アイ文庫のツイッターで「オーディオブックの真実」というドキュメントを連載しました(ハッシュタグは「#ABdoc」)。それをBLOGのほうでもまとめて読めるようにしました。
朗読本/オーディオブックの制作会社であるアイ文庫が、どのような経緯でスタートしたのか。そしていまのようなハイクオリティのオーディオブックを作るようになったのか。また、日本のオーディオブック業界の特殊事情を、制作現場からの生の声です。
Vol.18 2010年5月19日配信分
Vol.17 2010年5月18日配信分
Vol.16 2010年5月17日配信分
Vol.15 2010年5月16日配信分
Vol.14 2010年5月15日配信分
Vol.13 2010年5月14日配信分
Vol.12 2010年5月13日配信分
Vol.11 2010年5月12日配信分
Vol.10 2010年5月11日配信分
Vol.9 2010年5月10日配信分
Vol.8 2010年5月9日配信分
Vol.7 2010年5月8日配信分
Vol.6 2010年5月7日配信分
Vol.5 2010年5月6日配信分
Vol.4 2010年5月5日配信分
Vol.3 2010年5月4日配信分
Vol.2 2010年5月3日配信分
Vol.1 2010年5月1,2日配信分
水城ゆうブログ
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2010年5月30日日曜日
オーディオブックの真実 Vol.18(終)
アップル社の iTunes Music Store が日本に上陸し、本格的にオーディオブックマーケットの展開が始まって5年が経った。その間、iPodなどのメモリプレーヤーが爆発的に普及し、携帯電話の機能もさまざまに増えた。ユーザーの選択肢は圧倒的に増えた。
ケータイ市場も着うたを中心に音楽が、コミックを中心に電子ブックが、急速に売り上げを伸ばしてきた。一方、オーディオブックは、と見ると、確かにコンテンツの数は増えた。が、マーケット規模は実際に予測されたほどには成長していない。ベンチャーは苦戦を強いられている。
最初に述べたように、クオリティの高いオーディオブックの制作にはかなりの制作費がかかる。が、いまだにその制作費を回収できるほどの売り上げは確保するのが難しいし、朗読者も安価なギャラやわずかなロイヤリティでハードワークを強いられている。
魅力あるコンテンツも多くはない。とくに新刊書籍がすぐにオーディオブックになるケースはまだまだ少ない。実用書ではそのようなケースが増えてきたが、文芸書では皆無といっていい。文芸ものはいまだに著作権フリーのものを中心に展開しているのが事実だ。
著作権処理をして音声化される文芸ものもあるにはある。ことのは出版が出している筒井康隆や浅田次郎、川端康成などがそうだが、著作権処理にも先行して資金が必要になる。それだけの資金を回収するのが現状ではまだまだ難しいといえる。
その間にも、iPhoneが出てスマートフォンが普及しはじめ、またKindleやiPadなどの電子ブックが読める(オーディオブックも聴ける)端末が人気を呼んでいる。環境は充分にととのってきているといえるが、マーケットが育っていないのはコンテンツのせいだろう。
コンテンツ不足、コンテンツの魅力不足。オーディオブックというコンテンツは、はじめに述べたように、大きく分けてふたつの側面がある。ひとつは情報性を重視する実用書や講演録、語学レッスンなど。もうひとつは文学的味わいや朗読そのものを楽しむための文芸もの。
両方ともしっかりなければマーケットとしての魅力に欠けるのはいうまでもない。が、現時点では実用書や語学ものが圧倒的に作られ、買われている。オーディオブックは活字書籍と同様、文化的側面が大きいし、大事だと私は考えている。
よい内容のオーディオブックを、子どもも学生も若者も、通勤中の人も主婦もお年寄りも、なにかを「獲得する」ためでなく、豊かなマインドのために楽しむ。実用書や学習ものももちろん大事だが、即座になにかの役に立つわけではないものを楽しむ生活。
書籍や音楽、映画がそうであるように、オーディオブックもそのような楽しみ方をされればいいと思う。そのためには、やはりまだまだ文芸ものが足りないし、その表現クオリティに気を配ったものも少ない。アイ文庫はこのような考えで制作をつづけている。
最後に、オーディオブックの読み手の育成についての、アイ文庫の取り組みを紹介しておく。これはことのは出版にも全面的に協力してもらっているのだが、不定期に「次世代オーディオブック・リーダー育成講座」というものを開催している。
オーディオブックがたんなる「活字本を読みあげただけ」のものではない、すぐれた音声表現作品になるよう、優秀な読み手を育成することを目的としている。興味のある方はこちらをご覧いただきたい。
(おわり)
※この項はTwitterで連載したものです 。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
ケータイ市場も着うたを中心に音楽が、コミックを中心に電子ブックが、急速に売り上げを伸ばしてきた。一方、オーディオブックは、と見ると、確かにコンテンツの数は増えた。が、マーケット規模は実際に予測されたほどには成長していない。ベンチャーは苦戦を強いられている。
最初に述べたように、クオリティの高いオーディオブックの制作にはかなりの制作費がかかる。が、いまだにその制作費を回収できるほどの売り上げは確保するのが難しいし、朗読者も安価なギャラやわずかなロイヤリティでハードワークを強いられている。
魅力あるコンテンツも多くはない。とくに新刊書籍がすぐにオーディオブックになるケースはまだまだ少ない。実用書ではそのようなケースが増えてきたが、文芸書では皆無といっていい。文芸ものはいまだに著作権フリーのものを中心に展開しているのが事実だ。
著作権処理をして音声化される文芸ものもあるにはある。ことのは出版が出している筒井康隆や浅田次郎、川端康成などがそうだが、著作権処理にも先行して資金が必要になる。それだけの資金を回収するのが現状ではまだまだ難しいといえる。
その間にも、iPhoneが出てスマートフォンが普及しはじめ、またKindleやiPadなどの電子ブックが読める(オーディオブックも聴ける)端末が人気を呼んでいる。環境は充分にととのってきているといえるが、マーケットが育っていないのはコンテンツのせいだろう。
コンテンツ不足、コンテンツの魅力不足。オーディオブックというコンテンツは、はじめに述べたように、大きく分けてふたつの側面がある。ひとつは情報性を重視する実用書や講演録、語学レッスンなど。もうひとつは文学的味わいや朗読そのものを楽しむための文芸もの。
両方ともしっかりなければマーケットとしての魅力に欠けるのはいうまでもない。が、現時点では実用書や語学ものが圧倒的に作られ、買われている。オーディオブックは活字書籍と同様、文化的側面が大きいし、大事だと私は考えている。
よい内容のオーディオブックを、子どもも学生も若者も、通勤中の人も主婦もお年寄りも、なにかを「獲得する」ためでなく、豊かなマインドのために楽しむ。実用書や学習ものももちろん大事だが、即座になにかの役に立つわけではないものを楽しむ生活。
書籍や音楽、映画がそうであるように、オーディオブックもそのような楽しみ方をされればいいと思う。そのためには、やはりまだまだ文芸ものが足りないし、その表現クオリティに気を配ったものも少ない。アイ文庫はこのような考えで制作をつづけている。
最後に、オーディオブックの読み手の育成についての、アイ文庫の取り組みを紹介しておく。これはことのは出版にも全面的に協力してもらっているのだが、不定期に「次世代オーディオブック・リーダー育成講座」というものを開催している。
オーディオブックがたんなる「活字本を読みあげただけ」のものではない、すぐれた音声表現作品になるよう、優秀な読み手を育成することを目的としている。興味のある方はこちらをご覧いただきたい。
(おわり)
※この項はTwitterで連載したものです 。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月28日金曜日
オーディオブックの真実 Vol.17
このように、音声コンテンツとしての朗読の収録や、表現としての朗読の研究をつづけていくうちに、かなりオリジナリティのあるノウハウが蓄積されてきていることに、みんなが気づきはじめた。朗読表現についてのノウハウである。私たちはどの団体にも所属していなかった。
アイ文庫という会社も、私自身も、ナレーターや声優や朗読者の団体や系列、事務所などとは一切無縁であり、ノウハウはすべて独学で積み上げ、また実践によって検証してきたものだ。この方法は非常に回りくどくて時間はかかるが、大きな利点もある。
ノウハウをどこからもだれからも受け継いでいないので、既成の思いこみとか慣習的手法から一切離れている。業界内ではあたりまえで標準的だとされている方法が、実際にはとてもおかしなことをやっている、というようなことが、私からはよく見通すことができた。
このオリジナルな方法が意味のない無駄なトレーニングを排し、朗読の上達を早めるのに大変有効であることがわかってきた。また、そもそも「朗読とはなにか」、さまざまある表現ジャンルのなかでどのような位置づけにあるのか、といった原理的なことも考えるようになった。
私は朗読の表現行為の可能性をさぐるために、現代表現(コンテンポラリーアート)の勉強を始めるとともに、オーディオブックという商業コンテンツのみを目的としない、より大きな「朗読表現」のためのグループを、朗読ゼミの延長線上に作れないかと考えはじめた。
こうやって生まれたのが「NPO法人現代朗読協会」である。この話は本稿とは別に、あらためて現代朗読協会のtwitter(@roudokuorg)のほうで書くことにする。その前に、P社へのオーディオブック提供とP社を通じてiTMSでのダウンロード販売が始まった。
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などの、長短編を交えての文芸作品や、私の長編小説などオリジナル作品が次々とiTMSのトップ100にランクインし、さらに上位に顔を出すようになった。とくに人気を博したのが、私の著書『ジャズの聴き方』だった。
これは長らくランキング上位にとどまり、いま確認してみたところ150位くらいにまだ顔を出している。オーディオブックという特徴を生かし、音楽入りになっているところが作るにあたって苦心した。このようなオリジナル作品がたくさん出てくれば活況を呈することだろう。
アイ文庫では、また、「詩曲集」というものを得意としている。これは詩と音楽のセッションで、詩の世界と朗読表現、そして音楽が一体となって音声作品を作っている。これらがiTMSの初期にランクインしていたが、やがて「ことのは出版」が現れた。
ことのは出版は、当時唯一のオーディオブック専門の制作配信会社で、自社でも企画制作するし、また他社作品を預かっていろいろなダウンロードサイトに配信をする。ダウンロードサイトもiTMS以外に、mora、Listen Japan、OnGenなどたくさんできてきた。
これらのサイトといちいち個別に契約し、個別に配信作業をおこなっていくのは、膨大な手間がかかる。ことのは出版のような会社の出現はアイ文庫にとって大変ありがたいものだった。自社コンテンツを預けて配信してもらうほか、依頼を受けての制作も行なうようになった。
このようにことのは出版とタッグを組んでのオーディオブックの企画、制作、販売体勢がスタートし、それは現在まで続いている。これがアイ文庫の進んできた概略である。最後にオーディオブックについて、現状を踏まえたうえで概略を押さえておきたい。
※この項はTwitterで連載したものです ⇒ http://twitter.com/iBunko
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
アイ文庫という会社も、私自身も、ナレーターや声優や朗読者の団体や系列、事務所などとは一切無縁であり、ノウハウはすべて独学で積み上げ、また実践によって検証してきたものだ。この方法は非常に回りくどくて時間はかかるが、大きな利点もある。
ノウハウをどこからもだれからも受け継いでいないので、既成の思いこみとか慣習的手法から一切離れている。業界内ではあたりまえで標準的だとされている方法が、実際にはとてもおかしなことをやっている、というようなことが、私からはよく見通すことができた。
このオリジナルな方法が意味のない無駄なトレーニングを排し、朗読の上達を早めるのに大変有効であることがわかってきた。また、そもそも「朗読とはなにか」、さまざまある表現ジャンルのなかでどのような位置づけにあるのか、といった原理的なことも考えるようになった。
私は朗読の表現行為の可能性をさぐるために、現代表現(コンテンポラリーアート)の勉強を始めるとともに、オーディオブックという商業コンテンツのみを目的としない、より大きな「朗読表現」のためのグループを、朗読ゼミの延長線上に作れないかと考えはじめた。
こうやって生まれたのが「NPO法人現代朗読協会」である。この話は本稿とは別に、あらためて現代朗読協会のtwitter(@roudokuorg)のほうで書くことにする。その前に、P社へのオーディオブック提供とP社を通じてiTMSでのダウンロード販売が始まった。
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などの、長短編を交えての文芸作品や、私の長編小説などオリジナル作品が次々とiTMSのトップ100にランクインし、さらに上位に顔を出すようになった。とくに人気を博したのが、私の著書『ジャズの聴き方』だった。
これは長らくランキング上位にとどまり、いま確認してみたところ150位くらいにまだ顔を出している。オーディオブックという特徴を生かし、音楽入りになっているところが作るにあたって苦心した。このようなオリジナル作品がたくさん出てくれば活況を呈することだろう。
アイ文庫では、また、「詩曲集」というものを得意としている。これは詩と音楽のセッションで、詩の世界と朗読表現、そして音楽が一体となって音声作品を作っている。これらがiTMSの初期にランクインしていたが、やがて「ことのは出版」が現れた。
ことのは出版は、当時唯一のオーディオブック専門の制作配信会社で、自社でも企画制作するし、また他社作品を預かっていろいろなダウンロードサイトに配信をする。ダウンロードサイトもiTMS以外に、mora、Listen Japan、OnGenなどたくさんできてきた。
これらのサイトといちいち個別に契約し、個別に配信作業をおこなっていくのは、膨大な手間がかかる。ことのは出版のような会社の出現はアイ文庫にとって大変ありがたいものだった。自社コンテンツを預けて配信してもらうほか、依頼を受けての制作も行なうようになった。
このようにことのは出版とタッグを組んでのオーディオブックの企画、制作、販売体勢がスタートし、それは現在まで続いている。これがアイ文庫の進んできた概略である。最後にオーディオブックについて、現状を踏まえたうえで概略を押さえておきたい。
※この項はTwitterで連載したものです ⇒ http://twitter.com/iBunko
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月27日木曜日
デリヘイ&水城ユニット、次は名古屋611〈あうん〉

すでにメーテレ八事ハウジング野外ステージでのライブについてはお知らせしましたが、その二日前に下北沢の構成をベースにした、ちょっと大人の雰囲気のライブを名古屋〈あうん〉でおこないます。
6月11日(金)19:00に「あうん」でお目にかかりましょう。
◎メニューが2コースあります。
ゆっくりお食事を楽しみたい方は、19:00〜 お食事+フリードリンク付きのコース。
残業の方は、20:15〜 フリードリンク付きのコース
演奏時間は、70分くらいを予定しています。
◎ご予約はお早めに: delehei.01@gmail.com でも承ります。
オーディオブックの真実 Vol.16
アイ文庫オリジナル作品もあった。たとえば私がケータイ小説サイト「どこでも読書」で連載したSFサスペンス小説『浸透記憶』を音声化したもの。これは活字化されるより先に音声化されたのが(自分では)画期的だと思う。朗読は坂野亜沙美で、当時弱冠21歳だった。
『浸透記憶』収録のためのオーディションをおこない、そこで選ばれた声優の卵だが、この小説のムードに非常に合う雰囲気の読みができる人で、長尺の収録にもよく持ちこたえていい作品を残してくれた。iTunes Store などでぜひサンプルを聴いてみてほしい。
『浸透記憶』がオーディオブックに先立って連載されていた「どこでも読書」というケータイ小説サイトだが、私はここでいくつか長編小説を発表している。最初に発表したのが『BODY』という小説だったが、これは画期的な試みがなされた。ただし音声化はされていない。
『BODY』が連載されたとき、「どこでも読書」はAUのEZ-webでも配信をスタートさせた。配信ファイルの特徴として、テキストだけでなく音声も同梱して配信できた。そこで、小説を読みながら音楽も聴けるようにと「小説音楽」も付けることにしたのだ。
映画音楽ならぬ「小説音楽」である。『BODY』という小説に合ったテーマ曲(歌入り)や、章ごとの小説音楽を、配信の区切りごとにつけて出した。なかなか斬新な試みだと思ったのだが、実際にはあまり注目されなかったのは残念だ。しかし、いまでも読むことができる。
AUケータイを持っている人は、ぜひダウンロードして読んで(聴いて)みてほしい。このような「小説音楽」付きの配信という形態は『浸透記憶』でもおこなわれた。その結果、いくつかの曲が生まれた。その曲とテキストを使って、音楽と朗読のライブをやったりもした。
恵比寿の〈天窓スイッチ〉というライブハウスで「浸透記憶ライブ」がおこなわれた。音楽と朗読のライブなので、歌手陣が4人、朗読陣が4人、そして全員が女性という、とても華やかなライブだった。小説/朗読コンテンがそんなポテンシャルを持っていることを確信できた。
ネットライブというものもスタートした。livedoorのラジオ担当者と知り合いになり、アイ文庫のライブのために専用チャンネルを一本用意してもらうことになった。毎週、決まった曜日の夜、朗読研究会(その頃にはゼミと呼んでいた)のメンバーに集まってもらった。
ネットライブではそれぞれが読む作品を決め、あらかじめ「ゼミ」で研究しあったり、演出を受けておいたものを持ちよる。いまでは珍しくはないネット放送で、ただし音声だけのラジオだった。当時はもちろんUStreamのようなサービスはまだなかった。
曜日と時間を決めておいて、その時間になるとリアルタイムでネット放送をスタート。私はピアノを担当し、朗読の合間や、ときには朗読と共演して、内容を盛りあげる役。司会進行も私がおこなった。その様子はオンエアされるだけでなく、同時に録音もしておいた。
それらの録音からおもしろいものを切りだして、「アイ文庫オーディオブック・ライブ」として何作品かダウンロード配信されている。たとえば、野々宮卯妙が読んだ有島武郎「一房の葡萄」や夢野久作「縊死体」、窪田涼子が読んだ芥川龍之介「桃太郎」など。
一発勝負の朗読ライブではあるけれど、実力のある朗読者が読んだものはそのままオーディオブックにできるだけのクオリティがある。また、スタジオできちんと収録したものとは違ったライブ感/ドライブ感があって、音声作品としても聴き応えのあるものになっている。
このネットライブは朗読者にとっても大変な勉強とトレーニングになったのではないかと思われる。アイ文庫の朗読ゼミに参加している者はどんどん実力をつけ、ほとんど無名にも関わらず有名声優やアナウンサーの朗読にひけを取らないものがとれるようになっていった。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
『浸透記憶』収録のためのオーディションをおこない、そこで選ばれた声優の卵だが、この小説のムードに非常に合う雰囲気の読みができる人で、長尺の収録にもよく持ちこたえていい作品を残してくれた。iTunes Store などでぜひサンプルを聴いてみてほしい。
『浸透記憶』がオーディオブックに先立って連載されていた「どこでも読書」というケータイ小説サイトだが、私はここでいくつか長編小説を発表している。最初に発表したのが『BODY』という小説だったが、これは画期的な試みがなされた。ただし音声化はされていない。
『BODY』が連載されたとき、「どこでも読書」はAUのEZ-webでも配信をスタートさせた。配信ファイルの特徴として、テキストだけでなく音声も同梱して配信できた。そこで、小説を読みながら音楽も聴けるようにと「小説音楽」も付けることにしたのだ。
映画音楽ならぬ「小説音楽」である。『BODY』という小説に合ったテーマ曲(歌入り)や、章ごとの小説音楽を、配信の区切りごとにつけて出した。なかなか斬新な試みだと思ったのだが、実際にはあまり注目されなかったのは残念だ。しかし、いまでも読むことができる。
AUケータイを持っている人は、ぜひダウンロードして読んで(聴いて)みてほしい。このような「小説音楽」付きの配信という形態は『浸透記憶』でもおこなわれた。その結果、いくつかの曲が生まれた。その曲とテキストを使って、音楽と朗読のライブをやったりもした。
恵比寿の〈天窓スイッチ〉というライブハウスで「浸透記憶ライブ」がおこなわれた。音楽と朗読のライブなので、歌手陣が4人、朗読陣が4人、そして全員が女性という、とても華やかなライブだった。小説/朗読コンテンがそんなポテンシャルを持っていることを確信できた。
ネットライブというものもスタートした。livedoorのラジオ担当者と知り合いになり、アイ文庫のライブのために専用チャンネルを一本用意してもらうことになった。毎週、決まった曜日の夜、朗読研究会(その頃にはゼミと呼んでいた)のメンバーに集まってもらった。
ネットライブではそれぞれが読む作品を決め、あらかじめ「ゼミ」で研究しあったり、演出を受けておいたものを持ちよる。いまでは珍しくはないネット放送で、ただし音声だけのラジオだった。当時はもちろんUStreamのようなサービスはまだなかった。
曜日と時間を決めておいて、その時間になるとリアルタイムでネット放送をスタート。私はピアノを担当し、朗読の合間や、ときには朗読と共演して、内容を盛りあげる役。司会進行も私がおこなった。その様子はオンエアされるだけでなく、同時に録音もしておいた。
それらの録音からおもしろいものを切りだして、「アイ文庫オーディオブック・ライブ」として何作品かダウンロード配信されている。たとえば、野々宮卯妙が読んだ有島武郎「一房の葡萄」や夢野久作「縊死体」、窪田涼子が読んだ芥川龍之介「桃太郎」など。
一発勝負の朗読ライブではあるけれど、実力のある朗読者が読んだものはそのままオーディオブックにできるだけのクオリティがある。また、スタジオできちんと収録したものとは違ったライブ感/ドライブ感があって、音声作品としても聴き応えのあるものになっている。
このネットライブは朗読者にとっても大変な勉強とトレーニングになったのではないかと思われる。アイ文庫の朗読ゼミに参加している者はどんどん実力をつけ、ほとんど無名にも関わらず有名声優やアナウンサーの朗読にひけを取らないものがとれるようになっていった。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月26日水曜日
次は名古屋でデリヘイとのライブふたつ
日曜日に行なった下北沢〈Com. Cafe 音倉〉でのデリヘイとのライブの模様を、おいでいただいた人形作家のPonneさんがブログに書いてくれています。
こちら。
次のデリヘイとのライブは、6月11日夜に名古屋〈あうん〉にて。
さらに6月13日にも、名古屋メーテレ八事ハウジングセンター野外ステージで午後2時からあります。こちらは無料。
お近くの方はおいでください。
こちら。
次のデリヘイとのライブは、6月11日夜に名古屋〈あうん〉にて。
さらに6月13日にも、名古屋メーテレ八事ハウジングセンター野外ステージで午後2時からあります。こちらは無料。
お近くの方はおいでください。
オーディオブックの真実 Vol.15
そもそもどのくらい売れるかまったくわからない、あるいは売れたとしてもたいした数ではないことがわかっているオーディオブックの場合、アイ文庫を除いてはたいていの制作会社がギャランティー方式を採用しているようだ。一本あたりいくら、という決まった額で読んでもらう。
アイ文庫ではあまりそういう方式は取っていない。第一の要因としては、先行して多額の制作費を確保できるような資金力がない、ということがある。まだ売れてもいない(作ってもいない)コンテンツのギャランティーを朗読者に支払うほどの財力はない、というのが正直なところだ。
もうひとつは、アイ文庫では会社側と朗読者が「恊働してひとつの音声作品を作りたい」という気持ちが強いことがある。完成したオーディオブックはたしかに「商業コンテンツ」ではあるが、小説や絵画などと同様、音声表現作品であると考えている。
「作品」は制作会社のものである以上に、朗読者のものでもあり、またリスナーのものでもある。そういう考えで、朗読者の権利を「買い取る」ということはなるべくやりたくないと思っている。そこで、どのようにするかというと、ロイヤリティ=印税方式を採用している。
M社はクオリティの高さと権利関係の問題から、アイ文庫の朗読コンテンツを開発中の医療機器に使ってくれることになった。M社だけでなく、このような問い合わせがこのころからぽつぽつと入ってくるようになった。たいていが予算が合わず、商談は流れてしまったが。
そして残念なことに、M社の医療機器開発の計画も、その後さまざまな事情で流れてしまった。アイ文庫の朗読コンテンツが乗った医療機器が世に出回ることはなかったが、それからしばらくして、今度はやはりあるIT機器メーカー(P社としておく)からコンタクトがあった。
P社はハードウェアや、それに付属するソフトウェアを開発している中堅のメーカーだったが、オーディオブックも自社コンテンツとして扱おうとしていた。その際、さまざまなコンテンツ制作会社をあたった結果、M社と同様の事情でアイ文庫にコンタクトしてきたわけだ。
P社は朗読コンテンツそのものをダウンロード販売したい、という意向を持っていた。自社サイトでも販売展開するが、別のダウンロードサイトでも自社製品として売りたい、といってきた。その他社サイトに、ちょうど上陸したばかりの iTunes Store が入っていた。
上陸当初は「iTunes Music Store(iTMS)」といっていたが、Apple社のミュージックストアとしてすでに欧米では大きなシェアを占め、成功を収めていた。だから日本にも鳴り物入りで上陸して感があった。ここにコンテンツを出すにはどうしたらいいか。
ミュージックストアで「オーディオブック」というジャンルがあるのは、iTMSだけだった。そしてこのジャンルは、オーディブル・インクというアメリカの会社がアップルと組んでコンテンツ提供と管理をしているらしい。ここに朗読コンテンツを出すにはどうしたらいい?
P社はここにパイプを持っていたのだ。P社はアップル製品、つまりMacにもハードやソフトを提供していて、太いパイプがあった。iTMSの日本上陸についても情報を持っており、オーディブル・インクの日本支社とも付き合いができていたのだ。
かくしてアイ文庫が作ったオーディオブックはiTMS上陸のかなり早い時期にコンテンツとしてならぶことになった。当初は本当に品揃えがおそまつで(いまでも立派とはまだまだいえないが。なにしろ村上春樹も大江健三郎もないのだから)、アイ文庫のものはかなり目立っていた。
オープン当初は語学と落語程度、ほかにはNHK番組の二次利用のコンテンツくらいしかなかったところへ、夏目漱石の長編だの、芥川龍之介の主要作品だの、太宰治だの、古典作品がいくつか、といった文芸作品が次々とならびはじめたのだ。いきなりランキング上位に次々と入った。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
アイ文庫ではあまりそういう方式は取っていない。第一の要因としては、先行して多額の制作費を確保できるような資金力がない、ということがある。まだ売れてもいない(作ってもいない)コンテンツのギャランティーを朗読者に支払うほどの財力はない、というのが正直なところだ。
もうひとつは、アイ文庫では会社側と朗読者が「恊働してひとつの音声作品を作りたい」という気持ちが強いことがある。完成したオーディオブックはたしかに「商業コンテンツ」ではあるが、小説や絵画などと同様、音声表現作品であると考えている。
「作品」は制作会社のものである以上に、朗読者のものでもあり、またリスナーのものでもある。そういう考えで、朗読者の権利を「買い取る」ということはなるべくやりたくないと思っている。そこで、どのようにするかというと、ロイヤリティ=印税方式を採用している。
M社はクオリティの高さと権利関係の問題から、アイ文庫の朗読コンテンツを開発中の医療機器に使ってくれることになった。M社だけでなく、このような問い合わせがこのころからぽつぽつと入ってくるようになった。たいていが予算が合わず、商談は流れてしまったが。
そして残念なことに、M社の医療機器開発の計画も、その後さまざまな事情で流れてしまった。アイ文庫の朗読コンテンツが乗った医療機器が世に出回ることはなかったが、それからしばらくして、今度はやはりあるIT機器メーカー(P社としておく)からコンタクトがあった。
P社はハードウェアや、それに付属するソフトウェアを開発している中堅のメーカーだったが、オーディオブックも自社コンテンツとして扱おうとしていた。その際、さまざまなコンテンツ制作会社をあたった結果、M社と同様の事情でアイ文庫にコンタクトしてきたわけだ。
P社は朗読コンテンツそのものをダウンロード販売したい、という意向を持っていた。自社サイトでも販売展開するが、別のダウンロードサイトでも自社製品として売りたい、といってきた。その他社サイトに、ちょうど上陸したばかりの iTunes Store が入っていた。
上陸当初は「iTunes Music Store(iTMS)」といっていたが、Apple社のミュージックストアとしてすでに欧米では大きなシェアを占め、成功を収めていた。だから日本にも鳴り物入りで上陸して感があった。ここにコンテンツを出すにはどうしたらいいか。
ミュージックストアで「オーディオブック」というジャンルがあるのは、iTMSだけだった。そしてこのジャンルは、オーディブル・インクというアメリカの会社がアップルと組んでコンテンツ提供と管理をしているらしい。ここに朗読コンテンツを出すにはどうしたらいい?
P社はここにパイプを持っていたのだ。P社はアップル製品、つまりMacにもハードやソフトを提供していて、太いパイプがあった。iTMSの日本上陸についても情報を持っており、オーディブル・インクの日本支社とも付き合いができていたのだ。
かくしてアイ文庫が作ったオーディオブックはiTMS上陸のかなり早い時期にコンテンツとしてならぶことになった。当初は本当に品揃えがおそまつで(いまでも立派とはまだまだいえないが。なにしろ村上春樹も大江健三郎もないのだから)、アイ文庫のものはかなり目立っていた。
オープン当初は語学と落語程度、ほかにはNHK番組の二次利用のコンテンツくらいしかなかったところへ、夏目漱石の長編だの、芥川龍之介の主要作品だの、太宰治だの、古典作品がいくつか、といった文芸作品が次々とならびはじめたのだ。いきなりランキング上位に次々と入った。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月25日火曜日
オーディオブックの真実 Vol.14
話をずっとさかのぼって元にもどす。iTunes Store 上陸以前まで。iTunes が現われるまでオーディオブックを扱う場所がなかったわけではない。アイ文庫はもともとテキスト配信からスタートした会社であり、テキストコンテンツもたくさん持っていた。
いまでいう電子ブックだが、パピレスという電子書店が業界を先行していた。当初は売り上げも伸びず、大変苦労していたようだ。いまはどうか知らないが、6、7年前は電子ブックといっても、グラビア写真集などのアダルト向け商品が主力だった。
テキストも官能小説が一番の売れ筋で、アダルトビデオなどの動画作品もそこに加わっていった。動画がオーケーなら音声もオーケーだろうと、オーディオブックもパピレスで売ってもらうことになった。PC向けのダウンロードサイトで、iPodはまだ発売されていなかった。
パビレスでオーディオブックを売りはじめたのだが、ほとんどまったくといっていいくらい売れなかった。同時に、オンデマンドでCD-Rの販売も自社サイトでおこなったが、こちらもビジネスとはいえない程度の売り上げしかなかった。月に数枚がやっとだった。
そんな折、ある電気メーカーからコンタクトがあり、アイ文庫のコンテンツに興味があるという。なんでもその会社では、医療用のある機器を開発していて、そこに朗読コンテンツを入れたいのだという。いろいろな条件やクオリティの点でアイ文庫が条件に適合したらしい。
そのM社はアイ文庫の朗読作品をある程度まとめて買ってくれることになった。買うといっても、データであるから、その使用権を支払ってもらうということになる。契約書を結び、何年間かにわたってアイ文庫の朗読作品を自由にその医療機器に使っていい、ということになる。
買ってもらうといっても、作品そのものは手元にそのまま残っているし、引き続きネットやオンデマンドで売ってもいいのだ(ほとんど売れないけれど)。大変ありがたい話だった。こういうとき「原盤権」も売ってしまうやり方と、「原盤権」は保持する方法がある。
原盤権も売ってしまった場合、アイ文庫にはもうその作品を売る権利は亡くなる。ネットで売っているオーディオブックの売り上げも、その会社のものになる。アイ文庫は原盤権は売らない契約をした。ここで簡単に「原盤権」という言葉について説明しておかなければならない。
「原盤権」の「原盤」とは、音楽がレコード盤で売られていた時代の名残の言葉である。レコードの作り方。昔々の話。スタジオでミュージシャンに演奏させ、その音をアルミ盤のような柔らかい金属に針で傷をつけて「録音」していた。螺旋状の溝を音で振動させながら掘るわけだ。
掘られた溝に、逆に針を落として盤を回転させれば、音が再生されるという仕組みで、これはエジソンが発明した。その元の柔らかい盤を、そのままでは傷みやすいのでなんらかの加工をして丈夫にしたものが「原盤」と呼ばれるもの。その盤を元にしてレコード盤を複製するのだ。
この「原盤」こそが、音楽制作社の権利の元だった。原盤を元にコピーを作って売ることが、レコードを売るという商売だった。原盤をコピーする権利のことを「コピーライト(copyright)」という。「マルC」マークである。いまはデジタルデータなので原盤は存在しない。
しかし「原盤」という考え方はいまだに残っている。音楽(音声)コンテンツにはまず、原盤権が設定される。売価の何パーセント、というような形だ。次に著作権(作曲著作権/作詞著作権)、その他必要に応じて各種の権利が設定される。プレイヤー印税などもそうだ。
プレイヤー/演奏者(朗読者)に印税を設定するか、あるいは1回限りのギャランティーを渡しておしまいにするかは、契約による。印税の場合、作品があまり売れなければ朗読者は微々たる報酬しか手にいれることができないが、逆にたくさん売れればそれに応じてたくさん入る。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
いまでいう電子ブックだが、パピレスという電子書店が業界を先行していた。当初は売り上げも伸びず、大変苦労していたようだ。いまはどうか知らないが、6、7年前は電子ブックといっても、グラビア写真集などのアダルト向け商品が主力だった。
テキストも官能小説が一番の売れ筋で、アダルトビデオなどの動画作品もそこに加わっていった。動画がオーケーなら音声もオーケーだろうと、オーディオブックもパピレスで売ってもらうことになった。PC向けのダウンロードサイトで、iPodはまだ発売されていなかった。
パビレスでオーディオブックを売りはじめたのだが、ほとんどまったくといっていいくらい売れなかった。同時に、オンデマンドでCD-Rの販売も自社サイトでおこなったが、こちらもビジネスとはいえない程度の売り上げしかなかった。月に数枚がやっとだった。
そんな折、ある電気メーカーからコンタクトがあり、アイ文庫のコンテンツに興味があるという。なんでもその会社では、医療用のある機器を開発していて、そこに朗読コンテンツを入れたいのだという。いろいろな条件やクオリティの点でアイ文庫が条件に適合したらしい。
そのM社はアイ文庫の朗読作品をある程度まとめて買ってくれることになった。買うといっても、データであるから、その使用権を支払ってもらうということになる。契約書を結び、何年間かにわたってアイ文庫の朗読作品を自由にその医療機器に使っていい、ということになる。
買ってもらうといっても、作品そのものは手元にそのまま残っているし、引き続きネットやオンデマンドで売ってもいいのだ(ほとんど売れないけれど)。大変ありがたい話だった。こういうとき「原盤権」も売ってしまうやり方と、「原盤権」は保持する方法がある。
原盤権も売ってしまった場合、アイ文庫にはもうその作品を売る権利は亡くなる。ネットで売っているオーディオブックの売り上げも、その会社のものになる。アイ文庫は原盤権は売らない契約をした。ここで簡単に「原盤権」という言葉について説明しておかなければならない。
「原盤権」の「原盤」とは、音楽がレコード盤で売られていた時代の名残の言葉である。レコードの作り方。昔々の話。スタジオでミュージシャンに演奏させ、その音をアルミ盤のような柔らかい金属に針で傷をつけて「録音」していた。螺旋状の溝を音で振動させながら掘るわけだ。
掘られた溝に、逆に針を落として盤を回転させれば、音が再生されるという仕組みで、これはエジソンが発明した。その元の柔らかい盤を、そのままでは傷みやすいのでなんらかの加工をして丈夫にしたものが「原盤」と呼ばれるもの。その盤を元にしてレコード盤を複製するのだ。
この「原盤」こそが、音楽制作社の権利の元だった。原盤を元にコピーを作って売ることが、レコードを売るという商売だった。原盤をコピーする権利のことを「コピーライト(copyright)」という。「マルC」マークである。いまはデジタルデータなので原盤は存在しない。
しかし「原盤」という考え方はいまだに残っている。音楽(音声)コンテンツにはまず、原盤権が設定される。売価の何パーセント、というような形だ。次に著作権(作曲著作権/作詞著作権)、その他必要に応じて各種の権利が設定される。プレイヤー印税などもそうだ。
プレイヤー/演奏者(朗読者)に印税を設定するか、あるいは1回限りのギャランティーを渡しておしまいにするかは、契約による。印税の場合、作品があまり売れなければ朗読者は微々たる報酬しか手にいれることができないが、逆にたくさん売れればそれに応じてたくさん入る。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月24日月曜日
名古屋メーテレ八事ハウジング「デリヘイ馬頭琴ライブ」のお知らせ
下北沢〈音倉〉デリヘイライブレポート

朝から雨。強くはないが、しとしとと降りつづけていて、あがりそうにない。
荷物があるので、電車で羽根木に向かう。新代田の駅で降りて、外へ出ようとしたら、デリヘイとばったり会った。昨夜は大宮のほうにいるモンゴル人の友だちのところに泊まったという。
一緒に羽根木の家へ。
すでに位里、野々宮、糟谷、裕貴が準備作業中。当日パンフやらアンケート用紙やら、物販CDの準備やら。私も機材準備をするが、昨夜、ほとんどすませておいたので、楽。
11時にマルさんが車で来てくれる。今回も手伝ってもらって大助かり。機材と楽器を積み込み、私とデリヘイが乗りこんで、ライブ会場の下北沢〈Com. Cafe 音倉〉に向かう。といっても、歩いて10分の距離だから、あっという間についた。
11時半、会場入り。すでに〈音倉〉のスタッフの方が来ている。ふなっちも手伝いで来てくれている。
楽器と機材を搬入。すぐにステージでセッティングを始める。私は今回、midiキーボード兼用のシンセと、音源とシーケンサーとしてのMacBook、それとiPhoneを使う。それらをミニミキサーに束ねてPAに出す。
セッティングは30分ほどで終わり、12時からPA調整を兼ねたリハーサル。ほぼ全曲、さらうことができた。
照明のセッティング。これは糟谷くんにやってもらうことに。
マルさんは記録用ビデオのセッティング。2台。
朗読陣ほかは1時半ごろに会場入り。裕貴ちゃんがおにぎりを作って持ってきてくれた。腹ごしらえにいただく。

げろきょのみんなが続々と来てくれる。ありがたい。豊津さん、つきみちゃん、小梅さん、麻紀ちゃん、唐さん、槐さん、前野さん、ほかにも何人か。仕事で付き合いのある方も何人か。位里ちゃんが呼んだ広告関係の人たちも多い。
満席となり、3時定刻に昼の部スタート。
今回のセットリスト。
1. 草原
2. Earth Beat
3. Ancient Winds
4. ネリンホハ
5. 「感」のブルース
6. ゆりかごの歌
7. 祈る人/ここへとつづく道
8. Soul

「祈る人」は野々宮卯妙と菊地裕貴に朗読で出演してもらった。とてもいい感じだった。
私もいわゆる「曲」としてのフォームがある音楽をひと前でやるのはひさしぶりだったのだが、デリヘイとのコミュニケーションを楽しんでやれた。ただ、集中していたせいか、終わってからかなりへろへろ。まだあと1セットあるのに。かなりきつい。
5時にはお客さんも帰り、少し休む。
するとおどろいたことに、〈音倉〉からまかない飯が出るという。私はロコモコを頼んだのだが、これがかなりおいしくて、スタッフ一同、感激。

6時、夜の部、開場。
東松原の〈スピリット・ブラザーズ〉で児童養護施設の子どもたちにボランティア朗読をやったとき、いっしょにマジックで出演した柿崎さんが来てくれる。柿崎さんとは、またボランティア朗読に出るほか、いっしょにマジック朗読の会をやる企画が進んでいる。げろきょ関係では、ライブワークショップに参加の鈴木さんのほか、外塚さんや小梨さんも来る。矢澤ちゃんも子どもを預けて駆けつけてくれた。役者の石村みかさん、フリー編集者の菊地さんにもおいでいただいた。位里ちゃんからは、博報堂とか朝日新聞とか業界の人を何人か紹介してもらった。

セット内容は昼の部とおなじ。ただし、雰囲気はだいぶ変わった。〈音倉〉は地下にあるのだが、明かり取りがあって、客席の照明を消しても昼は明かりが残る。が、夜は真っ暗になる。それがかなり客席の雰囲気を変える。そして今回は、昼と夜とでは客層がかなり変わった。そのために、私たちの演奏もかなり変わった。
いずれにしても、充実のパフォーマンスで、終わったらまたもやぐったり。しかも、夜の部には終わってからも拍手が鳴り止まず、アンコールとしてほとんど練習をしていない「荒城の月」を演奏したりした。
夜は演奏終了後もお客さんの大半が残って談笑していた。私も何人かと話をしたあと、機材の片付け。
9時半にまたマルさんの車で機材を運び、羽根木の家にもどる。
10時すぎにはみんなも戻ってきて、軽く打ち上げ。いいライブになったと、一同、満足げだった。よかった。
デリヘイとは次は名古屋で、6月11日に〈あうん〉、6月13日に八事のメーテレハウジングプラザの野外ステージ、とつづく。基本的に今回とおなじ曲目なので、だいぶ気は楽だ。
オーディオブックの真実 Vol.13
編集が終わり、ファイルが整ったら、最終的なマスタリング作業に入る。このマスタリングというものがまったくないがしろにされているのが、オーディオブック業界なのだ。この機会に私は、他のメーカーの方に「どうぞマスタリングをきちんと行なってください」とお願いしたい。
音楽コンテンツ、つまりJ-POPもロックもクラシック曲も、商業コンテンツとして出回っているものに最終的な「マスタリング」という工程を経ていないものはない。100パーセント、マスタリングしてある。もししてないものがあるとすれば、それはアマチュアのものだろう。
しかし、現状のオーディオブックの世界では、逆にマスタリングしてあるものを探すほうが大変だ。マスタリングはなぜ重要なのか。なぜ音楽の世界ではすべてマスタリングを必要とするのか。それには、マスタリングという工程でなにを行なっているのか理解してもらう必要がある。
電子的に録音された音というのは、そのまま再生しても、録音されたときのようには聴こえない。どんなにすぐれた再生システムがあっても不可能だ。録音されたときのように、あるいは朗読者が読んだときの雰囲気のように再生するためには、電子的な工夫を加えなければならない。
ピアノはピアノらしく、バイオリンはバイオリンらしく、オーケストラはオーケストラらしく、そして人の声は人の声らしくスピーカーから再生されるためには、電子的な加工がどうしても必要なのだ。なぜなら、そもそも最初に電子的な信号として録音されたものだから。
電子的に録音されたものを、良質な再生音とするために、最終的にマスタリングがおこなわれる。専門用語を並べてもしようがないので簡単に述べるが、イコライザー(EQ)、コンプレッサー、リミッター、時には空間系のイフェクトも使用しながら、最終的な仕上げをおこなう。
音楽の世界では、マスタリング・エンジニアが重要な役割を果たしていて、レーベルや演奏者は必ず優秀なエンジニアを使う。マスタリングの仕上がりで学曲の雰囲気がまったく変わってしまうこともある。古い曲を「リマスタリング」することで現代によみがえったりもする。
このようにして、音楽は商業コンテンツとしての地位を獲得してきた。つまり、商品としてのクオリティの確保。これがユーザー/リスナーに対する誠意であろう。その動機がマネーであろうとも。たんなる情報伝達を越えた「音声作品」としての提供にはなにが不可欠かということだ。
最終的なクオリティを軽視したマーケットは、必然的に縮小せざるをえない。ユーザーの安全性を軽視した自動車会社が利益を得られないように。欧米では膨大な既存オーディオブックの二次利用によっていきなり大きなマーケットが出現したが、日本では事情が違っていた。
ほとんどゼロからスタートしなければならなかったオーディオブック市場は、最初からクオリティの確保は重要な問題だったと考えている。たとえ手間と時間とお金がかかったとしても、良質のオーディオブックをこつこつと提供することでしかマーケットは育たないと確信していた。
そういう理念のもと、アイ文庫は作品のクオリティにこだわってきたし、いまでもそうであるのだ。現在のオーディオブックマーケットを、クオリティの観点からひとくくりにしてとらえることは不適切だ。繰り返すが「テキストデータ」と「音声作品」の両方の側面があるからだ。
本の内容、つまりテキストデータを視読するのではなく、なんらかの理由で聴読する目的であれば、言葉が明瞭に聞こえればいい。音声作品としてのクオリティは問題ではない。が、音楽と同様、朗読を音声作品として楽しむ目的であれば、クオリティは重要な問題となる。
オーディオブックマーケットの成長と成熟は、これらふたつの側面から進んでいくだろう。聴読データとしてオーディオブックは、今後おそらく読み上げソフトなどに取って替わられるだろうし、全部がそうはならないとしても、アイ文庫の業務ではないと思っている。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
音楽コンテンツ、つまりJ-POPもロックもクラシック曲も、商業コンテンツとして出回っているものに最終的な「マスタリング」という工程を経ていないものはない。100パーセント、マスタリングしてある。もししてないものがあるとすれば、それはアマチュアのものだろう。
しかし、現状のオーディオブックの世界では、逆にマスタリングしてあるものを探すほうが大変だ。マスタリングはなぜ重要なのか。なぜ音楽の世界ではすべてマスタリングを必要とするのか。それには、マスタリングという工程でなにを行なっているのか理解してもらう必要がある。
電子的に録音された音というのは、そのまま再生しても、録音されたときのようには聴こえない。どんなにすぐれた再生システムがあっても不可能だ。録音されたときのように、あるいは朗読者が読んだときの雰囲気のように再生するためには、電子的な工夫を加えなければならない。
ピアノはピアノらしく、バイオリンはバイオリンらしく、オーケストラはオーケストラらしく、そして人の声は人の声らしくスピーカーから再生されるためには、電子的な加工がどうしても必要なのだ。なぜなら、そもそも最初に電子的な信号として録音されたものだから。
電子的に録音されたものを、良質な再生音とするために、最終的にマスタリングがおこなわれる。専門用語を並べてもしようがないので簡単に述べるが、イコライザー(EQ)、コンプレッサー、リミッター、時には空間系のイフェクトも使用しながら、最終的な仕上げをおこなう。
音楽の世界では、マスタリング・エンジニアが重要な役割を果たしていて、レーベルや演奏者は必ず優秀なエンジニアを使う。マスタリングの仕上がりで学曲の雰囲気がまったく変わってしまうこともある。古い曲を「リマスタリング」することで現代によみがえったりもする。
このようにして、音楽は商業コンテンツとしての地位を獲得してきた。つまり、商品としてのクオリティの確保。これがユーザー/リスナーに対する誠意であろう。その動機がマネーであろうとも。たんなる情報伝達を越えた「音声作品」としての提供にはなにが不可欠かということだ。
最終的なクオリティを軽視したマーケットは、必然的に縮小せざるをえない。ユーザーの安全性を軽視した自動車会社が利益を得られないように。欧米では膨大な既存オーディオブックの二次利用によっていきなり大きなマーケットが出現したが、日本では事情が違っていた。
ほとんどゼロからスタートしなければならなかったオーディオブック市場は、最初からクオリティの確保は重要な問題だったと考えている。たとえ手間と時間とお金がかかったとしても、良質のオーディオブックをこつこつと提供することでしかマーケットは育たないと確信していた。
そういう理念のもと、アイ文庫は作品のクオリティにこだわってきたし、いまでもそうであるのだ。現在のオーディオブックマーケットを、クオリティの観点からひとくくりにしてとらえることは不適切だ。繰り返すが「テキストデータ」と「音声作品」の両方の側面があるからだ。
本の内容、つまりテキストデータを視読するのではなく、なんらかの理由で聴読する目的であれば、言葉が明瞭に聞こえればいい。音声作品としてのクオリティは問題ではない。が、音楽と同様、朗読を音声作品として楽しむ目的であれば、クオリティは重要な問題となる。
オーディオブックマーケットの成長と成熟は、これらふたつの側面から進んでいくだろう。聴読データとしてオーディオブックは、今後おそらく読み上げソフトなどに取って替わられるだろうし、全部がそうはならないとしても、アイ文庫の業務ではないと思っている。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月23日日曜日
デリヘイ(馬頭琴/歌)と水城のデュオライブ(5/23)のお知らせ

5月23日(日)15:00/19:00(開場はそれぞれ1時間前)
Com. Cafe 音倉(下北沢)/3,000円(ワンドリンク付)
ゲスト:野々宮卯妙ほか現代朗読パフォーマー
音楽のジャンルはもとより、表現の枠組をも超えてさまざまなコンテンポラリーなアーティストと共演してきた水城ですが、今回はモンゴル人の伝統音楽の歌い手であり馬頭琴(その他民族楽器)奏者であるデリヘイと、まったくあたらしい音世界を発信することになりました。
日本人にとっては懐かしくもあり、また耳新しくもあるモンゴルの音楽。若手ながらその正統な担い手であるデリヘイが、ジャンルを超えた現代音楽の作り手である水城と出会い、しかも即興性の高いパフォーマンスを展開する。おそらくだれもが聴いたことのない、いわば「懐かしき未来」ともいうべきサウンドが生まれようとしています。
今後、ブレークすることまちがいありません。
その最初の目撃地が、下北沢〈音倉〉です。
カフェ形式のライブハウス〈音倉〉は、気さくな雰囲気ながらしっかりした音響空間で、あたらしいサウンドを堪能していただくには最適なスペースです。
また、音楽形式だけにこだわらず、水城のもう一方の本拠地である朗読ともからんだパフォーマンスもおこないます。
皆さんのお越しをお待ちしてます。
・予約はこちら
・Com. Cafe 音倉の地図
・デリヘイの公式サイト
オーディオブックの真実 Vol.12
言葉を発音するその中にも、リップノイズが混入することがある。この頻度は朗読者によってまちまちで、頻度だけでなく強弱の差もある。リップノイズが多い人には、それを無くすためのトレーニングをしてもらうよう、その方法とともにアドバイスをしている。
朗読者にも、自分のリップノイズについて自覚のある人とない人がある。マイク収録の経験がある程度ある人は自覚がある場合が多いが、そうでない人はまったく自覚のないこともある。とにかく、実際に収録し、リップノイズをキャッチできる「耳を作る」ことが先決である。
このようにノイズカットは時間がかかる場合とかからない場合があるが、いずれにしても必要な編集作業のひとつだ。ほかに必要なものとしては、読みの間合いの調整などがあるが、これは収録時にディレクターがチェックするので、アイ文庫ではほとんど編集時にはやっていない。
読みのリズムや間合いは、収録時に整えたほうが、編集の恣意が働かない。なので、読み違いも収録時に止め、「パンチイン」という音楽製作では馴染みの手法で継ぎ目なく修正してしまう。編集時に間合いを動かすとすれば、タイトルと本文の間合い、タイミング程度だ。
編集の最後は、音声ファイルの整理だ。なんていう作品のどの部分なのかわかるように、決まったルールに従ってネーミングとナンバリングがおこなわれる。収録された原ファイルも、編集ずみのファイルも、すべて二重三重にバックアップを取っておくことはいうまでもない。
などと威張っているが、アイ文庫も初期のころはずいぶん大きな失敗をいくつかやらかした。いまでも強烈に覚えている失敗を開示しておく。まずは田中尋三と『吾輩は猫である』を収録しているときのことだった。何十回分もの編集前の原ファイルを、あやまって消失してしまった。
なにがどうなってそのようなことが起こったのか、いまとなっては思いだせないが、うっかりバックアップを取らないまま消去してしまったか、編集ソフトで変な操作をしてしまったか。とにかく、そのようなファイル消失事故は一、二回だけではすまなかった。
相原麻理衣の『坊っちゃん』のときも、神崎みゆきの『三四郎』のときも、岩崎さとこの『こころ』のときもあった。ほかにもあったかもしれない。何度も痛い教訓があり、いまはめったにそういう事故は起こさないようになった。しかし、油断はできないと、いつも戒めている。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
朗読者にも、自分のリップノイズについて自覚のある人とない人がある。マイク収録の経験がある程度ある人は自覚がある場合が多いが、そうでない人はまったく自覚のないこともある。とにかく、実際に収録し、リップノイズをキャッチできる「耳を作る」ことが先決である。
このようにノイズカットは時間がかかる場合とかからない場合があるが、いずれにしても必要な編集作業のひとつだ。ほかに必要なものとしては、読みの間合いの調整などがあるが、これは収録時にディレクターがチェックするので、アイ文庫ではほとんど編集時にはやっていない。
読みのリズムや間合いは、収録時に整えたほうが、編集の恣意が働かない。なので、読み違いも収録時に止め、「パンチイン」という音楽製作では馴染みの手法で継ぎ目なく修正してしまう。編集時に間合いを動かすとすれば、タイトルと本文の間合い、タイミング程度だ。
編集の最後は、音声ファイルの整理だ。なんていう作品のどの部分なのかわかるように、決まったルールに従ってネーミングとナンバリングがおこなわれる。収録された原ファイルも、編集ずみのファイルも、すべて二重三重にバックアップを取っておくことはいうまでもない。
などと威張っているが、アイ文庫も初期のころはずいぶん大きな失敗をいくつかやらかした。いまでも強烈に覚えている失敗を開示しておく。まずは田中尋三と『吾輩は猫である』を収録しているときのことだった。何十回分もの編集前の原ファイルを、あやまって消失してしまった。
なにがどうなってそのようなことが起こったのか、いまとなっては思いだせないが、うっかりバックアップを取らないまま消去してしまったか、編集ソフトで変な操作をしてしまったか。とにかく、そのようなファイル消失事故は一、二回だけではすまなかった。
相原麻理衣の『坊っちゃん』のときも、神崎みゆきの『三四郎』のときも、岩崎さとこの『こころ』のときもあった。ほかにもあったかもしれない。何度も痛い教訓があり、いまはめったにそういう事故は起こさないようになった。しかし、油断はできないと、いつも戒めている。
※この項はTwitterで連載したものです。
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2010年5月22日土曜日
オーディオブックの真実 Vol.11
収録の前段階のことは割愛し、実際の収録作業からのアイ文庫における工程。収録環境として、当初、先に書いたように、ワンルームマンションの一室、一軒家の一階部分の部屋、そして地下室と変遷してきたが、その後も二度引っ越しをして環境が変わっている。
酒屋の地下のあと、すぐ近所の、やはり地下にある音楽スタジオに移った。さらに現在は世田谷区羽根木にある古民家の一室に簡易ブースを設置して、そこを収録ブースとしている。ブース内にはAKGのコンデンサーマイクと、モニター&トークバック用のヘッドホンのみ。
ブース外にリードされたマイクシールドはマイクプリアンプを通してオーディオインターフェースに行っている。インターフェースはいろいろなものを使ってきたが、現在はYAMAHAとMOTUのものを使い、コンピューターはWindowsとMacの両方を使っている。
このような環境で、朗読者がブースに入り、オペレーターがコンピューターにつく。そして収録ディレクターが脇に控える。オペレーターがディレクターを兼ねることもあるが、できれば読みのチェックとディレクションに集中したいので、二人体制が望ましい。
ディレクターがおこなうのは、読み間違いやアクセント違い、ノイズなどの読みチェックだけではない。アイ文庫の場合、事前に朗読者と入念に打ち合わせした「解釈」や音声作品としての最終的な方向性もディレクターが確認しながら、適宜指示を出しながら慎重に収録していく。
収録には、たとえば仕上がりが60分のテキストがあるとすれば、その2倍から3倍はかかる。1時間程度のものを収録する場合、その前後1時間ずつ余裕を見て、3時間のスケジュールを朗読者には押さえてもらっている。この体制はアイ文庫のクオリティのために欠かせない。
朗読者にハンディレコーダーを「ほい」と渡し、収録ブースにひとりでこもってもらって丸一日で本一冊を読ませてしまうようなところもあると聞く。ブースならまだしも、「家で暇なときに読んどいて」というやり方もあるようだ。最近のレコーダーの性能はかなりいいのだ。
エディロールやズームなどの音楽練習用やフィールドレコーディング用のハンディレコーダーは、高性能のマイクを使っており、相当な高音質での録音が可能だ。だからといって、ディレクターのチェックが入らないような収録現場など、アイ文庫では考えられない。
ある高名な俳優で、多くの番組ナレーションにも起用されている人が、外国の人気長編小説をオーディオブックにしている。明らかに「暇なときにちょいちょい」読んだものであり、機材もハンディレコーダーどころか会議用のボイスレコーダーであることは明らかな音質だ。
当然ながらノイズも多く、編集も雑なばかりか、マスタリングなどまったくされていない。これでは耳のよいリスナーは耐えられないだろうし、そういうユーザーはオーディオブックという商業コンテンツから離れていってしまうのではないかと危惧される。
話を戻す。無事に収録が終わると、音声データがコンピューターのハードディスク上に残る。それを今度はオーディオ編集ソフトで編集していく。この工程もアイ文庫では、音のクオリティを確保するために、音楽編集と同等である。まずは単純なノイズカット作業。
これだけでもかなりの時間がかかる。収録時間の5倍くらいは見ておいたほうがいい。ノイズの多い読み手のものだと、さらに時間がかかる。カットすべきノイズの多くは「リップノイズ」と呼ばれる、朗読者の口内や呼吸・唇まわりから発生してしまう微細なものだ。
リスナーの多くはリップノイズなど気にしないのだが、放っておくと全体の印象が(無意識的に)汚れたものになる。きれいに磨きあげられていないガラス越しに外の風景を眺めるような感じ、といえばわかるだろうか。リップノイズは言葉の「間」にあれば簡単に除去できる。
※この項はTwitterで連載したものです。
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酒屋の地下のあと、すぐ近所の、やはり地下にある音楽スタジオに移った。さらに現在は世田谷区羽根木にある古民家の一室に簡易ブースを設置して、そこを収録ブースとしている。ブース内にはAKGのコンデンサーマイクと、モニター&トークバック用のヘッドホンのみ。
ブース外にリードされたマイクシールドはマイクプリアンプを通してオーディオインターフェースに行っている。インターフェースはいろいろなものを使ってきたが、現在はYAMAHAとMOTUのものを使い、コンピューターはWindowsとMacの両方を使っている。
このような環境で、朗読者がブースに入り、オペレーターがコンピューターにつく。そして収録ディレクターが脇に控える。オペレーターがディレクターを兼ねることもあるが、できれば読みのチェックとディレクションに集中したいので、二人体制が望ましい。
ディレクターがおこなうのは、読み間違いやアクセント違い、ノイズなどの読みチェックだけではない。アイ文庫の場合、事前に朗読者と入念に打ち合わせした「解釈」や音声作品としての最終的な方向性もディレクターが確認しながら、適宜指示を出しながら慎重に収録していく。
収録には、たとえば仕上がりが60分のテキストがあるとすれば、その2倍から3倍はかかる。1時間程度のものを収録する場合、その前後1時間ずつ余裕を見て、3時間のスケジュールを朗読者には押さえてもらっている。この体制はアイ文庫のクオリティのために欠かせない。
朗読者にハンディレコーダーを「ほい」と渡し、収録ブースにひとりでこもってもらって丸一日で本一冊を読ませてしまうようなところもあると聞く。ブースならまだしも、「家で暇なときに読んどいて」というやり方もあるようだ。最近のレコーダーの性能はかなりいいのだ。
エディロールやズームなどの音楽練習用やフィールドレコーディング用のハンディレコーダーは、高性能のマイクを使っており、相当な高音質での録音が可能だ。だからといって、ディレクターのチェックが入らないような収録現場など、アイ文庫では考えられない。
ある高名な俳優で、多くの番組ナレーションにも起用されている人が、外国の人気長編小説をオーディオブックにしている。明らかに「暇なときにちょいちょい」読んだものであり、機材もハンディレコーダーどころか会議用のボイスレコーダーであることは明らかな音質だ。
当然ながらノイズも多く、編集も雑なばかりか、マスタリングなどまったくされていない。これでは耳のよいリスナーは耐えられないだろうし、そういうユーザーはオーディオブックという商業コンテンツから離れていってしまうのではないかと危惧される。
話を戻す。無事に収録が終わると、音声データがコンピューターのハードディスク上に残る。それを今度はオーディオ編集ソフトで編集していく。この工程もアイ文庫では、音のクオリティを確保するために、音楽編集と同等である。まずは単純なノイズカット作業。
これだけでもかなりの時間がかかる。収録時間の5倍くらいは見ておいたほうがいい。ノイズの多い読み手のものだと、さらに時間がかかる。カットすべきノイズの多くは「リップノイズ」と呼ばれる、朗読者の口内や呼吸・唇まわりから発生してしまう微細なものだ。
リスナーの多くはリップノイズなど気にしないのだが、放っておくと全体の印象が(無意識的に)汚れたものになる。きれいに磨きあげられていないガラス越しに外の風景を眺めるような感じ、といえばわかるだろうか。リップノイズは言葉の「間」にあれば簡単に除去できる。
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2010年5月21日金曜日
オーディオブックの真実 Vol.10
上陸当初は「iTunes Music Store」略称「iTMS」といっていた。このサイトの欧米での成功は日本にも知られていたので、日本上陸の際には大変な注目を浴びた。ストアジャンルのなかに「ミュージック」の次に「オーディオブック」という項目があった。
日本ではほとんど知られていない言葉/ジャンルだった。「これなんだろう」と思ってクリックしてみた人は多かっただろう。が、実際に開いてみると、そこにはほとんど売り物らしいコンテンツはなく、閑散としていた。しかし、その後、多くのコンテンツが一挙に参入してくる。
あとで詳しく述べるが、アイ文庫のコンテンツもiTMSで扱われるようになり、また、他社コンテンツもドッとばかりにならぶようになった。2006年以降のことだ。目立つところでは、NHKなどラジオ局/放送局がらみのもの、そして語学関係のコンテンツがならびはじめた。
いずれも番組で流した朗読などの二次利用だった。語学関係のものも、すでにカセットやCDブックとして流通したあとの二次利用である。当初は最初からオーディオブックとして作られたコンテンツは少なかった。そんななか、アイ文庫の文芸コンテンツはなかなか健闘した。
コンテンツが少なかったということもあるだろうが、無名の会社が作り、無名の新人が読んでいるオーディオブックが、売り上げの上位ランキングに食いこんでいた。いまでもベスト100には必ず入っているが、吉田早斗子朗読の『方丈記』が、公開と同時に上位に入った。
なにしろ古典文学である。著者は鴨長明である。そんな作品が売り上げ上位の10位以内にいきなり入ってきたのだ。ほかにも多くのアイ文庫製作コンテンツが上位にいくつも入った。そういう状況のなか、資本力のある会社が何社か、録音物の二次利用ではないものを出してきた。
つまり、自社制作のオリジナルコンテンツをiTMSに投入する会社が何社か現われた。これらの会社はもともとオーディオブックを作っていたわけではなく、ビジネスチャンスがあると見たマーケットにいきなり資本が投下され、誕生した新興の制作会社といっていい。
グーグルで「オーディオブック 制作」などと検索すると、アイ文庫以外にも多くの制作会社がヒットする。それらの会社の多くが、オーディオブックという音声コンテンツを作っていながら、音声編集の基本的な仕上げ方、つまりマスタリングというものを軽視している。
いろいろな人に話を聞いてわかったことだが、オーディオブック=朗読本などというものは、録音機さえあれば朗読者がちょこちょこと暇を見つけては本を朗読し、あとで多少切ったりつないだりして体裁を整えればできてしまうように思っている人がたくさんいるらしい。
実際にそのようにして作られたオーディオブックはたくさんあるし、ネットで出回っているアマチュアの方が趣味で読んでいるものはほとんどがそうであるばかりか、制作会社が作った商業コンテンツですらそのように安直に作られているコンテンツがたくさんある。
もちろん本の内容を「テキスト情報」としてとらえ、それをたんに耳から取れるように「音声化しただけ」というとらえかたなら、それで充分なのだ。言葉がはっきり聞き取れ、内容が理解できればいい。多少のノイズやら音声クオリティなんて気にはならない。
しかし、アイ文庫ではオーディオブックもあくまで音楽同様の「音声コンテンツ」あるいは「声による文芸作品の一種」ととらえている。またそうでなければなぜわざわざ朗読者という「ひとりの人間/個性」が本を長時間、苦労して読みあげる必要があるというのか。
そのため、ノイズや音声クオリティにはかなり気を使って作っている。ここでアイ文庫でのオーディオブックの製作過程を簡単に紹介しておこう。事前の企画段階のことや著作権処理、テキスト選定や朗読者との読解を含めた擦り合わせ作業については、割愛する。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
日本ではほとんど知られていない言葉/ジャンルだった。「これなんだろう」と思ってクリックしてみた人は多かっただろう。が、実際に開いてみると、そこにはほとんど売り物らしいコンテンツはなく、閑散としていた。しかし、その後、多くのコンテンツが一挙に参入してくる。
あとで詳しく述べるが、アイ文庫のコンテンツもiTMSで扱われるようになり、また、他社コンテンツもドッとばかりにならぶようになった。2006年以降のことだ。目立つところでは、NHKなどラジオ局/放送局がらみのもの、そして語学関係のコンテンツがならびはじめた。
いずれも番組で流した朗読などの二次利用だった。語学関係のものも、すでにカセットやCDブックとして流通したあとの二次利用である。当初は最初からオーディオブックとして作られたコンテンツは少なかった。そんななか、アイ文庫の文芸コンテンツはなかなか健闘した。
コンテンツが少なかったということもあるだろうが、無名の会社が作り、無名の新人が読んでいるオーディオブックが、売り上げの上位ランキングに食いこんでいた。いまでもベスト100には必ず入っているが、吉田早斗子朗読の『方丈記』が、公開と同時に上位に入った。
なにしろ古典文学である。著者は鴨長明である。そんな作品が売り上げ上位の10位以内にいきなり入ってきたのだ。ほかにも多くのアイ文庫製作コンテンツが上位にいくつも入った。そういう状況のなか、資本力のある会社が何社か、録音物の二次利用ではないものを出してきた。
つまり、自社制作のオリジナルコンテンツをiTMSに投入する会社が何社か現われた。これらの会社はもともとオーディオブックを作っていたわけではなく、ビジネスチャンスがあると見たマーケットにいきなり資本が投下され、誕生した新興の制作会社といっていい。
グーグルで「オーディオブック 制作」などと検索すると、アイ文庫以外にも多くの制作会社がヒットする。それらの会社の多くが、オーディオブックという音声コンテンツを作っていながら、音声編集の基本的な仕上げ方、つまりマスタリングというものを軽視している。
いろいろな人に話を聞いてわかったことだが、オーディオブック=朗読本などというものは、録音機さえあれば朗読者がちょこちょこと暇を見つけては本を朗読し、あとで多少切ったりつないだりして体裁を整えればできてしまうように思っている人がたくさんいるらしい。
実際にそのようにして作られたオーディオブックはたくさんあるし、ネットで出回っているアマチュアの方が趣味で読んでいるものはほとんどがそうであるばかりか、制作会社が作った商業コンテンツですらそのように安直に作られているコンテンツがたくさんある。
もちろん本の内容を「テキスト情報」としてとらえ、それをたんに耳から取れるように「音声化しただけ」というとらえかたなら、それで充分なのだ。言葉がはっきり聞き取れ、内容が理解できればいい。多少のノイズやら音声クオリティなんて気にはならない。
しかし、アイ文庫ではオーディオブックもあくまで音楽同様の「音声コンテンツ」あるいは「声による文芸作品の一種」ととらえている。またそうでなければなぜわざわざ朗読者という「ひとりの人間/個性」が本を長時間、苦労して読みあげる必要があるというのか。
そのため、ノイズや音声クオリティにはかなり気を使って作っている。ここでアイ文庫でのオーディオブックの製作過程を簡単に紹介しておこう。事前の企画段階のことや著作権処理、テキスト選定や朗読者との読解を含めた擦り合わせ作業については、割愛する。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月20日木曜日
オーディオブックの真実 Vol.9
朗読ワークショップの告知はおもにネットでおこなった。自社サイトやメールマガジンなど。興味本意の冷やかし半分で来る参加者はお断り、という意味で、参加費はかなり高額だった。しかも丸二日間にわたってみっちり、収録実習も含めておこなうものだった。
ワーショップ参加者のなかから何人かのオーディオブックリーダー(朗読者)が生まれた。もちろん、そのまますぐに本収録に移行できる人はほとんどいなかったが、アイ文庫の制作姿勢に賛同し、食いついてくれた人には、引き続き継続的に来てもらうことをお願いした。
ワークショップ終了後も地下スタジオに通ってもらい、作品を決め、読み込みをすすめ、収録のための技術を磨いて、本収録へと持ちこむ。そういう人が何人も出てきた。アイ文庫の朗読者の層は厚くなっていった。ひとまず、ワークショップの開催は成功といえた。
文芸朗読だけでなく、音楽家としての私の特性を生かした作品もできた。JFNの「はなのある風景」や、世田谷FMの「ジューシー・ジャズカーゴ」を皮切りに、オリジナル作品も作りはじめた。たとえばそのひとつが、岩崎さとことおこなった中原中也の詩曲集。
岩崎さとこは富良野塾第二期生の女優であり、いまは亡き今村昌平監督の映画「楢山節考」や「女衒」などに高校生のときから出演もしていたキャリアを持つ。彼女の朗読を聴いたとき、声優やナレーターにはない奥の深い表現力があり、驚いた記憶がある。なにしろ女優だ。
116 地下スタジオでは収録だけでなく、広い静穏スペースを利用してライブもやるようになったのだが、その最初のライブも彼女にやってもらった。その話は置いておいて、ともかく表現力の豊かさから、さまざまなオーディオブックを読んでもらったほか、詩曲集も作った。
中原中也の有名な「汚れちまった悲しみに」をやりたいと岩崎さとこがいうので、それを含んだ詩集「みちこ」を、ピアノの即興演奏とともに収録することになった。彼女が詩を読み、私がピアノを弾く。ほとんど打ち合わせなしのぶっつけ本番で、緊張感があった。
ピアノを弾く私は、中原中也の「ことば」に触発されて即興を音を出していく。それを岩崎さとこが受け取り、表現を重ねていく。それを聴いてまた私が……というふうに、コミュニケーションの連鎖で音声作品ができていく。この手法からはさまざまなことを知ることになった。
詩曲集を作る過程において私たちが交わしたのは、言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの両方だった。それは「朗読とはなにか」ということを深く考えるきっかけとなった。この「朗読にたいする熟考」が、NPO法人現代朗読協会設立のきっかけとなる。
話を「中原中也詩曲集」にもどす。岩崎さとことは数回にわたって収録をおこなった。収録後は編集/マスタリング作業となる。ヴォーカルトラック、ピアノトラックのそれぞれを編集し、プラグインを使って各トラックに適切なイフェクトを挿入し、細かく整える。
CDにするためにツートラックにミックスダウンし、最終的なマスタリングをおこなう。音楽製作ではあたりまえの作業であり、オーディオブックには私はこの作業工程を適用していた。知らない人が多いし、また一般ユーザーには必要もないことだが、特殊な工程があるのだ。
音声コンテンツ製作の過程でもっとも特殊な(一般人が知らない)工程は、最終の「マスタリング」と呼ばれる部分だろう。おそらく言葉すら聞いたことがないと思うが、しかし製作現場の者で知らないものはいない。ところが、オーディオブック業界では様子が違っているようだ。
オーディオブックを作っている会社の人でも「マスタリング」という作業はおろか、言葉すら知らない人がいるというのを知ったのは、数年前のことだ。Apple のミュージックストア「iTunes Store」が日本に上陸したのは2005年8月のことだった。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
ワーショップ参加者のなかから何人かのオーディオブックリーダー(朗読者)が生まれた。もちろん、そのまますぐに本収録に移行できる人はほとんどいなかったが、アイ文庫の制作姿勢に賛同し、食いついてくれた人には、引き続き継続的に来てもらうことをお願いした。
ワークショップ終了後も地下スタジオに通ってもらい、作品を決め、読み込みをすすめ、収録のための技術を磨いて、本収録へと持ちこむ。そういう人が何人も出てきた。アイ文庫の朗読者の層は厚くなっていった。ひとまず、ワークショップの開催は成功といえた。
文芸朗読だけでなく、音楽家としての私の特性を生かした作品もできた。JFNの「はなのある風景」や、世田谷FMの「ジューシー・ジャズカーゴ」を皮切りに、オリジナル作品も作りはじめた。たとえばそのひとつが、岩崎さとことおこなった中原中也の詩曲集。
岩崎さとこは富良野塾第二期生の女優であり、いまは亡き今村昌平監督の映画「楢山節考」や「女衒」などに高校生のときから出演もしていたキャリアを持つ。彼女の朗読を聴いたとき、声優やナレーターにはない奥の深い表現力があり、驚いた記憶がある。なにしろ女優だ。
116 地下スタジオでは収録だけでなく、広い静穏スペースを利用してライブもやるようになったのだが、その最初のライブも彼女にやってもらった。その話は置いておいて、ともかく表現力の豊かさから、さまざまなオーディオブックを読んでもらったほか、詩曲集も作った。
中原中也の有名な「汚れちまった悲しみに」をやりたいと岩崎さとこがいうので、それを含んだ詩集「みちこ」を、ピアノの即興演奏とともに収録することになった。彼女が詩を読み、私がピアノを弾く。ほとんど打ち合わせなしのぶっつけ本番で、緊張感があった。
ピアノを弾く私は、中原中也の「ことば」に触発されて即興を音を出していく。それを岩崎さとこが受け取り、表現を重ねていく。それを聴いてまた私が……というふうに、コミュニケーションの連鎖で音声作品ができていく。この手法からはさまざまなことを知ることになった。
詩曲集を作る過程において私たちが交わしたのは、言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの両方だった。それは「朗読とはなにか」ということを深く考えるきっかけとなった。この「朗読にたいする熟考」が、NPO法人現代朗読協会設立のきっかけとなる。
話を「中原中也詩曲集」にもどす。岩崎さとことは数回にわたって収録をおこなった。収録後は編集/マスタリング作業となる。ヴォーカルトラック、ピアノトラックのそれぞれを編集し、プラグインを使って各トラックに適切なイフェクトを挿入し、細かく整える。
CDにするためにツートラックにミックスダウンし、最終的なマスタリングをおこなう。音楽製作ではあたりまえの作業であり、オーディオブックには私はこの作業工程を適用していた。知らない人が多いし、また一般ユーザーには必要もないことだが、特殊な工程があるのだ。
音声コンテンツ製作の過程でもっとも特殊な(一般人が知らない)工程は、最終の「マスタリング」と呼ばれる部分だろう。おそらく言葉すら聞いたことがないと思うが、しかし製作現場の者で知らないものはいない。ところが、オーディオブック業界では様子が違っているようだ。
オーディオブックを作っている会社の人でも「マスタリング」という作業はおろか、言葉すら知らない人がいるというのを知ったのは、数年前のことだ。Apple のミュージックストア「iTunes Store」が日本に上陸したのは2005年8月のことだった。
※この項はTwitterで連載したものです。
新連載「朗読の快楽/響き合う表現(仮)」は近日スタート。
2010年5月19日水曜日
オーディオブックの真実 Vol.8
この地下室ではものすごくたくさんの収録とライブと音楽制作とワークショップをやった。なにしろ一日中、朝から晩までスタジオにいるわけだから、制作ペースは半端ではなかった。また、自前のスペースがあるということで、さまざまな企画が生まれ実行された。
オーディオブックも順調に収録できた。地下室の隅にこのビル全体の排水設備がある、私たちが「パイプ室」と呼んでいた小部屋があった。狭い部屋だったが、ここはさらに音響的にも完璧だった。吸音材やら毛布やらを壁にならべて、無反響の収録環境を作った。
小さなテーブルと椅子を置き、マイクを設置して、朗読者はそこに入る。壁に小さな穴をひとつあけ、マイクやトークバックのケーブルを通して、収録機材とオペレーターは小部屋の外、つまり地下室の広い場所のほうで作業する。大変快適になった。
機材も徐々にグレードアップしていった。機材自体も劇的に安くなってきたというのもあった。また編集ソフトも劇的な進化をとげつつあった。バージョンアップのたびに夢のような機能が安価で付加され、しばらく前のプロフェッショナルなスタジオ環境がほぼ実現できるほどだった。
そうやってどんどん制作を進めていくと、悩みがひとつ出てきた。朗読者がどうしても足りないのだ。初期の若手メンバーはそこそこ育ってきたし、彼らが連れてきた二次、三次メンバーもいたのだが、それでもより多彩にコンテンツを制作するには足りなかった。
アイ文庫主催で朗読ワークショップを始めたのは、オーディオブックの読み手がほしかったからだった。ワークショップはオーディションも兼ねていて(そのほうが人の集まりがよかった)、実力のある読み手はすぐにでも収録メンバーに加わってもらいたいと思っていた。
実際には、すぐに収録に使えるような人はほとんどいなかった。皆無といってよかった。「オーディション付き」にしていたせいか、ワークショップに参加するのは声優、ナレーター、フリーアナウンサー、司会者といった、すでに声の仕事にたずさわっている人がほとんどだった。
アイ文庫としても即戦力をおおいに期待した。実際、きれいでスムースな読みなら問題がない人は多かった。が、朗読をやってもらうとなると、どうやら別の話になるようだった。とくに文芸作品の朗読ということになると、初期の若手メンバーとおなじような状況が生まれた。
文章をただきれいに正しく読むだけなら、声優学校や養成所で数年訓練を受けた人ならだれでもできる。が、文学作品を読解し、その世界観を声で表現する、さらにいえば朗読者の個性を生かせる読みとなると、声の仕事をしている人でもまったく役に立たないことが多い。
平板で、魅力のない、薄っぺらい朗読。それではアイ文庫が作る意味はない。もちろんそういう読みのほうがいい、というリスナーはたくさんいたし、いまもいる。文字情報を耳から入れたいだけなら、余計なバイアスはかかっていないほうがいいからだ。
淡々とスムースに読んでくれたほうがいい。実際、実用書などのオーディオブックはそのほうがいいだろう。しかし、この用途なら、いずれ近いうちに機械音声に取って変わられるだろうと私は思っている。読み上げソフトはかなりいい線まで来ていて、年々進化している。
人間にしかできない読み。その人でなければ表現できない世界。文字をわざわざ人の声で読みあげることで成立するオーディオ作品。アイ文庫ではそういったものを作りたい、作っていきたいと、最初から考えていた。まるで一曲をさまざまなピアニストが演奏するように。
まだそこまで行っているとはとてもいえないが、オーディオブックのコンテンツマーケットが成熟してくると、音楽マーケットがそうであるように、たとえば「羅生門」をさまざまな朗読者が読み、リスナーをそれらを聴き比べて楽しむようになるのではないか。
※Twitter連載中
オーディオブックも順調に収録できた。地下室の隅にこのビル全体の排水設備がある、私たちが「パイプ室」と呼んでいた小部屋があった。狭い部屋だったが、ここはさらに音響的にも完璧だった。吸音材やら毛布やらを壁にならべて、無反響の収録環境を作った。
小さなテーブルと椅子を置き、マイクを設置して、朗読者はそこに入る。壁に小さな穴をひとつあけ、マイクやトークバックのケーブルを通して、収録機材とオペレーターは小部屋の外、つまり地下室の広い場所のほうで作業する。大変快適になった。
機材も徐々にグレードアップしていった。機材自体も劇的に安くなってきたというのもあった。また編集ソフトも劇的な進化をとげつつあった。バージョンアップのたびに夢のような機能が安価で付加され、しばらく前のプロフェッショナルなスタジオ環境がほぼ実現できるほどだった。
そうやってどんどん制作を進めていくと、悩みがひとつ出てきた。朗読者がどうしても足りないのだ。初期の若手メンバーはそこそこ育ってきたし、彼らが連れてきた二次、三次メンバーもいたのだが、それでもより多彩にコンテンツを制作するには足りなかった。
アイ文庫主催で朗読ワークショップを始めたのは、オーディオブックの読み手がほしかったからだった。ワークショップはオーディションも兼ねていて(そのほうが人の集まりがよかった)、実力のある読み手はすぐにでも収録メンバーに加わってもらいたいと思っていた。
実際には、すぐに収録に使えるような人はほとんどいなかった。皆無といってよかった。「オーディション付き」にしていたせいか、ワークショップに参加するのは声優、ナレーター、フリーアナウンサー、司会者といった、すでに声の仕事にたずさわっている人がほとんどだった。
アイ文庫としても即戦力をおおいに期待した。実際、きれいでスムースな読みなら問題がない人は多かった。が、朗読をやってもらうとなると、どうやら別の話になるようだった。とくに文芸作品の朗読ということになると、初期の若手メンバーとおなじような状況が生まれた。
文章をただきれいに正しく読むだけなら、声優学校や養成所で数年訓練を受けた人ならだれでもできる。が、文学作品を読解し、その世界観を声で表現する、さらにいえば朗読者の個性を生かせる読みとなると、声の仕事をしている人でもまったく役に立たないことが多い。
平板で、魅力のない、薄っぺらい朗読。それではアイ文庫が作る意味はない。もちろんそういう読みのほうがいい、というリスナーはたくさんいたし、いまもいる。文字情報を耳から入れたいだけなら、余計なバイアスはかかっていないほうがいいからだ。
淡々とスムースに読んでくれたほうがいい。実際、実用書などのオーディオブックはそのほうがいいだろう。しかし、この用途なら、いずれ近いうちに機械音声に取って変わられるだろうと私は思っている。読み上げソフトはかなりいい線まで来ていて、年々進化している。
人間にしかできない読み。その人でなければ表現できない世界。文字をわざわざ人の声で読みあげることで成立するオーディオ作品。アイ文庫ではそういったものを作りたい、作っていきたいと、最初から考えていた。まるで一曲をさまざまなピアニストが演奏するように。
まだそこまで行っているとはとてもいえないが、オーディオブックのコンテンツマーケットが成熟してくると、音楽マーケットがそうであるように、たとえば「羅生門」をさまざまな朗読者が読み、リスナーをそれらを聴き比べて楽しむようになるのではないか。
※Twitter連載中
2010年5月18日火曜日
賢人を作るコミュニティ
最近の日本人が思考停止に陥りがちなのは、リスクを必要以上に避けたがるゆえにあまりに横並び行動を取りすぎるから、などという説がある。たしかに、老若男女を問わず横並び行動を取ろうとするのは、もともとリスク回避のための行動だったかもしれない。
企業行動など、集団の行動にもその傾向は強い。日本の企業はとくに横並びを重んじるといわれているが、たしかにそのとおりかもしれない。このところの電子ブックをめぐる著作権の問題で大手出版社が寄り集まってあれこれいっているのを見ていると、横並びを重んじるあまり時代の変化についていけず、思考停止に陥って、ついには恐竜のように滅びていくイメージが湧いてくる。
それはともかく、そのような思考停止におちいった大衆のことを、ニーチェは「畜群」と呼んでさげすんだ。真の人間は、畜群から離れ、想像力をもって超越しなければならない、と説いた。超人思想である。それもどうかと思う極端な話だが、いわんとするところはまあわからないことはない。
大衆が畜群化しているとなにかと都合がいいのは、資本主義社会だ。「これがいいよ」といえば全員ドッとばかりにそちらになだれを打ち、作られた流行を追ってものを買い、プレハブに毛の生えたような家を35年ものローンを組んで買い、ぴかぴかの車を一家に一台そろえたがる。資本家にとってこれほどおいしい話はない。
いや、共産主義社会でも畜群は都合がいいだろう。同一思想を植えつけて統制するには、ひとりひとりが「判断力」や「想像力」を持っていてもらっては困る。
ようするに、国家という制度にとって、国民は畜群であるほうが都合がいいのだ。
「国家」といったが、これは「近代国家」といいなおそう。
私が子どものころ、「すばらしい世界旅行」という番組があった。この番組には、時代のせいもあったのだろうが、しばしば「未開民族」とか「裸族」が登場していた。取材班はアマゾンの奥地やニューギニアの高地に分けいり、まだ文明(西洋文明ね)と接触したことのない部族を取材するのだ(山口探検隊じゃないよ)。
そして視聴者は知るのだ。未開文明といっても、彼らなりの秩序と文化があり、自然を崇拝しながら静かに暮らしている、ということを。「未開」とは失礼ないいかたではある。
いまになって思えば、「未開民族」たちのなかには、思考停止に陥った愚民はただのひとりもいなかった。子どもは長老たちに教えられ、自然のなかで生きていくための知識と知恵を身につけながら育っていく。大人になれば、部族の調和を保ち、問題が起きれば部族全員で考え、力を合わせて対処する。そして子どもたちは部族全員にかわいがられながら大人になる。ひとりの子どもに、お父さんお母さんが何人もいる。
ニーチェのいう「畜群」は、まさに近代国家が生んだものだ。国家の必要から、国家が恣意的に作りだしたものなのだ。
どうやって?
もちろん「教育」によって。
想像力を奪い、身体と精神を拘束し、消費と競争に快楽を覚えるように教育する。その結果、国民は「畜群化」する。反乱も革命もデモもない、一見平和で穏やかな浪費国家である。
私たちが畜群であらぬためには、国家を解体するのがてっとりばやいだろう。しかし、もちろんそんなことはできない。
では、どうすればいいか。
私なりの考えだが、人々がひとりひとり存在を尊重され、自由でいることを認められ、そして自分と全体のことを同時に考えられるような場=コミュニティをたくさん作っていけばいい。そのコミュニティは畜群ではない。未開部族がそうであったように、愚民もいない。それぞれが知恵をもって、自分の責任で、自分と全体のために考え、行動している。
そういう、人が賢人となり、そしてまた賢人を作りだすミュニティを作ることは不可能だろうか。
いや、じつはすでに、現代朗読協会という見本があるのですよ。これがいいたくて、長々と書いたのであります。
企業行動など、集団の行動にもその傾向は強い。日本の企業はとくに横並びを重んじるといわれているが、たしかにそのとおりかもしれない。このところの電子ブックをめぐる著作権の問題で大手出版社が寄り集まってあれこれいっているのを見ていると、横並びを重んじるあまり時代の変化についていけず、思考停止に陥って、ついには恐竜のように滅びていくイメージが湧いてくる。
それはともかく、そのような思考停止におちいった大衆のことを、ニーチェは「畜群」と呼んでさげすんだ。真の人間は、畜群から離れ、想像力をもって超越しなければならない、と説いた。超人思想である。それもどうかと思う極端な話だが、いわんとするところはまあわからないことはない。
大衆が畜群化しているとなにかと都合がいいのは、資本主義社会だ。「これがいいよ」といえば全員ドッとばかりにそちらになだれを打ち、作られた流行を追ってものを買い、プレハブに毛の生えたような家を35年ものローンを組んで買い、ぴかぴかの車を一家に一台そろえたがる。資本家にとってこれほどおいしい話はない。
いや、共産主義社会でも畜群は都合がいいだろう。同一思想を植えつけて統制するには、ひとりひとりが「判断力」や「想像力」を持っていてもらっては困る。
ようするに、国家という制度にとって、国民は畜群であるほうが都合がいいのだ。
「国家」といったが、これは「近代国家」といいなおそう。
私が子どものころ、「すばらしい世界旅行」という番組があった。この番組には、時代のせいもあったのだろうが、しばしば「未開民族」とか「裸族」が登場していた。取材班はアマゾンの奥地やニューギニアの高地に分けいり、まだ文明(西洋文明ね)と接触したことのない部族を取材するのだ(山口探検隊じゃないよ)。
そして視聴者は知るのだ。未開文明といっても、彼らなりの秩序と文化があり、自然を崇拝しながら静かに暮らしている、ということを。「未開」とは失礼ないいかたではある。
いまになって思えば、「未開民族」たちのなかには、思考停止に陥った愚民はただのひとりもいなかった。子どもは長老たちに教えられ、自然のなかで生きていくための知識と知恵を身につけながら育っていく。大人になれば、部族の調和を保ち、問題が起きれば部族全員で考え、力を合わせて対処する。そして子どもたちは部族全員にかわいがられながら大人になる。ひとりの子どもに、お父さんお母さんが何人もいる。
ニーチェのいう「畜群」は、まさに近代国家が生んだものだ。国家の必要から、国家が恣意的に作りだしたものなのだ。
どうやって?
もちろん「教育」によって。
想像力を奪い、身体と精神を拘束し、消費と競争に快楽を覚えるように教育する。その結果、国民は「畜群化」する。反乱も革命もデモもない、一見平和で穏やかな浪費国家である。
私たちが畜群であらぬためには、国家を解体するのがてっとりばやいだろう。しかし、もちろんそんなことはできない。
では、どうすればいいか。
私なりの考えだが、人々がひとりひとり存在を尊重され、自由でいることを認められ、そして自分と全体のことを同時に考えられるような場=コミュニティをたくさん作っていけばいい。そのコミュニティは畜群ではない。未開部族がそうであったように、愚民もいない。それぞれが知恵をもって、自分の責任で、自分と全体のために考え、行動している。
そういう、人が賢人となり、そしてまた賢人を作りだすミュニティを作ることは不可能だろうか。
いや、じつはすでに、現代朗読協会という見本があるのですよ。これがいいたくて、長々と書いたのであります。
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