身体とことばがつながることの意味、生き生きと動きだす身体とことばの感覚を、もう一度たしかめてもらいたい。来月出る音読指導本はそういう意図で書かれている。
では、本を書くもとになった私の音読の理念はどこから来たものなのか。
現代朗読協会の活動はまだそう長いとはいえないものだが、ひとつの特徴がある。それは、
「従来の方法論やシステム、権威、先輩や先生のいずれかにも根拠を求めていない」
というものだ。
私たちは「現場での徹底的な実践と検証」によって理念を獲得してきた。なぜそうすべきなのか。そのようにするとなにが起こるのか。子どもたちにとって、あるいは読み聞かせをする人にとって本当によいことはなんなのか。多くの事例を、先入観を排除してなく徹底的に検証しつづけ、現在にいたっている。

私たちが参考にしたのは、読み聞かせや朗読の世界に存在する「~すべき」ではなく、大人と子どものコミュニケーションにおいて利用できる観察と思考の方法だ。たとえば構造主義をはじめとする現代思想や心理学の方法。たとえば音楽理論。たとえば現代芸術の方法。たとえば非暴力コミュニケーション(NVC)の方法を提唱したマーシャル・ローゼンバーグの考え方。ヨガや合気道の世界に流れている身体論。
こういったものを論理的に検証しながら、音読の世界もずっと観察しつづけてきた。そして現場で実践してきた。
私はいまの子どもたちに、自分たちが直面している困難な状況をなんとか自分で乗り越えていける力を、音読という方法ではぐくんでいってほしい、と望んでいる。その望みは私だけでないだろう。子どもと接しているすべての大人の望みでもあろうと思う。

私たちは読み聞かせグループの参考になればと、どこへでも足を運ぶつもりでいる。
学校、地域の場、家庭、もし少しでも悩んでいる方がおられれば、どうぞ気軽に私か現代朗読協会にお声がけください。