(Photo by Funky Yoshi)
((1)のつづき)
午後、いよいよ公演本番がやってきた。
14時開場。急遽設定した昼の部は、お客さんは少なめだが、それでも本番には違いない。ステージ下手に勢揃いした出演者全員、さすがに緊張の面持ちになっている。
といっても、アガっているような様子の人はひとりもいない。緊張しているが、落ち着いた表情で、私のつまらない冗談にもちゃんと反応して、硬直してはいない。
14時半、開演。いい感じで出た。
客電が落ち、暗転のなかから、美術の布の仕掛けが上昇しはじめ、私としくうさんとバラさんを除く全員が、オーケストラのチューニングの音を模した発声でゆっくりと舞台上に散らばっていく。いったいなにが始まるんだろう、という客席の息を呑むような緊張が、こちらにも伝わってくるようだ。
あとはもう、リハーサル通り。
といっても、もともと即興的な、その場のあるがままの気持ちや共感に任せられた部分が多い脚本なので、どういう展開になるのかは出演者もわからない部分が多い。げんに、やのしくうさんと私の即興演奏のからみは、リハーサルもほとんどなかったのでまったく予測がつかず、それに乗って賢治の詩を読む朗読者たちも、あらかじめなにかを決めてかかるということができない。
そこがおもしろいのだ。
自由に、スリリングに、ステージは進んでいった。
和田由貴の美しい歌声と「よだかの星」の朗読、全員のハミングと演奏、そして美術装置とチケットの乱舞のクライマックス。最後に暗転になったとき、客席からは大きな拍手が起こり、舞台袖に退出した私たちにも確かに届いてきた。
80分、一本勝負。
16時前に終わり、知り合いに挨拶などしてから、全員でチケットの回収作業。拾い集め、かき集めて、ふたたび吊り仕掛けにもどす。もう一度降らすため。
1時間ばかりの休憩。けっこうゆっくりできる。
暇なので、ステージにあがって、ピアノを弾く。やはり暇にしていたみんなが集まってきて、にわかカラオケ大会と貸す。そのあと、指ならしがてら、童謡、演歌、ジブリ、ジャズ、クラシックなど、好き勝手に弾いていたら、私も私もとピアノを弾きにやってくる。
今回はステージ上にグランドコンサートピアノが2台出ている。一台はヤマハ。もう一台はスタインウェイ。みんなで音の違いを弾き比べたりしている。実に楽しそう。
ぶらっとロビーの受付に出たら、受付を手伝ってくれている人たちが、
「とても本番前とは思えない」
という。みんな楽しそうで、リラックスしているからだ。私もそう思う。よくぞ、これだけのおだやかで、非暴力的な雰囲気のグループができてくれたものだと、驚いてしまう。この人たちがパフォーマンスで発揮するもの、それが人々にどう伝わるのか。なにか「意味」を求めようとしている人には、なかなか伝わりにくいのかもしれないが、ただ「感じよう」としてくれる人はきっと大きな共感を持ってくれるのではないか。
短いあいだにいろいろなことを考えた。
19時、2回めで、最後の公演がスタートする。
夜はたくさんのお客さんで席が埋まった。そして、ステージでも予期しない、もちろんあらかじめ準備していなかったようなことが次々と起こった。1回めとも全然違うステージ。
ウェルバ・アクトゥスは何度やっても、そのつど違うものになるだろう。なぜなら、時間はたえず進むものであり、人もたえず変化しつづけるものなのだから。さっきの自分といまの自分とはもう違っている。違っている自分の表現が違っているのは当然のことだろう。それが正直な表現というものではないだろうか。
全員がそのことを理解してくれていて、それに抵抗していない。素直に自分をステージに存在させ、同時に皆と共鳴し合い、ひとつの表現を作っている。
感動的なステージだった。私はその真ん中でピアノを弾いていられることを、この上なく幸せに感じ、また同時に、意識が拡散してそこから存在がなくなり、賢治とともに全体のなかに溶けだして、空中からその場を見下ろしているような感覚にもおちいった。
希有な体験だった。
すべてが終わり、お客さんを送り出し、後片付けをして撤収。
打ち上げ。
中心スタッフだけのささやかな打ち上げの予定だったのに、出演者とスタッフがほぼ全員来てしまった。時間が遅いにも関わらず。興奮さめやらず、大盛り上がりで、警察に通報されるほどだったらしい(私は通報騒ぎは知らなかった)。ご近所の皆さんとお店の人、申し訳なかった。
それにしても、本当にすばらしい経験をさせてもらった。
この経験がひとつの「終わり」なのか、それともなにかの「始まり」なのか。それはすでに、私の手を離れているような気がする。