2009年9月6日日曜日

私がかかえる大きな問題

 東海道を下りながら、こう考えた。
 智に働けば……ではなくて。今回の名古屋「Kenji」で私がおこなった仕事の内容について。
 公演自体の評価についてはさまざまなものがあるだろう。当然のことであって、見る人の価値観もさまざまである。そして、このところの私がおこなうパフォーマンスのほとんどがそうなるのだが、かなり強い拒否感を示す人と、かなり絶大な好意を示す人の両極端に分かれる傾向がある。今回の「Kenji」もおそらくそうであろうし、すでにそういう声もたくさん聞いている。
 私が新幹線のなかで考えたのは、そういう話ではなく、私自身のおこなったことそのものについてだ。

 私は今回、基本的には「演出」という立場で仕事をおこなった。
 そのほかに、脚本を書いた。意外に知らない人が多いようだが、今回の脚本の言葉の半分以上は宮澤賢治のものだ。しかしそれ以外は私が書いたものである。全部宮澤賢治の文章だと思っていた人がいたようで、あとで、
「賢治にあんな作品があったなんて知りませんでした」
 ということを何人かからいわれた。じつは私の創作である。
 榊原忠美氏のセリフはすべて(最後のよだかの一部分を除いて)私が書いたものだ。なので、「私は本当は音楽家になりたかったのです」という言葉は、私の捏造である。というより、そのアイディアが生まれたから、この公演全体のイメージができたといっていい。

 それから、私は出演者でもあった。
 演出が舞台にあがるというのは、演劇の世界ではよくあることで、その場合は「役者」として出るのだが、私の場合は「演奏者」としての出演であった。ピアノを弾いた。
 舞台の真ん中にピアノが置かれ、私はほぼ最初から最後までずっとそこに座って演奏していた。なので、演出なのに自分の演出した舞台を客席側からは一度も見ていない。
 それから、これも意外に知らない人が多かったのだが、音楽は全部即興演奏であった。
 もちろん、「星めぐりのうた」と「ポラーノの広場」というふたつの曲があり、メロディは決まっているのだが、それにつける伴奏は即興で作ったものだったし、公演全編を通して断続的に流れる音楽はすべて即興演奏であった。尺八のやのしくうさんとのかけあいも何か所かあったが、あれも即興である。お互いにほとんどなにも決めていなかった。

 今回の名古屋のことでは、私はもうひとつ、質量の大きい仕事をおこなった。
 それは、ワークショップの「指導者」としての仕事だ。講師、あるいはインストラクターといいかえてもいい。
 5月から一般参加者を募ったワークショップがスタートし、15名くらいの人が最終的に本公演のステージにあがることをめざして参加した。稽古というより、私が提唱している「現代朗読」の方法を知っていただき、学んでもらうことに重点が置かれていた。もちろん、最終的には公演を成立させなければならないので、脚本にそった稽古もたくさんおこなわれた。その部分では、私以外にも劇団クセックACTの主力俳優である榊原忠美氏の力に頼るところが大きかった。
 さて、ここの部分に私はいまだに「悩み」を感じているのだ。
 参加者の方々にはおおむね喜んでいただけたようだ。なかには、人生観が変わった、とすらいっていただく方もいた。最終的には全員がすばらしい結束を見せ、驚くようなクオリティの高いパフォーマンスを見せてくれた。それはお客さんにも充分伝わったと思う。
 しかし、こういった「稽古」とか「指導」とかいうのは、本来、私の仕事なのだろうか。

 私は考え方を示す。脚本と音楽を提示する。それらを演出する。が、パフォーマーを育てるのは私の手に負える、あるいは私のようなものがおこなってふさわしい仕事なのだろうか。
 そこのところにずっと悩みがあった。
 もう少し演出に集中したかった、というのもある。今回はうっかりしたことに、演出助手という役割の人を立てることをおこたっていた。ワークショップやリハーサルを通して私が話したこと、指示したことは、全部話しっ放しであり、ほとんどだれも記録しておらず(ビデオや録音機にはいくらか残っているが)、またチェックもおこなわれなかった。私も自分がなにをいったのかうっかり忘れてしまい、次のときにはまったく違う指示を与えたりすることも多かった。
 出演者の皆さんはさぞかし混乱されたことであろう。
 パフォーマーの教育と演出助手。これが今回の大きな課題として、私のなかにはわだかまっている。

 以前からずっと野村つづけていることだが、いや、ぼやきつづけていることだが、現代朗読という方法で自分も演出をやってみたい、自分も朗読演出家になりたい、という人がまったくあらわれない。朗読をしたい、という人はたくさん来るのだが、だれかを演出したい、という人はまったく来ない。
「孤軍奮闘」という言葉がちらちらと脳裏をよぎる。
 今回も、大勢の人に囲まれ、助けられ、また動かしたり動かされたりしながらも、「孤軍奮闘」という言葉が何度も脳裏をよぎった。私が考えていることを伝え、そしてその方法論を私のいないところでも実践してくれる者が育っていない。
 これが残念なのだ。
 ワークショップも公演もおおむね好評で、「次回も」という声があるようだし、また「次があるなら自分も参加したい」といううれしい声も何人かから直接聞いているが、上記の問題にいくらかでも光が見えなければ、私は動かないことにしよう、と新幹線のなかで考えていたのである。
 このことは、本拠地である東京の活動においても同じことのように思う。