2009年10月3日土曜日

水城演出の特徴

(Photo by Funky Yoshi)

 いまやだれも知らないと思うけれど、インターネットが普及する以前、まだ「パソコン通信」といっていた時代、私は「小説工房」というネットコミュニティを主宰していた。
 いまもある、富士通系のプロバイダ「NIFTY」がまだ「NIFTY-Serve」と称していたころで、NEC系の「PC-VAN」なんてのもあった。私がNIFTY-Serveに参加したのは、1986年のことだったと記憶している。まだ会員が数千人しかいなかった。
「小説工房」は文字通り、小説を書くのが好きな人たちの集まりで、そこにはブロもいたし、プロをめざしている人もたくさんいた。私はそこで小説コンテストを開催し、コメントをつけ、おもしろい書き手が現れると徹底的にフォローしたりした。
 いまから考えると、それは「執筆演出」とでもいうべきものだったかもしれない。
 実際、小説工房から出た作家、ライターは数えきれないくらいいたし、一種のムーブメントのようになっていたそのコミュニティはかなり注目され、当時の通産省のなんとかいう賞をいただいたりもした。『小説工房』というタイトルの書籍も出版された。

 その後、私は商業出版の世界から距離を置き、いまはコンテンポラリーアートとしての朗読の研究と実践をおこなっているが、そのときの経験はとても役に立っている。
 というより、私という人間の特質はなんだろう、ということを考えた場合、自分自身でもはっきりわかっていることがひとつある。
 それは、
「自分以外のだれかのすばらしいところを見抜き、それをさらに輝かせるためにはどうすればいいのかを考えるのが得意」
 ということである。
 小説工房のときには、それはもの書きという「個人」に向けられていた。いま現在も、それは「朗読者」という個人にも向けられているが、「朗読者たち」という集合体にも向けられている。
 朗読者は基本的に「単体としての表現者」なのだが、集合体としての表現もおこなうことができる。先月(まだ一ヶ月ほどしか前だったことに我ながら驚くが)、名古屋でおこなったウェルバ・アクトゥス公演「Kenji」がそうだし、つい先日おこなった朗読ライブもそうだ。ずっとやってきたロードクセッションもそうだ。
 そのとき、私はなにを行なっているのか。
 私は人を観察するのが得意なようだ。だれかを見つめ、徹底的に観察し、その人が持っているポテンシャルを引きだす方法をあれこれと考える。その人が個人として、あるいはその人たちが集合体としてなにができるかを考える。考えるだけではなく、実際にやってみる。予期しなかったようなわくわくすることが起きることもある。
 私はそのとき、けっしてあらかじめ特定の完成イメージを決めることはしない。みなさんのひとりひとりのポテンシャルを引き出し、ぶつけたときに、なにが起こるかなんてだれにも予想できない。ただ私はそこに見たこともないなにかが起こるのを目撃する者として、わくわくしながら待ち構えるのみなのだ。
 そのとき私の意識は、一個人を離れ、全体の一部、いや全体そのものとして、ある。