水城ゆうブログ
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2009年7月31日金曜日
名古屋「Kenji」ワークショップ第四回の模様の抜粋映像
このワークショップでは、アレクサンダー・テクニークを応用したナチュラルな姿勢と呼吸を重視しながら、その人本来が持っている魅力的なたたずまいを引き出そうとしています。
本番公演は2009年9月2日夜、名古屋市芸術創造センターにて。
2009年7月29日水曜日
絵はがき「金蓮花」
2009年7月28日火曜日
「Kenji——宮澤賢治・音と光と土——」について(新聞社用)
2009年7月25日土曜日
名古屋のイケメンたち
2009年7月24日金曜日
保育園でかんがえた一番大切なこと
昨日、品川区立南ゆたか保育園でお話と歌のイベントを手伝ってきたが、そのときに私が考えていたこと。
この保育園には0歳児から就学前の5歳、6歳児までいる。一番年長が5歳、6歳児のクラスで、来年は全員、小学校に行く。
私は小学生に接する機会もあるが、小学生と、就学前の保育児童とでは、なにかが決定的に違っていると感じる。おそらくそれは、「言語化」という行動を日常的に強いられるか強いられないかによるものではないか、と思っている。
学校に行くと、本を読んだり、なにかをしたり、だれかの発表を聴いたり、絵を見たりしたとき、とにかく「感想」という形で自分の感じたことをしゃべったり、書いたりすることを求められる。つまり「言語化」である。
なにか問題を解くということもそうだ。算数にせよ、国語にせよ、問題があったとき、それには回答することを求められる。そして正解、不正解、という結果を示される。問題という「謎」を謎のままに残しておくことは、学校教育においては許されない。ものごとを言語化できることが、大人になることであり、また社会的人間に成長することであるからだ。
が、就学前にはそのようなことを強要する大人はあまりいない。いるのかもしれないが、そんなことを強要しても子どもにろくな影響がないことは、まともな大人なら知っていることだ。
なので、就学前の幼児ばかり集まっている保育園の雰囲気は、とてものびやかで、自由で、一種心地よい無秩序と混沌が存在している。
この無秩序と混沌のなかで、なにかを言語化することを強いられることなく、のびのびと感じるままに、好きなように行動し、触れあったり、泣いたりわめいたり、喜んだり痛いめにあったりすることが、子どもたちにとってはとても重要なのだ。
この体験が、その後の想像力のベースになる。
たとえば小説を読んだり、映画を観ているとき、主人公がなにか痛そうな目にあったとき、そのときにリアルに感じるのは「自分のなかにある痛み」をベースとした延長的想像なのである。しっかりとベース体験があるからこそ、バーチャルな世界に感情移入できるし、またそのバーチャル世界そのものも自分の体験としてさらに取りこんでいくことができる。
この体験は感覚的なものであり、実感であり、言語化する必要はないし、言語化することもできない。
ベース体験の希薄な子どもにはそれがない。バーチャル体験にバーチャル体験を重ねてもなにも生まれない。あまりに幼い頃に英語を学ばせようとしてしまうことの弊害も、このあたりの問題と関係しているのだが、ここでは詳しくは書かない。もっとも、上記のことが理解できる人ならば、容易に推論できるだろう。
ところで昨日、私は子どもたちを見ていて、無性に触りたくなった。
そこで、イベントが終わってから子どもたちに近づき、話しかけながら、やたらと触りまくってやった。すると子どもたちは、私になにかを聞いてくる。大半はなにをいっているのかわからない。ただ、うなずきながら頭やらほっぺたやら手やらを触ってみた。
なにをいっているのか、なにを聞かれているのかなど、問題ではないのだ。しかし私と彼らとの間には、短い間に濃密なコミュニケーションがあった。ピアノを弾いていたおじちゃんが、自分の頭やほっぺを触りながらなにかいってた。そのときのおじちゃんの手の感触、声の調子、顔の表情、それが彼らに伝わればよかったのだし、私もまたあの子たちの頬のやわらかさ、汗ばんだ髪の手触り、小さな手の感触を受け取っていた。
家に帰ってから、今日もそうだが、私はずっと考えつづけている。
私はこれから、だれにむかってなにを表現し、なにを伝えていけばいいのだろうか。一番大切なことはなんなのだろうか、と。
キャンプは異次元へのトリップだった
この季節になると、子どものころに家族で出かけたキャンプのことを思い出す。
前にも書いたが、私の祖父は自動車修理工場を経営していたので、当時はまだ珍しかった自家用車を何台か持っていた。当時というのは、昭和30年代から40年代初頭にかけてのことである。
キャンプ道具を積んで、一家総出で車でキャンプに出かける。それだけ書くとまるでアメリカの50年代みたいな風景だが、もちろん私の記憶の風景は純和風である。
車はニッサン(ダットサン)だった。
道路はもちろん舗装されていない。スピードを出すと、大量の砂埃を巻きあげて、ガタガタと疾走する。後ろを振り返ると、真っ白の砂埃のほかはなにも見えない。しかし、後続の車はまばらで、いまのように「車列」というようなものは皆無だった。
もちろん、クーラーなどはない。夏場は窓全開が基本だった。
私たち子どもは、その窓から首を突きだし、皮膚がしびれるくらい風に顔をさらして景色を見つめていた。
私の記憶のなかでは、キャンプ行きにはじいちゃんはいなかった。ばあちゃんはいた。私の両親とばあちゃん、私と妹、といったメンバーだった。たまに従兄弟たちもいたかもしれない。しかし、じいちゃんはきっと仕事があったんだろう。いっしょにキャンプに行った記憶はない。
私の父が車を運転し、私たち子どもとばあちゃんは後ろの座席だった。
私は山間部の盆地に住んでいたので、海が近づくにつれ空が広くなるのがなんともいえずわくわくした気分だった。空はあくまで青く、白い雲が流れている。後ろを振り返ると、山脈の上には積雲が生まれている。
海が間近になったことは、空気の匂いでわかった。山の子は海の匂いに敏感なのだ。海の匂いをかぐと、もういても立ってもいられないような気分になった。気が早くも車のなかで浮き輪をふくらましたりした。
海が見えると狂喜乱舞した。
いまでもそうだが、北陸の夏の海は格別に美しい。太陽光線が山側から差しているため、ぎらつかず、静謐な青さをたたえている。波打ち際の白さが際立っている。
なぜあれほど海に夢中になったんだろう。いや、いまでも海に夢中であることは変わりない。なかなか海に行く機会は少ないけれど、海に行けば私はそのまま全身でタイムスリップする。
石川県の千里浜というところが、私たちのキャンプの場所だった。泳げるし、蛤が採れるからだ。
また、防砂用の松が植林されていて、キャンプ用のテントを張りやすいこともあった。
いまのようにキャンプ場などというものが整備されていないころだった。まず、水場があることが条件である。水場は海に流れこむ小川だったりする。
海に着くと、私たち子どもはとりあえず裸になって海に飛びこむ。大人たちはテントの準備をする。
いまのような便利なキャンプ用テントではない。いわゆる三角テントというやつで、松と松の間にロープを張ったり、地面に杭を打ったりして、テントを張って固定する。
石を集めてかまどを作る。薪を集めて火を起こす。大人たちはいろいろとやることがあって、忙しそうだったが、子どもは波打ち際でコロコロと波とたわむれているだけだった。そのときの波にかきまわされる身体の感触が、いまでもはっきりと思い出すことができる。
夕方になると、かまどのほかにたき火が作られる。
もちろん虫は多い。いまのように虫除けスプレーなどというものはなかった。蚊取り線香をあちこちに配置しておくが、風があるのでどの程度の効果があるのかはわからなかった。
虫のなかで一番やっかいなのが、アブだった。ハエのでかいやつみたいな感じで、刺されると痛いし、腫れてかゆい。大きい虫なので、子どもとしては怖かった。
ほかに刺す虫としては、ブヨとか蚊がいたが、小さいので怖さはなかった。実際には刺されるとアブよりかゆい。とくにブヨはかゆい。刺されたら虫刺されの軟膏を塗ってもらう。
夕食は大人たちが採ってきた蛤やら、近くの漁港で仕入れてきたイカやら魚やらを焼いて食べる。
だんだん夕日が落ちていき、最後は水平線に真っ赤になって落下していく。これも日本海側ならではの光景だろう。「パノラマ」という言葉を聞くと、私はいまでもこの光景を反射的に思い出す。
日が落ちると、あたりは急に暗くなっていく。いよいよキャンプらしくなってきた。
持ってきた花火で遊ぶのも、楽しみのひとつだ。打ち上げ花火だの、ロケット花火だの、派手なものはなかったが、楽しかった。
そのころには空は満天の星だ。うっすらとミルクを流したような天の川が見える。その川を泳ぐように白鳥座の十字も見える。私の父はそれほど星座は詳しくなかったが、いくつか基本的なものは教えてもらった。北斗七星から北極星を探す方法とか。太平洋戦争で海軍の少尉だった父は、南方で南十字星も見たことがあるといっていた。
そのころになると、遊び疲れた子どもたちはもう目をあけていられなくなる。いつの間にかテントの中に連れていかれ、眠りこんでしまう。
気がついたら朝、という具合だ。
小学校の高学年になっていたと思うが、一度、越前海岸の岩場のほうでキャンプをしたことがあった。そのとき、強烈に覚えているのは、近くの山を分け入ったところに巨大な滝があって、そこの滝壺で泳いだり、滝に打たれて日に焼けた肩が猛烈に痛かったりしたことだ。子どもの記憶だから、それほど大きな滝ではなかったのかもしれないが、いまもあの滝はどこかに存在して、真っ白なしぶきをあげて怖いほど青く深い滝壺を満たしていると思いたい。
2009年7月22日水曜日
「Kenji」ワークショップ参加者の声(第三回)
【YouTube】名古屋「Kenji」ワークショップの映像3本を公開
名古屋ウェルバ・アクトゥス公演「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」のために行なわれているワークショップの第三回の模様の抜粋映像を、3ファイルに分けてYouTubeで公開しました。
■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その1)
http://www.youtube.com/watch?v=Qgk0m061RLE
2009年7月18日。
ワークショップも三回めとなるこの日、本公演に音楽陣のひとりとして出演していただく尺八奏者のやのしくうさんに、初めて来ていただいた。公演本番では即興的なパフォーマンスを存分に発揮していただく予定だが、今回はワークショップ参加者の皆さんに尺八という楽器の魅力を教えていただくべく、古典作品の「新月」を演奏していただいた。
■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その2)
http://www.youtube.com/watch?v=YO6vYSoZUQM
2009年7月18日。ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップ第三回の模様の抜粋映像。
いつもワークショップの最初に「気づき」発表として、全員に宿題の「気づき日記」から発表をしてもらっている。
■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その3)
http://www.youtube.com/watch?v=r7GOJkCEUiI
2009年7月18日。ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップ第三回の模様の抜粋映像。
この日初めて、実際の脚本を使って、ステージ上での動きと発声の実演をシミュレートしてみた。
しだいに自分がステージに立っていることをイメージできつつあるせいか、出演者たちはリアルに緊張感が高まっていく様子。
たった二回のワークショップにも関わらず、発声と身体使いについては非常に魅力的になっている参加者を見て、実は演出はかなり驚いていた。