人は表現せずには生きられない生き物だといわれる。
音楽演奏や朗読などの狭義の表現にかぎらず、料理、会話、仕事、ファッションなど、広義の表現まで含めると、たしかに人が生きることはすなわち表現することと同義語のように思える。
表現、すなわち自分を表現することは、自分の存在をなんらかの方法で他者に伝えることにほかならない。
よく誤解されることだが、表現する人は「なにか表現したいこと」があって表現をおこなうのではない。表現する前から明快に表現したいものが定まっている人などだれもいない。人は表現行為をおこなって初めて、自分がなにを表現したかったのか、後付けでわかるのだ。なぜなら、自分が表現したいことが顕在意識に明快に表面化していることなどめったになく、あったとしてもそれは「嘘」か「すり替え」にすぎない。本当に表現したいことは潜在意識にしかない。
私たち人間は全員、成長の過程で「社会的成員」のひとりになることを教育され、いまもそうであることを強いられている。その枠組みはほとんど自分の思考過程そのものをも決定づけている。使用言語を含め、後天的に獲得した思考システムを逸脱することは、まず不可能といっていい。
潜在意識のみ、そのシステムからの自由が保障されている。
たとえば夢のなかの世界がそうだ。夢はたしかに私たちの脳内でおこる思考の一部であるのに、そのイメージを自分でコントロールすることはできない。このコントロールできないものこそ、私たちの自分そのものである。
しかし潜在意識も、そして自分自身の外形的イメージも、私たちは自分で見ることができない。つまり「これが自分だ」というものを私たちは自分自身で確かめることができないのだ。
「あなたはだれ?」と問われたときに感じるとてつもないとまどいと不安は、このためだ。
この不安が原動力となって私たちは表現行為に駆り立てられる。
だれかに向かってなにかを表現したとき、相手からはなんらかのレスポンスがある。そのレスポンスは私たちが確実に受け取ることのできるものだ。そのレスポンスこそ、私がここにいてなにかをおこなったという証拠である。
私が表現をおこなった相手のレスポンスを見て、初めて私は、自分の存在と行動を確認することができる。私ひとりでは私の存在を確認する方法はない。
「そんなことはないだろう。げんにこうやって腕があり、触れれば感触もあるじゃないか」
という人もあるかもしれない。
しかしそれは主観的なものであり、客観的事実とはいえない。私がここにこうやっていることを「客観的に」示すことにはならない。
私がここにこうやっていることを客観的に認識するには、私以外のだれかに私の表現を伝え、そのだれかのレスポンスを私が「客観的に」見るしかない。
人は自分自身の存在とありよう、そして内在的な表現欲求を確認するために表現する。それはまず間違いのないところだろう。
だれかを楽しませるためにとか、朗読なら文学作品の世界を伝えるためにとか、いろいろな表現の動機や目的がならべられるが、いずれも表面的にすぎない。
表現する理由が自分自身の深くて強い欲求のなかにあることを認識し、そこに立脚しておこなう表現行為こそ、極めて個人的であると同時に、それゆえに普遍性を持つといえる。