グレン・グールドのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」の衝撃について、あらゆる論評がされてきたが、この視点からの論評はないような気がするので、書いてみたい。
グールドはバッハの「平凡」とされる曲を、ふたとおりのアプローチで弾いている。
ひとつは「だれもがやらなかった緩慢さ」で。
もうひとつは「だれもがやらなかった敏速さ」で。
グールドが意識していたかどうかは知らないが、「緩慢さ」によって聴き手がもたらされるのは、「音の手触り」そのものだ。
想像してみればわかると思うが、たとえば鍵盤のひとつの音が「ポーン」と長く引きのばされたら、聴き手はなにを受けとるか。メロディという音と音の関係性が希薄になり、ひとつの音そのものが意識の前景に浮上してくる。ピアノという楽器そのものの音色や、その音程が持つ感触が聴き手にもたらされる。
これは現代音楽ではあたりまえにおこなわれる「音の触感」そのものを味わわせる手法といっていい。
極端に引きのばされた音。メロディーとは切りはなされて存在する音色そのもの。
逆に極端に速いパッセージは、聴き手がメロディを明快に追えなくなる。とくに対位法のように複数のメロディが複雑にからみあうような構成の場合、何本ものメロディがめまぐるしく走りまわると、聴き手はメロディではなく、音の塊としてしかとらえられなくなる。
これは現代音楽では「トーンクラスター」などという手法で実現されている。
もちろん、現代音楽のクラスター曲とはかなり隔たりがあるが、おなじ方向を指し示しているように聴こえる。
こういったアプローチによって、「ゴールドベルク変奏曲」は200年以上の時を超えて現代にあらたな音響としてよみがえったのだ。
バッハもグールドも、ともにすばらしい。
音楽も文学も、礎(記号)を作る書き手と、それを具体化(リアライズ)する実演家がともにすぐれてはじめて、コンテンポラリーの時空に超新星(ノヴァ)の輝きをもたらす。