2013年8月31日土曜日

保坂区長と話す会、現代朗読体験講座

今日の午前中は世田谷代田の珈琲〈らくだ屋〉まで、「【代田・代沢】保坂区長さんと、コーヒーでも飲みながら話しましょう。」という会に参加するために出かけた。
Facebookつながりの梁田さんたちの主催で、保坂区長の話もあったけれど、メインはちょっとしたワールドカフェ。

私が参加したテーブルは地域で活動している方たちがおられて、とくにボランティア・ビューローの方と知り合いになれたのはうれしかった。
朗読リハビリというようなことをやってらっしゃったり、介護予防について重要性を認めておられたりと、私が貢献できるかもしれないつながりが生まれる可能性ができた。
全体の雰囲気も活気があって、地域活動としてとてもいきいきとした場になっているように感じた。
これも梁田さんたち主催者の尽力によるものだろう。
最後に保坂区長と初めて直接ご挨拶することができた。


羽根木に帰る途中、環七沿いにあるラーメン屋で鶏白湯麺というものを食べる。
大変すっきりしたスープで、なかなかいける味だった。


今日の羽根木の家も暑い。
そんななか、午後2時から現代朗読体験講座。
暑さのせいか参加者は少なくて、3名。
内一人はゼミ生。
ひとりは長野からいらした方、もうひとりは羽村から来た学生さん。
とてもビビッドな反応をもらって、少人数だったがやりがいがあって楽しかった。

学生さんの感想。
「何年も考え続けている、伝達と表現の違い。自分を出すのか消すのか、どうすべきなのかの問いを考えさせられて、頭がいっぱいになって、言葉が出てこなくなったし、のど痛くなったし、呼吸を忘れかけて、呼吸が苦しくなりました。そんな状態でもあったし、全くやったことのないやり方で朗読をしたので、何をやっているのかわからずやっていました。何がわからないのか、わからないくらいわからないと、もうずっと何もわからなかったけれど、考えることができて、話を、朗読を聴けて良かったです」
いやいや、なんか大変なことになっていたんだね。
お疲れさま。
よかったらまた遊びに来てね。

もうひとりの方の感想。
「目からウロコ……のことがたくさんで、これからの自分が楽しみです。こんな前向きな時間を過ごすことができたことに感謝です」
目からウロコというのは、毎回かならずだれかからいわれることだが、そういわれるとうれしい気がする。

終わってからゼミ生とちょっとゆっくり話ができたかな。
暑くて体力がどんどん奪われるような一日だったけれど、最後は豊かな時間がやってきた。

2013年8月30日金曜日

ママカフェ、シモキタランチ、共感的コミュニケーション

昨日は一日、音読療法と共感的コミュニケーションにどっぷりだった。
午前中、羽根木の家でママカフェこと「お母さんのための音読カフェ」が開催。
これは音読療法協会ではなく、サークルおひさま主催で、ボイスセラピストのKATが仕切っている。
おいしい手作りスイーツを食べながらのお茶タイムも楽しみなイベントで、毎月一回、おこなわれている。
来月は9月26日(木)10:30から。

終わってから参加のオバマ夫人、石村みか新人お母さんもいれて、下北沢までランチに行く。
みかちゃんの赤ちゃんの莉緒ちゃんも合流して、にぎやか楽しい。

14時半よりすこし前に羽根木の家にもどったら、もう15時からの共感的コミュニケーションの勉強会の参加の方が来られていた。
昨日は参加者がすこし多めかなと思っていたのだが、あれよあれよと増えて羽根木の座敷が満杯に。
しかも初めて共感的コミュニケーションに接する方が多い。
先週のカフェ・オハナでもそうだったが、このところこのコミュニケーションスキルに対する関心が高まっていて、ニーズも増しているようだ。
初めての方が多いので、共感的コミュニケーションとはなにかという話から、基本的なかんがえかた、使い方、日々の練習方法までみっちりとお伝えする(お伝えできたかな?)。
みなさん、とても熱心に、時間を越えてもがっつりと食いついてきてくれた。

夜は19時から共感的コミュニケーション勉強会の夜の部。
夜は昼よりはすこし少人数で、リピーターが多かったが、まったく初めてという方も2名いらした。
リピーターの方もそれほどたくさん経験を積んでいない人ばかりなので、夜もやはり基本的なことをしっかりお伝えする。
毎回そうだが、今回のキーワードは「好奇心」と「無責任」。
とにかく好奇心をもってつながりつづけ、無責任に共感すること。
と書くとなんのことやらわからないだろう、興味を持った方はぜひいらしてほしい。

それにしても、このところ男性の参加率が高い。
しばらく前は参加者はほとんど女性だったのだが、最近は半分くらいは男性になってきた。
意識が高い男性が増えてきたように思う(すくなくとも私のまわりでは)。
来月の共感的コミュニケーションの勉強会は9月26日(木)の15時からと19時からの2回。
詳細はこちら

2013年8月29日木曜日

ソロピアノ演奏「我は海の子」「ヒガンバナ」

先日の〈サラヴァ東京〉でのオープンマイクイベント「ショーケース」に急きょエントリーすることになり、ピアノ演奏をおこなってきました。
その模様をみぞれちゃんがデジカメで収録してくれていたので、紹介します。
ちなみに、このときおこなったみぞれちゃんと私のロードクパフォーマンス映像はこちらです。

エントリー演奏は文部省唱歌の「我は海の子」、アンコール演奏は水城のオリジナル曲「ヒガンバナ」でした。


「Even If You Are My Enemy」山田みぞれ&水城ゆう

先日の〈サラヴァ東京〉でのオープンマイクイベント「ショーケース」で山田みぞれが水城のオリジナルテキスト「Even If You Are My Enemy(たとえおまえが僕の敵だとしても)」を朗読しました。
その模様をみぞれカメラで収録してあったので、紹介します。

ピアノは水城ゆう。
テキストはこちら
先日のショーケースの感想はこちら

新作を書きたい

いま連載している長編小説『ストリーム』とは別に、ステージ作品としての新作テキストを書きたい気持ちがふつふつと盛りあがってきている。
ステージ作品として書いたものをまとめてみたことはないが、思いついたものをあげれば、「Kenji」「Ginga」「初恋」「記憶が光速を超えるとき」「特殊相対性の女」などがある。
ほかにもみじかいものはたくさんあるけれど、今回内なる私が書きたがっているのは、どうやらまとまった長さのもののようだ。

9月23日にはこのうち「記憶……」と「特殊……」の二本立て沈黙の朗読を、キッド・アイラック・アート・ホールでおこなう。
再演ということになるが、演出がちがう。
音楽も変わるだろう。
こちら ← ぜひおいでいただきたい。

この秋、10月から11月にかけて、カルメン・マキさん、酒井俊さんをそれぞれ迎えて公演・ライブをおこなうことが決まっている。
酒井俊さんとはすでに〈レディ・ジェーン〉と〈スウィート・レイン〉で現代朗読の野々宮卯妙をいれて3人でライブをやっている。
非常にスリリングな、充実したライブだった。

酒井俊さんとは、ふたたび野々宮卯妙を入れて3人で、10月15日には〈サラヴァ東京〉で、11月30日にはふたたび〈レディ・ジェーン〉でおこなう予定だ。

カルメン・マキさんとは11月15日と16日に〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で公演をおこなうことになっている。
ライブではなく、公演。
歌と朗読と音楽によるステージになるだろう。

これらのためのオリジナル新作テキストを書きたい。
いま私たちが直面している理不尽な、しかも人為的な問題について、作品という普遍性のある形でメッセージを出していきたい、という思いが強まっている。
どのような内容になるのかは書きはじめてみないとまったくわからないが、自分なりに形にしておかないと落ちつけないのだ。
書いたからといって落ちつくかというと、たぶんそうではないだろうなとも思うけれど。

韓氏意拳の稽古

はっきりいって、はまってる。
今夜(昨夜?)も韓氏意拳の稽古に中野まで行ってきた。
私より先輩の方が数名、そして初めての方がひとり。
その方はダンスをやってらっしゃるということで、韓氏意拳の方法を大変おもしろがっておられた。

私が韓氏意拳の稽古をはじめてから3か月がたつ。
稽古に行っても、先生(内田秀樹準教練)がいっていることがだいたいわかるようになってきた。
最初のころはなにをいっているのかすらわからなかった。
大変な進歩と思いたいが、そうは簡単にいかないのが韓氏意拳のおもしろさでもある。

このところ、韓氏意拳の「形体訓練」「站椿」そして「試力」というものを、自分なりに暇を見つけては練習していた。
それなりに実感があって、こんな感じかな、という進歩を感じていた。
が、それは韓氏意拳に関しては罠といっていい。
練習経験を積むと、それ自体が進歩をはばむことがある。
うまくいった感じをなぞろうとする自分がいる。
今夜も自分なりに「こうすればいいのでは」と実感していたことが、ことごとく「いまここ」の自分の状態につながっていないことを思い知らされた。

いつもここにはあたらしい自分がいる。
その自分がどのように動けばいいのか、教えてくれる。
その自分の身体の声に耳をすます技術が、韓氏意拳の中枢にある。
この点に関して、私はまったく未熟だ。
半世紀以上生きてきて、生まれたての赤ん坊のように未熟だと感じる。
そのことがおもしろい。
もっともっと学びたい。

2013年8月28日水曜日

10月13日の羽根木公園雑居祭り核戦広場で

一昨日の夜はトランジション世田谷・茶沢会のミーティングがあった。
定例のミーティングは木曜日か土曜日に開かれることが多く、私はどちらもげろきょデーなのでなかなか出られないのだが、一昨日はひさしぶりに出席できた。
議題のなかで、10月13日に羽根木公園で開催される雑居祭りに今年も茶沢会が出展することになり、どんなことをやろうかという相談があった。

ミニマルシェ、省エネや、喜多見の外環インター建設にともなう農地や環境破壊についてのパネル展示、その他新鮮野菜を使ったサンドイッチの販売などをおこないたいということになった。
茶沢会が出展するのは「核と戦争の広場」というコーナーなのだが、ここにはミニステージもある。
私の機材を持ちこんで、このステージのPA協力をすることになった。
この電気を全部自然エネルギー(太陽光パネル)でまかなおうというのだ。
せっかくなので、ロードクもやりたいと思い、「核戦広場」という場所であることもふまえ、ちょっとしたメッセージ性のあるオリジナルテキストを書きたくなった。
それを音楽とともにポエトリーリーディングのような感じでやれないか。

戦争、紛争、原発、格差、グローバリズム、人種問題、こういったことで人間性がふみにじられていることにたいして、辛抱強くメッセージを出しつづけていきたいと思う。
私のなかの芯の部分にそのようなニーズがわだかまっているのを感じている。

サラヴァ東京のオープンマイクイベント、再び

昨日の夜はゼミ生の山田みぞれが出るというので、サラヴァ東京のオープンマイクイベント「ショーケース」にみぞれちゃんのピアノサポートで行ってきた。
先月につづいて2度めとなる。
ところが昨日は、エントリー6組のうち3組がドタキャンしたということで、私も急きょ、みぞれちゃんのサポートとは別にソロピアノ演奏で参加することになった。
お客として遠方はるばる、ゼミ生のアズーが駆けつけてくれた。ありがとう。

午後8時、イベントスタート。
司会が今回から交代するということで、ユニークな爆笑トーク炸裂の男女ペア。
最初にこれまでの司会者だった人とシャンソン歌手の人がそれぞれシャンソンを歌う。
つづいて、オープンマイクにエントリーした人の演奏がはじまった。

ハーモニカと歌(ご高齢の方)、ユニークなオリジナルボイスでの弾き語り、パントマイムのような演劇のような反戦メッセージの女性のソロパフォーマンス(最後はヌードでびっくり)。
みぞれちゃんは前半のステージで、私の「Even If You Are My Enemy」をくれた。
私は即興ピアノ演奏で共演。
大変充実したパフォーマンスをやれたように思う。

ゲストの歌などがあって、私は後半のステージで演奏。
唱歌の「我は海の子」を即興演奏からはいって、最後はなんとなくスローな3拍子になって終わり。
司会の男性が私のピアノをとても気にいってくれたようだ。

このイベントは最後に、司会者やゲストが「この日もっとも心を動かしたパフォーマンス」を相談して決め、アンコール演奏をすることになっているのだが、そのアンコールに私が選ばれてびっくりした。
こういうものは事前に耳打ちくらいされて準備をするのかと思っていたが、本当にステージの最後に発表されて、なんの準備もしていなかったのでちょっとあわてた。
結局、オリジナル曲の「ヒガンバナ」を演奏させてもらった。
最後に選ばれたのも、みなさんにしっかりと聴いていただけたのも、うれしかった。
こういう機会を作ってくれたみぞれちゃんには感謝。

2013年8月27日火曜日

自分のニーズは自分しか満たせない

すべての人のニーズ(価値/必要性/大切にしていること)をおなじように尊重しあうことが共感的コミュニケーションの目的だが、それと同時に「自分のニーズは自分しか満たせない」ということも理解しておく必要がある。

あるニーズがあって、それを満たすために自分以外の者(他人)のおこないが必要であるとき、それは厳密にはニーズとはいわない。
見かけのニーズだ。
たとえば「尊重されたい」というニーズがあるとする。
それ自体は人がだれしもが持っている共通のニーズなのだが、それを特定のだれかに尊重されることを求めたとき、それはニーズではなく要求となる。
「あなた、もうちょっと私を尊重してくれない?」
という言動は要求にほかならない。
要求は共感的ではなく、非共感的なコミュニケーションである。
要求によってだれかとつながることはできない。

では、ある人の/私の尊重のニーズはどうやって満たされるのだろうか。
だれかから尊重されていると感じているとき、それを認識したとき、人の尊重のニーズは満たされる。
その認識はさまざまなチャンスに、思いがけない手段でもたらされるだろう。
自分が尊重されていることに気づけるかどうかは、自分自身のこころのありように関わってくる。

たとえば、あなたの同居人が部屋を散らかしている
あなたは清潔好きで、いつも部屋を整頓しておきたいと思っているのに、同居人はすこしもそれをわかってくれない。
同居人が部屋を散らかすたびにあなたはイライラするし、落ち着かなくなる。
たまには自主的に部屋を片付けてくれたら、あなたも尊重されていると思えるだろうに。
という不満を抱いて「尊重されたい」と思っているとしたら、それは永遠に満たされない可能性がある。
あなたは同居人を「部屋を散らかして私を尊重してくれない人」というレッテル越しに見ている。

レッテルをはがし、その向こう側に同居人のニーズを見ようとしたり、部屋を片付ける以外のことであなたにたいする尊重の行為や言葉を見つけたりすることで、実はたくさんの尊重があなたに向けられていることに気づくかもしれない。
それに気づけるのはあなた自身でしかない。

だれかに自分のニーズを満たしてもらおうとかんがえること自体が、あなたのなかに不満をつのらせてしまう大きな原因となっている。

羽根木の家での共感的コミュニケーションの勉強会はあさって29日(木)、昼の部は午後3時から、夜の部は午後7時からです。
興味のある方は気楽においでください。
詳細はこちら

玉響のとき Vol.6 @羽根木の家(with ミュージック・メディテーション)

フットセラピストの徳久珠央さんがおこなっているフットセラピーと音表現のコラボ企画「玉響(たまゆら)のとき」の第6弾が水城ゆうのミュージック・メディテーションとのコラボで開催されます。

即興演奏による瞑想音楽、フットセラピー、そしてご参加いただく方々とがともに響きあい、また羽根木の家という古民家環境そのものと相まって空間全体がもみほぐされ、またたがいにもみほぐすような経験を提供します。
ゆったりとたおやかな時間を共有できれば幸せです。

◎日時 2013年9月28日(土) 16:00〜17:30
◎場所 羽根木の家
    世田谷区羽根木1-20-17
    京王井の頭線「新代田」駅下車徒歩2分
◎参加費 フットセラピー/お茶・菓子付き 2,500円
     ライブ/お茶・菓子付き 1,500円

フットセラッピーについて……
・おひとり10分程度を演奏中に順番におこないます。
・参加人数に限りがありますので、ご希望の方は早めにお申し込みください。
・定員になりましたら締め切らせていただきます。
☆ライブのみの参加も歓迎です♪

※ご予約はこちらまで

「玉響のとき Vol.2」の抜粋映像がこちらで見れます。
また、「玉響のとき Vol.4」で水城が演奏した音源をもとに作られた音楽アルバム「quiet pictures 2」と「Spring And Stream - quiet pictures 3」はこちらで全曲視聴できます。

2013年8月25日日曜日

扇田拓也氏との合同ワークショップ、終了

昨日はカトリック下北沢教会のアトリエかまぼこ(元米軍かまぼこ兵舎)で、演劇と朗読のワークショップ「物語と自我」を、扇田拓也くんと合同で開催した。
初めての試みだ。

扇田くんは先日、てがみ座「空のハモニカ」の演出で多くの観客を魅了し喝采をあびたばかりの、新進気鋭の舞台演出家であり、みずからも役者として舞台やテレビに出演することもある人だ。
とても緻密で繊細なステージを作る人で、私の現代朗読の演出とは対極にあるといっていい。
まったくちがう手法と感性を持つふたりだが、何年か前から交流があり、今回、ぜひいっしょにワークショップをやってみよう、ということになったのだ。

午前10時スタート。
アトリエかまぼこは古いけれど落ち着いた空間で、定員20人のワークショップにはゆったりとしてちょうどいい感じ。
今回、ちょっとしたサプライズとして、扇田くんのサポートに「空のハモニカ」で金子みすずを主演した石村みかが駆けつけてくれたことがあって、うれしかった。
彼女も真剣に参加してくれ、ほかの参加者たちにもおおいに刺激になったのではないだろうか。

今回使ったのは、扇田くんも私もともに太宰治の「海」という短いテキストであることがあらかじめ決まっていた。
これを使って、まずふつうに輪読。
それから扇田くんがプランを示して、演劇的にこれをステージ表現に作りあげるにはどうしたらいいか、ふたつのグループに分かれてさっそく実践にはいっていった。

午前中はそれぞれのグループが自分たちがアイディアを出しあって、ステージプランを作る。
ランチ休憩をはさんで、午後はいよいよそのプランの実演作り。
演劇の経験者は少数で、「演じる」ということや演劇的な段取り作りの段階でかなり苦労している感じだった。
とはいえ、みんな楽しそう。

ひととおりそれぞれのグループが「海」を劇作品にしあげたところで、今度は私がそれを現代朗読のエチュードとして発展させながら、最終的にステージ表現にするプロセスを提供した。
演劇とはちがって、即興性のなかでひとりひとりの表現を全体融合させていく現代朗読の方法は、じつにシンプル。
ゼミ生が多かったこともあって、あっという間にステージパフォーマンスができあがってしまった。
ものの30分。

最終的にこの現代朗読の方法を、演劇プランと合体させることができるかどうか、いくつか試行錯誤してみたが、これは大変難しかった。
かんがえてみれば、いきなりこのような挑戦的な試みがうまくいくわけはないのだが、それでも可能性の片鱗と、なにより予期しないことが起こり、生まれつつあるという現場の感覚に、私はわくわくしっぱなしだった。
この試みは機会をつかまえてぜひ第2弾をやってみたいものだ。
扇田くんもきっとそう感じてくれているだろう。

2013年8月23日金曜日

サラヴァ東京ふたたび

昨日はなんとなくひさしぶり、現代朗読ゼミの一日。
朝ゼミ、昼ゼミ、夜ゼミと、参加者少ないながらも全開催(最後まで暑かったけど)。
昼はこれもひさしぶりに近所の〈ピピカレー〉までみんなといっしょにランチに行く。

明日はカトリック世田谷教会で「物語と自我――演劇と朗読についての扇田拓也合同ワークショップ」を丸一日開催。
ゼミ生が多いけれど、参加者は定員20人にせまっている盛況。
きっとおもしろくなるだろう。

昨日のゼミではみぞれちゃんと、来週火曜日27日の夜、〈サラヴァ東京〉の毎月恒例のオープンマイクでやる「Even If You Are My Enemy」の打ち合わせをやる。
サラヴァのイベントは先月も出たのだが、楽しかったのと、好評だったのとで、今月もみぞれちゃんがエントリーし、たまたま私も身体があいていたので先月同様ピアノ演奏でサポートすることにしたのだ。
イベントの詳細はこちら

このイベントはどなたも観覧できます。
みなさん、遊びに来てね〜。
みぞれちゃんはこれまでとちょっとテイストのちがう、大人の朗読に挑戦する予定。

2013年8月21日水曜日

マインドフルに自分の身体と対話する3時間

今日は韓氏意拳の稽古に中野まで行ってきた。
教練は内田秀樹先生。
午後7時から始まって、10時近くまで、ほぼ3時間、みっちりとやった。

韓氏意拳の稽古は他の武術・拳術とはだいぶおもむきが違っている。
今日も3時間かけてやったのは、平歩站椿訓練の挙式と抱式、基礎試力の前後試力と上下試力、このよっつのみ。
これも型があるようでない。
ただひたすら、自分の身体の状態の集中を感じつづけ(体認という)、運動のたかまりを求めていく。

とこう書いても、なんのことやらさっぱりわからないだろうと思う。
私も最初のときはなんのことやらさっぱりわからなかった。
韓氏意拳の本を予習として何冊か読んでいったのに、実際にやってみると自分がなにをやっているのか、どうすればいいのか、まったくわからなかった。
が、いまはすこし、これらの站椿と試力が韓氏意拳のすべてをつらぬいて基礎をなしており、ここを丁寧に通過していかないと本質には迫れないのだということがわかる。

今日は少人数で内田先生が非常に丁寧に見てくれたおかげで、自分のなかで理解(といってはいけないのかもしれないが)というか体認の緻密さがすこし進展したように思えた。
とにかく、集中、集中、集中。
しかも、頭で認識したり判断したりなぞったりするのではなく、自分の身体に起こっていることに集中。
探したり確認しにいくのではなく、感じる、身体の声を聞くことに集中。
まだ動ける、もっと動ける、こんな感じ、こっちにも行ける、それがずっとのびやかにつづいていくことを把握しつづける状態。
こういったことを内田先生が丁寧に、言葉と身体をつくして、繰り返し辛抱強く教えてくれる。

ともあれ、まあこんなふうに自分の身体と対峙したことはこれまでに一度もなかったことは確かだ。
おもしろくてしかたがない。
もっと若いころにこれと出会っていたらどうだったろう、と益のないことをついかんがえてしまうが、いま出会えたということもひとつのタイミングだったのかもしれない。
若いころに出会っていたら、このおもしろさに気づけもしなかったかもしれないし。

それにしても、気がついたら3時間みっちり、おそろしく身体のことに集中し、マインドフルな濃密な時間だった。
終わったら足の裏のスジがつっていた。
ほぼ3時間、ずっと立ちっぱなしだったのだからやむをえないかもしれないが、これもいずれ克服していけるような気がする。

余談だが、韓氏意拳をはじめて以来、ピアノ演奏における身体操作の風景も、まちがいなく大きく変化しつづけているのはたしかだ。

扇田拓也氏との演劇と朗読のワークショップ、もうすぐ!

今週の土曜日に下北沢のカトリック教会でおこなう扇田拓也くんとの「物語と自我――演劇と朗読についての扇田拓也合同ワークショップ」の打ち合わせをおこなった。
ワークショップの詳細についてはこちらをご覧ください。

扇田くんは、つい先日、てがみ座の「空のハモニカ」という公演(彼は演出)が終わったばかりで、なかなか打ち合わせの時間が取れなかったのだが、今日、ようやく昼食をかねて下北沢で打ち合わせできた。

いろいろアイディアが出てきたのだが、やはり演劇と朗読の違いを参加者におもしろく体験してもらう内容にしようということになった。
演劇と朗読の違いというより、演劇演出と朗読演出の違いといったほうがいいかもしれない。
参加者は演劇的に受ける演出と、朗読的に受ける演出の両方を体験できる。
ついでにいえば、朗読といっても、「現代朗読」とことわらなければならないだろう。

もっと正確にいえば、演劇と朗読というより、演劇の演出家である扇田拓也と、現代朗読の演出家である水城ゆうの、それぞれの手法を実際に体験してもらいながら、全員でステージ作品作りに取りくんでもらう体験ワークショップ、ということになる。

使用テキストが決まった。
太宰治の「海」というみじかい作品で、扇田くんも水城もともにこのおなじテキストを使って、おそらくまったく違うアプローチで作品作りを体験してもらうことになるだろう。
自分でいうのもなんだが、おもしろそうだ。
ひょっとしてこの過程で、演劇とか朗読といったジャンルをこえたまったくあたらしい表現手法が生まれることだってありうる。

この見逃せないワークショップ、興味のある方はすぐに予約をどうぞ。
まだ予約枠にすこし余裕があります。
申し込みはこちら

カフェ・オハナ、共感的コミュニケーション

昨夜は三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのワークショップだった。
昨日で3回めだったが、毎回参加者が増えて、昨日はとうとう定員を超えてしまった。
20人近い方を相手に、ひとりひとりのニーズを大切にしながらじっくり進めていきたいワークをうまくやれるだろうかとちょっと自信がなかったけれど、皆さん最後まで集中して参加してくれてうれしかった。
質問も積極的に出てきて、やりがいがあった。
オハナではいつもやらせてもらっている朗読と音楽のミニライブも好評で、うれしかった。

ミニライブでは時節柄、私の作品のアラブの女の子の話「Even If You Are My Enemy」をやった。

みなさんとはメールアドレスを交換したり、Facebookでフレンド申請したりと、これからもつながりを大切にしたいと思いながら、オハナをあとにした。

次回のカフェ・オハナでの共感的コミュニケーションのワークショップは、10月22日(火)夜の予定となった。

2013年8月20日火曜日

いきいき音読ケアとエル・フラメンコ

酷暑のなか、昨日は西武池袋線の富士見台まで「いきいき音読ケア」に行ってきた。
いわゆる老人ホームだが、ここは毎月1回くらいのペースで行っている。
私が行けないときはKATや野々宮を中心にボイスセラピストが行って、音読ケアワークをおこなう。
昨日はたまたま私も行けた。

ここにはグランドピアノがあるので、私が行けるときには季節の唱歌のメドレーを演奏して、みなさんにも歌ってもらうようにしている。
昨日も音読ケアのあと、唱歌メドレーを演奏した。
いつもかならず昔をなつかしんで涙を流す方がおられる。

昨日はKATと野々宮卯妙が音読ケアワークをおこなった。
私たちの毎月の訪問を楽しみにされている方もおられて、みなさんの反応がだんだんしっかりとしてきて、表情もいきいきとしていくのがわかる。
そのたびに、音読ケアは高齢者の心身の健康にとってとても有効な手段であり、必要性の高いものであることを確信する。
高齢者でなくても、こころと身体の健康のために簡単ながら大変効果の高い手法であることはまちがいない。
もっと多くの人に知ってもらいたいものだ、といつもやるたびに思う。


夜は新宿の〈エル・フラメンコ〉までフラメンコを見に行く。
野々宮が世話人となってお得なクーポンチケットを取ってくれたので、ゼミ生たち何人かと行くことになったのだ。
飲み食いしながらライブを楽しむスタイルの店だが、ここのフラメンコはとても本格的でいつも見応えがある。
本場スペインから相当腕のたつダンサーやカンテ、演奏家が送りこまれてくるシステムのようだ。

昨夜はダニエル・トーレスという主演ダンサーを中心に、非常にクオリティの高い現代フラメンコを見せてもらった。
あらためてフラメンコの世界の進化しつづけているのだと思った。
とはいえ、これはやはり「ショー」の世界。
通常人にはできない超絶技巧の世界を「売る」ことによって成り立っている世界。
すばらしいものだが、我々現代朗読がめざす方向とはもちろん違っている。
現代朗読で「クオリティをあげるよ」というと、ついこのフラメンコや完成度の高い演劇的世界をイメージしてしまいがちだが、それはちがうということにいつも気づきつづけていたい。

2013年8月19日月曜日

「嘘つき問題」解

「嘘つき問題」のつづき。
だれかが嘘をついていて、それが明らかに嘘だとわかっていても、その嘘自体に共感することはできない、という問題。

嘘をついた人は、そこに共感を向けられても、自分が嘘をついたということを認めないかぎり共感を受け取ることはできない。
嘘をついたことを認めさせようとすることは、共感ではなく「非難」が含まれる。
ではどうすればいいか。

共感的コミュニケーションにおいては、プロセスとしてまず相手の嘘を「そのまま受け入れる」。
前回の例では、「ここにいてね」というこちら側のお願いにたいして相手は約束したのに、その場を離れていた。
そのことを指摘すると「ううん、ずっといたよ」と嘘をつき、自分が嘘をついていることを認めようとしなかった。
その相手の「ずっといたよ」という嘘の言葉をまず受け入れること。

あきらかに嘘だとわかっている言葉を受け入れるのはちょっとむずかしい。
しかし、こうかんがえる。
相手はどのようなニーズがあって「ずっといたよ」といったのか。
それが嘘であるかどうかはいったん棚上げにしておく。
というか、かんがえなくてもよい。
「ずっといたよ」という相手の言葉と態度に共感を向けていく。

「ずっといてくれたの? 私との約束を守ることを大切にしてくれたんだね?」
と、ただ純粋に好奇心をもって訊いてみればよい。
皮肉や非難を含めないで、ただ純粋に訊いてみる。
それだけでよい。
相手は自分がなにを大切にしているのか、あらためて自分のなかを見てくれるかもしれない。
また同時に、たとえ嘘をついていることについて罪悪感を覚えていたとしても、自分が否定も非難もされず受け入れられたことで、つながりを感じるかもしれない。
それ以上のことはなにもしなくてよい。
たったこれだけのことで、あなたと相手の関係性は、以後すこしだけ(あるいは大きく)変化するかもしれない。

三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのワークショップ・ミニライブ付きは、8月20日の夜、開催します。
詳細はこちら

2013年8月18日日曜日

音倉・怪談朗読「幽霊滝の第三夜」全映像

2013年8月16日、下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉でおこなわれた怪談のオープンマイクに現代朗読協会がゲスト出演しました。
朗読出演は野々宮卯妙、てんトコロ、山田みぞれ、宮本菜穂子、植森ケイ。
ピアノ演奏は水城ゆう。

演目は「幽霊滝の第三夜」。
小泉八雲の「幽霊滝」と夏目漱石「夢十夜」の第三夜を合体させて構成した作品です。


2013年8月17日土曜日

映像編集、ほんつけとーくみゅ〜じっく

今日は朝から、先日のネットライブと昨日の怪談ライブの記録映像の編集作業。
編集が終わったものから順次、YouTubeにアップロードしているが、サイズが大きいのでいまだに進行中。

午後は武蔵小山の〈アゲイン〉まで、唐ちゃん主催の「ほんつけとーくみゅ〜じっく」という朗読と音楽のライブを見に行く。
今回は唐ちゃんのほかに、いつものマダム・オニオンの豆々子さんと玻瑠さん、そしてマダム予備軍(と紹介されていた)のまぁやも参加。
音楽陣は津軽三味線の山本竹勇さんと、豆々子旦那の小梨治さん。

35人くらいのキャパが満席で、見知った顔が多い。
内容はバラエティに富んでいて、飽きさせない構成になっていた。
私も楽しませてもらった。
とくにマダム・オニオンやまぁやも参加した自由な朗読セッションは楽しく、現代朗読として私がまいた種がすこしはここにも芽吹いているような気がして、うれしかった。
なにより、出演者のみなさんがとてもイキイキと楽しんでいるようすが伝わってきて、観客も楽しくなっているようすだった。

終わってから渋谷にもどり、ちょっと買物をしてから、餃子とビールをいただく。
早朝から作業していたせいか、そして渋谷の人ごみを歩いたせいか、思ったより疲れが出て、そうそうに退散した。

音倉・怪談朗読ライブが終わった

昨日は下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉でおこなわれた怪談のオープンマイクに現代朗読協会でゲスト出演してきた。

依然としてつづいている猛暑のなか、エアコンのない羽根木の家に出演者一同、午後3時に集合。
出演は野々宮卯妙、てんトコロ、山田みぞれ、宮本菜穂子、植森ケイ、そしてピアノの私。
暑いのにみんな元気。

野々宮とてんがさっそく、「お行儀のよいお朗読と口胡弓の伴奏」のパロディで遊びはじめた。
抱腹絶倒。
とくにてんの口胡弓は音だけ聴いていると下手な胡弓奏者よりよほど本物っぽい。
これ、ライブでやりたいけど、多くの人を怒らせてしまうだろうなあ(笑)。

軽く全体を流して確認。
今回の演目は「幽霊滝の第三夜」という、小泉八雲の「幽霊滝」と夏目漱石「夢十夜」の第三夜を合体させて構成した演目。
結局、今回の演目について、リハーサルは軽く2回のみ。
実質的にほぼぶっつけ本番。

ライブをなめているのではない。
逆で、即興性を大切にしている現代朗読では、リハーサルをやりすぎてなにかをなぞってしまうことを嫌っているからだ。
そのかわり、ひとりひとりは個別にみっちり読みこんだり、日常的に感受性や身体トレーニングを欠かさない。
フリージャズミュージシャンや即興舞踏家のありように近いかもしれない。

午後5時、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉にぞろぞろと歩いて向かう。
音倉ではステージの感触と音響の確認。
あとはなにもすることがないので、時間まで好きなことをしてすごす。

6時半、開場。
7時すぎ、開演。
げろきょ仲間ではずずこさんが駆けつけてくれた。
初の試みということでお客さんは少ないが、前半は朗読、怪談語り(野々宮も飛び入り)、ピアノ演奏とシャンソンなどもあった。

休憩をはさんで後半は我々のパフォーマンス。
シナリオはあるが、だれがどこをどう読むというのは最小限しか決めていない、即興的なパフォーマンス。
私の音楽ももちろん全編即興で、朗読のみんなとの濃密なコミュニケーションにそって進んでいく。
「いまここ」のマインドフルな感覚のなかで進む時間の楽しいのなんのって。
自分と出演者と観客に正直に、誠実に生きているという感覚そのものの濃厚な時間。

熱い拍手をいただいて終了。
ずずこさんからも熱烈な感想をいただいた。
それぞれ飲み物を注文して、乾杯。
メモ程度の簡易録画だったが、映像記録があるので、あらためてYouTubeで配信しよう。

共感的コミュニケーションにおける「嘘つき問題」

論理学に「自己言及のパラドックス」というものがある。
たとえば「私は嘘をついている」とだれかがいったとしたら、その真偽は矛盾をはらんでいるというものだ。
本当に嘘をついているなら、その文は嘘ではなく真実を語っているのだから嘘をついていることと矛盾する。
嘘をついているなら、真実を語っているのだが、これも矛盾している。

これに似た問題に共感的コミュニケーションのワーク中に遭遇したので、報告しておく。
最初はとても簡単な例題のように思えたのに、共感的コミュニケーションのプロセスを使っていくとまるで迷宮にはいりこんだみたいになってしまって、大変おもしろかった。

AさんがBさんとある場所で待ち合わせをしていて、いったん落ち合ったのだが、用事があったので「ここで5分待っててね」とBさんと約束してその場を去った。
5分後に戻ってみると、Bさんがその場にいない。
心配になってそのあたりを探しまわって戻ってくると、Bさんがいた。
「なんでここで待っててくれなかったの?」
「ううん、私ずっとここにいたよ」
いなかったのは確かなのだ。
しかしBさんは「ここにいた」と主張するばかり。

こういう場合、AさんはどのようにBさんに共感を向けたらいいだろうか、という問題。
「共感を向ける」とは、Bさんがなにを大切にしていたのか、Aさんが聞いてあげる、ということだ。
Bさんはなにを大切にしていたからAさんに嘘をついたのだろうか。
しかし、ここで以下のような共感的聞き方の文法は使えないことに気づく。
「Bさんは私に信頼してもらうことが大切だから、いたって嘘をついたの?」
そのように聞いてもBさんは嘘を認めず(すでに認めていない)、ただ「嘘ついてない、ここにいた」と繰り返すばかりだろう。
共感できない。

このとき、Bさんが自分が嘘をついたことを認めた場合は、話が別になる。
Bさんがなぜ嘘をついたのか、Bさんはなにを大切にしていたからAさんに嘘をついたのか、共感的に聞いてみればいいのだ。
しかし、Bさんが自分の嘘を認めない場合、どうやってBさんと共感的なつながりを持つことができるだろうか。

この話、つづく、としておく。
私なりに出した解答はあらためて紹介する。
三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのワークショップ・ミニライブ付きは、8月20日の夜、開催します。
詳細はこちら

2013年8月16日金曜日

CNVC認定トレーナーのマンスキー夫妻が来日します


NVC(Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)に興味のある方に耳寄りの情報です。

現在ハワイ在住でCNVCの公認トレーナーであるジムとジョリのマンスキー夫妻が、ワークショップのために9月に来日します。
ふたりはNVCの創始者であるマーシャル・ローゼンバーグと初期のころから活動してきたベテラントレーナーで、今回の来日はまたとないチャンスだと思います。
日本各地でワークショップを精力的に開催する予定なので、興味のある方はぜひ参加してみてください。

まずは、静岡・伊東の温泉でのリトリート(合宿)から。

◎9月14日〜15日の1泊二日
心の傷を癒して関係性を回復する温泉での合宿ですが、少人数での開催で、もう会えなくなってしまった相手との関係も修復できるチャンス。
詳しくはこちらのページを。

◎9月11日 世田谷
テーマは社会変革と紛争解決。
詳細はこちら
*残席わずか

◎9月12日 代々木オリンピックセンター
テーマは家族間コミュニケーションと入門。
詳細はこちら

◎9月17日 京都
テーマは怒りについて。
詳細はこちら

◎9月18日 名古屋
詳細はこちら

◎9月22日 大阪
詳細はこちら

◎9月23日 宇都宮
テーマは家族間コミュニケーションと入門。
詳細はこちら

たとえばリップノイズの解決法についてもひとりひとり違う

昨日も音声表現スキルアップの個人セッションだった。
最近とくに、リップノイズ、表現のオリジナリティ、スキルの差別化、伸び悩み、そういった養成所のレッスンだけでは解決できない問題を感じている切実な人たちが、まるで駆け込み寺のように私のもとへやってくるようになった。

私は自分自身、声優でもナレーターでも朗読者でもないのだが、だからこそ伝えられることがあるのだと思っている。
今日は終わってからとくにその点について気づいたことがあった。

私のもとへやってくる声優たちは、みんな、声優(あるいはナレーターやアナウンサー)から指導を受けている。
今日の人はほかにもボイストレーニングを受けているといっていたが、それも歌手から指導を受けている。
つまり、実演者から指導されている。

実演者が指導する場合、「自分はこうやったらうまくできた」ということを伝えようとするだろう。
私だったらそうする。
それは一種の成功体験だし、生徒にも成功体験をさせてやりたいと思うのが指導者の本能だ。
しかし、そのことが生徒を不幸にする場合もある。

たとえば昨日のケースでは、リップノイズの悩みを持っている生徒に、「こうすればリップノイズはなくなる」という自分の方法を伝えたとして、その方法が彼女にも適用できるかどうかはわからない。
なぜなら、人の身体(口のなかも含めて)の構造はひとりひとり違うものだし、言葉を作る方法も違っている。
だれかがうまくいった方法がそのまま別のだれかに適用できるとはかぎらない。

実演者が生徒たちを指導するとき、自分のやりかたを伝えようとするだろう。
しかし、私の場合、自分のやりかたというのは存在しない。
そのかわり、どうすればこの人はうまくいくだろうか、という何百人、あるいはおそらく千人を越える人たちとひとりひとり真剣に対峙してきた経験がある。
そのことが私の指導スキルを保証しているのではないか。
ということに、昨日、気づいた。

声優学校や養成所の先生も何千人という生徒を指導した経験があるかもしれないが、それは自分の経験を一方的に伝えた経験にすぎないのかもしれない(そうでない人ももちろんいるだろう)。
そういう指導者の指導をうのみにして、いつまでも芽が出ない人がいたとしたら、それは不幸なことだ。
まじめな人であればあるほど、指導者のいうことを忠実に守ろうとするだろうし、げんに昨日の人も発音時における舌の位置について絶対的な「正しい指針」があるのではないかと信じていて、そのとおりに自分もやればいい表現ができると思っていたようだ。

そんなものはない。
あるのはひとりひとり異なっている身体構造であり、身体の使い方であり、しゃべりかただ。
いかにそのクオリティをあげるかについては、ひとりひとり違っていて当然のことなのだ。
私がこれまでつちかってきた経験は、たぶんそのことについて若干のお手伝いができるということなのだろう。

2013年8月15日木曜日

この五年間で私の中身がすっかり入れ替わった件


いまやちょっとした古参になったゼミ生に、照井数男くんという男がいる。
本業は数学者なのだが、なんとなく朗読ゼミにずっと通いつづけている。
そしてときにはライブに出たりもする。
とくにフリージャズの人たちとライブをするとき、彼の朗読はなぜか、大変おもしろがってもらうことが多い。
たしかにおもしろい。
独特のリズムと、切れのいい反射反応と、オリジナリティがある。
しかし、彼も最初からおもしろかったわけではない。

四、五年前だったと思うが、最初にげろきょにやってきたとき、彼は一種の不審者じみて見えた。
姿勢がおかしかったし、話をしてもなにをいってるのかほとんど聴き取れなかった。
表情も曖昧で暗く、しかし大学で数学を研究しているというので、バカではないだろうとは思っていたが(失礼)。
その彼が、いまとなっては別人のようにはつらつとし、インパクトのある朗読者になったのは、もちろんげろきょのおかげだけではないと思うが、げろきょが彼の成長にすこしは役にたったのではないかと思っている。
というのも、私自身、この五年くらい、まさに照井くんと成長をともにしたという実感があるからだ。

その実感のなかには、この五年間に私の中身がそっくり入れ替わってしまった感じもある。
ものの考え方、感じ方、表現の方法、自分自身のありよう、これらが五年前とまったく入れ替わってしまった実感があるのだ。

自分の変化がいつから始まったのか、はっきりと時期を特定できる。
私は2000年に福井の田舎から東京に仕事場を移した。
そしてラジオやオーディオブック製作の仕事をするかたわら、声優やナレーターたちと関わり、そして仕事の必要上から朗読研究会を立ちあげた。
あまりに声優やナレーターの朗読がつまらなかったからだ。
つまり、表現として貧相すぎた。

研究会を立ちあげるとき、「朗読とはなにか」「表現とはなにか」「人が人になにかを伝えるとはどういうことなのか」ということを、かなり原理的にかんがえてみようとした。
そのときの手助けになったのが現代思想であり、とくに構造主義のかんがえかただった。
構造主義についてくわしいことは書かないが、これを学んだことでこれまで見えていた世の中の見え方がかなり変わった。
また、「主観」というもののとらえかたも変化した。
そのかんがえかたを用いて、朗読や表現の原理について自分なりに深くとらえ、かんがえるようになった。
その結果、現在の日本でおこなわれている「いわゆる朗読という行為」は表現ではない、という結論にいたった。
では、表現としての朗読とはなんだろう。

朗読は伝達ではない、声や言葉を伝えるだけではない、朗読表現とは朗読者の身体性や存在そのものが伝わるリッチな表現手段なのだ、というかんがえにいたる。
その過程で、表現者にとってもっとも重要な身体の扱いかたについて、アレクサンダー・テクニークという有用な方法に出会う(安納献くん、ありがとう)。
自分自身も頸椎に圧迫の問題をかかえていたのだが、自分でなおすことができた。
そのころに最初に書いた照井数男も来るようになったのだが、彼もまた姿勢の問題をアレクサンダー・テクニークで解決していった。

また共感的コミュニケーションのベースになっているNVCとも出会うこととなった(安納献くん、ふたたびありがとう)。

ここ10年あまりで、私のなかの「社会のとらえかた」「自分自身のとらえかた」「自分のありよう」「他者との関係性」「コミュニケーション」といったものが、以前のものとまったく変わってしまった。
おそらく私は10年前とはまったくちがう人間になってしまったといっていいのではないだろうか。
もちろん、私を私たらしめているこの「身体」は、まぎれもなく私のものではあるが、これもまた刻々と変化し、流動しつづけている。

これらの変化にとどめをさすようにやってきたのが、韓氏意拳という中国武術だ。
これは自分の身体のありようをおどろくほど精緻・精密にとらえ、本来の自分のありよう(自然)を追求する武術だ。
この精密さときたら、アレクサンダー・テクニークですら雑に思えるほどだ。
いくらか他の武術もかじってきたが、そのどれとも違う自然なものであり、本来的であり、本質的であり、またもちろん武術として最強でもある。

ここにいたって、身体、こころ、他者とのコミュニケーション、私を取り巻く世界とどのように関係性を結ぶか、明確な指針を手中にしたと確信できる。
あとはただまっすぐ、日々マインドフルに自分のことを力をつくしてなすのみ。

音読療法の夏期特別合宿が終わった

2013年8月12日(月)から14日(水)までの三日間、お盆休みを利用して合宿形式で行なわれた音読療法の夏期特別講座が昨日終わった。
場所は代々木のオリンピック青少年活動センター。
三日間、朝から夜まで音読療法漬けの時間だった。
疲れたけれど、参加のみなさんにはとても喜んでいただいてうれしかった。
みなさんの学びと成長のニーズに貢献できたうれしさと、私自身の学びやつながりのニーズも充実できた。

この合宿は、2級ボイスセラピストと1級ボイスセラピストの資格を集中的に取得してもらうというメインの目的のほかに、すでに資格取得している人の復習と知識・経験の更新(施設使用料以外は無償)、そして音読療法の重要なスキルである共感的コミュニケーションの補強という目的があった。
参加者が思ったよりずっと少なかったので予算的には厳しかったが、その分、ひとりひとりのニーズに応じた濃い内容になったと思う。
また、連日、夜はもよりの参宮橋駅近くの洋風居酒屋で飲んだり、13日の夜はお好み焼きを食べながら共感的コミュニケーションをみっちりやったりと、まあ楽しかったのだ。
来れなかった人たちが気の毒になるくらいだ。

あまりに充実して楽しかったので、予算が厳しかったにもかかわらず、またやろうということになり、私もそう決意している。
もうすこし参加者が多いと持続性を確保できるので、その点を次回はがんばろうと思う。

2013年8月14日水曜日

音読療法合宿、最終日

オリンピックセンターにて。
今日も暑くなりそうだが、初日ほどではないし、昨日よりもさらにすごしやすくなりそう。
湿度はあいかわらず高いけれど。

音読療法の夏期特別合宿も今日で最終日となった。
合宿というのは独特の雰囲気があって、一日中どっぷりと学びのニーズのなかに浸かっていられるので、身につきかたが違うような気がする。
昨日はとくに音読療法の重要な柱のひとつ「共感的コミュニケーション」の学びを深めたので、共感的な空気にずっとつつまれていた。

今日は1級ボイスセラピスト資格講座の後半ということで、音読エチュードと音読療法の内容確認、そしてファシリテーション技術としての共感的コミュニケーションの方法を深める予定。

これが終わったら、明後日は下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での怪談朗読ライブがある。
明日はその準備と、夜は音声表現スキルアップの個人セッションがひとりはいっている。

2013年8月13日火曜日

オリンピックセンターで音読療法の合宿

5時半、起床。晴。
今日も暑くなるらしい。予報では36度。
でも今日は快適なオリンピックセンターで一日、ボイスセラピスト講習。三日間の合宿の始まり。

昨日から代々木のオリンピックセンターに来て、ボイスセラピストの特別合宿講習会を開催している。
参加者は少ないのだが、広々とした部屋でじっくり学んでもらっている。
外は猛暑だが、エアコンのきいた室内は快適。

音読療法の呼吸法や発声・音読法、その仕組みの理解、そして共感的コミュニケーションをしっかり身につけてもらい、資格を取得してもらうのが目的。
そして昨日の夜は参宮橋駅近くの洋風居酒屋に行って、ビールとワインを飲みながら夕食。
かなり安い店だが、料理はしっかりしていておいしかった。
食べすぎたし、ちょっと飲みすぎた。

しかし懲りずに、昨日より増えた参加者といっしょに、今夜もその店に行く予定。

2013年8月11日日曜日

明日からボイスセラピスト合宿

今日も暑い。
お盆休みを利用して、地方在住の方や効率性を求める方のために2級と1級をまとめて取得できるボイスセラピスト合宿をやることにしたのだが、参加者僅少(笑)。
さすがにこの時期、羽根木の家では暑いだろうと予測して(まったくそのとおり)、わざわざオリンピックセンターの一室を借りてあるので、快適にお勉強できるはず。

明日は2級講座。
受けてみたいという人、いまからでも歓迎!
すでに2級資格を取得している人は施設使用料3,000円のみの負担で受けられる。

あさってからは二日間、1級講座だが、あさっての夜は参宮橋近辺のお店で共感的コミュニケーションの勉強会をするので、それだけ出たいという人も歓迎。
この場合は飲食代と参加費500円のみのご負担を。

合宿の詳細はこちら

猛暑のなかの朗読ゼミ、演出ゼミ、ネットライブ

今日も朝から30度超えの、日中は引き続き猛暑が予想されているが、昨日も厳しい暑さだった。
そんななか、羽根木の家でがんばって朗読ゼミを開催。

午後、羽根木の家に行く途中、すでに暑さでくらくら。
気温は36度とか37度とかいってるけど、環七が通っているアスファルトの路上はそれより3、4度は高いだろう。
私はどうも昔から体温調節が得意でない体質のようで、とくに寒さに弱い。
が、ここ五年くらい、50歳をすぎてからは暑さにも弱くなってきた。
ま、年齢上、無理もないことではある。

最初はなんにもやる気が起こらないほどへろへろだったが、ゼミが始まるとなんとかエンジンがかかってきた。
公演などがつづいたので、「普通の」朗読ゼミはひさしぶりの感じがした。
そんななか、最近獲得してきた「身体表現としての朗読」のクオリティをより高めるための術理を解説したり、実際に読んでもらったりと、酷暑にもかかわらず充実した内容になったと思う。
ひとりひとりの読みを丁寧に聴けたのもよかった。

昼ゼミ後は近所のカフェに避難して、食事&お茶しながらの演出ゼミ。
ここでも最近の現代朗読の術理について、さらに緻密に確認。

午後6時すぎに羽根木の家にもどり、げろきょネットライブの準備。
この時点でまだ気温は35度を切っていない。
猛暑のまま、午後7時からUstreamを使ったネットライブ。
出演は晩衛とKATのふたり。
てんちゃんがカメラワークを手伝ってくれた。
全員汗だくでのライブ。
短い時間だったが、いやいや、大変だった。
これほど大変なネットライブは始めてだ。

ライブの模様はUstreamでいちおう録画してあるのだが、前半が音声送出に失敗している。
ローカルのカメラ側でも録画してあったので、あらためてこちらをYouTubeなどにUPしようと思う。画像も音声もこちらのほうが良質だし。

終わってから晩さんが差し入れてくれたキノコマーボをいただきながら、ビールで打ち上げ。
きつい一日だった。
次回げろきょネットライブは9月14日あたりをかんがえている。

「ちょい瞑想」のススメ

今日はいつも私がやっている「ちょい瞑想」を紹介しよう。
瞑想というと、静かな場所と時間を選んで、気持ちを落ちつけてすわり、半跏座がどうの、法界定印がどうの、骨盤がどうのと、準備と方法に縛られるような気がするが、簡単にやる方法もある。

もちろん本格的な瞑想法の勉強はひととおりした。
なかでも仏陀がおこなっていたとされるヴィパッサナー瞑想はすぐれもので、集中力と精神衛生を養生するのにとても役にたつ。
しかし、毎日決まった時間に本格的な瞑想の時間を取れる人はそう多くないだろう。
私もそうだ。
そこで、「ちょい瞑想」のススメとなる。

ちょい瞑想では静かな場所は必要ない。場所を選ばないのがちょい瞑想のいいところだ。満員電車でぎゅうぎゅうに人と押し合いながら。騒がしいカフェの一角で。食事の用意にキッチンに立っているときに。
パソコン仕事の合間に。
いつでもどこでもできる。
必要な時間も数分、まず三分あればできるし、そのままつづけられるようなら十分以上やってもいい。

ではやりかた。
どんな場所でも、どんな状況でもいい、とにかく数分自分のことに集中できる時間が取れそうだったら即座にやってみる。
眼を閉じる必要はない。
眼からはいってくる視覚情報、耳からはいってくる聴覚情報、その他においや皮膚からの情報、それらをシャットアウト「しない」ことがコツだ。
これができるようになれば、いつでもどこでもちょい瞑想ができるようになる。

自分の身体を「情報の通り道」とイメージしてみよう。
なかが空っぽの円柱、たとえばトイレットペーパーの芯のようなものだとイメージしてみる。
そこへはさまざまな情報がやってくるが、そのまま通りぬけていく。
自分はただそれをながめているだけだ。
その情報を意味づけしたり、判断したりしない。

たとえば、大声でしゃべっている女性の声を「うるさい」という言葉でレッテル張りをしない。
ただ彼女たちの大きな声が自分の身体を通りぬけていくのを見るのみ。
「うるさい」という判断が起こると、それを反射的に「遮断」しようとする。
耳をふさいだり、耳をふさがなくても聞こえないふりを自分に強いたり、別のことに注意を向けて忘れようとしたり、そういった反射反応を私たちは身につけてしまっている。
その反射反応が起こらないように、ただ「見る」。

聴覚だけでなく、見えているものにもいちいち反応しない。
ただ見る。
暑いとか寒いとか、痛いとか、涼しいとか、そういうこともただ見るだけで、反応しない。
それができるようになったら、いつでもどこでもちょい瞑想ができるようになる。

自分の外側からやってくるすべての情報をスルーする覚悟ができたら、さてちょい瞑想にはいる。
瞑想というとリラックスしてやる、というイメージがあるかもしれないが、ちょい瞑想ではリラックスではなく、逆にちょっと覚悟をして気構えを作ってからおこなう。
さあ瞑想するぞ、というこころと身体の構えをつくるのだ。

外部情報をスルーする準備ができたら、今度は視点を自分の内側に積極的に向けていく。
とくに見るのは呼吸だ。
空気が鼻の穴から鼻腔のなかへ、そして気道を通って肺をふくらませ、胸郭全体がふくらみ、横隔膜が下がることによって腹部もゆるやかにふくらむようすを、できるだけ微細に見る。

逆に、ふくらんだ胸がしぼんで空気が肺から気道へ押しだされ、暖まり湿度が加わった空気が鼻腔から鼻の穴を通って外へと流れ出ていくようすを、可能なかぎり繊細に見る。
そこに判断や意味づけはせずに、ただ見る。

瞑想の目的は大脳皮質、とくに前頭葉の言語思考を手放すことによって、身体と連動した超並列スーパーコンピューター以上の性能を持つ人の脳のポテンシャルを引きだすことだ。

言語思考は脳と身体のポテンシャルを疎外している。
前頭葉の言語思考、論理思考、イメージングなどは他の動物とは異なった人の特性であり、そのことが人を他の動物にたいする優位性を保証していると私たちは考えがちだが、逆にそのことによって本来そなわっている生き物としての身体処理能力や感受性をいちじるしくそこなっている。
私たちはかんがえる動物である以前に、優秀なポテンシャルを持った感受性と身体性を持った生き物であり、それを全発揮するためにはいったん言語思考に引っこんでいてもらう必要があるのだ。

日常的に自分のポテンシャルを最高にたもつために、瞑想による言語思考の遮断と、感受性と身体性をつかさどる脳の部位の活性化が必要になる。
時々これによって自分自身をリセットすることで、高性能なパフォーマンスを維持し、またこころと身体の健全さを養生することができる。

じっくりと瞑想する時間が取れないときは、自分の呼吸に注意を向け、ただそれを見る、感じる、という「ちょい瞑想」を試みるといい。
最初はさまざまな想念、雑念がわいて出て、瞑想を邪魔しようとするだろうが、そのたびに呼吸に注意を向け、ただそれを見る、呼吸を感じることに集中する。
ほんの数分これがうまくできたら、寝不足のときにほんの数分仮眠するだけで身体がすっきりするように、頭のなかもびっくりするくらいすっきりすることを実感できるだろう。

ちょい瞑想を試してみたい、私といっしょにやってみたい、という人は、まずは現代朗読協会の体験講座に参加したり、ゼミの見学に来てみてほしい。

2013年8月10日土曜日

リップノイズ対策と表現スキルアップの個人セッション

昨日の午前中は音声表現スキルアップの個人セッション。
声優の養成所に通っている若い女性だったが、これから声優で食べていくために自分の「売り」を打ちだし、あまたいる声優たちと差別化をはかり、なおかつ弱点をカバーしながらスキルアップをはかりたい、という切実なニーズをもって、2時間みっちり個人セッションをした。

まずおこなったのは、いま通っている養成所でどのようなトレーニングをしているのかのチェック。
養成所のトレーニングをチェックするのは、ときに問題のあるトレーニングを生徒に課していたり、またそのトレーニング法をうのみにして自分の成長をそこなってしまっている人があまりに多いことによる。
また、養成所のトレーニングは、ひとりひとりの表現者に丁寧に対応したものではなく、十把一絡げにした最大公約数的な大雑把なトレーニング法がまかり通っていることが多いからだ。

実際にやってもらいながら、チェック。
彼女のところでも問題のある、あるいは意味のない体育会的なトレーニング法がいくつかあった。
それらがなぜ問題があるか、なぜ無意味なのか、運動医学的な説明をくわえながら、効果的なトレーニング法について伝授する。
聞けば幼少のころに(個人情報なので種目は伏せるが)深層筋をしっかりさせるのに効果的な運動をずっとやっていたとのことで、声の仕事をつづけていくための資質は充分にあるようだった。
この点は好材料。

つづいてリップノイズ。
高性能のレコーダーで収録しながら、細かくチェック。
解決法がすぐにわかるノイズはいいのだが、原因不明のノイズがいくつか出ていた。
野々宮も同様のノイズを出していて、彼女にも加わってもらって原因究明。
なんとか原因を特定し、その対応策も見つけることができたが、今回はなかなかの難問であった。

そして表現力の向上について。
これについては私は一貫して自分の身体性にたいする意識を向上させること、その感受性の解像度をあげていくこと、という主張をしている。
そのためのトレーニング法や日常生活のなかでできることを伝える。
ようするに、自分の生活時間のすべてが表現のためにあり、また自分の全身の組織を総動員して音声表現を支える、ということだ。
これを試みるだけで、彼女が用意してきたサンプルボイスのためのナレーション原稿やキャラクターボイスの表現について、たちまちイキイキとしたオリジナリティが立ちあがってくる。

声優やナレーターの世界は競争が激しく、技術的にうまい人はゴロゴロいるし、できてあたりまえ。
そこから頭ひとつ、ふたつ抜きんでてきてはじめて、仕事が取れる世界だ。
どうやって人より抜きんでていけるのか、そこは真剣勝負となる。
私はそのための方法のいくつかを伝えることができるが、あとは彼女の心がまえと努力しだいであることはいうまでもない。

音声表現スキルアップ個人セッションの詳細と申し込みはこちら

2013年8月8日木曜日

北陸・東京移動、サラヴァ東京打ち合わせ、韓氏意拳

昨日は北陸の実家から東京戻り。
実家の畑で採れた青ナスは巨大だが、焼きナスやグラタンにすると最高においしい。
写真のこれ、放っておくとまだまだ大きくなりそうだが、トウが立つとまずくなるので、適当なところで収穫する。

猛烈な暑気(湿気)のなか、移動。
小松空港から羽田空港へ。
日本上空、地域によって雲の形やようすが刻々と変わるので、おもしろい。
子どものようにずっと窓にへばりついていた。

東京に着き、酷暑のなか、渋谷の〈サラヴァ東京〉へライブの打ち合わせに。
すでに野々宮が到着していて、打ち合わせの真っ最中。
10月15日に酒井俊さんと3人でやるライブで、先日の下北沢〈レディ・ジェーン〉の拡大版のような感じ。
昨日のライブの方がリハーサル中だったが、すでに100人近い予約があるそうで、その集客力はうらやましいかぎり。
私たちもおもしろいと思うがなあ。
たくさん来てくれるといいなあ。

夜、中野で韓氏意拳の稽古に出ることにしたが、少し時間があったので、渋谷の〈タリーズ〉でコーヒー。
50円玉が一個必要だったので(中野の会場費)、コーヒーのお釣りでもらおうと思ったら、店員はかたくなに、
「うちは両替はしないんです」
とかたくななマニュアル対応。
むかっとした。
お釣りに50円玉2個を混ぜてくれればいいだけじゃないか。
それをマニュアルどおりにかたくなな対応するというのは、思考停止、ロボット化、懲罰を恐れての非人間的な対応。
そしてこんなささいなことまでマニュアル化するというのは、店側が従業員を信頼していない証拠。
情けない〈タリーズ〉、マックなんかよりいくらかましだと思っていたけどなあ。
そういえば〈スタバ〉は明大前にかぎっていえば、ここよりかなり人間的な感じがする。

中野に移動し、韓氏意拳の稽古。
内実の体認に集中すること、身体の声を聞くこと、そのことに集中すること。
昨日は参加者が少なかったのだが、初めて形体訓練、平歩站椿から基礎試力へと進んだ。
さらに中級の方がいたので、これらが実戦的な技撃へとどうつながっていくのか、基礎訓練がいかに重要なのかについて見せてもらい、その一端を知ることができた。
それにしても毎回2時間半、みっちり集中して、最後は足がつりそうになる。
終わると身体は疲れているが、自分の生命力がイキイキと立ちあがっているのを感じる。
昨夜はとくにそうだった。

2013年8月7日水曜日

もうすぐ夏期集中合宿(ボイスセラピスト)

臨床心理士たちや医師から熱いお墨付きをいただき、会員(ボイスセラピスト)にもお医者さんが所属している音読療法だが、短期集中のリトリート(合宿)型資格取得講座を3日にわたって開催する。
開催まであと5日となった。
まだまだ参加者を受け付けている。

臨床心理士やお医者さんからは、次のような点でお墨付きをいただいている。

・うつなどのこころの病の予防や症状の軽減
 ⇒ 実際に薬を飲まなくてよくなった人が何人もいる。
・日々の健康法として
 ⇒ 免疫力があがり、風邪などの病気予防の効果がある。
  ガン抑制などにも効くんじゃないかと個人的にはかんがえている。
・家族や友人など身近な人や、職場でのコミュニケーションの改善
 ⇒ 認知行動療法ともいえる共感的コミュニケーションは人生をイキイキとしたものにする。
・介護予防として
 ⇒ だれもが寝たきりの老後をすごしたくはない。音読療法は介護予防の強力な助っ人である。

ボイスセラピストはこれらのスキルをしっかりと身につけ、なおかつ身近な人にも伝授したり指導したりできるようになる。
1級を取得した場合、グループセッションをおこなったりそれを職業にすることも可能。

このリトリートは、地方在住の方や、近隣の人で効率性が必要な方にとくにおすすめ。
3日間の詳細なスケジュールと内容、場所、費用などの詳細はこちら

私たちはいかに自分をないがしろにしているのか

ごく最近まで私も人のことをいえないような状態だったが、私たちは自分自身のことをどれほどないがしろにして毎日をすごしているのか、ちょっと振り返ってみたい。

私たちがもっともないがしろにしているのは、自分の感情とニーズだ。
毎日、生活していると、さまざまなことが起こり、そのつどさまざまな感情に包まれる。
食事を終えて洗いものをしているだけなのにいらいらしたり、仕事に行こうとして気がふさいでしまったり、朝眼がさめた瞬間、なぜか不安におそわれたり。
しかし、そういった感情を私たちはともすれば「なかったこと」にして、つぎへ行こうとする。
いちいちそんなことに引っかかっていたら時間がいくらあっても足りない、と思っているからだ。

効率を優先し、他人と競いあうことをしいられてきた教育や社会制度のおかげで、このようなふるまいの「癖」を身につけてしまったのだ。
効率を優先しようというふるまいが、自分の感情を無視し、ニーズをほったらかしにする、つまり自分をないがしろにしている。
そのことによって私たちはとても自分自身のことに鈍感になっている。
自分の無意識や身体からやってくるサインを無視しつづけ、頭でかんがえてばかりいる。

さまざまなことに意味づけしたり、レッテルをはって分類したり、人やものごとを非難したり、計算したり、たくらんだり、推測したり、思い出にふけったり、夢想したり、あれこれ心配したり、そういったことばかりしている。
「自分」というものが大脳皮質という狭いところに閉じこめられて、愚鈍になっている。
これを身体全体、そして身体と世界の境界のところまで引っぱりだしてやりたい。

なにかの感情が生まれたとき、私たちの身体は変化している。
呼吸が変わり、筋肉が収縮したり弛緩したりして姿勢が変わり、皮膚感覚が変化する。
怒りをおぼえたとき、身体はどうなっているだろうか。
悲しいとき、身体はどんな状態だろうか。
その身体を日々きちんと感じとり、丁寧にあつかうことが、自分をきちんとあつかうことだ。

身体に意識がむけられているとき、私は自分の状態とニーズをはっきりと感じることができる。
いまこの瞬間、自分がなにを感じ、どのように感情が動き、なにを必要としているのか、身体が教えてくれる。
そのために、呼吸を観察したり、声を発して「いまここ」の自分を感じながら表現してみる。
この基本スキルが身についていると、共感的コミュニケーションによって自分自身や人とのつながりを作ることが容易になる。

自分自身を丁寧にあつかい、こころと身体を最高の状態にたもっているとき、はじめて人に貢献したり、自分のニーズを満たしたり、社会変革に力を発揮したりできる。
原発事故、自然災害、高齢化、エネルギー危機、食糧安全、医療、教育、政情、グローバリズム、人種差別、ネット社会、さまざまな不安要因が押しよせてきているいま、自分自身を最高の状態に維持し向上させていくセルフスキルがもっとも必要なのではないか、と私はかんがえている。

音読療法をまとめて学べる3日間の夏期集中合宿を、来週月曜日からオリンピックセンターで開催します。
興味のある方はこちらをどうぞ。

2013年8月6日火曜日

2013年後半に向かって加速していく

北陸の実家に帰省中。
羽田空港は夏休みのため、親子連れを中心にブタ混み。
平日にもかかわらず、下北沢から羽田への移動も早朝からブタ混み。
田舎モンにはツラい。

すでにすぎた新盆も、もうすぐ来る旧盆も行けないので、今日は親父の墓参りに行ってきた。
市街地中心部の空洞化がさらに進んでいて驚く。
いちおう「市」ということになっているが、人口は2万5千人を割っている。
2万人を割るのも時間の問題だろう。
このまま自然に還っていくのも悪くはないか。

サザエの壷焼きと手打ち蕎麦を食べる。
いやいや、うまいうまい。
明日にはもう東京にもどるのだが、夜に中野で韓氏意拳の教練講習会があるというので、飛びこみで行くことにした。
行けるときに行っとこうという魂胆。
というのも、東京にもどるとお盆からけっこうハードなスケジュールが動きはじめるからだ。

まず、今週末の10日(土)に、げろきょネットライブがある。
詳細はこちら
12日から14日まで代々木のオリンピックセンターで音読療法の夏期集中合宿講座がある。
詳細はこちら
16日(金)夜は下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉でおこなわれる怪談オープンマイクに、げろきょとしてゲスト出演。
20日(火)夜は三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で共感的コミュニケーションのワークショップとミニライブ。
詳細はこちら
24日は扇田拓也くんとの合同ワークショップ「物語と自我(演劇と朗読のワークショップ)」を下北沢のカトリック教会で開催。
詳細はこちら
29日(木)は毎月恒例のママカフェと共感的コミュニケーションの勉強会。
そのあとも恒例の朗読体験講座、2級ボイスセラピスト講座、オーディオブックリーダー養成講座とつづき、9月16日(月・祝)は京都法然院での琵琶と朗読のライブ。
9月22日(日)は「梅丘THE生エンタ」というイベントにげろきょが出演。
9月23日(月・祝)は明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で「沈黙の朗読」の2本立て。
28日(土)はフットセラピストの徳久珠央さんとの共同企画「玉響のとき」。

ざっとまあこんな感じ。
実はそのあとも、福井県立病院での秋のピアノコンサート、酒井俊さんとの「ののみずしゅんライブ」、中野スウィート・レインでの「ののみずライブ」、カルメン・マキさんの公演の演出とつづいている。
朗読音楽ユニット〈トウキョウ・ウェルバ・アクトゥス〉というのも立ちあげたいと思っている。
よくばりすぎかなあ。
日々マインドフルに楽しんでいきたい。

きゅうりの梅炒め

畑で採れたきゅうりをたくさんもらったので、作ってみた。
ボリュームがあって、おかずの一品としても充分いける。

【材料】一人分
きゅうり……2本
梅干……1個
サラダ油、水、酒、塩、片栗粉

きゅうりは皮を半分そいでおく。
あれば綿棒、なければ瓶の底などできゅうりをたたいて、ちょっと複雑骨折させてさせておく。
これは味をしみこませやすくするため。
それをさらに食べやすい大きさに乱切りにする。

合わせ調味料を用意する。
梅干は肉をはずし、それを包丁で荒くたたいておく。
水(大さじ2)、酒(大さじ1)、塩(ひとつまみ)、片栗粉(ひとつまみ)、たたいた梅肉を器にいれて、よく混ぜておく。

フライプンに油をしき、強火で加熱、そこへきゅうりをいれて、強火のまま炒める。
ざっくり火が通ったら(完全に火を通す必要はない)、合わせ調味料を回しいれる。
とろみが出たら火をとめて、完成。

決められない人、決めたくない人

レストランなどに行ってメニューを前に、なかなか注文を決められない人がいる。
それは人生を左右するようなことではないが、もっと重要な決断の場面で悩んでしまう人もいる。
たとえば、仕事をやめようか、つづけようか、という決断で悩んでしまう。
結婚しようか、あるいはやめようか、離婚しようかこのままでいようか、そんな決断の前で立ちつくしてしまう。

そういう人がそんな場面でしばしばもらす言葉がある。
「ねえ、どっちがいいと思う?」
自分で決めかねているとき、人に判断をゆだねようとする。
人に決めてもらったほうが楽だからだ。
人に決めてもらうほかにも、いろいろなことで決めようとする。

たとえば、経済的なことや外見的なこと。
結婚の場合、相手の年収がいくらか、学歴はどうか、身長は何センチか、どんなスポーツが得意なのか。
そのような自分の外側にある基準を適用して、判断をくだそうとする。
そんな人に私はききたい。
「あなたはどうしたいの?」

仕事の契約更新の期日が迫ってきて、契約を更新するかどうか迷っている人がいる。
いまの職場はなんとなく肌に合わなくてつらい。
ここであと何年か勤めるのかと思うとうんざりした気分になる。
かといって、やめてしまうのも不安だ。
またあらたに職を探さなければならないし、あたらしい職場がいまより快適かどうかはわからない。
さて、どうしよう。
あたし、どうすればいい? といって人に相談してみる。
「あなたはどうしたいの?」

しかし人はなかなか自分が本当はどうしたいのか、自分ではわからないものだ。
なぜわからないかというと、人間特有の大脳皮質という部分がおこなっている言語思考、論理思考、記憶、感情といったものが邪魔をして、判断をにぶらせているからだ。
「判断」というと論理的思考によって合理的に結論をくだす、という印象があるが、実はちがう。
人がおこなう思考は、社会的な抑圧、教育、損得勘定、からまった人間関係などによってこんがらかり、まるでこわれたコンピューターのようだ。
一方、無意識部分でおこなっている思考やイメージ展開(これは自分では見えない)、そして身体と連動した超高性能並列処理コンピューターを、すべての人は持っている。
この部分に判断を任せられたら、なんの問題もない。
いわゆる「勘が働く」というのはこの状態のことをいう。

判断に迷ったら、まずは「なにも考えない」こと。
無意識と身体にまかせ、自分がどちらに行きたがっているのか、ただ受け取ってみる。
これはけっこう難しい。
自分の無意識と身体の声に耳を傾ける訓練を、まずほとんどの人はやったことがないからだ。
微細な情報と声を聞き取るセンサーが鈍りきっている。
しかし、それが働いたとき、人はなんのためらいもなく正しい判断に導かれる。

自分の無意識と身体の声に耳を傾けるための技法のひとつに、音読療法による呼吸法とマインドフルネス、そして共感的コミュニケーションがある。
この技法を身につければ、人生がどんどん楽しくなり、永遠に生きつづけたくなるだろう。

この音読療法を集中的に学べる3日間の合宿が、来週オリンピックセンターで開催される。
詳細はこちら

2013年8月5日月曜日

カウンセリングとしての個人セッション

私がやっているいろいろな講座について、グループセッションをなんらかの理由で受けられない人を対象に個人セッションをおこなっているが、それらはカウンセリング(あるいはコーチング)という側面もあるようだ。

音声表現スキルアップのための個人セッションは、ナレーターやアナウンサー、朗読者、あるいはそれをめざしている人たちが、技術的なことや表現のことで行き詰まっていたり、さらなる飛躍を望んでいたり、といった場合に私がお手伝いする。
オーディオブックリーダー養成講座も個人セッションをおこなっている。こちらはオーディオブック収録をめざす人のためのセッションで、表層的技術のみならず深層的技術の向上のお手伝いもする。
ほかに共感的コミュニケーションや音読療法を用いた個人セッションもおこなう。
これはこころの病の予防であったり、対人関係に悩んでいたりする人がそれを解決するためのお手伝いであったりする。

遠方の方のためにスカイプでも個人セッションを受け付けている。
個人セッションの申し込みはアイ文庫のサイトからどうぞ。

昨日もひとり、若い女性だが、仕事の契約の更新で悩んでいるという方と60分の個人セッションをおこなった。
共感的コミュニケーションを使って彼女自身のニーズにつながっていくお手伝いをするのだが、いささか混乱していてなかなか自分の深いニーズに届くことができない。
自分でものごとを決められない、という人のなかには、自分で決めたくない、という心理が働いている場合がある。
つまり、自分の外側(他人であるとか社会的な規定であるとか、損得勘定であるとか)にある基準でものごとを決めたほうが楽だ、という心理がある。
依存的な心理なのだが、そのことは彼女は自分自身でも自覚しているようだった。
また、彼女の悩みのもうひとつは、なにをしても楽しめない、自分がどんなことをして生きていけばいいのかわからない、というものだった。

私はこちらからなにかをアドバイスすることはないので、自分自身に気づき、自分自身のニーズにつながれるようになるまで長い時間とプロセスが必要なこともある。
これには辛抱強い共感的コミュニケーションのプロセスが役に立つし、また音読療法で呼吸と身体を意識することでマインドフルネスをこころがける方法が有効だ。
いずれにしても、継続してやってもらうことが望ましい。

私が講師をつとめる音読療法(共感的コミュニケーションを含む)の夏休み集中(合宿)講座がもうすぐ開催される。
ストレスフルな現代社会をイキイキと乗りきっていくスキルを身につけるまたとない機会なので、興味がある方はご参加ください。
詳細はこちら

2013年8月4日日曜日

ボイスセラピストの必要性、これからますます

音読療法(ボイスセラピー)にはまず私自身が大変助けられている。
これがなければ、私はいまだに満たされない思いで苦しい人生をあがいていたかもしれない。

音読療法のもっともよいところは、なにも道具がいらない、いつでもどこでも簡単にできる、ということだ。
たとえば、なにかいやなことがあって、もやもやとした気分だとする。
歩いていてもそのことを思いだして、まわりのものがなにも眼にはいらない。
まさに心ここにあらずという、マインドレスの状態だ。
これを放っておくと、どんどん反芻思考にとりこまれていき、ストレスは増大するばかり、自分自身のパフォーマンスはさがり、うっかり大きな事故にもつながりかねない。

自分がそんな状態におちいりかけているのに気づいたら、まずはすぐに音読療法の呼吸法を思いだす。
非常に簡単な呼吸法で、子どもやお年寄りでもできる。
歩きながらでもできる。
意識して呼吸法をおこない、まず「いまここ」の自分自身へともどってくる。
自分が安全であり、いやなことの原因がいまは眼の前にはなく、いまこの瞬間の自分のありように気づいていく(マインドフルの状態)。
「いまここ」にもどってこれたら、つぎは自分に共感を向ける。
つまり、自分がなぜいやな気分になってしまったのか、自分が大切にしているのは何なのかに眼を向け、つながっていく。

この一連のプロセスはだれでも身につけることができる。
これを身につけられたら、毎日、イキイキとすごせる。
生きていればいろいろなことが起こるものだ。
楽しいことばかりではない、つらいこと、腹がたつこと、悲しいこと、次々と起こるのが人生だ。
そういうことから逃げるのではなく、そのようなことに対処できるこころと身体のスキルを身につければいいのだ。
そのもっとも簡単で効果的な方法のひとつが音読療法だ。

音読療法をまなび、ボイスセラピスト資格を取得すれば、その方法を使って自分自身のみならず身近な人をも楽にしてあげることもできる。
また健康法や病気予防にもすぐれている。
とくに最近多いこころの病を予防するには、これほど効果的な方法はないと私はかんがえている。

1級以上の資格を取得すれば、身近な人だけではなく、知らない人やグループ相手にセッションすることもできる。
そしてそれを自分の自立した仕事とすることも可能だろう。

いまの世にさまざまな「セラピー」と称するものが存在するが、音読療法ほど手軽なものはあまりない。
自分自身の声と呼吸を使うだけだ。
その簡便な方法はたやすく人へと伝えることもできる。
音読療法がもっと広まってくれれば、いま苦しんでいる多くの人が楽になるのに、と思わない日はない。
げんに音読療法を身につけた人たちがイキイキと楽しんでいるのを、私は毎日のように見ている。
残念なことになんらかの理由で音読療法をうまく身につけられなかったり、学習が途中で終わってしまったような人が、いまだに苦しい思いをしているのも見ている。

もうすぐお盆だが、この休みを利用して、音読療法を効率よく学べる機会を用意した。
2級ボイスセラピスト資格と1級ボイスセラピスト資格を、2泊3日の合宿で一気に取得できる。
8月12日(月)から14日(水)までの三日間、場所はオリンピックセンター。
2級のみ参加も可能だし、すでに2級を取っている人は1級のみの参加も可能だ。
また、合宿中の夜間は、共感的コミュニケーションを別枠でじっくりと学べる機会も作ってある。
近くの方は通いでもいいし、宿泊するもよし。
地方の方はこの機会に上京していただき、合宿で資格取得してもらいたい。
詳細はこちら

2013年8月3日土曜日

座・高円寺でてがみ座の「空のハモニカ」を観てきた

てがみ座公演「空のハモニカ」を〈座・高円寺〉で観てきた。
なかなかいい小屋ではないか。
こういうところで現代朗読公演をやってみたいものだ。
が、いまの我々に200人とか300人という集客はむずかしい。

「空のハモニカ」は実は前回の公演のときに観ている。
前回は下北沢の〈劇・小劇場〉だった。

てがみ座という劇団はよく存知あげないが、「空のハモニカ」は主演に石村みかが出ている。
彼女は「特殊相対性の女」の初演時に出演してくれた女優で、東京では下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉、名古屋では愛知県芸術劇場で野々宮卯妙と共演してくれた。
「空のハモニカ」では金子みすず役として出ている。
そして演出は扇田拓也。

彼は学生時代から〈ヒンドゥー五千回〉というふざけた名前の劇団をやっていて、その劇も実にふざけた、しかし実験的なものだ。
そこで扇田くんは脚本をてがけ、出演もしている。
ほかの劇団からも呼ばれる役者でもあるし、テレビCM(最近ではキリンの一番絞り)にも出る俳優でもあるが、演出家としてもさえている。
「空のハモニカ」では非常に緻密で繊細な演出で辛抱強く舞台を作りあげ、それがそのまま観客に伝わってくるようだった。
お客さんの多くが石村みか演じる金子みすずに感情移入し、涙を誘われていた。

役者陣もなかなか表現力が豊かで、とくに戦前の着物を着た日本人の身体性をたくみに身につけていた。
石村みかもすごくて、脊椎の曲げのばしで、しかもほんの1センチとか2センチといった微妙な身体運用で、みすずの感情表現をおこなっていたのにはおどろかされた。
これだけの繊細な身体運用ができる役者を、私は数えるほどしか知らない。


その扇田くんと三週間後に演劇と朗読についての合同ワークショップをやることになっている。
タイトルは「物語と自我」。
もちろん私と扇田くんの演出の方法はまったくちがう。
正反対といってもいい。
それゆえにこそ、そこにいまの演劇と朗読の問題点と可能性があぶりだされてくるのではないかとかんがえている。

扇田くんは緻密かつ繊細に、注意深く舞台を詰めていく人。
一方私は多くを偶然性にまかせ、即興的に舞台を開いていく者。
それぞれの方法を体験できる刺激的なワークショップになるだろう。
詳細はこちら

そして「空のハモニカ」はまだ今日と明日の二日間の公演を残している。
お時間がある方はぜひ高円寺まで足をお運びいただくことをおすすめする。
「空のハモニカ」の詳細はこちら

2013年8月2日金曜日

「朗読音楽」による板倉さん応援ライブ、濃密な時間だった

昨日は中野〈スウィート・レイン〉で、入院されている板倉克行さんを応援するための朗読音楽のライブだった。
参加者はアルトサックスとフルートの森順治さん、テナーサックスとバリトンサックスの近藤直司さん、ベースの日野了介さん、ドラムスが今竹一友さんと藤巻鉄郎さん、朗読が野々宮卯妙、そしてげろきょ仲間の照井数男、てんトコロ、山田みぞれ、藤森ケイも朗読で参加という豪華メンバー。

20時から始まった第一部は、朗読からスタートするつもりでなにげなく演奏がスタートしたのだが、いきなり興が乗ってしまって、私、今竹さん、日野くん、森さん、近藤さんの5人で一気に突っ走ってしまった。
記録映像を見たけれど、これははいりこめる余地はない(笑)。
そのあと、仕切り直しして、野々宮に朗読ではいってもらう。
この朗読がまたハードなアジテーションとなって、おもしろかった。
近く、記録映像の抜粋をあげようかな。

スタートダッシュがすばらしかったので、そのあと朗読と音楽が入り乱れて疾走する濃密なライブとなった。
一部、二部、そして三部までやって、終わったら23時すぎ。

昨日はとにかく、みなさんから「おもしろかった」という感想を連発してもらい、店の勅使河原さんからも「おもしろかったのでまたやろうよ」といってもらえたのが、私もうれしかった。
また、音楽陣からは「この朗読の人たち、すごいねー」といってもらえたのも、わかっていたことではあるけれど(笑)、うれしかった。

もともと、板倉克行さんにおもしろがってもらって、ちょくちょく音楽ライブに引っぱりこんでいただいたのが始まりだ。
これまでも時々やらせてもらっていた今竹さんもずっとおもしろがってくれていたけれど、昨日はとくにみなさんに確信的におもしろがってもらえて、げろきょとげろきょメンバーも日々成長しているんだなあと思えた。

ライブは終わったが、じつはここからなにかが始まりそうな予感がしている。
現代朗読は朗読の人たちに見てもらっても反応は薄いのだが、音楽をはじめとするほかの表現ジャンルの人たちに見てもらったとき、くっきりと濃い反応がある。
それはこれまでにも経験してきたことだ。
現代朗読はもはや朗読という狭いくくりにははいりきらない。
「朗読音楽」でいいんじゃないか。
昨日のようなメンバーでユニット化してライブをやっていくのもおもしろくないか?

などといろいろなことをかんがえながら、昨夜は眠りについたのである。
そして今朝は私のなかで具体的なものごとの感触が生まれて、始まろうとしているのを感じている。