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2010年4月30日金曜日
2010年4月28日水曜日
「read the text」ではなく「play the text」でやろう
先に書いた「朗読者のための文章論」のつづき、というか補足。
楽譜は「弾く」のではなく「演奏する」。これは音楽の話。
朗読でいえば、文章は「読む」のではなく、なんていえばいい?「演奏する」に近いイメージの言葉。やはり「朗読する」になるのかな。
「read」じゃなくて「play」。
これはげろきょが定期的にやっている中野ピグノーズでのライブ「げろきょでないと」に来れば、まったくそのとおりだとわかるだろう。
げろきょの朗読者は「reader」じゃなくて「player」である。
楽譜は「弾く」のではなく「演奏する」。これは音楽の話。
朗読でいえば、文章は「読む」のではなく、なんていえばいい?「演奏する」に近いイメージの言葉。やはり「朗読する」になるのかな。
「read」じゃなくて「play」。
これはげろきょが定期的にやっている中野ピグノーズでのライブ「げろきょでないと」に来れば、まったくそのとおりだとわかるだろう。
げろきょの朗読者は「reader」じゃなくて「player」である。
朗読者のための文章論
ただ「文字を読みあげる」だけなら小学生だってできる(字さえ読めれば)。機械音声での読み上げソフトなんてのもある。
ただ「正しく美しく読む」だけなら、そのための訓練を積んだアナウンサーやナレーターが得意だろう。そのための技能訓練学校がたくさん存在し、毎年多くの優秀なアナウンサー/ナレーターが卒業するし、いまも現場で働いている。これは一種の技術者であろう。
これらを超えて「その人にしか読めない読みでオーディエンスに文字情報以上のなにごとかを伝える」のが、朗読者の仕事であろうとかんがえる。それはすばらしいピアニスト(でなくてもいいが、音楽家)がその人にしかできないやりかたで、音楽を音符の形で残されている以上の芸術作品としてオーディエンスに伝えることとおなじである。
こういう人のことを「表現者」という。
もっとも、これは言葉でいうのは簡単だが、じゃあ実際にどうやればいいんだ、という話になるとコトはそう簡単ではない。
そもそも、「その人にしか読めない読み」とはなにか。
「文字情報以上のなにか」とはなにか。
このような抽象的な概念をきちんと定義しておくことこそ、演出家や朗読指導者の役割であろうと思う。
朗読者は自分が読もうとする文章(テキスト/本)をどのように扱えばいいのか。
音声化して朗読する以前に、本を読む/文章を読むとはどういう行為なのか。そして朗読者にとっての本を読む/文章を読む行為はどのようにあるべきなのか。
私は文章を書く人間なので、文章がどのように書かれていくのか、ある程度理解している。すくなくとも自分自身はどのように文章を書いているのか、わかっている。しかし、朗読者はその文章がどのように書かれたものなのか、想像をめぐらすことはあるだろうか。
朗読者はたんなる「読者」ではない。その文章を「音声化」し「自分の表現の素材」として扱うある種の「専門家」であろう。
文章を専門的に扱うというのは、ただ「読む」とか「意味がわかる」ということではもちろんない。たんなる「読解」を超えた文章との深い関係性を構築することである。そのための方法は、もちろん現代朗読の研究の場でも模索中であるが、いくつかの方策は発見されている。
たとえば、書き手がそうであるように、朗読者も文章をまず「構造的」にとらえることができる。「構造主義」という現代思想の用語が示すように、主観を排し、既成の枠組みにとらわれず、ものごとそれ自体のなかにある構造を見つけだし、分析する方法である。
文章を「構造的」にとらえるためには、「シーン解析」「時制」「人称」「文章機能」など、いくつかのアプローチの方法がある。書き手なら必ず、意識的にせよ無意識的にせよ、これらのことをかんがえている。
ただ「正しく美しく読む」だけなら、そのための訓練を積んだアナウンサーやナレーターが得意だろう。そのための技能訓練学校がたくさん存在し、毎年多くの優秀なアナウンサー/ナレーターが卒業するし、いまも現場で働いている。これは一種の技術者であろう。
これらを超えて「その人にしか読めない読みでオーディエンスに文字情報以上のなにごとかを伝える」のが、朗読者の仕事であろうとかんがえる。それはすばらしいピアニスト(でなくてもいいが、音楽家)がその人にしかできないやりかたで、音楽を音符の形で残されている以上の芸術作品としてオーディエンスに伝えることとおなじである。
こういう人のことを「表現者」という。
もっとも、これは言葉でいうのは簡単だが、じゃあ実際にどうやればいいんだ、という話になるとコトはそう簡単ではない。
そもそも、「その人にしか読めない読み」とはなにか。
「文字情報以上のなにか」とはなにか。
このような抽象的な概念をきちんと定義しておくことこそ、演出家や朗読指導者の役割であろうと思う。
朗読者は自分が読もうとする文章(テキスト/本)をどのように扱えばいいのか。
音声化して朗読する以前に、本を読む/文章を読むとはどういう行為なのか。そして朗読者にとっての本を読む/文章を読む行為はどのようにあるべきなのか。
私は文章を書く人間なので、文章がどのように書かれていくのか、ある程度理解している。すくなくとも自分自身はどのように文章を書いているのか、わかっている。しかし、朗読者はその文章がどのように書かれたものなのか、想像をめぐらすことはあるだろうか。
朗読者はたんなる「読者」ではない。その文章を「音声化」し「自分の表現の素材」として扱うある種の「専門家」であろう。
文章を専門的に扱うというのは、ただ「読む」とか「意味がわかる」ということではもちろんない。たんなる「読解」を超えた文章との深い関係性を構築することである。そのための方法は、もちろん現代朗読の研究の場でも模索中であるが、いくつかの方策は発見されている。
たとえば、書き手がそうであるように、朗読者も文章をまず「構造的」にとらえることができる。「構造主義」という現代思想の用語が示すように、主観を排し、既成の枠組みにとらわれず、ものごとそれ自体のなかにある構造を見つけだし、分析する方法である。
文章を「構造的」にとらえるためには、「シーン解析」「時制」「人称」「文章機能」など、いくつかのアプローチの方法がある。書き手なら必ず、意識的にせよ無意識的にせよ、これらのことをかんがえている。
2010年4月27日火曜日
無名性にいたることが望み
『ユリイカ』の現代ピアニスト列伝のなかで、ピアニストの舘野泉さん(左手のピアニスト)が「ピアニストは手職人」という文章を書いている。
『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるさんが米寿を迎えながらも描きつづけていて、それは「描くことはもう仕事という感覚ではない」という話を引き合いにして、ご自分の「ピアノを弾く」という行為も別段何かをしているということではない、という。
この文章の最後に、
「作品との対峙、対決をし、自分の個性を主張する行き方は好きではない。作品を通して無名性にいたることこそが望みだ」
とあって、その立ち位置は私とは少し違うところがあるけれど、「無名性にいたることが望み」という言葉はすっと私のなかにもはいってくる。
ものを書くとき、ピアノを弾くとき、私の前には朗読者/共演者/主演者の姿があって、私自身は影のように透明/無名でありたいと、心から思う。
『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるさんが米寿を迎えながらも描きつづけていて、それは「描くことはもう仕事という感覚ではない」という話を引き合いにして、ご自分の「ピアノを弾く」という行為も別段何かをしているということではない、という。
この文章の最後に、
「作品との対峙、対決をし、自分の個性を主張する行き方は好きではない。作品を通して無名性にいたることこそが望みだ」
とあって、その立ち位置は私とは少し違うところがあるけれど、「無名性にいたることが望み」という言葉はすっと私のなかにもはいってくる。
ものを書くとき、ピアノを弾くとき、私の前には朗読者/共演者/主演者の姿があって、私自身は影のように透明/無名でありたいと、心から思う。
いま読んでいる本:ユリイカ2010年5月号
特集が「現代ピアニスト列伝」。
非常に多彩な人が書いたり、対談したりしている。舘野泉、小沼純一、山下洋輔、渋谷慶一郎と島田雅彦、アリス=紗良・オット、などなど。
特集も読み応えがあり、いずれ興味深い文章をいくつか引用して紹介してみたいと思っているが、特集以外の記事も読み応えがある。
中原中也賞、なんてのの発表をやっている。
冒頭の中村稔による「私の昭和史」という連載も、大変な長文ながらおもしろいのだ。
ひさしぶりに読んだが、こんなに読み応えがある雑誌だとは知らなかった。うっかりしてた。
『ユリイカ 2010年4月号』青土社
非常に多彩な人が書いたり、対談したりしている。舘野泉、小沼純一、山下洋輔、渋谷慶一郎と島田雅彦、アリス=紗良・オット、などなど。
特集も読み応えがあり、いずれ興味深い文章をいくつか引用して紹介してみたいと思っているが、特集以外の記事も読み応えがある。
中原中也賞、なんてのの発表をやっている。
冒頭の中村稔による「私の昭和史」という連載も、大変な長文ながらおもしろいのだ。
ひさしぶりに読んだが、こんなに読み応えがある雑誌だとは知らなかった。うっかりしてた。
『ユリイカ 2010年4月号』青土社
iPhone App : myPhoneDesktop
外出時、iPhoneしか持っていないときは、メールなりSMSの返信はiPhoneで直接やるしかないのだが、在宅していてコンピューターで作業しているときに、かたわらのiPhoneに返信の必要なSMSなどの着信があったときに、このアプリはかなり便利。
iPhoneにアプリをインストール、コンピューターにはクライアントソフトをインストールして使う。ソフトはWindowsもMacも用意されている。
iPhoneからまずアプリを起動し、最初にIDとパスワードを登録しておく。最初だけその作業が必要だが、あとはアプリを起動する必要はない。私は一番後ろのページに追いやってある。
使うときには、デスクトップクライアントソフトを起動し、ログインする。
SMSの場合、相手の電話番号を入力し(一度入力すればあとは覚えておいてくれる)、テキストを打ちこんで「SMS」ボタンを押す。すると、iPhone側で自動的にアプリが起動し、送ったテキストがクリップボードにコピーされる。そしてさらに自動的にSMSの相手番号の画面が立ちあがる。
あとは入力スペースをタップして、クリップボードからテキストをペーストするだけ。
かなり長文のテキストや、めんどくさい文字を含むテキストなど、コンピューター側で作成できるのでらくちんだ。
SMSだけでなく、テキストは直接クリップボードに送りこめるので、いろいろなアプリにペーストして使える。
ほかにも、画像やURLを送りこんだり、あるいは電話番号を指定してiPhoneで簡単に電話をかけさせることもできるが、私はテキストを送るのに使うことが多い。とくに、ちゃちゃっと返信したいSMSにテキストを送りこむのは便利だ。
iPhoneにアプリをインストール、コンピューターにはクライアントソフトをインストールして使う。ソフトはWindowsもMacも用意されている。
iPhoneからまずアプリを起動し、最初にIDとパスワードを登録しておく。最初だけその作業が必要だが、あとはアプリを起動する必要はない。私は一番後ろのページに追いやってある。
使うときには、デスクトップクライアントソフトを起動し、ログインする。
SMSの場合、相手の電話番号を入力し(一度入力すればあとは覚えておいてくれる)、テキストを打ちこんで「SMS」ボタンを押す。すると、iPhone側で自動的にアプリが起動し、送ったテキストがクリップボードにコピーされる。そしてさらに自動的にSMSの相手番号の画面が立ちあがる。
あとは入力スペースをタップして、クリップボードからテキストをペーストするだけ。
かなり長文のテキストや、めんどくさい文字を含むテキストなど、コンピューター側で作成できるのでらくちんだ。
SMSだけでなく、テキストは直接クリップボードに送りこめるので、いろいろなアプリにペーストして使える。
ほかにも、画像やURLを送りこんだり、あるいは電話番号を指定してiPhoneで簡単に電話をかけさせることもできるが、私はテキストを送るのに使うことが多い。とくに、ちゃちゃっと返信したいSMSにテキストを送りこむのは便利だ。
2010年4月26日月曜日
私の肩書き
自分ではあまりこだわっていないし、正直いって「どうだっていい」と思っているようなところもあるのだが、印刷物などに必要とされることがあるので訊かれたり、決めなければならないときがある。
肩書き。
職業小説家で生活していた30代のころは、躊躇なく「小説家」もしくは「作家」としていたが、いまはそれだけではない。シナリオや詩も書くし、演出もやる。かといって、脚本家、詩人、演出家でもないと思う。
演奏もするので、ピアニストかといえば、ピアノ以外の楽器も弾く。シンセサイザーを始めとするキーボードや、それに接続したラップトップ、電子音も使う。即興演奏もするし、作曲もする。ピアニストでもなく、作曲家でもないので、音楽家とひとくくりにしようかと思うこともあるが、やっているのはそれだけじゃない。
脚本を書き、演出をして、自分も舞台にあがって演奏をやっているというのは、イメージとして一番近いのは「弾き振り」かもしれない。ピアノコンチェルトなどでピアニストが自分も弾きながら、指揮もやってしまうという、あれ。
有名なところではアシュケナージ、古いところではフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、バーンスタインなんて人もいる。ピアニストだけでなく、ヴァイオリニストやチェリストも弾き振りの人がいたし、モーツァルトやベートーベンの時代ではそういうスタイルは珍しいことではなかったという話も聞いた。
脚本を書いて演出をする人は多いし、ついでに役者としてステージに立つ人もいるが、演奏家としてステージにいる人はあまり多くないだろう。
去年の名古屋「Kenji」の公演のときにいわれたことだが、ステージに演出家がずっといるというのは、出演者としては心強いものらしい。なにかハプニングがあっても、演奏で引き受けることができるし、また実際にそういう場面はこれまでに多々あった。
こういう立場の人間は、肩書きとしてなんと呼べばいいのか、私にはわからない。しようがないので、最近は「小説家/音楽家/演出家」と並べて書いているのだが、どれも「家」がついてご立派な肩書きがさらに並んでしまうので、非常に気恥ずかしい。
だれかわかりやすくて恥ずかしくない肩書きをかんがえてください。
肩書き。
職業小説家で生活していた30代のころは、躊躇なく「小説家」もしくは「作家」としていたが、いまはそれだけではない。シナリオや詩も書くし、演出もやる。かといって、脚本家、詩人、演出家でもないと思う。
演奏もするので、ピアニストかといえば、ピアノ以外の楽器も弾く。シンセサイザーを始めとするキーボードや、それに接続したラップトップ、電子音も使う。即興演奏もするし、作曲もする。ピアニストでもなく、作曲家でもないので、音楽家とひとくくりにしようかと思うこともあるが、やっているのはそれだけじゃない。
脚本を書き、演出をして、自分も舞台にあがって演奏をやっているというのは、イメージとして一番近いのは「弾き振り」かもしれない。ピアノコンチェルトなどでピアニストが自分も弾きながら、指揮もやってしまうという、あれ。
有名なところではアシュケナージ、古いところではフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、バーンスタインなんて人もいる。ピアニストだけでなく、ヴァイオリニストやチェリストも弾き振りの人がいたし、モーツァルトやベートーベンの時代ではそういうスタイルは珍しいことではなかったという話も聞いた。
脚本を書いて演出をする人は多いし、ついでに役者としてステージに立つ人もいるが、演奏家としてステージにいる人はあまり多くないだろう。
去年の名古屋「Kenji」の公演のときにいわれたことだが、ステージに演出家がずっといるというのは、出演者としては心強いものらしい。なにかハプニングがあっても、演奏で引き受けることができるし、また実際にそういう場面はこれまでに多々あった。
こういう立場の人間は、肩書きとしてなんと呼べばいいのか、私にはわからない。しようがないので、最近は「小説家/音楽家/演出家」と並べて書いているのだが、どれも「家」がついてご立派な肩書きがさらに並んでしまうので、非常に気恥ずかしい。
だれかわかりやすくて恥ずかしくない肩書きをかんがえてください。
2010年4月25日日曜日
出版社も流通大手もとっととなくなってしまえ
日本ではさほど話題になっていないが、欧米では書籍通販のAmazonが電子ブックリーダーのKindleで業績を大幅に伸ばしている。電子ブックの売り上げは紙の書籍を上回ったとか。
またiPhoneとラップトップの中間サイズでKindleのように電子ブックを読むのにちょうどいいiPadの発売で、さらに電子ブックのマーケットは拡大するだろう。
紙の本が完全になくなるとはいわないが、電子ブックに取って代わられる書物は多いだろう。
たとえば雑誌。速報性やビジュアル重視のものは、印刷物より電子ブックのほうが利便性が高い。
たとえばコミック。どんどん大量に作られて大量に消費されていく。そういうものも電子ブックのほうが場所も取らないし、いい。
ほかにもマニュアル本、ビジネス書、ハウツー本、読み捨て型の娯楽書などは、どんどん電子ブックに取って代わられていくことだろう。
欧米の出版業界では、このような動きに対し期待が高まっていて、このところとかく現象傾向だった雑誌や新聞広告なども、電子ブックへの出稿を検討しているらしい。とにかく、新しいマーケットの拡大をこぞって歓迎している。
一方、日本はといえば、電子出版に積極的な出版社は、業界内からのけもの扱いにされかねないという。げんに某大手ビジネス雑誌は、電子出版の特集を組もうとしたところ、社の上層部から圧力がかかって、特集は取りやめになったという。社の上層部は、いうまでもなく横並び他社の視線をおもんぱかったのであろう。
先日、大手出版社が寄り集まって電子出版の「サークル」を作ったが、これもまた横並びの歩調合わせにすぎず、時代の流れを見越したビジネスの動きとはとうていいえない。
こういう国内業界の遅々とした動きで損害をこうむるのは、当然ながら受益者である購読者であり、また本の書き手である。著者と読者が益を受けない商売は先細りになって消滅するだけであろう。
私はそんな大手商業出版社はとっとと消えてしまえ、と思っている。彼らがいなくなっても私はとくに困ることはない。私がコツコツと書いたものは、こうやって自由に皆さんが読むことができるし、また検索エンジンによって特定個人のもとへ確実に届けられる。必要とあれば、そのテキストに個別に課金し、個人対個人で決済することもできる。
寡占的流通会社も大手出版社も私にはいらないし、読者にもおなじことであろう。
またiPhoneとラップトップの中間サイズでKindleのように電子ブックを読むのにちょうどいいiPadの発売で、さらに電子ブックのマーケットは拡大するだろう。
紙の本が完全になくなるとはいわないが、電子ブックに取って代わられる書物は多いだろう。
たとえば雑誌。速報性やビジュアル重視のものは、印刷物より電子ブックのほうが利便性が高い。
たとえばコミック。どんどん大量に作られて大量に消費されていく。そういうものも電子ブックのほうが場所も取らないし、いい。
ほかにもマニュアル本、ビジネス書、ハウツー本、読み捨て型の娯楽書などは、どんどん電子ブックに取って代わられていくことだろう。
欧米の出版業界では、このような動きに対し期待が高まっていて、このところとかく現象傾向だった雑誌や新聞広告なども、電子ブックへの出稿を検討しているらしい。とにかく、新しいマーケットの拡大をこぞって歓迎している。
一方、日本はといえば、電子出版に積極的な出版社は、業界内からのけもの扱いにされかねないという。げんに某大手ビジネス雑誌は、電子出版の特集を組もうとしたところ、社の上層部から圧力がかかって、特集は取りやめになったという。社の上層部は、いうまでもなく横並び他社の視線をおもんぱかったのであろう。
先日、大手出版社が寄り集まって電子出版の「サークル」を作ったが、これもまた横並びの歩調合わせにすぎず、時代の流れを見越したビジネスの動きとはとうていいえない。
こういう国内業界の遅々とした動きで損害をこうむるのは、当然ながら受益者である購読者であり、また本の書き手である。著者と読者が益を受けない商売は先細りになって消滅するだけであろう。
私はそんな大手商業出版社はとっとと消えてしまえ、と思っている。彼らがいなくなっても私はとくに困ることはない。私がコツコツと書いたものは、こうやって自由に皆さんが読むことができるし、また検索エンジンによって特定個人のもとへ確実に届けられる。必要とあれば、そのテキストに個別に課金し、個人対個人で決済することもできる。
寡占的流通会社も大手出版社も私にはいらないし、読者にもおなじことであろう。
2010年4月24日土曜日
Ustreamでワークショップ中継中
「朗読はライブだ!」ワークショップの第四期の初回の模様をUstreamでお送りします。講師の水城雄(YuuMizuki)のUstIDから14時ごろからお送りします。URLはこちら。http://ustre.am/9017
2010年4月23日金曜日
2010年4月22日木曜日
2010年4月21日水曜日
2010年4月19日月曜日
2010年4月17日土曜日
〔速報〕デリヘイの下北沢ライブ決定!
モンゴルの馬頭琴奏者/歌手のデリヘイと、私・水城とのライブが、5月23日(日)に下北沢のライブカフェ〈音倉〉でおこなわれることになりました。
ここは庄野真代さんがプロデュースしているライブスペースで、堅苦しくもなく、かといって音響などはしっかりしている気さくな空間です。
デリヘイは現在名古屋でライブ活動をおこなっていますが、このたび、私と初めてユニットを組んで、オリジナルなエイジアサウンドをみなさんにお届けしようという計画です。
このユニットは下北沢を皮切りに、名古屋の〈あ・うん〉というお店や、八事のメーテレハウジングプラザ内の野外ステージ、愛知県芸術文化センターなどでもコンサートをおこなうことが決まっています。
デリヘイはオルティンドーを中心とした正統的なモンゴル民謡の歌い手であると同時に、ホーミーの超絶技巧の持ち主でもあります。また、馬頭琴、三線、口琴など、モンゴルの伝統楽器をさまざまに演奏します。
このすごいモンゴル人の若者の伝統的音楽性に、水城がピアノやシンセサイザー、コンピューターなど現代楽器でからむという、本人も楽しみなライブです。しかも即興性を大事にしたライブパフォーマンスをめざしていることも特徴です。朗読も一部はいるかもしれません。
ライブのタイトルは、
「祈る人デリヘイ——ここへとつづく道」
5月23日(日)は午後3時と午後6時からの2回、あります。開場はそれぞれ1時間前です。
詳細は後日あらためてまたお知らせしますが、興味のある方は早めに予約/お問い合わせください。
ここは庄野真代さんがプロデュースしているライブスペースで、堅苦しくもなく、かといって音響などはしっかりしている気さくな空間です。
デリヘイは現在名古屋でライブ活動をおこなっていますが、このたび、私と初めてユニットを組んで、オリジナルなエイジアサウンドをみなさんにお届けしようという計画です。
このユニットは下北沢を皮切りに、名古屋の〈あ・うん〉というお店や、八事のメーテレハウジングプラザ内の野外ステージ、愛知県芸術文化センターなどでもコンサートをおこなうことが決まっています。
デリヘイはオルティンドーを中心とした正統的なモンゴル民謡の歌い手であると同時に、ホーミーの超絶技巧の持ち主でもあります。また、馬頭琴、三線、口琴など、モンゴルの伝統楽器をさまざまに演奏します。
このすごいモンゴル人の若者の伝統的音楽性に、水城がピアノやシンセサイザー、コンピューターなど現代楽器でからむという、本人も楽しみなライブです。しかも即興性を大事にしたライブパフォーマンスをめざしていることも特徴です。朗読も一部はいるかもしれません。
ライブのタイトルは、
「祈る人デリヘイ——ここへとつづく道」
5月23日(日)は午後3時と午後6時からの2回、あります。開場はそれぞれ1時間前です。
詳細は後日あらためてまたお知らせしますが、興味のある方は早めに予約/お問い合わせください。
2010年4月2日金曜日
いま読んでいる本:2025年 あなたの欲望が地球を滅ぼす
明日から代々木公園での平和イベント〈Spring Love〉に現代朗読協会として出展するので、というわけでもないのだが、たまたま読んでいる。
サブタイトルに「「激安・便利・快適」の大きすぎる代償」とある。著者のサブタイトル、じゃなくて肩書きは「サステナビリティ・プランナー」。いろんな肩書きがあるもんだなあ。いや、いろんな肩書きを作るもんだなあ。
内容はとくに驚くようなものはないのだが、データが割合豊富で、漠然と感じていたことを数字で裏付けしてくれる側面が多くて、たとえば、
「マックで激安バーガーを食べることによっていかに地球環境と飢餓人口に影響を及ぼしているか」
を説明することの根拠として示すことができる、という利点がある。
私が知らなかった興味深いデータもいくつかある。たとえば、ひとりの人間が一日に使うエネルギーはどのくらいか。
普通、大人の男性ならだいたい2,500キロカロリーくらいじゃないの、と考えてしまう。それは体内で消費される必要なエネルギー量であって、それ以外にも人間はたくさんエネルギーを使う。たとえば調理をするのにもエネルギーを使うし、冷蔵庫やテレビを使うし、移動するにもエネルギーを使っている。それらを合計すると、先進国の人間ひとりが一日に使うエネルギーは約25万キロカロリー、つまり生体エネルギーの100倍ものエネルギーを消費して生きているということになるらしい。
ちなみにこの消費量は、体重が100トンあった恐竜一匹が消費していたエネルギーとほぼおなじである。
我々文明人は、消費エネルギーについていえば、体重100トンの恐竜がのしのし歩いているイメージなのである。
うへ。
本の終わりには、じゃどうすればいいべ、ということが手短に書かれていて、まあよい。
『2025年 あなたの欲望が地球を滅ぼす』足立直樹/ワニブックス
サブタイトルに「「激安・便利・快適」の大きすぎる代償」とある。著者のサブタイトル、じゃなくて肩書きは「サステナビリティ・プランナー」。いろんな肩書きがあるもんだなあ。いや、いろんな肩書きを作るもんだなあ。
内容はとくに驚くようなものはないのだが、データが割合豊富で、漠然と感じていたことを数字で裏付けしてくれる側面が多くて、たとえば、
「マックで激安バーガーを食べることによっていかに地球環境と飢餓人口に影響を及ぼしているか」
を説明することの根拠として示すことができる、という利点がある。
私が知らなかった興味深いデータもいくつかある。たとえば、ひとりの人間が一日に使うエネルギーはどのくらいか。
普通、大人の男性ならだいたい2,500キロカロリーくらいじゃないの、と考えてしまう。それは体内で消費される必要なエネルギー量であって、それ以外にも人間はたくさんエネルギーを使う。たとえば調理をするのにもエネルギーを使うし、冷蔵庫やテレビを使うし、移動するにもエネルギーを使っている。それらを合計すると、先進国の人間ひとりが一日に使うエネルギーは約25万キロカロリー、つまり生体エネルギーの100倍ものエネルギーを消費して生きているということになるらしい。
ちなみにこの消費量は、体重が100トンあった恐竜一匹が消費していたエネルギーとほぼおなじである。
我々文明人は、消費エネルギーについていえば、体重100トンの恐竜がのしのし歩いているイメージなのである。
うへ。
本の終わりには、じゃどうすればいいべ、ということが手短に書かれていて、まあよい。
『2025年 あなたの欲望が地球を滅ぼす』足立直樹/ワニブックス
2010年4月1日木曜日
いよいよ〈SPRING LOVE 〜春風〜〉遊びに来てください
あちこちで宣伝されてますが、あさって4月3日と4日の二日間、代々木公園で平和イベント〈SPRING LOVE ~春風~〉が開催されます。
ここに現代朗読協会もブースを出展します。
なにをやるのかって?
・ミニ朗読ライブ
・ミニ体験ワークショップ
・みんなで読もう/作ろう/祈ろう「祈る人」
・みんなの朗読力テスト(笑)
ほかに朗読CDやDVDはもちろん、ゼミ生が作ったかわいいポストカードなどの物販もあります。
ブースに居座っているだけでなく、告知のために会場内を練り歩く「イマカラロードク」という企画もあります。
NVCの紹介もやってます。
どんな人でもかならずなにか楽しんでいただけるようになってますので、皆さん、ぜひ、げろきょのブースまで遊びに来てくださいね。NPO/NGOのコーナーのどこかにいるはずです。
◎日時 2010年4月3日(土)13:00-20:00/4月4日(日)12:00-19:30
◎場所 代々木公園野外ステージ及びその周辺
◎入場無料
・主催:SPRING LOVE実行委員会
・後援:環境省、渋谷区
・関連イベント:アースデイ東京2010
☆協力:A SEED JAPAN、株式会社ソーラー、Peace Not War Japan、TEAM
『SPRING LOVE~春風~ 』実行委員会
ここに現代朗読協会もブースを出展します。
なにをやるのかって?
・ミニ朗読ライブ
・ミニ体験ワークショップ
・みんなで読もう/作ろう/祈ろう「祈る人」
・みんなの朗読力テスト(笑)
ほかに朗読CDやDVDはもちろん、ゼミ生が作ったかわいいポストカードなどの物販もあります。
ブースに居座っているだけでなく、告知のために会場内を練り歩く「イマカラロードク」という企画もあります。
NVCの紹介もやってます。
どんな人でもかならずなにか楽しんでいただけるようになってますので、皆さん、ぜひ、げろきょのブースまで遊びに来てくださいね。NPO/NGOのコーナーのどこかにいるはずです。
◎日時 2010年4月3日(土)13:00-20:00/4月4日(日)12:00-19:30
◎場所 代々木公園野外ステージ及びその周辺
◎入場無料
・主催:SPRING LOVE実行委員会
・後援:環境省、渋谷区
・関連イベント:アースデイ東京2010
☆協力:A SEED JAPAN、株式会社ソーラー、Peace Not War Japan、TEAM
『SPRING LOVE~春風~ 』実行委員会
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