正月に金沢の21世紀美術館に行ったとき、家族連れで来ていた一家のおばあさんらしき女性が、
「こういうのはわからんのよね」
と家族にいっているのが聞こえてきた。
21世紀美術館は金沢のど真ん中にある現代美術館である。
現代美術を観に行くと、しばしばこういう声が聞こえてくる。
「意味がわからない」
「なにをいいたいのかわからない」
「なにが描いてあるのかわからない」
そうつぶやいて人たちは、その作品について思考停止におちいっている。もちろん、それ以上なにかを感じることもない。
まったく逆に具象絵画でよく起こることだが、
「これは港の絵だ、きれいだね」
とか、
「この裸婦はふくよかだなあ」
と、自分が知っているものが描かれているのを見てわかったつもりになり、思考停止におちいるパターンもある。
「わからない」も「わかった」も、ともに「思考停止」「感受ストップ」の状況を作りだしてしまう。このことは絵画鑑賞のみならず、すべての芸術観賞においていえる。
たとえば、朗読を聴く人にもこれは起こる。
朗読者が読んでいるテキストを聞いて、
「あ、この小説は知っている」
とか、
「こういうストーリーなんだな」
と、テキスト情報をとらえて「わかった」つもりになる人が多い。しかし、その人はなにを聴いたというのだろう。「わかった」のはストーリーであって、朗読者のことではない。
朗読者が伝えようとしたことをとらえること、あるいは絵描きが伝えようとしたことをとらえることにおいては、ストーリーの理解や描かれている物体の認識だけでは不可能だ。なにか芸術作品を鑑賞するとき、「わかる/わからない」という基準とは別の接し方が必要なのだ。
では、それはなにか。
子どもたちが芸術作品(でなくてもいいのだが)に接したとき、彼らがどうふるまうか、観察してみよう。
彼らはなにかに接すると、
「変なの」
とか、
「おもしろーい」
とか、
「やっつけちゃえ」
とか、さまざまな反応を示す。彼らはいったいなにをしているのか。
彼らはまさに「体験」しているのだ。自分と芸術作品の関係のなかで体験を持ち、その体験で生じた身体感覚を「変なの」といった言葉にしている。
大人にはこの「作品を体験する」という感覚が欠如している。成長の過程のどこかで置き忘れてきてしまったのだ。
私たちはふたたび「体験する」ことを取り戻せないだろうか、と思う。
朗読を聴くとき、それを理解しようとするのではなく、朗読者の存在そのものを含めて丸ごと体験として受容できないか。そうできたとき、私たちの口からは、なにか別の言葉が出てくるのではないか。
アタマではなく、カラダで受け止めること。理屈ではなく感覚で反応すること。本来私たちはそうやって成長してきたはずなのだ。
大人になった私たちがもう一度子どもの感性を取りもどせれば、すごいことが起きる。