朗読表現をおこなうとき、もっとも大事なことのひとつに「プレゼンス」という考えがある。
未来をたくらまず、過去にしばられず、「いまあるこの現在の私」に意識を向けることで、身体と感受の質を最高に保とう、という方法である。
「こう読んでやろう」とか「間違えたらどうしよう」とか「下手に思われたらいやだな」などと未来を予測して心ここにあらずの状態。あるいは「練習のときにはこう読んだ」とか「ここでよく間違えるんだよね」などと過去にとわれて心ここにあるずの状態。それを極力やめていきたい。
自分の心がすみずみまでいま現在の自分であり、またいま現在のテキストやディエンスに出会うことを意識しているとき、パフォーマーは最高の質でパフォーマンスをおこなえる。
これが「プレゼンス」でありたい理由である。
この状態を「マインドフルネス」という。
マインドフルにある人は、刻々と変化する時間や空間、環境を感じ、また自分自身もその流れのなかで変化していることを感じ、オーディエンスのレスポンスも受け入れていく。
一瞬としておなじ状態はなく、すべては流れている。百ペんも読んだテキストですら新鮮に思える。
表現するときにこの状態でいられるようにするためには、日々の「気づき」が重要だ。まるで禅僧の修行のようだが、ほぼそれに違いないといっていい。
ただしこれは「苦行」ではなく、生きることを最高に密にし、楽しむための方法にもつながっている。
「気づき」のためにいろいろな方法や事例を提案しているが、今日は一風変わったゲーム的な方法を提案してみる。
題して「マインドフルを探せ」。
「ウォーリーを探せ」というゲームがあるが、あれと似たようなものだと思ってくれていい。人がおおぜい集まっている場所でできる。
たとえば駅のホーム。
人がたくさん電車を待っている。このなかにマインドフルな状態でいる人は何人いるだろうか、と探してみる。マインドフルでいる人は、おなじようにマインドフルでたたずんでいる人がすぐにわかる。それはやってみればわかるのだ。やってみてほしい。
たいていの人はマインドフルな状態ではない。つまり「心ここにあらず」という「死んでいる状態」にある。
たとえば携帯電話をいじっている。心はケータイメールやケータイゲームのなかにある。
たとえばぼんやり考え事をしている。昨日の失敗を悔やんでいるのか。それとも今日の計画をめぐらせているのか。
ともかく、心はここにない。いまこのホームに立って、人々にかこまれ、風が吹き、時がすぎていくなかにいる自分自身のありようには気づいていない。
私たちはほとんどの時間をそのようにすごしている。そういう癖を身につけている。
しかし、まれにあなたとおなじようにちゃんと「心がここにある」状態の人を見つけることができる。彼(もしくは彼女)は、ケータイをいじってもいなければ、本も読んでおらず、ぼんやりもしていない。目が生きてまわりをしっかりと見ている。耳はまわりの音をとらえている。
彼はいま現在の自分と世界の状況をとらえて、わくわくしている。そのようすは、おなじマインドフルの状態にある人からははっきりと見える。ふと目があったりすると、なんとなくお互いの状況を認識しあって、ちょっと会釈してしまったりもする。これは誇張でなく実際にある。
ちょっとしたゲームだが、マインドフルネスの練習には効果的だと思う。実際、私はときどきそんなことをやって楽しんでいる。
もっとも、ウォーリーとおなじくマインドフルの人を探すのはなかなか難しい。